第二章
一人の女性がロープに手をかけていた。ロープは天井から吊り下がり、先端部分が大きな輪になっている。サスペンスドラマなどでよく目にする、縊死するために首を括るための結び方だ。輪っかの一部分が黒っぽく変色している。
彼女は木製の椅子の上に立ち、薄い口を開けてこちらを見ている。僕は驚愕の仮面を被ったまま、立ち止まっていた。まるで時間が凍り付いてしまったみたいだ。僕らはお互いに視線を合わせたまま、数秒の間押し黙っていた。
「ま、待ってください」先に沈黙を破ったのは僕だった。裏返りそうになる声を抑えつつ、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。「早まらないでください。まずはロープから手を離して、椅子を降りて……」
「君の誤解を解きたいんだけど」落ち着いた声色で彼女は言った。「まず、私は自殺志願者じゃない。君が想像しているようなことはするつもりはないから、安心していいよ」
彼女はそう言いながら、デニムのジーンズのポケットからナイフを取り出した。折り畳み式の小型のナイフだ。彼女は椅子の上で背伸びをして、ナイフを持っていない方の手で、ロープをぴんと引っ張った。まるでアスリートの筋肉の具合を確かめるマッサージ師のような手さばきだ。そして天井の金具の側にある、ロープの結び目に刃をあてがった。前後に何回か動かすとロープが切れて、彼女の手に垂れ下がったロープが残る。彼女はそのロープを地面に放り投げ、ナイフの刃をしまってポケットに戻した。
「君は大学生?」彼女は僕に話しかけながら椅子を降りた。降りるときにショートボブの髪が揺れて、細い首筋が見えた。「ひょっとして、うちの大学の学生だったりするのかな」
「いえ、高校三年生です」緊張で少し早口になりながら話し始める。「ここには廃墟の撮影に来たんです。廃墟の写真を撮るのが趣味でして……」
「だからそんな立派なカメラを携えてるわけか」彼女の目線が、首から下げているカメラと僕の顔を往復する。「ふうん。見た感じ、悪い人ではなさそうだね」
「そうですね、悪い人ではないです」僕は復唱する。
「自分で言うかな、普通」
そう言って彼女は笑った。笑うと鋭い目が柔和になり、途端に愛嬌のある表情になる。
彼女の顔立ちは整っていた。長いまつ毛が双眸に影を落とし、それが理知的な細い目と相まって、凛とした印象を与える。背丈はやや高めで、ジーンズから覗く足や腰回りはほっそりとしている。彼女は黄色いニットセーターを着ていて、それは昼間に見たイチョウの葉の色に似ていた。
「お姉さんは、何をしていたんですか?」
「強いて言えば、休憩かな」
「休憩?」
「研究や実験が煮詰まると、よくここに来るの。椅子に腰かけたり、二階の窓辺に立って、目をつむったまま風や虫や鳥の音を聞く。そうすると緊張の糸が少しずつ解れて、頭の中の靄が晴れていくのがわかる」
淡々と話しながら、彼女は手首の辺りに指を引っかけて、茹でたトマトの皮を剥くような動作をした。どうやら塩化ビニール製の手袋をはめていたらしく、彼女はそれを二つ取ると、ロープの上に放った。
「まるで禅の教えみたいですね」手の抜け殻みたいになった手袋を見ながら、僕は言う。
「大げさな言い方をしちゃったけど、要はリラックスをしに来てるんだよ」腕組みをしたまま彼女は言う。「休憩のついでに、軽く掃除もしてるんだ。場所を貸してもらったお礼も兼ねてね」
「じゃあ、玄関にあった箒はお姉さんの物ですか?」
「そう。見ての通り、この家って窓がないでしょう? 枯れ葉が吹き込んできて、部屋が落ち葉だらけになるから、私が用意したの」
なるほど、と僕は小さく呟いた。この廃墟が比較的綺麗な状態に保たれている理由に合点がいった。
僕は改めて部屋の中を見回す。壁や天井の一部は崩れていて、床に破片が落ちている。窓際には古びたソファがあり、少し離れたところに黒色のスーツケースが横倒しになっている。この部屋の東側にもさらにもう一つ部屋があって、襖のない押し入れや、扉の片側がない洋服タンスが見える。おそらく以前は和室として利用されていたのだろう。
「そのロープは、お姉さんが来た時には、既に吊るされてたんですか?」地面に落ちているロープに視線を移して、僕は言った。
「あの金具のところ……」天井の辺りに顔を向けて彼女は言った。「元々はシャンデリアが取り付けられていたみたいなんだ。それ自体はもう残ってないんだけどね。誰かが盗んだのか、壊されたのか、定かじゃないけど……。ここが心霊の名所になっているのは知ってる?」
僕は首肯した。県内の心霊スポットを紹介しているサイトで、この廃墟の名前と建物の写真を目にしたことがあった。
「誰かを怖がらせる目的で、さっきみたいに紐を取り付ける人がいるんだよね。良い気分はしないから、見かけるたびに私が取り除いているの」
ふいに、石のつぶてがぶつかるような音が耳に入ってきた。外に目をやると、雨が降り出していた。細い雨の筋が風に煽られて、千切れたり曲がったりしている。雨がコンクリートや樹木の葉を打つ音が建物を包み、湿った風が室内に入り込んでくる。
「あら、雨……」降り注ぐ雨を眺めながら彼女は言った。
「朝からずっと曇ってましたからね」雨音が強くなり、勢いがどんどん増しているのがわかる。「雨の匂いがする……」
「ペトリコール」
「ペトリコール?」彼女の言った言葉を反復する。
「雨が降ったときの香りを、ペトリコールって呼ぶの。植物の持っている油や、土壌内の細菌に雨が当たると、揮発性の物質を放出する。空気中に漂うそれを嗅いだときに感じる香りが、いわゆる雨の匂いなんだよ」
「この匂いにも名前があったんだ」僕は感心して言った。「詳しいですね」
「一応、その手の研究をしている大学院生だからね」
「雨に関する研究ですか?」
「いや、私は土専門。応用生物科学部の土壌化学科ってところにいるの」彼女が額にかかる髪を掻き上げる。「君は確か高校三年生だっけ? もし土いじりに興味があるなら、うちの大学を受験するのも手だね。ここから駅に行く途中にある、今はイチョウが綺麗な大学だよ」
「あそこか……考えておきます」言い終わると同時に、僕はくしゃみを二回した。冷気が足元から這い上がり、両足を伝って、僕の背中を撫でた。
「コーヒーで良かったら飲む?」慈悲深い笑みを口元に浮かべながら彼女が言う。「安物のコーヒーだけど、温まると思うよ」
彼女はトートバッグからタンブラーを取り出し、僕に差し出した。僕は礼を言ってタンブラーを受け取る。蓋を開けると白い湯気が立ち昇り、コーヒーの良い香りがした。口を付けて飲むと、熱いコーヒーが喉を通り、胃に落ちていく感覚がある。苦味が口の中に広がり、香ばしい匂いが鼻から抜けていく。
「ありがとうございます、暖まりました」タンブラーを彼女に手渡して、僕は言った。
「いえいえ」
「この建物の写真、撮ってもいいですか?」
「どうぞご自由に。私、どこかに退いていたほうがいいかな?」
「いえ、そのままで大丈夫です」頭を振って僕は言う。「お姉さんの休憩所に勝手に入っているのは自分なので……」
「別に、この建物も私の所有物じゃないんだけどね」そう言って彼女はタンブラーの蓋を開け、僕の方をちらりと見た。「なんていうか、君って犬っぽいね。昔、実家で飼っていたゴールデンレトリバーを思い出すよ」
「それって褒めてます?」
「もちろん誉め言葉だよ」彼女はコーヒーに口を付けると、ぼんやりとした顔で外を眺める。「少なくとも、私はゴールデンレトリバーを嫌いな人に出会ったことはないからね」