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「飼ってるんですよ、黒猫」

 二回目の集まりは、さあさあと降る雨に紫陽花がきらめく六月の半ば。前回と同じファミレスで行われた。四人の移動距離を考えると一番都合が良いのがこの場所だったのだ。

「元々飼ってたんですか? それともノエルくんの影響で?」

 ノエルとは、ホノマホの登場人物だ。

 リオの弟であり魔法使いの少年なのだが、普段は黒猫に変身している。作中で描写される、黒いふかふかの毛並みを触ってみたいと思った子はきっと多いだろう。

 栞だって一番好きなのは主人公のルビーだが、中高生時代は黒猫モチーフの持ち物ばかり買っていた。

 人間姿が十三歳の美少年であるノエルは、読者の心を奪っていく美貌の持ち主だった。描写の力の入れ具合と挿絵の描き込みからして作者もイラストレーターも気合を入れて書いていたのが伺える。

 美少年なうえに、擦れた物言いをするわりにお人好しな性格で隠れシスコンのノエルは、ホノマホの男性キャラだと一番人気だった。

「ノエルくんの影響です」

 いつもはそこまで表情が崩れない朔が、満面の笑みを浮かべている。

「朔さんノエルくん推しって言ってましたもんね」

「名前はなんていうの?」

「写真見たいです!」

 しみじみと栞が、コーヒーを飲みながらたまこが、目を輝かせてアカが朔に話しかける。

「ちょっと待って下さい、画像出しますね」

 全員に画面が見えるように朔はスマートフォンを机の真ん中に置いた。

「私が高校生の時に飼いはじめて今年で五歳です」

 表示された画面には、真黒でふかふかな毛並と綺麗な青い目を持つ猫が大きな椅子にちょこんと座っている画像が表示されている。

「可愛い!」

「目もノエルくんと同じ色じゃないですか!」

「それで、えっと……名前は、ノエル……です……」

 彼女にしては珍しく歯切れのわるい言い方だった。

「男の子? 女の子?」

「男の子です」

「じゃあ本当にノエルくんなんですね……朔さんどうかしました?」

 いつの間にか朔が俯いていた。その耳は赤く染まっている。

「いやなんかちょっと恥ずかしくてだってノエルくん好きだってすでに話していましたし、それで飼い猫にノエルくんの名前そのままつけるのってなんか……なんか……ちょっと、なんですかねこの、ラブレターを友達に読まれたみたいな気恥かしさは」

「二十年くらい昔の話になるけど、私の友達にも好きなアイドルのあだ名を犬につけた子とかいたし普通のことだと思うよ」

 フラットなたまこの言い方に朔も落ち着いたようで、つむじが見えるくらいに下を向いていた顔を持ち上げた。その顔にはいつも通りの表情が浮かんでいたがまだ耳だけは赤いままで、はじめて栞は朔に年下らしさを感じた。

 関わらなければ気づけなかった可愛さを知れたことに少し嬉しい気持ちになる。

「今までノエルって言ってもクリスマス関連の話しか返ってこなかったので、改めてホノマホ仲間の皆さんにお伝えするのって変な感じです」

「あー、なんか分かるかも。私も買ったっきり積んじゃって実際に最後まで読んだ時にはもう完結からしばらくたってたから、その頃にはもうホノマホの話をする相手がいなかったんだよね。だから今こんな風に話せているの不思議に思う時あるよ」

 主婦なんてそもそも普段の話し相手すらいないし。とたまこは苦笑した。

「大人になると一年が急に短くなって色々追いつけなくなりますよね」

 大学生の頃も十代にくらべれば時間の流れが早いと思っていたが、社会人になってからはそれの比ではないくらいに時間の進みが早くなったような気がする。

「小説も漫画もそうだけど、流行の何かとか全部気づいたら終わってるんだよね。特に子どもがまだ小さい時なんかはもうめちゃくちゃ時間過ぎるのが早かったな」

「そういえば、たまこさんって結婚されてからずっと専業主婦だったんですか?」

「一時期はパートもしてたよ。でも一度だけ体調崩したことがあって、その時に無理してまで働かなくていいって夫に言われてからはずっと専業主婦してる」

 とっくに知っていたことだけれど、世の中にはたまこのところのような夫婦もいるのだということに直面すると栞は少し驚いてしまう。

「え、そうなんですか。今は体調はもう大丈夫なんですか?」

「数年前の話だから、今はもう全然元気だよ。それにあの時はちょうど色んなことが重なって体調崩しちゃっただけだから」

 たまこは栞の親よりも年上だ。高齢化が進んだ現代日本では四十六歳といってもまだ人生の折り返しくらいだとしても、体調が心配になってくる年齢ではあるだろう。

「そういえばその時にホノマホを読んだんだよね」

「体調を崩された時にですか?」

「そう、一応検査のために一日だけ入院したんだけど病院って暇なんだよね。だから夫に頼んで積んでた小説を持ってきてもらったの」

「おばあちゃんが入院した時にお見舞いに行ったら暇だ暇だって繰り返してましたけど、本当に暇なんですね」

 アカは喋りながらパフェのバニラアイスをスプーンですくったが、アイスはすでに大部分が溶けて液体になってしまっていた。

 どろりと溶けたアイスをコーンフレークに混ぜてアカはそれを口に運ぶ。

「うん。でも、ホノマホ読み始めたら退院まではすぐだったよ」

 病院の消灯時間が憎かった。と言って笑うたまこを見て、スプーンを口にくわえたまま何かを考えるようにアカはしばし停止したが、やがておずおずと話を切り出した。

「失礼かもですけど、大人もライトノベル読んだりするんだなって……たまこさんに最初に会った時に思ったんですよね。なんか……私たちとそんなに変わらないんだな……って」

 それは決して馬鹿にした言い方ではなく、例えるのなら学校の先生が娘や息子と一緒にいるところを初めて見た時のような雰囲気だった。

「大人なんてただ子どもだった個人が年齢を重ねただけだからね。好みなんてそうそう劇的に変わらないし、ライトノベルだって読むよ」

「そうなんですね……」

 子どもの頃は、子どもと大人の間に明確な境目があった。大人は大人という生き物で、子どもとは違う何かだった。

 栞は子どもの頃、祖父母や両親がそうであったから、大人にはフィクションがいらないのだと思っていた。

 アカが大人もライトノベルを読むことに驚いたように、栞も大人にもフィクションが必要な人がいることを知った時は驚いた。そして、自分はおかしくないのだと知り安心したのだ。

 現実のどこにもない、嘘の世界でも、それが虚構でも、好きでいてもいいのだと、安心した。

 自分よりもフィクションに夢中な大人がいることに安心した。

 なんの役にも立たなくても好きでいてもいいのだと知り安心した。

「じゃあ、フィクションがいらない人は子どもの頃からそうだったんですかね」

「……アカさんのご両親?」

 アカはすぐには答えず、まだ残っていた溶けたアイスを再びコーンフレークと混ぜ、口にし、のみ込んでから、肯定した。

「そうです、……私と両親の間には本当に共通言語がないんですね」

「二才児は皆アンパンマンが好きだから、ほんの少しもフィクションに触れていない人は少数派だと思うけどね」

 気持ちを軽くさせるためか、言葉の意図を分かっているだろうにあえてズレたことをたまこは口にしたようだった。

「アカさんの気持ちを軽視するわけではないですけど、好きな人間からすればどうして? と思ってしまいますが、世の中フィクションのいらない人は結構多いですよ。そもそも日本人の四割は一ヶ月の間に一冊も本を読まないらしいですし、一年間一冊も本を読まない人だって少なくないんじゃないでしょうか。でもだからってその全ての人と軋轢が生じるわけではないです。なので……そうですね、それだけで決めつけるのは少し勿体ないと思いますよ」

「勿体ない、ですか?」

「話が合う相手との会話は楽しいですけど、世の中色んな人がいますから合わないことだってあります。それでも世の中は破綻せずに回っている。趣味は合わなくとも仲が良い人だっているはずですよ」

「私もママ友でドラマも映画も見ないし本も読まないって人がいたけど仲は良かったよ」

「はい、なので、親御さんとのことは私が口出しできることではないですけど、友達とかの場合はこれから先それだけで判断するのは勿体ないと思いますよ」

 たまこと朔は、子どもが陥ってしまいがちな極端な結論をアカが出さないないように心配しているのだろう。

 家族のことに不用意に他人が口出しするのは難しいから、そちらを言及したのだろう。

 それが分かっていても、栞はアカの両親との関係が気になってしまった。勝手なシンパシーをいだき、余計な口出しをしそうになる。

「私も職場の人と趣味の話はしたことないですけど、関係性は良好ですよ」

 しかし喉に溜まった言葉を堪えて最低限の配慮だけを口にした。

「そんなもんなんですか?」

「ホノマホの話は皆さんとできるので、私はそれでもういいかなと思ってます」

 踏み込み過ぎず伝えられる精一杯がこれだった。

「……分からないです」

「たった一人でも理解してくれる人がいるならそれで良いって話だと思いますよ」

 説明に悩んで目の泳いだ栞をアシストするように朔が言った。

「自分以外に三人も話せる相手がいるなら、私もそれで十分かなって思います」

「ああ、それはすごく分かる。今までゼロだったのに話せる相手が急に三人も増えてめちゃめちゃ気持ちが充実したもん」

 多分、アカの欲しい答えを栞たちは一人として言葉にしていない。

 はぐらかされたと思われたとしても、家庭の問題になると、距離が近いようでいてとても遠くにいる栞たちが関わっていいラインは越えてしまうのだ。


 ハンディタイプの扇風機が売れる季節になった。

 外はもうどこにいても暑い。

 空からは太陽がじりじりと焼いてくるし、地面からはコンクリートの照り返しで熱気がたちのぼってくる。

 太陽を反射したコンクリートの灰色の眩しさに目を細めながらこめかみから流れてくる汗をぬぐった。

 日傘をさしていても暑すぎて気休めにしかならない。なんとなくスカートの気分じゃなかったのでジーパンにしたのだが、そのせいでより暑かった。

 上がノースリーブの白ブラウスなので見た目は涼やかなのだが、スカートに比べればジーパンは暑い。やはり夏は見た目でも機能面でもワンピースが一番だ。あれが一番涼しい。

 目的地の直前まできてもまだ気が重く、自然と視線が下がるとターコイズ色に染められた自分の足の爪が視界に入った。

 本当は栞は赤色が好きだ。

 だってそれはルビーの色だから、でも、それが栞には似合わないことを自分でよく知っている。

 赤、という色は鮮烈で目立つ。

 輪の中心にいるような子が似合う色だ。自分には似合わない。本当は前に一度試してみたこともある。赤いスカートと赤いペディキュアは、単体ではどちらも可愛くて綺麗だった。けれど似合わなかった。

 似合わなかったのだ。

「久しぶり」

 店に入ると涼やかな空気が肌を撫でた。

 夏の暑い空気は息がし辛い、適温の室内にたどり着くことでやっとまともに呼吸ができたような気がする。

 けれどやっと吸えた空気は、店に足を踏み入れてすぐに投げかけられた挨拶に驚いたせいで、息として吐かれずにまぬけな音に変わった。

「ひ、さし、ぶり」

 日傘をさしていても屋内に入ると強烈な陽光との明るさの変化で最初は目がちかちかする。

 焦点が曖昧な視界に、店員に向けて指をピースにしている男の姿が見えた。向こうもちょうど到着したところだったのだろう。

 別れたのが十二月の頭だったから最後に会ったのは半年以上前だ。

 夏だからか見慣れた姿よりも髪がさっぱりと短くなっている。紺色の半袖シャツは去年も着ていたので見覚えがあった。

 付き合ってからは半年会わずに過ごしたことはなかったので、離れた時間分、もっと変化があるかと思っていたが、そこにいたのは栞のよく見知った男だった。

 ずるずると先延ばしにしてきたが、本日とうとう海と会うことになったのだ。

「驚きすぎだろ」

 ついこぼれてしまったようにふっと笑ったその顔は、何度も見たことのある彼の表情だった。

「待ち合わせとおっしゃっていたお連れ様でいらっしゃいますか?」

「そうです」

「ではお席までご案内いたしますね」

 まさかこんなばったり直面するとは思わず面食らってしまい、席まで案内するために店員が歩き出しても栞は動けなかった。が、先に進んでいた海がそれに気づき栞をちょいちょいっと小さく手招く。

 そんなやり取りもどこか自然で、まだ自分たちは付き合っているのではと錯覚するくらいに彼の態度は普通だった。

「忙しそうだったけど、元気か?」

 注文を終え落ち着いたところで早々に話を切り出された。

 彼がわざわざ会おうとした理由が分かるようでまったく分からないので、当たり障りのない会話すら返答に迷う。

「うん、……海は?」

「まあ前と変わらないかな」

「そう……」

「元気そうで良かったよ」

 声音はとてもやわらかで勝手に別れを告げた栞を批判する様子は表情からも言動からも少しも見えなかった。

「あの、これ、返すね」

 これからどのような話をされるのか分からない。

 話の流れでどちらかが感情的になった結果、渡し忘れてしまう可能性があるかもしれない。名目上は合鍵を返すために会ったのに、それを忘れてしまっては意味がないだろう。

 そう思って、鞄からストラップも何もついていない鍵を取り出し腕を伸ばして海の目の前に置いた。

 彼は短気ではないし、怒鳴ったりする人でもないということを五年の付き合いで知ってはいるが、別れ方も、その後のやり取りも、不誠実だった自覚がある。

 一歩的な行動ばかり取った栞に対して海が怒っていてもおかしくない。

「ああ、ありがとう」

 海はそう言って一度はテーブルの上に置かれた合鍵に視線を向けたが、触ろうとはしなかった。

 ぽつんと置かれたままの鍵が行き場をなくしている。

 当然、栞が渡せば流れで彼も合鍵を返してくれると思っていたのが、海は取り出すそぶりもみせず、内心が読めない表情で黙りこんだ。

「……あの、私の」

 沈黙に耐えきれなくなり自分から促そうとすると、最後まで言い切る前に明るい声に遮られる。

「お待たせいたしました。アイスコーヒーのお客様」

「はい」

 海の前にアイスコーヒーが、栞の前にはアイスティーが置かれた。

 店員が立ち去るとまた気まずさがぞろりと顔を出した。

 海はまた黙りこんでしまい、アイスコーヒーに手をつける気配もない。

 店内には音量がおさえられたクラシックが流れているが、そんなものでは二人の間にあるこの沈黙をどうすることもできなかった。

 居心地の悪さをごまかすように栞はアイスティーに口をつけた。専門店でもければカフェで出てくるアイスティーはどれもだいたい似たような味をしているが、今も予想通りの味が口の中に広がった。

 だがそれもよくて数分しか持たない。

「栞はさ、どうして俺がわざわざ合鍵はこうやって会って返すって言ったと思う?」

 ストローから口をはなすと訪れた再度の沈黙に襲われて吐きそうになっていたところだったので、何かしら海が動きをみせてくれたのは良かったのだが、問われた内容はどうにも答えにくいものだった。

「え、えっと」

 よりを戻そうと言われるとは思っていなかった。

 謝られるとも思っていなかった。

 それよりは不満や恨み言をぶつけられるのではないかと思っていた。しかしそれを当の本人に伝えるのは気が引ける。

「区切りを、つけるため?」

 海からすれば栞の行動は唐突で理解できないものであっただろう。それでも別れるなら別れるできちんと終わらせたいと思った可能性はある。

 迷いながらも出した返答を聞いた海は感情の読めない笑みを浮かべた。

 五年の間、一度も見たことがない顔だった。

「区切り、区切りね。……まあ、間違いでもないかな」

「……ごめん」

 耐えられなくて謝罪がこぼれた。これまで海にしてきた全てに対する罪悪感から出た言葉だった。

「それは何についての謝罪?」

 意図が伝わっているからだろう。頭を下げた栞を見て海は顔をしかめている。

「何って……」

 全てに対する謝罪だ。

 一歩的に別れを告げて追い出して、通話は無視してメッセージだけでやり取りをして、話し合いも拒否して、ろくに説明もしなかった。けれどそれ以前に、付き合っていた間の自分の行動についてだ。

 連絡はいつも海からで、栞から連絡することはなかった。

 出かける時も何も自分からは提案せずについていくだけだった。最近だけでなくずっと栞はそうだった。

 誕生日や季節ごとのイベントも海から言われないと考えもしない。プレゼントも海がくれるから同等の物を返すだけ。

 相手からボールが投げられない限り自分からは何も行動をしない、主体性のない関わり方をしていた。

 たった一度、興味なさそうな反応を返されただけで自分の話をするのをやめた。

 理解してもらいたいのなら、理解してもらう努力をすれば良かったのにしなかった。

 彼が話す仕事の愚痴だってまともに聞いていなかったのかもしれない。うんうん相槌を打って、それだけ。

 けれど一番謝罪すべきが何かというならば、ずっと彼のことを好きではないままに付き合い続けたことだろう。

 ひどすぎて、口には出せないけれど。

「俺は、栞が俺のことをそんなに好きじゃないって知ってたよ」

 言葉を探している内に俯いていた顔をばっと持ち上げる。栞を見つめる海の目に怒りの感情は存在していなかった。

 凪いだ色だけがそこにはのっていた。

「じゃあ、なんで」

「俺は栞のことを好きだったから」

 罪悪感で胸が潰れそうになった。あまりにも、今更すぎるけれど。

「だいたい、最初からそうだっただろ。栞は別に俺のことを好きだったから付き合い始めたわけじゃない。もしも俺より先に別の誰かが栞にアプローチかけてたらそいつと付き合ったんじゃないか? それくらい分かってたよ。結構一緒にいたし嫌われてたとまでは思ってない。というか思いたくないけどて……単なる顔見知りのことだって別に嫌いではないよな」

 責めるような言い方をされているわけではない。けれど事実がただ羅列されたその言葉は、栞の胸を強く抉っていった。

「今更、本当はどう思ってたのか聞いたりはしないから安心しろって」

 やっすい歌の歌詞みたいだなと海は笑った。

 栞はもう顔に力を入れていないとどうしようもなくて、こわばった表情が戻らない。

「最後に文句を言ってやろうとか思って会おうって言ったわけじゃないのに、駄目だな」

 重いため息をついた海は、座っていた椅子の背もたれに深くよりかかった。

「ごめん、ごめん、ごめんなさい」

 少し疲れたような顔をして椅子に身体を預ける姿を見たら、また口から謝罪がこぼれた。

 最初の自然すぎる態度は、栞が委縮しないようにわざとそう振舞っていたのだ。

「謝ってほしいから会いたかったわけでもないって」

 力なく苦笑する顔のどこにも、やっぱり怒りは見当たらなくて、栞はそれが逆に苦しい。いっそ罵られた方がましだった。

 ――この人は、ずっと栞に優しかった。

 今更ながらそれに気づく。五年も一緒にいたのに喧嘩をしたこともない。喧嘩もできないような関係性に栞がしてしまっていた。けれど海はそれを責めない。そんな風に当時は見逃していたことが、山ほどある。

 例えば、栞が自分の意見を口にしないのを分かっていながらも海は毎回「栞は?」と聞いてくれていた。

 栞はどうしたい? と意思を尊重してくれていた。面倒がって諦めてもいいはずなのに、いつも聞いてくれた。

 例えば、家族の話を聞かないでいてくれた。当たり前の会話を当たり前に返せなかった栞を彼はただ受け入れてくれていた。

 日常の中での些細な気遣いだっていつもくれていたのに、当たり前にそれを受け取ってしまっていた。

 貰ってばかり、与えられてばかりだった。

 海も別れを切り出しそびれてずるずる付き合いを続けていたのではないかなんて、最低の考えだった。彼の気持ちをちっとも見れていなかった。

 この人は、ずっと栞のことを好きでいてくれた。

 それなのにどうしてだろう、と思う。

 どうして自分はこの人に、恋ができなかったのだろう。

 この人を愛せたのならきっと栞は幸せになれた。どうして――けれどこの気持ちが一番海に対して失礼な考えだ。

「最後に、顔が見ておきたかっただけなんだ」

 そう言った海は、栞が知っている中でも一等優しい顔をしていた。

「決めてたんだ」

「……何を?」

「別れようって栞に言われたら潔く応じるってずっと前から決めてた」

 叫び出したいくらいの気持ちを喉でぐっと留めた。これまで以上に顔に力を入れる。「どうして」その言葉が頭の中を埋め尽くした。

 どうして、栞は海を愛せなかったのだろう。

 どうして、海は栞を好きになってくれたのだろう。

 あらゆるどうしてが頭の中で浮かんでは消えていった。

「みっともないって分かっていても、俺からは別れを切り出せなかったから、それだけは絶対守ろうと思ってた」

「みっともなくなんてない」

 唸るような声が出た。顔に力が入っていたせいだろう。海は、栞のその様子に驚いたのかほんの少し目を見開いていた。

「……まあ、実際は急すぎて潔くなんてできなかったけどな」

「それは……ごめん」

 最終的には『分かった』と引いた海だったけれど、その前は何度も話し合おうと連絡をくれていた。

「あと、それだけじゃ、なくて、色々、海の優しさをないがしろにしてごめんなさ、」

「栞に優しくできたのは、多分、栞が俺のことをそんなに好きじゃないって分かってたからだから謝られすぎると俺も困る」

 想像していなかった返事に驚いたが、言われれば変に納得してしまった。

 きっとお互いの感情が釣り合っていたのなら、もっと違った関係性になっていただろう。

 二人の間にはいつだって不思議な遠慮が横たわっていた。

「あの日どうしてあそこまで栞が怒ったのか、正直今でも俺には理由が分かってない。趣味に口出したのは悪かったなって思うけど、激昂するまでのことかよって釈然としなかった。でもそれが分からないから駄目だったんだろうなとは思ってる」

 ――子どもが読む本でしょ、それ。

 海から投げかけられた言葉はまだ明確に栞の中に残っている。

「馬鹿にされたって、思ったの」

 それと同時に栞の頭の中では昔あの人に言われた「そんなもの読んで何になるの」という言葉が鳴っていた。だから余計に苛烈な拒絶反応が出たのだろう。

「いや、そんなこと思って…………思ってないって、言いたい、けど、実際は……どこかでそんな気持ちも、あったのかもな。馬鹿にしてるってほどじゃないけど、ああいうラノベってやつを俺は読まないし、ああいうのは子どもと、一部の好きな人の読むやつだって考えて……た、だけじゃなくて、少しの八つ当たりでもあったんだ、多分」

「……え?」

「そこが好きなところでもあったけど、栞って怒らないだろ? だから、怒らせたかったのかもしれない。いたずらして振り向いてもらおうとする子どもみたいな真似で情けないよな。感情が釣り合っていないことに苛立ってた部分がやっぱりどこかであって、いっそ嫌われたいとか、魔が差して、それで、それで本当にこうなって、後悔して、馬鹿だなって自分でも思うよ」

 怒るとか、嫌うとか、それはとてもエネルギーのいることだ。その瞬間、人はとても強く相手に自分をぶつける。

「……………………ごめん」

 他になんて言えばいいのかもう分からなかった。

「だから謝ってほしいわけじゃないんだって」

「ごめ、……うん」

「栞だけが悪いわけじゃない、いっそ嫌われたいとか考えたくせに、俺だって日和って結局何もしなかった。びびってないで聞けば良かったんだ。ちゃんと話せば良かった。結果どうなるとしても自分の思ってることくらい伝えるべきだったんだ」

 最近は特に当たり障りのない会話ばかりしていた。お互いにお互いの内心を話すことも聞くこともせずにいた。

「私もずっと、海に甘えてた、だから……」

 海といるのは、楽だった。

 聞かれたくないことを聞いてこないというのは、言いたくないことがある人間にとってはとてもありがたいことだった。

 それに自分を好いてくれる誰かという存在は栞にとって蜃気楼のようなものだったから、いつまでも消えて無くならずに海が隣にいてくれたことは、ずっと怖く、ずっと不思議で。

 そして、ずっと。

「――ありがとう」

 深く、頭を下げた。こんなことくらいで貰った気持ちを返せるとは思っていないけれど、精一杯の感謝をそこに込めた。

「海が、一緒にいてくれたから、救われてた部分が、あったと思う」

「…………そう」

 静かにそれだけこぼした海は、テーブルの上に置かれたままになっていた合鍵に手を伸ばした。


 帰る前にどちらが支払いをするか一悶着あったが、押しの弱い栞は結局負けて最後の支払いは海が済ませた。

 からんからんという鈴の音を鳴らして扉が開くと、むわっとした外の熱気が二人を包む。

「あっついな」

 暑さにへきえきしたようにぼやきながら、外に出た瞬間にもう流れてきた汗を海は手でぬぐった。

「ありがとう」

「ああ、いいってあれくらい」

 お昼時は避けたためもう夕方と言っていい時刻なのに、日の長い今はこの時間になってもまだ太陽は沈まず空で存在を主張している。

 夏の日差しは本当に強く眩しい。直視すれば目が焼かれてしまいそうだ。

 初めて会った時の姿を思い出そうとすると、今よりも少しだけ幼さのある海が脳裏に浮かんだ。

 二十歳と二十五歳なんてそうそう変わらないと思っていたけれど、十代の五年間がとても長いように、二十代の五年間だって軽いものではない。

「ありがとう」

「――どういたしまして」

 繰り返された言葉から何かを察したのか、雑踏に目を向けていた海がこちらに向き直って真剣な顔で五文字に込められた全てを受け取った。

「元気でいてくれたら嬉しい」

「うん」

「結婚式があっても呼ばないでね」

「当たり前だろ、栞だって呼ぶなよ」

 一瞬、ためらった。わざわざこんなことを伝えなくてもいいのではないかと思った。でも栞は、残りの時間だけでもこの人には正直でありたかった。どう受け取られようとも伝えるべきだと思った。

「私は、多分、誰のことも好きになれないんだと思う。だから結婚とか、」

「……は?」

 きょとん。と漫画に描いてある効果音がついていそうな驚き方だった。

「え?」

 想像していた反応のどれとも違っていたので、それがどのような意味なのか判断しかねた。

 てっきり、重く受け止められるか、理解できないといった反応を返されるものだと思っていたのだ。

「いや誰のこともって、そんなことはないだろ」

「そんなこと、あるよ」

「そんなことないって……あー、でも俺が言っても意味ないのか」

 海の言い様には迷いがなくて、何かを確信しているようだった。

「どういうこと?」

「さあ? でもその内気づくんじゃない?」

 悪だくみでもしているような笑いから、嫌な感じはしなかった。

「やさしくないね」

「もう彼女じゃないからな」

 そう言ってひらりと手を振った海は、そのまま栞の前から去っていった。

 さよならという言葉は不思議とどちらの口からも一度も出なかった。

 駅のホームで電車を待っている間、数分の時間を潰すためだけにスマートフォンで興味のないニュースを眺めていると、誰かからメッセージが届いたことを知らせる音がてぃろんと鳴った。

 表示されたポップアップに目を向けると、送り主はつい先程別れたばかりの海からだった。

 海からもちゃんと合鍵は返してもらっていた。だがそれ以外に何か忘れていたこと、言い残したことでもあったのだろうか。もし引き返さなければいけないとしたら、電車に乗る前に確認した方がいいだろう。

 そう思い、後回しにせずにメッセージの詳細を開いた。


『昔、海は間違ってないよって言ってくれてありがとう』


 彼から届いた最後の言葉に返信はせず、栞はホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。

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