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 肌が冷えたのを感じて、栞は鞄にしまっていた紺色のカーディガンに袖を通した。

「夏休みの宿題ちゃんとやってる?」

 笑いの含んだ声でたまこが言った。

 アカや朔が期末テストに向けて勉強に集中しなくてはいけなかったり、それ以外にも四人の予定が合わなかったため三回目の集まりは八月になった。集合場所はもう恒例になりつつある初めて顔を合わせたファミレスだ。

「えー、たまこさんまでやめてくださいよ。うちの親、休みだからって気を抜くなちゃんと勉強しろって毎日ねちねちうるさいんですよお」

 不満を訴えるためかアカは飲んでいたメロンソーダをストローでぶくぶくさせる。

「ごめんごめん、うちの子がぎりぎりまで手をつけないで最終日に馬鹿みたいに慌ててるの毎年見てるからついね」

「なんか、たまこさんの息子さんうっかりしてて可愛いですよね」

「母親からしたら困った息子だけどね」

 困らせられることがあっても、たまこの話しぶりから彼女は息子のことが好きなのだろうというのがいつも伝わってくる。

「そういえば読書感想文って今も夏休みの宿題にあるんですか?」

 気持ちの片隅が少しざわついた栞は、不自然にならないように気をつけながら話を変えるためにぱっと思いついたことを話題として投げた。

「ありますよ」

「へえ、私いまだに読書感想文の正解が分からないんですよね」

「感想に正解ってあるんですか……?」

「宿題だからあるんじゃないですか? だって国語のテストにだって答えがありますよね?」

 作者の気持ちを答えなさい。といった国語のテストでよく出題される問題は、実際のところ作者ではなくテストを作成した人間が選んだ正解を書ければ丸になるものだ。

 ならば、読書感想文だって宿題である限り正解があるのだろうと栞は思っていた。

「私も苦手っていうか、嫌いだったな」

 嫌々書いた過去でも思い出したのかたまこの眉間に皺が寄っている。

「どうしてですか?」

「なんか、感想を人にわざわざ言うのって嫌じゃない?」

 栞も、朔も、アカも、時でも止まったように一瞬動きを止め、示し合わせたようにたまこの方へ視線を向けた。

「いや、こうやって好きな人同士で集まって話をするのは別ね! ……そうじゃなくて、なんていうか、提出するための感想が好きじゃないっていうか」

「塩さんの言っていた読書感想文の正解を書かされるのが嫌ってことですか?」

「ああ、そうなのかも。あれって結局教師とか、感想文を読む人間が気に入ったものがコンクールで賞を取るものだから……だったら、ただ書かされた私の気持ちはどこに捨てられたの? って思っていたのかな」

 コーヒーカップの持ち手をつかんだたまこは、飲もうとはせずに黒々としたコーヒーがゆらゆら揺れているカップの中身をただ見つめた。

「絶賛されたいとか同意されたいとかって気持ちはないけど、わざわざ感想として気持ちを文字にさせられるのに宿題として提出したらそれで終わりなわけでしょう。それってどこか淋しいよね」

 自分の感想を――感情を書くよりも、正解を書いた方がきっと楽だ。だから栞は読書感想文に正解があるのなら知りたかったのだ。

「感想を、書かされるくらいなら、こうやって感想を言い合わせてほしいですよね」

 学校側は色々と意図があって宿題にしているのだろうが、それでもし読書そのものが嫌いになってしまえば本末転倒だと思う。栞もホノマホに出会っていなければ、小説を好きになっていなかっただろう。

「それいい! もしそうだったら良かったのにな」

「でも小学生だとそのせいで喧嘩が起きそうじゃないですか?」

「解釈違いとか? まあでも大人になってからそれで人と喧嘩するよりは子どもの頃に学んでおく方がいいんじゃない?」

「それは確かに……」

 ネットでたまに見かける論争でも頭を過ったのか朔は深々と同意した。

「解釈違いだとどうして喧嘩になるんですか?」

「アカさんは、誰かに対して思ったことないんですか?」

「…………多分」

「寛容なんですね……私、実はノエルくんとリオには血の繋がりがなくて、ノエルくんがリオに向ける気持ちは本当は恋愛感情だったんじゃないかって説を見つけた時、画面叩き割りそうになりましたよ……」

「そんな説があったんですか!」

「あったんですよ、本当になんでそんな発想になるのか全然よく分からないですよね。考察って言えば聞こえがいいかもしれないですけど、あんなの妄想ですよ妄想。いや確かにリオとノエルくんが姉弟だってのは二人がそう言ってるからってだけで、ホノマホ世界の魔法使いの出生率を考えると姉弟二人とも魔法が使えるってところに疑問を覚えるのも、まあ分からなくもないんですけど、でもどこをどう読んだらあの二人の、あの、姉と弟でしか成り立たないであろう絶妙な距離感を邪推するのか理解できないですよね」

 人が変わったように朔が熱く語っている様子を見たアカは、勢いに押されたように椅子の背もたれによりかかってちょっとだけ朔から距離を取った。

「な、なるほどこれが……」

「すみません、つい」

 気持ちを切り替えるためか、力説で使った喉を潤すためか朔は半分残っていたアイスカフェオレを一気飲みした。

「どう思うかってのは自由なんだろうけど、好きであれば好きであるほど、各自譲れないところはあるからこうなるよねえ」

「たまこさんもあるんですか?」

「ない、とは言えないけど、そっと見なかったことにして記憶から消すからもう覚えてないかな」

「大人です、とても大人です。アカさんもいつか解釈違いに遭遇した時はたまこさんの姿勢を思い出してください。そしてさっきの私の発言は忘れてください」

 言い逃げのように朔は空になったグラスを持ってドリンクバーに向かって行った。

「……塩さんも、ありましたか?」

「私は――、一緒にホノマホを読んでいた友達とは比較的趣味が似てたので、朔さんみたいなことはなかったですよ」

 栞の返答を聞いたアカはほっとしたように息をもらした。

「そうなんですね」

 正直、朔が前に見かけたというリオとノエルについての説はないな、と栞も思ったがどこか不安そうなアカの様子を見て、口にするのは止めておいた。


 日が長い時期とはいえ、なるべくなら夕方のチャイムが鳴るくらいにはアカを家に帰したい。そのため毎回、四人とも健全な時間に帰宅していた。

 働いている駅ビルから電車で二十分ほどのところに栞は住んでいるので、見慣れた駅のホームに降りていくアカに手を振って別れると、しばらく一人で電車にゆられる。

 今日もアカを見送ってから乗降口側から座席の方に移動し、吊革を掴んだ。栞は女性の平均身長はあるのでいいのだが、アカはまだ成長途中だとしても小柄で、吊革につかまろうとすると腕が真っ直ぐになってしまう。

 本人は慣れているためか気にしていなかったが、はたから見ていると気になって仕方なかった。そのため前回からアカといる時はさりげなく寄りかかる場所があったりポールがつかめる位置にいるようにしていた。

 傾きはじめた日がビルに反射してちかっと光り視界を奪う。

 窓の外に目を向けると、普段よりも明るい街並みが見える。都会は一駅の間隔が短いので電車からの眺めはゆっくり流れていく。ビルとビルの隙間からゆったりと日が現れては隠れていった。

 ずっと不思議に思っていながらも何なのか調べていない謎のオブジェは今日も強烈な存在感を発しながら堂々と直立している。ぼんやりと原色のオブジェを目で追うと、また反射した西日に視界を奪われた。

 強い西日の眩しさに目を細めていると、最近よく耳にしている着信音が鞄の中から鳴り響く。目の前に座っていた女性がちらりと栞に視線を向けた。慌ててショルダーバックからスマートフォンを取り出すと、画面には案の定あの人の名前が表示されていた。

 こちらから着信を切った場合面倒なことになるのは予想できたが、放置して電車内で鳴らし続けていても周りから白い目で見られる。

 実際、画面を見てちょっと逡巡していると目の前の女性だけでなく、隣で吊革につかまっていた男子高校生からも視線を感じた。

 意を決して拒否をタップし着信音が止むと、どことなく自分の方に集まっていた視線や非難するような気配も一緒に霧散する。

 気を悪くしたあの人が再度電話をかけてくる前にメッセージを送った。電車に乗っているので降りたらかけ直しますと端的に伝えたそれに返事はなかったが、着信がなかったということは了承してくれたのだろう。

 最寄駅の改札を出ると、履歴を表示させてすぐにあの人に電話をかけた。駅からアパートまでは徒歩十分の距離なので急げばすぐ着くが、なんとなく自分の部屋であの人と会話をしたくない。それに電車に乗っている間から一分でも早く終わらせたい気持ちでいっぱいだった。

 電話は、ワンコールで繋がった。

『ねえ、あんた鶏なの?』

 第一声から苛立ちをぶつけてくるだろうと思って身構えていたので、感情を伺えない静かな声音に最初は自分が何を言われたのか理解が追いつかなかった。

「……………………え?」

『え、じゃないわよ相変わらず鈍い子なんだから。今年は帰って来なさいよって言ったじゃない。それを何? 仕事が休めませんでしたって』

「……アルバイトさんのシフトとの兼ね合いが、」

『希望の休みも取らせてもらえないようなところで働いてるの?』

 怒りの中にほのかに滲む喜びを感じた。

 この人は栞の就職先を知った時、文句を言いながらも満足そうだった。

 きっと栞が名前を言えば誰でも知っているような企業に就職が決まっていたのなら、周りには自慢し、栞には憎しみを抱いただろう。

 自分の人生の汚点が幸せになるのは許せないのだ。

『あんたがやってる仕事なんてどうせあんたじゃなくてもいいような仕事でしょ』

「……そう、だとしても、一応、社員だから」

『契約、でしょ』

「……すみませんでした」

『栞ちゃん見かけないけど元気してるの? って近所の人に聞かれる私の身にもなってよ』

 子どもにも逃げられたのかなんて言われているような気になるのだろう、この人は。

 例え相手に他意はなくとも人の言葉を曲解して受け取るのが上手な人だから。

「ごめんなさい」

『――あんた、結婚すれば?』

「え?」

『だから、結婚すれば』

 話が急に飛躍した。

 この人の思考がどうなっているのか栞には理解できないことが多い。だが、続いた言葉で何もかもどうでもよくなった。

『だって、あんたでも子どもを産むくらいはできるでしょう』

 吐き気がする。

『生物学上は女なんだから』

 どこまでも、自分は、この人にとって、「人」ではないのだ。

『誰でもできるような仕事をするくらいなら、子どもを産んだ方が世の中の役に立つんじゃない?』

 世の中の役に、なんて本当はどうでもいいくせに、どうしてそんなことを口にするのだろう。……その方が、聞こえがいいからだ。

『ちょっと、聞いてる? 返事くらいしなさいよ』

「……はい」

『本当に返事だけしてどうするのよ、ああ、もう、あんたと話してるとイライラする』

「ごめんなさい」

『私があんたと同じ年の頃にはもう小学生の母親をしてたっていうのに、娘のあんたは結局無意味だった大学まで行って時間を浪費してお金だけかかって……小学生だったんだから当時の私のことをあんただって覚えてるでしょ。結婚して出産して子育てして仕事もして、あんたが大学で遊んでいる時期に私はあんたのことを育ててたのよ』

 大学の学費のほとんどは栞が相続した分の祖父の遺産から支払ったのでこの人は一円も出していないのだが、まるで自分が学費を払ったような言い方だ。

『そうやって人生で一番楽しい時期を使ってまで育ててあげたのに、どうしてあんたは私の言うことを少しも聞いてくれないの?』

 話が戻った。結局、これが言いたかったのだ。

『昔からあんたは要領も愛想も悪いし、本当に可愛くない。誰に似たんだか』

 当てつけるようなため息を聞きながら、不本意なことに顔と声はあなたに似ていますよ。とは思ったが、口にはしない。

『ああ、そっかそっかなるほどね。休みが取れないってそれでかもね。あんた、仕事先で嫌われてるんじゃない?』

「それは、」

『だってあんた友達だっていなかったじゃない』

 友達がいなかったんじゃない。変な干渉をされないように、隠していただけだ。

 外面を気にするこの人は、運動会にも授業参観にも毎回来ていた。

 PTAなどで親同士の交流もしていた。

 田舎では信じられないくらいに噂がよく回る。彼女が高校生の時に妊娠したということを知っている人は多かった。だから必要以上に体面を気にして愛想よくしていたようだった。

 自分の味方を増やすように振る舞っていた。

 考えが足らずに子どもが子どもを産んでしまったけれど、ちゃんと自分のしたことの責任をとって、まだ遊んでいたい気持ちを堪えて、頑張って自分の子を育てている。不安なこともあるけれどこの子が成長していく姿を見ると毎日の疲れもなんてことはない。そんな風に愛情深い母親に擬態していた。

 離婚した時は、父親が引っ越していったのをいいことに全てを父のせいにしていた。

 帰りが遅くなっても連絡をしてくれなかった。

 せっかく作った食事を食べてくれなかった。

 家事の手伝いもしてくれなければ、育児の手伝いもしてくれなかった。

 実際は、ヒステリックに怒るあの人に疲れた父が家にいる時間をどんどん減らしていっただけだったが、あの人にとっては主観が全てだ。

 主観だけで生きているあの人は、そうやって栞のことも口にした。

 自分は精一杯育てているのに愛想が悪くて心配。

 家でも自分と話さずに本ばかり読んでいる。

 最近、自分を無視するようになった。

 親への反抗期ってだけならいいけど、学校でもあの態度だったらどうしよう。

 あの人のそんな発言を聞いた親に、栞がどんな子なのか聞かれたと教えてくれたクラスメイトがいた。それを知った時に思ったのだ。この人に気づかれないようにしなくてはいけない、と。

 栞の大事なものを知られないようにしなければいけない。

 知られればきっと材料にされる。

 健気アピールの材料にされる。

 自身を肯定するための材料にされる。

 栞を否定するための材料にされる。だから、栞は、口を閉ざすようになった。

『もういい、もういいもういい、譲歩してあげる。正月こそ帰ってきなさいよ』

 栞を沈黙させたことに満足したのか、可哀想なものを労わるような声音で話をしめくくると、一方的に電話は切られた。

 やっぱり、歩きながら電話をかけてよかった。少しだけでも気をまぎらすことができた。部屋であればもっと言葉が自分の中に沈殿していっただろう。

 体内に取り込んだ言葉を息と一緒に吐き出した。あの人との会話はいつもこうなるので慣れてはいるがひどく疲れる。

 同じ言葉を使っているはずなのに会話ができない。特に今日は脈絡もなく結婚すれば、なんて言葉が出てくるから驚いた。

 直近で誰かとそんな話でもしたのだろうが、栞を妊娠したせいで人生がめちゃくちゃになったと思っている人が、よくその原因である娘に結婚をすすめられるものだ。それとも二十五歳になった女だったら結婚するのが常識だとでも思っているのだろうか。

 一般的には三十歳を超えても未婚の女性が多くなったとしても、田舎の人が結婚する年齢はあまり変わっていない。ならば、あそこで生きている人たちからすれば栞はもう結婚するべき年齢なのだ。

 あの人に育てられた栞が、母親になりたいと思うわけないのに。

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