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「本当は、きっかけがあったみたいなんです」
一人で先に帰宅した日の翌週、栞の休日に朔が合わせる形で二人で会うことになった。そう頻繁にたまこは家をあけることもできないため、説明は朔に一任されたのだ。
「アカさんが嫌いだと言っていた例のクラスの子は、アカさんの机に置かれていた図書館の本を床に落して、気づかないままうっかり踏んでしまったらしいんです」
朔の大学の最寄り駅にある、席の七割ほどが大学生らしき年代でうまっている喫茶店で、今は栞が立ち去ったあとに朔たちがアカから聞いた話を教えてもらっている最中だ。
「本好きからしたらそれだけでちょっと嫌ではありますよね」
「それは……そうだと思います、けど」
「それだけで? とは、思いますよね。すぐに、ごめんと謝ってはくれたそうなんです。でもアカさんの目から見たその子はへらへら笑っていて、真剣に謝っているようには見えなかったみたいで……あと」
――本くらいで、そんなに怒んないでよ。って、言ったんです。
「本くらいでって、言われたのが我慢できなかったそうです。それまでは好きでも嫌いでもないただのクラスメイトだったらしいんですけど、その件から些細な言動が目につくようになって最終的には無視するようにもなったって言っていました」
気持ちは分からなくもない。栞だってきっと同じことを誰かにされたら頭にくるだろう。
原因があってはじまったそれは、本当にいじめではなく個人間の諍いで、アカが誤解だと言ったように、相手の子にも悪いところはあったというのが真実なのかもしれない。
しかし事情があったと聞かされても、あの瞬間に砕けた気持ちが上手く消化できなかった。
「些細、とも言えるきっかけから、中学生女子のよくないところがのっかって問題になったみたいですね。アカさんの友達も一緒にその子のこと無視するようになってしまったようなんです。アカさんからすればそんなこと頼んでないって思いがあったそうなんですけど、まあ、中学生の女の子ってそういう生き物ですからね」
嘆息をもらすと朔はぬるくなったカフェオレに口をつけた。
「個人と個人であればまだ喧嘩の範疇ですけど、多数対個人になってしまったらもう喧嘩とは言えないですよね」
まあ、相手の子が気の強い子だったみたいでばりばりに対抗してきたから当人たちの空気としては完全に対立でしかなかった、とも言ってましたけど。と話を続けると朔は苦笑した。
「どうしても大人には子どもの間にある微妙な空気を簡単に判断することはできないでしょう? それで、呼び出されたみたいです。手遅れになる前に対処しようとしたって点を考えれば学校側はまともな対応をしてますよね」
「……そうですね」
「アカさん、担任の先生に簡単に嫌いだとか決めつけないでその子の良い所を見つける努力もしてみなさい。ってお説教されたのが納得いかなくて、この前は余計に反発してしまったみたいです」
――人を嫌いになっちゃいけないんですか? そう問いかけたアカの眼差しはとても真っ直ぐで、そこに悪意は欠片もなかった。
「以上が、私がアカさんから伺った事のあらましになります」
「ありがとう、ございます」
礼を述べるとともに一度頭を下げると、そのまま顔が上げられなくなった。
重苦しい沈黙が流れ、栞は身じろぎもできなくなる。
「……ドラマや映画、漫画や小説で友情や仲間の絆、愛情や優しさに感動しながらも、人って人を傷つけることができるんですよね」
急に時間が動き出したように詰めていた息を吸いゆるゆると頭を上げると、顔にかかった髪の隙間からガラス越しに外に視線を向ける朔の横顔が見えた。
窓際の二人席からは外の様子がよく見える。
今日は空気が冷え込んでいたので、外を歩いている人はコートを着込んでいたりマフラーに顔をうずめたりしていた。
朔は、外に視線を向けたまま温度の低い声で言葉を続けた。
「私、中学生の頃、自分は頭が良いって思い上がって周りのこと馬鹿にしてました」
突然の告白に困惑したが、栞はそのまま黙って彼女の話を聞いた。
「文学作品とか難しいものをわざと読んで、自分はこんなに難解な話を理解できる特別な感性があるんだって酔っていた。小説の中で書かれている人間を読んで現実の人間も理解した気になっていた。分かった気になって、些細なことでいちいち泣いたり怒ったりする同級生たちのことを冷ややかな気持ちで馬鹿にしていた」
感性に、酔う。という点は栞にも覚えがあるものだった。
フィクションのいらない人間の無理解に傷ついたり劣等感を抱きながらも、心のどこかでこんなにも豊かなものに目を向けることができない感性の貧しさを馬鹿にしていた。
ホノマホを好きな人間が人を傷つけるようなことをするなんて。
アカに向けて口にしたそれは真実思っていたことだが、理想すぎて傲慢な言葉だ。
栞だって人を傷つけたことくらいある。人を嫌いになったこともある。
人を傷つけるようなことをしたくないと思っていながら、自分の感性に酔って、誰かの感性の貧しさを馬鹿にしてもいる。
表に出てくるほどの強い気持ちではなくとも、栞の内側にそれはあり、消えるものでもないのだ。
「ホノマホのことだって最初は馬鹿にしていた。ライトノベルなんて漫画と変わらない、理解力が足りない人が読むものだって思って、読もうとしなかった。……でも、通っていた図書館の司書さんが熱心にホノマホを私に勧めてくれて、大人がそこまで言うならって仕方なく読んだんです」
ぼんやりと外を眺めていた朔が、つっと目線を動かした。
追いかけるように窓の外を見てみると、三毛模様の野良猫が駐車された自転車の上でひなたぼっこをしながらすやすや気持ちよさそうに眠っている。
「――ホノマホが私の価値観をひっくり返したんです」
無機質だった目に熱が宿る瞬間を栞は捉えた。
「人が小説を読むのは何よりもこの文字の世界が自由で面白いからなんだって、ホノマホが私に教えてくれた」
熱を帯びた朔の目はほんの少しだけ涙が浮かんでいる。
「目が覚めたら、自分のあさはかさが恥ずかしくてたまらなくなりました」
笑いながら朔は眼鏡の隙間から涙をそっとぬぐった。すんっと一度だけ鼻をすすると、射貫くような力強い瞳をして栞に目線を合わせる。
「小説がどれだけ語りかけてくれても、受け取り手次第で言葉は簡単に歪む。人は主観でしか物を見られないから自分の都合の良いように言葉を変化させてしまうんです」
人は、自分が見たいものしか見ない。自分が受け取りたいようにしか受け取れない。良くも悪くも、そうなってしまう。
命が尊いものだなんてことは誰でも知っているが、だからといって現実でもそれを大切にできるとは限らない。
愛が尊いということを、努力はかっこいいということを、友情はかけがえのないものだということを、本当はどこかで知っているから人は物語で感動することができる。でも実践できるかというとそれは全くもって別の話なのだ。
言葉は歪めることもできるし、インスタントに消費することもできる。
「私たちはフィクションと現実を区別しています。正しい意味でも、悲しい意味でも」
事件が起きた時、加害者がアニメやゲームのオタクであったりするとフィクションと現実の区別がついていなかったのではないかと槍玉にあげられる。時代が変わったにも関わらずそういう言葉が出てくる。
けれどそれはフィクションを心から好きになったことがないから使える言葉だ。
フィクションと、現実は、別物だ。
だって、現実にルビーはいない。どれだけいて欲しくても、いない。
もしも本当にルビーが同じ世界にいてくれたらどれだけ救われただろうと思う。
隣に、いてくれたら……いてくれるだけでいい。たったそれだけでどれだけ励まされただろうと思う。
「……そうですね」
「塩さんは、ルビーが憧れだって言ってましたよね? ルビーみたいになりたいって思ったことはありますか?」
「…………あります」
ルビーはいない――なら、せめてルビーのようになりたかった。
明るく前向きで、強くて可愛くて人から愛されて、人を愛せる彼女のようになりたかった。……なれなかった。
「物語に、私たちは夢を見ますよね。こんな自分になれたらいい、こんな人がいればいい、優しさが、愛が、あるならいいなって夢を……私は、見ました」
愛してくれる母親とは、こういうものなのだということを、栞は小説から知った。
小説に書かれていた愛は、悲しくなるくらいに綺麗だった。
「私も、見ました」
涙が一筋ほろりと右目から滑り落ちた。
「フィクションは……フィクションです。現実じゃない。そんなことはずっと前から知っている。苦しくなるくらいに知っている。あんな風にかっこよくは生きられない。現実はあんまり優しくなくて、理不尽なことがたくさん起きる。でも、でも、だから、フィクションが、必要なんです。私は傲慢で、弱くて、大事なことをすぐ忘れてしまう。理想の自分で居続けることは難しい。だから、ホノマホを読んで、思い出すんです。……フィクションは、物語は、虚構です。嘘です。でも、物語は私の生きる指針です。物語が無力だなんて私は絶対に思わない。誰にも何の影響ももたらせない物語はこの世にないって私はそう信じている」
炎のようだなと、思った。栞を射貫く朔の目のなかでゆらゆらと燃えている。
「塩さんも……幕井栞さんも、信じていたから、アカさんの言葉に傷ついたんじゃないですか?」
同じものを好きな人とすら分かり合えないのなら、もう、無理だと思った。
あの時の衝撃を言語化するなら、絶望という言葉が一番近しいだろう。それくらいの断絶を栞はあの瞬間に感じていた。
「……はい、でも多分、それだけじゃないんです」
「それが何か、私は聞いてもいいですか?」
自分の本心を人に打ち明けるのは怖い。でも、栞は今、朔から受け取ったばかりだった。
「私、人を愛せないんです。誰もそれを子どもの私に教えてくれなかった」
直視しながら話すことはできなくて、自然と視線が窓の向こうに動いた。
自分の番が来たことで、どうして朔が外を見て話していたのか理由が分かる。
「だけど、ホノマホが、ルビーが、私に見せてくれた。人を愛するというのがどういうことなのかを教えてくれた。憧れました。羨ましかった。私だっていつか……いつか誰かを愛せるんじゃないかって、思いました」
けれど、駄目だった。
そのことに海と別れたあの日、栞は徹底的に気づいてしまった。
両親の失敗の象徴だった自分は、やっぱり欠陥品として産まれたのだと思った。
自分の胸に触れれば穴があいていて、のぞき込めば本当は自分が死んでいることに気づくのではないかとすら思った。
恐ろしかった。
己の乏しさが、空虚さが、恐ろしかった。
だから自分を繋ぎとめるためにホノマホにすがった。
ホノマホを好きな人にすがった。
「……でも、いや、だから……フィクションが……現実と別物で、私がホノマホから受け取った全てが……まがいものであるなら、私は……」
窓から見える三毛猫はまだ自転車の上で眠っていた。陽だまりはとても明るく、十一月になり寒々しくなったはずなのに、とても温かに見える。
「なんにもなくなる」
朔にとってホノマホが生きる指針であるなら、栞にとってのホノマホは己の全てだった。
ああ、どうしてだろう、とても寒い。
「わたし、からっぽなんです」
栞はホノマホから受け取った言葉で生きてきた。ホノマホがくれた言葉を支えに生きてきた。
家族に恵まれているとは言えない環境ではあったけど、友達はいた。
恋人として海も隣にいてくれた。
荒垣店長にも優しくしてもらった。バイトの木村や他の職場の人たちだってそうだ。
そして、朔、たまこ、アカ。ホノマホを共有できる、友人のような仲間のような相手と出会えた。
だから、なんにもないだなんてことは自分と関わってくれた全員を切り捨てるような言葉で、自分がからっぽだなんて言うのはその人たちに失礼なことで、でもそう思ってしまうことがもう自分の空虚さを表していて、本質的には誰のことも心の内側に入れることができない。
相手のことを好ましく思ってはいる。
尊敬していたり、感謝もしている。なのに自分と相手の間に深い溝が見える。
優しくされるとありがたく思う。
必要とされていると感じれば嬉しく思う。
おおよそ人らしい感情はちゃんと持っている。そのはずなのに、どこか遠く感じる。
誰も彼もが、かげろうのように思えてしまう。そこにいても感触がしない。影のような夢のような曖昧な存在に思えてしまう。
働いているのに、税金を納めているのに、関わっているのに、世の中に自分は参加していない、そんな思いがある。
居場所なんてものは最初からないと思ってしまっている。
明日、ふっと消えたとしても誰にも見向きもされないで始めから無かったもののように扱われるのではないかという気がする。それどころか、自分という存在はあの人が見た悪夢で、最初からこの世に産まれ落ちてはいなかったのではないかとさえ思う。
自分も他人も不確かで、ずっと信じられるようなものがない。……そんなの、愛するとか以前の問題だ。
現実の何もかもがフィクション以上にフィクションだった。
不確かだった。
空虚だった。
『私からあなたを奪うな!』
けれどルビーの叫びが、不確かな世界を漂っていた栞をつかんだのだ。留め続けてくれているのだ。
自分のせいで父母も家もルビーから奪ってしまったと苦しみ自死しようとしたリオに、一巻ラストでルビーが叫んだ言葉は、漠然と毎日死んでしまいたい気持ちがあった中学生の栞を本の中に引きずり込んだ。頭のどこかを閃光が貫いたようだった。
強烈な、肯定だった。
私のための言葉だと、思った。
あれはリオに向けられた言葉で、私のための言葉ではないことくらい分かっている。最初から分かっている。けれど、それでもそう思ったのだ。私のための叫びだと。
この栞の手の中にある文庫本の紙の上の文字の世界が、栞の人生で一番最初に栞を肯定した。とても強く鮮やかな少女が、現実よりも確かなものとして栞の胸に宿った。
ホノマホが栞を救った。
本当に、自分の全てだったのだ。
「大人のくせに思春期の女の子みたいで、恥ずかしいですよね」
真剣な顔で栞の話を聞いている朔に一瞬視線を向けて苦笑する。
朔に告げた言葉は本心だけれど、同時に、馬鹿みたいだ。とも思う。
荒垣に求めていたもの、重ね合わせていたものに気づいた時もそうだった。
中学生の自分から進歩していない。いつまでも愛を乞う子どものままだ。餓えたままで、なのに海が差し出してくれていた愛情からは目をそらしていた。
思春期の内に解消しておくべき悩みを、放置し続けたまま大人になってしまった。
本当は知っているのだ、親から愛を与えられなかった子どもだって、人を愛することができる。そういう人はちゃんといるのだと、知っている。
ホノマホ以外の誰も何も信じられないのではなく、信じようとしなかっただけだ。
自身の内側に空白を生み出しているのは、栞自身だ。
幼稚だ。本当に。
「……アカさんの言葉に傷ついたことは否定しません。でも私の場合は、アカさんに勝手に期待して、勝手に傷ついたんです。中学生の女の子に、自分のエゴを背負わせようとした。大人として情けない。自分だってアカさんを責められるほど正しく生きていないくせに」
自分の親をフィクションがいらない人間だと称した。共通言語がないことに悩んでいた。だから自分と同じなのだと思った。シンパシーを感じた栞は自分のためにアカに心を砕いた。どこまでも自分のために。
栞がアカのために投げかけた言葉はエゴでできていた。
「フィクションと現実は別物ですよね?」という栞からは絶対出てこない言葉をアカが発した瞬間に、無自覚だった傲慢さに気づかされた。
自分にとって大切なものだからといって、他の人にとっても大切なものになるとは限らない。同じものを好きだからといって、全く同じ捉え方をしているわけではない。
これまで生きてきた中でそれに気づいていたはずなのに、朔に、たまこに、アカに会えたことが嬉しくて勘違いをしてしまった。
「情けない……だから、アカさんは悪くないんです。結局は、自分の問題なんです」
話をしめくくると視線を窓の外から朔に戻す。テーブルの上で手を組んで押し黙っている彼女が今何を考えているのかを推し量ることはできなかった。
軽蔑されたか、引かれたか、重いと思われたか――そんな風に気持ちをないがしろにする人ではないと分かっていても後ろ向きな考えがちらりと頭を過る。
「本を作りませんか?」
短くない時間黙考していた朔が意を決したように口にしたのは、突拍子もない内容だった。
「……ほ、本?」
あまりにも予想外すぎる発言に面食らってしまう。
「そうです本です」
「ど、え? どうして……?」
本を作るとはどういう意味なのか、どうしてそんな発想になったのか、そもそも本なんてどうやって作るのか。朔の提案の何から何まで意味が分からなかった。
「形として残した方がいいと思ったからです」
「……な、何を?」
「私たちの気持ちをです」
簡潔な答えであるはずなのにどちらもさっぱり理解できない。
「愛とか、気持ちとか、どれも全てふわふわとした曖昧なものです。目にも見えない不確かなものです。私たちよく、ずっと好きとか簡単に言ってしまいますけど、今日はそうでも明日の自分も同じ感情を持っているかなんて保障はない。だから残しておきましょう。自分の――未来の自分のために」
「…………どう、やって」
「だから本です!」
画面をタップする音が栞のところまで聞こえてくるくらいに力強くスマートフォンを操作すると、朔は身をのりだして栞にスマートフォンの画面を見せた。
促されるままに画面をのぞき込むと、どこかの企業のホームページが表示されていた。
ポップな色使いだが、かっちりした内容やカレンダーが記載されているそのページをよくよく確認すると、社名の下に同人誌印刷会社と書かれている。
「……同人誌?」
「そうです」
「あの、私、絵も描けないし、話も思いつかないし……二次創作なんてできませんよ……?」
夏と冬のイベントで販売している、作品のファンが描いた二次創作の漫画のうすい本。
栞の同人誌の知識なんてそれくらいだった。実はあまり読んだこともない。
「漫画を作るわけでもなければ小説を作るわけでもないから大丈夫です」
「じゃあ、何を作るんですか?」
「ホノマホへの気持ちを込めた本を作るんです。ファンブックというか、エッセイというか、読書感想文を書いてそれを載せるといえば一番分かりやすいですかね? ホノマホの好きなところや好きなキャラクターについて、どこが好きなのかを書いてもいいし、自分の思い出を書いてもいい。でも、それは感想文として書かれるタイプの文章じゃなくてもっと自由な感じの……それこそ私たちの会話を文字に起こして載せてもいいし、ホノマホの情報をまとめたページを作ったり、残したいものを好きなように書いた本を作りたいって思います」
「作って、どうするんですか? 売るんですか?」
「売りませんよ。ただ自分たちのために作るんです。十部とか少ない部数でも作ってくれる印刷所はあるんですよ。塩さんが思っているよりも気軽に本は作れます。旅行した時やイベントで写真を撮ってアルバムを作るように、私たちで本を作りましょう」
気軽に作れると朔は言うが、どうしても栞からすれば大事のように思えてしまう。それに、四人で集まって話をするならともかく、自分の気持ちを文章にして残すといっても何を書けばいいのか思いつかない。
栞の表情からそんな気持ちを察したようで、説得をするように朔は話を続ける。
「前に塩さん、ルビーの好きなところについて話してくれたじゃないですか。それをそのまま文字にすればいいんですよ」
「そんなのでいいんですか?」
「それがいいんです。だって自分たちのための本ですよ? 誰かに評価されるために作るんじゃない。例えば文章がつたなかったり、めちゃめちゃだったとしてもいいんです。整ってる必要なんかないんです。ちゃんとしてなくていいんです。そこに塩さんのホノマホへの気持ちが残せているなら、それだけでいいんです」
普段から自分の話をするのが苦手なのに書けるのだろうかという不安はあった。けれど、頼もしい朔の言葉につられてしまった。
「作り方何も分からないですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
力強く不敵に笑った彼女はとてもかっこよかった。
「たまこさんと……アカさんにも、話して色々決めましょう」
一瞬ためらったが朔はアカの名前も出した。彼女が悪かったわけではないと自分で言っておきながら、それでもあの瞬間の感情がよみがえってしまい、栞の表情が曇る。
「アカさん、塩さんに直接会って謝りたいって言ってたんですけど……どうしますか?」
痛みが残っていたとしても、中学生のアカが謝りたいと言っているのに、実年齢だけだとしても大人の栞が拒絶するのはそれこそ情けない行動だ。
「会います」
「じゃあ、私から二人に連絡しておきますね」
これからどうするかについての話がまとまると、すっかり冷めてしまったお茶を飲みながら朔とたあいもないことをぽつぽつ話した。
いつも四人で集まっていたので、二人きりで会話するのはとても新鮮だった。そこで、高校生の頃に朔が同人誌を作っていたことも知った。道理で本を作ろうという発想が出てくるわけだ。
漫画家になるほどの才能や熱量は自分にないと気づいてしまってからはもう作っていないらしいが、趣味として絵は今も時折描いているそうだ。
あまり長い時間そうやっていたわけではないのだが、ゆったりと静かに交わされる会話は心地良いものだった。
喫茶店をあとにすると、朔とは駅で別れた。
利用している路線が違うので本来ならもっと手前で別れることになるのだが、見送らせてくださいという朔の気持ちを受け取り、栞が使う駅の改札前まで一緒に歩いた。
改札を通る前に、また連絡しますとか、今日はありがとうございましたとか、挨拶を交わした。そこですぐに別れるかと思ったのだが、その後も朔は何かを言いたそうな雰囲気があった。
不思議に思いつつ立ち止まっていると、少しためらいを見せながらも朔は栞を見据えて一言だけ告げ、逃げるように立ち去っていった。
「あなたは、からっぽなんかじゃない」
言い逃げのように渡された言葉に、どうしてか、栞は涙がこぼれそうだった。




