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 店内がオレンジと紫色の装飾で賑やかに彩られる時期になった。

 まだ栞が子どもの頃はここまでハロウィンが一般的ではなかった気がするが、今やクリスマスの盛り上がりと変わらなくなってきている。

 世の中が十一月からクリスマス仕様になるように、九月になると店はハロウィン仕様に飾りつけられる。

 九月になった途端に暑さがやわらぐわけでもなく、残暑ともいえない暑さがまだまだ猛威をふるっているが、空調の効いた店内はもうすっかり秋の様相だ。

「いやー、でも正直どうなるんでしょうね」

「何がですか?」

 ギフト用に使うラッピングの材料を補充していると、手持ち無沙汰になったのかレジに立っていた木村が背中越しに話しかけてきた。

 販売している商品の性質上プレゼントするための包装を頼まれることが多いので、レジの後ろにはラッピング作業をするためのスペースがある。そのためそこで作業をしていると必然とレジに立っている人物とは背中合わせの格好になるのだ。

「荒垣店長、退職しちゃうじゃないですか」

「……そうですね」

 九月のはじめ。荒垣は十二月末日に退職する旨をスタッフ全員に伝えた。

 退職する理由も包み隠さずあっけらかんと話し、驚かれながらも彼女は皆から応援の言葉をかけられていた。だが表面的には門出を祝福できても、店員それぞれに不安はあるのだ。

「店長って幕井さんがバイトだった頃からこの店にいるんですよね?」

「そうですね。私がバイトに入るよりもっと前からいたはずですよ」

「そうなんですか? え、じゃあ店長になってからだと」

「確かここの店長になってからは八年って聞いてますね。その前は別店舗を任されてたらしいですけど」

「八年? 八年かあ……結構、ですよね」

「短くはないですよね」

 八年前なら栞はまだ高校生だ。そう考えると途方もない長さに感じてしまう。

「んー、なんか荒垣店長がいないこの店が想像できないんですよね」

 木村の話し声にはいつもの明るさがあったが、根底に戸惑いが潜んでいるのが顔を見なくとも分かった。

「……そうですね」

「荒垣店長っているだけで安心しません? トラブルとかあっても店長がなんとかなる、って言うと本当にどうにかなりそうな気になっちゃうっていうか」

「分かりますよ」

 クレームやミスなどのトラブルもそうだが、職場の人間関係なども荒垣が店長だったからこれまで円滑にやってこれた部分が大きい。

「次の店長って、幕井さんになるんですか?」

「それ、は、ちょっと分からないですね」

 可能性としてはないとも言い切れなかった。しかし店長を任されるのは基本的に正社員だ。そして九月の時点で本部からまだ打診がないということは、他のエリアから社員が移ってくる確率の方が高いだろう。

「私としては幕井さんだといいんですけどねえ」

「え、」

 予想外の言葉に後ろを振り向くと、ちょうどレジにお客が来たところで続きを聞くことはできなかった。

 話を聞くためだけにその場に留まり続けるわけにもいかず、補充作業の終わった栞はすぐにレジから離れて別の仕事をしなくてはならなかったため、その日はもう木村と会話をするチャンスにも恵まれず、もやもやした気持ちのまま一日を終えることになった。


 かぼちゃはもう見飽きているので栗がメインの季節限定デザートがのっているページに視線を移動させた。見ているだけで食べてはいないのだが、この時期はかぼちゃを食べる気にはなれない。

 ハロウィンも終盤になるとオレンジ色というだけでもうお腹いっぱいという気持ちになる。

 本当は先月末に集まる予定だったのだが、前回約束していた日は前日になって急にアカの都合が悪くなったという連絡があり予定が流れ、四回目の集まりは十月下旬の土曜日になった。

 栞と朔とたまこの三人で会っても良かったのだが、なんとなく四人で集まるのが恒例になっている中、無理して会わなくてもいいだろうという結論になったのだ。

「塩さんデザートたのむんですか?」

「悩み中です。食べたいけど、さっき食べたドリアが思ったよりずっしりきてて」

「じゃあじゃあ、半分こしてくれませんか? 栗のパンケーキ気になってたんですけど、一人だと食べ切るの難しいかなって思ってたんですよね」

「いいですよ」

 最初は戸惑うこともあったが、アカの言動――十代特有のテンションや振る舞いにも最近は慣れてきた。

 思い起こしてみれば自分だってそんな時期はあったのだ。

 自分と他人との境界が曖昧で、友達との距離感がとても近い。そんな頃は確かにあった。

 何をもってして人が大人になるのかというのは、社会人になった今でも分からないが、少なくとも年を重ねると感情の起伏はゆるやかになるし、妥協が上手になるというのをアカを見ているとつくづく思う。

「あ! そうだ今度タルト食べに行きません?」

 隣で栞とアカのやり取りを聞いていた朔が突然目を輝かせながら提案してきた。

「タルト?」

「ほら、三巻であったじゃないですかルビーとリオがタルトを半分こするシーン」

「林檎と洋梨のタルトですか?」

 ホノマホの世界だとタルトは農民でも一般的に食べられるお菓子として登場する。母親が作ってくれる、日本でのホットケーキくらいの立ち位置だ。

 家を焼かれ旅を始めたルビーとリオは、三巻で子どもを助けたお礼にと農家の一家に一晩世話になる。

 精一杯の持てなしもうけ、夕飯と一緒に出てくるのが林檎と洋梨のタルトだった。

 しかしタルトは本当はその家の子どものために作られた物だった。ルビーとリオが一つずつ食べてしまうと、助けた姉弟は我慢しなくてはいけなくなってしまう。

 そこで、我慢するまだ幼い子どもの視線に気づいた彼女たちは一つを半分こするからと言って、仲良く一つのタルトを食べたのだ。

 くしくもその行動は二人の過去を思い起こさせるもので、ルビーもリオも何度も何度も美味しいと言ってタルトを口にしながら幸せだった日々を想い涙を流した。

 ご飯が食べられなくなるでしょう? とルビーの母に言われるため、もうなくなってしまった家にいた頃は、ルビーとリオはいつも母の作ってくれたタルトを半分こして食べていたのだ。

 近所の人が果物をおすそわけしてくれた時だけ作ってもらえるタルトが、ルビーもリオも大好きだったのだ。

 作中で幸せの象徴のように書かれていたタルトは、栞にとっても特別なものになった。

 一体それはどんな味がするのだろう。

 どんな匂いがして、どんな食感がするのだろう。

 さくさくのタルト生地と瑞々しい林檎や洋梨を一緒に口の中に入れるとどんな気持ちになるのだろう。そんなことを夢想した。

 田舎のケーキ屋にはショートケーキやチーズケーキはあってもタルトは置いていなかったので、栞は大学生になってからやっと食べることができた。しかし憧れが強くなりすぎたのか実物を口にするとどこかあっけなく感じてしまい、その時は少し残念な気持ちになったものだ。

「それですそれです。この間たまたまSNSで見かけたんですけど、ホノマホに書いてあったそのままみたいな林檎と洋梨のタルトを食べられるお店を見つけたんですよ」

「本当ですか?」

 そういえば、林檎のタルトや洋梨のタルトはよく見かけるが、作中に出てくる林檎と洋梨のタルトそのものと遭遇できたことはなかった。

 あの時は、宝石がイミテーションに変わったような気持ちになってしまったが、もしかしたら今度は憧れそのものを口にすることができるのかもしれない。

「見てください、結構近くなんですよ」

 手渡されたスマートフォンの画面にはお店の公式サイトが表示されていた。

 クリーム色と水色メインで構成されたサイトデザインは可愛らしく、メニューのページをタップするとカラフルな色彩が目に飛び込んでくる。

 いちじく、ぶどう、柿に、モンブラン、紫芋。

 秋の季節限定タルトはとても美味しそうだった。フルーツはどれも艶々と輝いていて、見ているだけでわくわくする。挿絵そっくりの、林檎と洋梨のタルトの画像もそこにあった。

「見れました?」

 つい逸る気持ちで先にメニューを見てしまったが、朔は店舗の場所を見せるためにスマートフォンを渡したのだ。急いで店舗案内をタップした。

「あ、本当に近い」

「でしょう。だから次……だと、クリスマスが近いからお店が混んでるか。来年のどこかで皆で行きませんか?」

「行きたいです……!」

 栞にしては珍しく大きな声が出た。その勢いに驚いた朔は一度目を丸くしたが、すぐにその目はやわらかく細められる。

「私も見ていいですか?」

「どうぞ」

 朔の了承をうけると、見たそうにそわそわしているアカにスマートフォンを渡した。

「美味しそう」

「綺麗だね」

 隣からアカの手元をのぞき込んで、たまこも目を輝かせる。

「それにしても、言われてみれば思い出せるのにすぐには気づけなかったな。さすが塩さん」

「いえ全然」

 林檎と洋梨のタルトは三巻では挿絵付きで登場するが、その後の彼女たちは騙されたり利用されたり二人が離れ離れになったりと波乱が待ち受けているため出てくることがない。けれど食事シーンのあまりないホノマホでは唯一印象的に書かれているため、ホノマホで食べ物といえばこのタルトが思い浮かぶ。

 それと、中学生の栞にとっては身近な食べ物ではなかったので余計に憧れが募り心に残ったのだ。

「塩さんってどうしてルビーが一番好きなの?」

「……え?」

「ルビーが好きだってのは聞いてたけどさ、塩さんって基本聞き役の時が多いでしょう? でも私としては塩さんの話も聞きたいんだよね」

 集まりも四回目になるが、たまこの言う通り栞は話の聞き役になることが多く、自分の意見を強く主張したのも最初のアカの一件の時くらいだった。

 聞かれれば答えるが、聞かれない限り必要以上のことはあまり口にしない。それは多分、栞の長年の習性だ。

「話が……下手で、つい。ごめんなさい」

「謝ることじゃないよ」

「……はい」

 最近、謝らなくていいと言われることが多い気がする。けれどそれはきっとここ最近だけの話ではなくて、大学時代の友人が栞が謝るたびに変な表情をしていたのだってそういうことだったのだと、今になって気づいた。

「えっと、なんて言えばいいのか分からないんですけど……ルビーは、私の憧れなんです。両親が亡くなったのはリオのせいだって、そんな風に恨んでもおかしくないのに、ルビーは誰のせいにもしない。誰のことも悪く言わない。自分の身に起きた全てを受け止めて、前を、向く。その姿勢が――かっこよくて、大好きなんです」

 中学生の栞は、何かを恨みたかった。

 だって何かのせいに、誰かのせいにすることができれば、楽だ。

 自分の苦しさの全ては、あの人のせい。父親のせい。

 二人を育てたそれぞれの祖父の、祖母のせい。

 他人のくせにああだこうだ勝手なことばかり言う大人たちもそうだ。なんにも助けてはくれないのに口だけは出す、見て見ぬ振りをする大人たちが悪い。

 お前のせいだ! と叫ぶように生きれたらきっと楽だった。

 でも、人を恨んで生きた人間がどうなるか、栞はよく知っていた。

 怒り続ける人生は、きっと恐ろしく虚しい。

「素敵な理由ですね」

 たどたどしく栞が話している間に、たまこだけでなく朔やアカもじっと黙って栞の話を聞いてくれていたようだ。気恥かしさでテーブルの上で握った自分の手の親指しか見れない。

「うん、ルビーはかっこいいよね」

「ヒーローよりもかっこいいヒロインですよね」

「それ本当にそうですよね。セオが助けようとかけつけたら、それより先にとっとと脱出してましたもんね」

 ホノマホにもヒーローポジションの男の子がいる。ルビーたちと同い年のセオは、国に使える魔法使い見習いだ。

 中盤までは似たもの同士のルビーとよく喧嘩をしていたのだが、強く折れないルビーの脆い面を知ったセオは、ルビーが強いのではなく強くあろうとしていたことに気づき彼女に恋をするのだ。

 六巻で彼が気持ちに気づいたシーンを読んだ時はどきどきした。翌日、学校で友達と語り合ったのが懐かしい。

「なんならセオの方がヒロインの素質ありますよね」

「分かります。ルビーと性格は似ているのにどうしてかセオの方がヒロインなんですよね」

「……あれ? そういえばたまこさんって誰推しなんですか? 聞いたことない気がします」

 栞はルビー、朔はノエル、アカはルビーとリオ。

 たまこはこれまであのシーンが良かったこのシーンが好きだったという話ならしていたが、どの登場人物が特別好きかは口にしていなかったはずだ。

 アカからの問いかけを聞いたたまこは、腕を組んで神妙な面持ちをした。

「私はね…………ケインが好き」

「あ……」

 異口同音の反応を三人がすると、たまこは机に突っ伏した。

「だよね、そうなるよね、分かるよ」

「いや、あの、ケインは、ケインは何も悪くないんですよ」

「そうですそうですケインかっこいいですもんね。分かりますよ好きになる気持ち」

「……いまだに心に傷を負ってるけどね」

 ケインとは、セオの兄でルビーの初恋の相手だった。

 一番はじめにルビーとリオの味方になってくれるのが彼で、ずっと二人のことを助けてくれる頼れるお兄さんだった。そんな彼にルビーも憧れからくるほのかな恋心を抱く。しかし、ケインは九巻でルビーをかばう形で亡くなってしまうのだ。

 悲しくともそれだけならまだ良かったのだが、ルビーやリオ、そして読者も彼の死をまるまる一巻分知らないまま話は進んでいくことになる。生きているのかどうかはらはらしながらも次の巻まで待った結果彼の死が明かされるのだが、その時はひどくあっけなく、ただ事実だけが開示される。

「作者に人の心が無い……」

「そのおかげでセオが成長したにしても……あれでしたよね」

 次の巻のあとがきで作者もケインについてたくさんのお手紙を頂きました。と書いていたので、ショックに思った読者は多かったのだろう。

「心にぽっかり穴があいたよね……」

 むくりと起き上がったが、うなだれたままたまこはテーブルのどこか一点を虚ろな目で見つめていた。

「……でも、ルビーを助けずに自分の安全を優先するケインだったら好きになってないんだよね」

 てっきり落ちこんでいるのかと思ったが、顔を持ち上げるとたまこはにっこり笑った。

「そんなケインがいてくれたからルビーも最後頑張れたんですよね」

「ルビー推しの人にそう言ってもらえると嬉しいよ……」

 気分を持ち直したのか、たまこはコーヒーを一口飲むとふうっと軽く息をついた。

「ところで次ってどうする? 十二月だとアカさんと朔さんはテストがあるよね? もう来年にする?」

「そうですね。来年にして、皆さんが良ければさっきのお店に行くとかどうですか?」

「そうしようか――あ、そうだ。アカさん前回は急用ができたってことだったけど、もしも学校の方が忙しいなら絶対にそっち優先してほしいから気にしないで言ってね」

 てっきりたまこはアカから来られなくなった理由を伝えられていると思っていたのだが、知らなかったようだ。

「ああ、あれはもう大丈夫です。ご迷惑おかけしてしまってすみません」

 苦笑しながらアカは軽く頭を下げた。

「迷惑なんて全然。何かあったの?」

「あー、なんか呼び出されちゃって」

「呼び出される? 学校に? え、本当に大丈夫なの?」

 心配からかたまこの眉間に皺がぎゅっと寄っている。

「大丈夫です、大丈夫です。なんか、いじめてたんじゃないかとか言われて呼び出されちゃったんですけど、誤解? 解けたので」

 あっけらかんと笑いながら言われたので、栞はアカの言った言葉を聞き間違えたかと思った。

「いじめ……?」

「て、ないんです! 誤解だったんですよ」

 否定するために手をぱたぱた振りながら、栞の言葉を遮ってアカは訂正した。

「そう、なんだ。大変だったんだね」

 知らず肩に入っていた力が抜ける。気持ちを切り替えたくて、栞はティーカップに手を伸ばした。

「そうなんですよ! 困っちゃいました。いじめじゃなくてただ嫌いなだけなのに」

 カップの持ち手を掴んだ指の爪先が白くそまった。

「――今、なんて?」

「え? あー、クラスの子……なんですけど、私その子のこと嫌いなんですよ」

「……どうして?」

「どうして? 嫌いになるのに理由っていります? んー、なんとなく……?」

 奥歯を噛みしめた。息が止まる。口を閉じて鼻からゆっくり息を吐いた。

「アカさんは、何かを、したのかな?」

 栞が自分を落ち着かせている間に、たまこが言葉を選んでアカに投げかけた。

「何もしてないですよ! 物を隠したりとか叩いたりとかしてないです。……まあ普通に喋りたくないんで関わらないようにはしてましたけど、それくらいです」

 無視は、していた。そういうことなのだろうか。

「そう。じゃあ、相手の子はそれをどう思っていたのかな?」

 静かな問いかけだったが、アカのつり目は反抗的な色に変わった。

「人を嫌いになっちゃいけないんですか?」

 あまりにも真っ直ぐな質問だった。

「……ううん、誰しも相性はあるから誰かを嫌いになることだってあると思うよ」

「じゃあどうして私は怒られてるんですか?」

 そう言ったアカの声音の方がよっぽど怒っている温度をしていた。

「怒っているわけではないよ。驚いてる、が正しいかな」

「――どうして」

 抑えようと、堪えようと努力して栞が出した声は、とても低く陰鬱なものになった。

「どうして、ホノマホを、読んで、ホノマホを好きな人が、人を……」

 傷つけるような真似をしてしまえるのか。栞には理解できなかった。

「フィクションと現実は別物ですよね?」

 不思議そうに言うアカの言葉を聞いて、栞は自分の間違いに気づいた。

 シンパシーを感じて、これまで栞はどこかアカに過去の自分を重ねていた。

 でも、そうではない。

 アカは、過去の自分ではない。

 アカを救ったからといって、中学生の栞が救われるわけではない。

「私、変なことを言っていますか?」

「へ、ん……」

 変、なのはもしかして栞の方なのだろうか。

「どうして私は嫌いな人を嫌いって言っちゃ駄目なんですか。だって、私の父親も母親も私の好きなものを普通に嫌いって言ってきますよ。大人はいいのに、子どもは駄目なんですか?」

 アカの言葉が蛇のように身体に巻きついてくる。頭がまともに働いてくれない。

 問いに答えなければと思うのに、脳が別のことを考える。

 フィクションは、エンタメで、ただ、楽しむもので、偽物で、嘘で、現実とは別物で、どれだけ物語が愛をうたっても、現実の人間には影響をもたらさない。

 それなら、栞が、ホノマホから受け取った、気持ちは、愛は、まがいものだった?

「塩さん、体調悪そうですよ。風邪じゃないですか?」

 カップの持ち手を掴んだままだった栞の手にそっと触れて朔が言った。

「え? いや、」

「明日は仕事なんですよね。悪化させる前に帰った方がいいですよ」

 ふわりと微笑む朔を見て、たまこもぎこちなく頷いた。

「……うん、そうだね。季節の変わり目だし、多分そうだよ」

「いえ、大丈夫で、」

「帰った方がいいです、ね?」

 最後の一言と同時に朔は栞の手をぎゅっと握った。

 力が入りすぎて震える手で持たれていたカップからは紅茶がこぼれてしまっていた。

 朔に手の震えを止めてもらったことで、自分が思っている以上に冷静ではなかったことに気づかされる。

「あとで連絡します」

 栞にだけ聞こえる声で朔はささやいた。小さく頷きを返し、栞はその場から立ち去った。

 帰り際、アカの姿を視界に入れることすら、できなかった。

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