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閉店した後の店内はとても静かだ。
シフトがラストまで入っている店員以外には人影もなく閑散としていて、栞は結構閉め作業をしているこの時間が好きだったりする。
自分がたてる物音以外はしんと静まり返ったなか、まだ出しっぱなしにしていたクリスマス関連のディスプレイや細々とした季節ものを片付けていると、事務所から荒垣が姿を現した。
「お疲れさま」
「お疲れさまです。残業、ですか?」
荒垣の今日のシフトは十九時までだったはずだ。閉店作業中の今は二十一時を過ぎている。仕方ないのだろうが大変そうだ。
クリスマスも今日で終わった。彼女の退職日までは残り一週間もない。荒垣はエリアマネージャーも兼任していたのでまだまだ引き継ぎなどやることが多いようだ。
「うん、あと少しだからね。それまでに全部終わらせないと」
「……淋しくなります」
自分で口にしておきながら、淋しいなんて言葉が出たことに驚いた。いつの間にか自分はとても素直に自分の感情を口に出せるようになっている。
「なになになに、可愛いこと言ってくれるじゃない」
にやにやしながらレジ周りで作業をしていた栞に荒垣が近づいてくる。頭を撫でてこようとしたので、それはさすがに避けた。
「皆そう思ってますよ」
「本当に思ってもらえてるなら嬉しいな。これまで頑張ってきた甲斐があったよ」
ふーっと疲労を吐き出すように荒垣は息をついた。
今まで繁忙期でも元気そうな姿しか見たことがなかったので、今がどれだけ忙しいのかその行動だけで伝わってくる。
「大学受験するんですよね」
「これから一年間勉強してからね」
「……てっきり、来月のセンター試験受けるのかと思ってました」
三月末ではなく、十二月末に退職するのはそのためなのだと思い込んでいた。
「さすがに店長しながらじゃちょっと難しいかな。ずっと地道に勉強はしてきたんだけど、それだけじゃ、ちょっとね」
自分が大学受験をしたのはもう何年も前だが、高校生の栞だってほとんどの時間を費やして受験勉強をしていたのだ。
店長である荒垣は事務仕事も多いので今日のように残業をしている日も少なくない。働きながらでは当然勉強の時間を捻出するのは難しいだろう。現役生にくらべて絶対的に時間が足りないのだ。
それでもどこかで荒垣なら器用にできてしまうのではないかと思う気持ちもあるが、本人曰くさすがに無理らしい。
「荒垣店長は…………いえ、なんでもないですごめんなさい」
理由を問うのは踏み込みすぎているような気がして早口で訂正する。だが、彼女は意図を汲み取って自分からそれを口にした。
「どうしてわざわざ今から大学に通うのかって?」
「えっと、……はい」
ごまかしても仕方ないと思い素直に頷く。ただ話しているだけだと帰宅が遅れてしまうと思ったのか、荒垣は栞の作業を手伝いながら理由を教えてくれた。
「私ね、本当は心理カウンセラーになりたかったの。昔、自分が助けてもらったことがあったから憧れて。でも大学に通うお金がない家だったから就職した。それがずっと、少しね、心に残ってた。だからといって毎日毎日後悔して生きてきたわけじゃないよ。私はこの仕事が好きだった。やりがいだってあった」
一緒に働いていれば分かる。荒垣はこの仕事が好きだった。だから退職すると聞いた時は本当に驚いたのだ。
「でもね、三十七歳になって、これから結婚はともかく多分私は生涯子どもを産まないんだろうなってことに気づいたら、やりたかったことを今からでもやればいいんじゃないかって思ったの。幸い働いてばかりだったから貯金はあったし、子育てしないのであればお金も時間も全部自分に使えるでしょう。……リスクはあるけど四十代になっても出産はできる。けれど、私は多分できないだろうなって思った」
できないと荒垣が考える理由は聞けなかった。
そこにどんな理由があっても――もしも何も理由がなかったのだとしても、個人の自由だ。他人が口出ししていいことではない。
「これからまだ短くない時間を自分のために生きていいのなら、私は私のなりたいものになろうと思った。本当は通信講座でも資格は取れるんだけど、高校生の私は大学に行きたかったから、その気持ちを大人になった私は叶えてあげたい。だから私は大学受験をする……無謀だと思う?」
「思いません、そんなこと思うわけありません」
「ありがとう。人事部長は理解できないって顔してたんだけど世代の差かな?」
「世代というよりは、個人の考えの差じゃないでしょうか?」
自分たちが望んだわけではないのに散々ゆとり世代と馬鹿にされた身としては、世代で個人をくくるのには抵抗がある。
「そっか、そうだね。……私もまだまだ頭が固いな」
「そんなことないですよ、荒垣店長はいつも一人一人を見てくれていました。心理カウンセラー、荒垣、さんの、天職だろうなって、思いますよ」
たどたどしく栞が言うと、荒垣は目を丸くしてから相好を崩した。
「幕井さん本当に変わったね」
「そうですか……?」
素直になった自覚はある。
前よりも自分の気持ちをちゃんと口にするようにもなった。
人に対する壁も少し薄くなった。でも、それが他者にも伝わるほどの強い変化なのかは分からなかった。
「明るくなったし、ちゃんと自分の意見を言えるようになった。私だけじゃない、他の人たちもそう思ってるよ。木村さんなんか、幕井さんが次の店長だったら良かったのにって言ってたくらいだもの。これなら安心して任せられる」
任せられる、と荒垣は言ってくれたが栞が店長になるわけではない。
副店長のような立場ではあっても、契約社員のままである栞は、他店から移動してくる新しい店長を補佐する形になる。
「……はい、頑張ります」
「幕井さんは、人のことを考えられる人だから大丈夫。私が保証する。頑張って」
彼女の大丈夫を聞くと本当に大丈夫に思えるから、この人はやっぱりすごい。
そう思うと同時に、栞の中で気持ちのどこかがふっとほどけた感覚があった。
「私…………荒垣店長のこと、ちょっとだけ母親みたいに思ってました」
「十二歳じゃさすがにまだ産めないよ……!」
荒垣の驚き方が可愛くて、栞にしては珍しく声をあげて笑ってしまった。
「ふふ、そうですね」
「年が近すぎる娘だなあ」
「荒垣店長はそれだけ頼りがいがあったんですよ」
なんとなく荒垣はわざと雰囲気を明るくしてくれているような気がしたので、栞もその空気感に便乗させてもらうことにした。
「本当? それならまあ、いいよ。私も幕井さんのこと年の離れた妹みたいに思ってたところあったし」
「そうだったんですか?」
「バイトだった学生の頃から知ってるからね」
アルバイトをはじめて二年目くらいからだろうか。明確ではなかったものの、その頃にはすでに栞は心のどこかでもしも荒垣のような人が母親だったならという思いを抱いていた。
当時は自覚していなかったが、今はもうその感情に気づいているし受け入れている。
「私はもう店長ではなくなるけど、幕井さんがこれからも元気でいれくれたら嬉しいって思ってるよ。もし困ったことがあれば連絡してきていいからね」
「ありがとうございます。荒垣店長も受験で悩みごとがあった時はいつでも相談のりますので連絡してきてください」
「それは助かる」
切実な返事に栞はまた笑いが込みあげてきた。
その日の夜帰宅すると、久しぶりに見る番号から着信があった。
なんとなく連絡が来るのではないかと思っていたのだが、本当に思った通りの行動をされるとちょっとおかしい。
ソファに腰を下ろすとさっさと画面をタップして電話に出た。
『次こそ帰って来いって言ったでしょ!』
第一声から怒鳴り声をくらうとさすがに耳が痛い。
だがもう二十三時だ。遅い時間にスピーカーに切り替えるのはちょっと気が引け、仕方なくスマートフォンと少しだけ距離を取りながら通話を続ける。
『なんなのあのメッセージ! 帰りません、って何? 正月こそ帰ってきなさいって私が言ったでしょう。あんな、たった一言で済ませようとするなんて何を考えてるの。あんた自分が何年家に帰ってないか分かってる? おじいちゃんの墓参りだって最後に行ったのいつだと思ってるの? どうしてそんなに親不孝な真似が出来るわけ? どうしてそんなに人のことを考えられないの? どうして私の言うことを聞かないのよ! そんなにお母さんのことが嫌いなの?』
「………………そうだよ」
お腹にぐっと力を入れる。膝の上に置いていた左手を握りしめた。
『は?』
このたった一言が怖くて、今までどれだけ言葉をのみ込んできただろう。
けれどこれから先もずっと顔色をうかがって与えられない愛にどこかで期待して「幕井栞」を殺してこの人の失敗の象徴として憎まれ当たり前のように搾取され続けるのは、駄目だ。
ふわふわといつまでもまるで当事者ではないような顔をして、黙って罵倒を聞き流して、自分の気持ちからは目をそらし続ける。
そんなの、すごくかっこわるい。
「私、知ってるよ。おばあちゃん、介護が必要になったんだよね。だから何度も電話をかけてきたんだよね。どうしても私に帰ってきてほしいんだよね。自分の代わりにおばあちゃんの介護をさせたいから」
十二月に入ったばかりの金曜日の夜。もう何年も連絡を取り合っていなかった地元の友人から突然電話がかかってきた。
間違い電話を疑いながらも恐る恐る出ると、『久しぶり』と懐かしいが昔よりも落ち着きのある声が栞の耳に飛び込んで来た。
よそよそしい空気がありながらも簡単なお互いの近況を最初に交わすと、友人は言いづらそうに言葉を濁しつつ口を開いた。
なるべく感情を混ぜないように彼女は、栞の祖母は介護の手が必要になったこと。
あの人が慣れない介護に苦労しているみたいだということ。
そして、あの人が近所の人に栞が近い内に帰ってきてくれるから大丈夫だと話していたことを端的に教えてくれた。
友人は栞と母親の折り合いの悪さを知っていたので、栞が帰って来ると言ったことに疑問を持ちこうして連絡をくれたようだった。
あの人の思惑を知って、栞はとても納得してしまった。
今年になって急に帰って来いと執拗に言い出したので変に思ってはいたのだ。どこまでも利己的なあの人に感心すらしてしまった。
気にかけてくれた友人に感謝を告げると、心配そうな様子を見せたので、安心させるためにも自分は帰らないから大丈夫だと伝えた。それでも不安をぬぐえないようで友人は何度も確認をしてきたのだが、そんな友人の声を聞いている内に、ふっと彼女への問いかけが思い浮かぶ。
次に彼女に聞くチャンスなんていつ訪れるか分からない。そう思えば言葉はするりと喉から飛び出た。
「今でもホノマホは好き?」
ホノマホなんてもう忘れたと言われるんじゃないかという恐怖よりも、今の彼女のことを知りたかった。
何年も会っていない学生時代の友人なのに、栞のことなんて放っておいてもいいはずなのに、なんの得にもならないはずなのに、彼女は栞を心配して連絡をくれた。
毎日会っていなくとも、毎日連絡を取り合っていなくとも、何年もの時間がぽっかりと栞と友人の間にへだたっていても、彼女と栞は友達のままだった。
『どうしたの急に? ホノマホとか久しぶりに聞いたな……でも、そうだね。うん、好きだよ。小説とか最近全然読めてないけど、今でもホノマホは好きだよ』
彼女にとっては久しぶりに会話した友人との何気ないやり取りの一つだったと思う。けれど栞にとってその言葉は――。
『そんな話、誰から聞いたの? 誤解よ誤解。馬鹿ね、おばあちゃんは私の母親でもあるのよ。それくらいちゃんと私がやります』
祖母について言及されると、あの人は急に栞への当たりがやわらかくなった。その態度の変わりようがすでに友人の助言が事実であったことを証明している。
「じゃあ、どうして私に帰ってきてほしいの?」
『そんなの……何年も顔を見ていなくて、栞が本当に元気でやっているのか心配だからに決まってるでしょ』
「近所の人がどうとか言ってなかった?」
夏に電話をした時に『栞ちゃん見かけないけど元気してるの? って近所の人に聞かれる私の身にもなってよ』とこの人は言っていた。
栞はそれを聞いて、大学を卒業してからは一度も帰省しなかったので、それによる近所の目が気になりお盆と正月くらいは家に帰ってくるようにわざわざ連絡してきたのだと思ったのだ。
『近所の人? それ私が言ったの?』
「言ったよ」
『へえ、覚えてないな』
すっと気持ちが冷めていくのを感じた。
この人が栞に投げかけてきた言葉はどれも口にした本人は忘れるようなものだったのだ。
あれも。これも。八つ当たりのような、うさばらしのような、栞を傷つけるために使われてきた言葉たち。
その全部がこの人にとっては一過性のもので、吐き捨てたらその瞬間に忘れてしまう程度のものだった。
「言ったよ」
『ああそう、言ったの。でも私が忘れちゃうくらいだから、栞の勘違いだったんじゃない? 近所の人は関係ない。栞が心配だったからだよ』
「ねえ、お母さん。私の好きなもの知ってる?」
『何、急に、』
「食べ物だと何が一番好きか知ってる? 小学生の時に夏休みの自由研究で金賞もらったことは知ってる? 中学生の時のテストで私が学年で何番目だったか知ってる? 高校二年生まで私がなんのバイトをしていたのか知ってる? 時間とお金を浪費しただけだったって言ってたけど、私がどうして大学に行きたかったか知ってる? どうして就職してから一度も家に帰らなかったのか、お母さんは知ってる?」
『……知ってるに決まってるでしょ』
「じゃあ答えて」
もしも一つでもこの人が答えられたのなら――、最後の賭けのようなものだった。
『なんなの親に向かってその言い方! だから知ってるって言ってるでしょ!』
不愉快そうに苛立ちをぶつけられても、私はもう怖くない。
「答えられないんでしょ。何も知らないから、私のことなんて一つも興味なかったから」
『すぐには出てこないだけよ! さっきからごちゃごちゃわけ分からないことばかり言って、私のせいにしようとしないで! そんなことがあんたの親不孝の理由になるとでも思ってるの?』
「可哀想な人」
聞き逃されないように一音一音はっきりと発音した。
沸点を超えて言葉にもならないのか、電話の向こうからは息をのむ音だけが聞こえる。
「誰かのせいにしないと生きていけないあなたはとても可哀想な人だよ」
高校生までの彼女は今のような人間ではなかったのかもしれない。
栞を妊娠さえしなければ、彼女はもっとよりよい人生を送れていたのかもしれない。
フィクションのいらない人だったのではなく、フィクションに割く時間も余裕もなかった人なのかもしれない。
けれど、彼女を不幸にし続けているのは彼女自身だ。自分を、栞を呪い続けている彼女自身のせいだ。
栞のせいでは、ない。
「私は、もうそこには帰らない」
反論が来る前に急いで電話を切ると、すぐにスマートフォンを操作してあの人の番号を着信拒否に設定した。
身体中の空気を入れ替えるように深く深く息を吐き出す。
奇妙な達成感があった。そして、ほんの少しの寂寥感も。
愛されたかったのだ、この人に。
だって、そうだろう。親からの愛情が欲しいことの何がおかしいというのだ。
愛されたい、なんて当たり前の感情だ。
普通の、誰だって抱く気持ちだ。
自分自身の意思で産まれる命などこの世に一つだってないのだから、愛されたくて当たり前だ。誰かが産み落としたから命はそこに存在する。ならば自分を作った相手に愛を求めて当然だろう――けれど、栞は決めた。
もしもこの人ときちんと会話ができたのなら良かったけれど、どうやっても分かり合えないのだから仕方ない。
呪いの感情でどろどろになって抜け出せなくなった沼に一緒に浸かり続けることはもうできない。
愛されたかった。
心の底から母親に愛されたいと願っていた。それは間違いようもなく事実で、今後本当にこの人が改心して栞に謝罪する日が来たとしたら自分はきっと許したくなってしまうだろう。
この人が栞を肯定してくれるだけで、心の内側で解決することがきっと沢山ある。
愛してるって言われたら、きっと泣きたくなるくらいに嬉しく思ってしまうだろう。
それでも、栞は進むことに決めた。もう母親と同じ場所には留まれない。
もしかしたらあったのかもしれない母親の未来への未練に捧げる生贄にはなれない。
これから先誰のことも愛せなかったとしても、もう二度と母親からの愛は乞わない。
栞の人生から母親を捨てる。とても前向きな意味で、栞は母親を諦める。
母親の不幸に巻き込まれるのをもうやめる。だって、自分の人生の当事者になる覚悟を栞は決めたのだ。
いつまでもどこか他人事のように目をそらして、自分からも他者からも距離を置くことをやめる。
人と関わることで生まれる喜びも、人と関わることで生まれる苦しさも、栞は欲しい。そうすることでやっと栞は「幕井栞」という個人になれるだろう。
あの人に愛されたかった栞は、今ぽろりと落ちた涙が持っていってくれた。
まだまだそう簡単に変わることは難しい。
長年の習慣をすぐには変えられない。
どこか遠くにいた自分をやめて世の中に一歩踏み込む。栞以外の誰かにとっては子どもの頃からできている普通のことかもしれないのにと、自分を情けなく思う時が沢山ある。そのたった一歩がとても怖く思えてしまう時もある。しかし少しでもかっこいい自分になりたい。
ずっと憧れていたルビーのように、自分の人生の責任は自分で背負って、生きたい。
からっぽなんかじゃ、ないのだから。