崖の上の喫茶店
「山田さん、アイスミルクコーヒーを一つお願いします」
いつものように俺はアイスミルクコーヒーを頼む。
苦いのはそこまで好きではない。飲めなくも無いが無理して飲む必要もない。だから俺は誰が何と言おうと自分の飲みたいものを飲む。それが俺のモットーだ。
ここは何の変哲もない何処にでもあるようなただの喫茶店だ。
俺がよく行く所、喫茶店山田。何故山田か、それはただ単に山田という人が個人経営している店だからだ。
俺の注文に山田さんはにこりと笑顔を浮かべ、キッチンの方からアイスミルクコーヒーを入れ持ってきた。
「どうぞ、アイスミルクコーヒーです」
山田さんはまるで紳士の様な喋り方と仕草をしていた。俺はそういう人が好きだ。
「いつもありがとう、山田さん」
「いえいえ、そのお言葉は私の台詞ですよ。いつも来てくださり有難うございます、三川様」
本当に優しいなぁ、山田さんは。
俺もこういう人みたいになれたらいいのに。
「今日も山田さんが淹れたアイスミルクコーヒーは美味しいですね」
俺は先程山田さんが持ってきてくれたアイスミルクコーヒーを飲みながらそう呟いた。
「それは良かったです」
山田さんは和かな笑顔でお礼を言う。
「あ、そういえば三川様」
「はい?」
何だ? 山田さんから話を切り出すのは珍しいな。何かよっぽどのことがある限りそういうのは無かったが……。
「三川様は崖の上の喫茶店をご存知でしょうか?」
ん? 崖の上の喫茶店?
「いや、聞いたことないですね……。そんな喫茶店があるのですか?」
「はい。私も小耳に挟んだくらいですが」
ん〜でも山田さんが言っているので嘘ではないか。
それにしても自称喫茶店マニアの俺が知らない喫茶店があるとは……。世間は広いものだ。
「へぇ、それは気になりますね」
「おっと、やはり喫茶店マニアには好奇心が唆られますか。この話、お聞きになりますか?」
山田さんはそっと囁くように言う。
こんな山田さんは見た事がない。さぞかしすごい話なのだろう。折角だし聞いてみるのも悪くない。
「はい。聞かせて下さい」
ニヤリ、と一瞬山田さんは笑みを浮かべた。
それと同時に、俺の背中にヒヤリと寒気を感じた。
そして山田さんは語り出した。
「これは昔、私の友人から聞いた話なのですが────」
この喫茶店のずっと北に向かうと、道路整備もされていない木と草が生い茂った場所に出るらしい。そこからはもう乗り物も使えないような場所なので自らの足で更に北へと進む。するとそこでやっと例の崖が見えてくるらしい。
正直ここまでの道のりはまだ序の口だ。その理由は次の崖にある。まさに断崖絶壁という言葉通りというべきか、それは到底並の人間では手も足も出せない崖らしい。その崖を登りきった者のみぞ知る幻の崖の上の喫茶店……。噂によると更にその喫茶店の出すものはこの世には無いような不思議な味らしい。嘘か真か……そんなものは行ってみなければわからない。
「如何でしょうか。正直常人にはたどり着けないようなものですので私的にはお薦めはできませんが……」
あるのかも分からない喫茶店……。だがここまで好奇心を唆られたのは初めてだ。こんなもの行くという選択肢以外は何もない。
「山田さん、実はこう見えても俺高校のとき山岳部でしたからね。崖登りも経験したことありますよ」
そう、俺は高校の時山が好きすぎて山岳部に所属していた。高三で30m級の崖登りも達成した。実は崖登りにはかなり自身がある。
「それは素晴らしいですね。流石三川様とでも言うべきでしょうか…………。行かれるのですね?」
「はい。喫茶店マニアを名乗るからには避けて通れないものですから」
「そうですか……。三川様の意志であれば私も止めようがありませんね」
そこで、山田さんの表情が変わった。何というのだろうか……。悲しそうな、でも嬉しそうな……。
「決してご無理はなさらず、また会いましょう」
「はい!絶対に無事にまたここに戻ってきます。崖の上の喫茶店の話、待っていてくださいね」
◆
「はあ、はあ…………」
息が……手が痛い……疲れた……。
そこはまさに崖の上。30mをゆうに超える断崖絶壁な崖の上に俺はいた。
ここまで来るのに3日。万全の準備をし徒歩で例の崖まで向かっていたのだが、予想以上に険しい道のりが続き、崖に着くまでに体力を消耗し切ってしまっていた。
そのせいで獣が出てもおかしくないような所、崖の下で一夜を過ごす羽目となったのだ。
次の朝、ある程度体力が回復していた為、遂に崖を登ろうとしたのだが、それもまたなかなかのものだった。崖に着いたときは夜で暗く見えなかったのだが、太陽の光で照らされたその崖は人生の障害を一瞬で凌駕したのだ。それは山岳部だった俺の心を折るのには十分なものだった。
あれからどれくらい経ったのだろう、その崖を超えたときの俺は今どのような姿、顔をしているのかはわからない。崖を登りきった嬉しさが勝るのか、疲労が勝っているか……。
「おやおや、登りきったのですね。流石三川様で御座います」
「……は?」
何故いるんだ?意味がわからない……この声はあの御方しかいない……。
「山田、さん……。何故……!」
疲労と困憊で上手く喋れない。
「ははは、やはり驚かれましたでしょうか。何故私がここにいるのかって? その前に貴方がここに来た理由は何故でしょうか」
ここにたどり着きたいという思いから、当初の目的を忘れていた……。俺は……喫茶店マニアとして幻の喫茶店を見に来たのだ。それがどうだ、そんなものどこにある。周りを見渡してもなにもない。ただ目に映るのは、見晴らしのいい景色と邪心を顔に貼り付けた山田さんだけだ。
「……何が目的だ……」
「流石三川様だ! よくわかってらっしゃる」
「答えろ、さもなくば──」
「ははは、私に手を出すと? 三川様はそれができない方だと私が一番良く知っていますよ」
「くっ……」
俺は動かない脚を無理やり立たせようとする。
「はは、何故私が貴方をここまで連れてきたのかをまだ理解してらっしゃらないのですか……」
山田さんは、いや狂気に満ちた山田は変な笑い声とともに、腰のあたりから包丁を取り出した。
「やめろ……!」
思うように動けない……くそっ、今までの道のりのせいで……そうか、そういうことか。
「そうです、貴方を動けないくらいまで疲労させ簡単に仕留めれるように貴方をここまで連れてきたのですよ」
「俺が何かしたか……」
「いーえいえいえ、そんな事はありませんよよよよ、ははははは……」
山田の目が一瞬にして赫に染まり、悪魔に取り憑かれたようにこちらへ向かってきた。その手に握りしめてある包丁を構えながら。
「くそっ、なんだよ!」
俺は咄嗟の判断でその使えない脚を立たせ、崖側まで走った。
「ははははは、遅い遅い遅い今頃逃げても無駄無駄無駄無駄……」
崖の端まで来た今、山田は笑顔で包丁を俺に構えゆっくりと近づいてくる。
「はぁはぁ……それ以上、こっちに、来るな……」
「はははははははははははああありがとうございますすすぅぅぅぅ」
山田はその老体を無視した速さで一気にこちらに向かってきた。
そして山田が俺に差し掛かってきた瞬間、俺は山田の脚に全体重を乗せて突っかかっる。
「ははは、は……は?」
山田はバランスを崩し、前に倒れ込んだ。
「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃああああ──」
ドスッと、崖の下から鈍い音が聞こえた。
50m上から硬い地面に落ちればもうそれは確認せずともわかる。
「はぁ……何だったんだよ……アイツ……」
いつも尊敬していた山田さんがあんなことになるなんて……。
疲労が一気に出たのか、俺はその場で気を失った。
◆
あれから一週間、俺は今喫茶店山田の前に来ていた。周りに人の気配はない。
カランカランと音がなる扉を開けると、懐かしい顔と声が俺を迎えた。
「こんにちは。久しぶりですね、三川様……はは」
「…………面倒くせえって…………」
そして俺は、予め用意しておいた包丁を取り出すのだった。
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