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「幕井さん、休憩いって大丈夫だよ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 昼休憩を終えて戻って来た荒垣店長からの一言で、栞はレジの合間に作業していた雑用の細々したものをさっと端に片付けた。

「やっておくことはある?」

「急ぎのものはないので、大丈夫ですよ」

 ひとまわり年上の荒垣は気遣いの細やかな女性だ。もう五年ほどの付き合いになるが、出会った時から今に至るまで栞は彼女に対して不満を持ったことがない。良い人、の見本のような人だ。

 大学四年生の頃、就活が上手くいっていなかった当時アルバイトだった栞に、荒垣は社員にならないかと声をかけてくれた。

 正社員ではなく契約社員になるかもしれないが、それでもいいならこのままここで働くのはどうだろうかと提案してくれたのだ。

 何通も何通も届く不採用通知に精神をべこべこにへこまされていた栞は、一も二もなくその提案に飛びついた。

 その時点ですでに大学四年の夏休みだったため崖っぷちだったのだ。迷う余地なんてなかった。どんな形でも良かった。就活から解放されるのなら。

 自分が接客業に向いている性格だと思っていたわけではないけれど、大学二年生から四年生になるまでの二年間は続けてこられたので、目もあてられないほど不向きというわけでもない。

 これから先、自分がこの仕事をずっと続けていくのかどうかなんて想像もつかなかったけれど、どうなるのか分からない未来よりも、胃の痛い日々から解放される方が大事だった。

 消極的選択だったとしても、契約社員として今のインテリア雑貨店に勤めてから三年。どうにか栞は無事に社会人をやれている。それを考えれば自分の選択は間違いではなかったのだろうと思える。

 共有の休憩スペースに来ると、お昼の時間を少し過ぎていたため空席が多かった。

 今より休憩のタイミングが一時間早いと中々席が見つからなかったりするので、今日くらいのタイミングで休憩に行ける日はありがたい。

 栞が働いている店舗は駅ビル内に店を構えているので、基本的に昼休憩などは共有スペースを使う。

 店にも事務所兼バックヤード兼休憩室があるにはあるのだが、在庫であったり、事務作業用のあれこれでごちゃごちゃしているので食事休憩には向かない空間だ。

 ちょうど空いていた端の席に座り昨日の夕飯と冷凍食品を詰めたお弁当を開けた。

 店内は冷房がきいているのでロッカーの中で腐ったりはしないとは思うが、六月になり雨の日も多くじめじめして湿度も気温も高くなってきている。そろそろお弁当ではなくコンビニご飯に移行した方がいいかもしれない。

 無感情にお弁当の中身を口の中に詰め込みながら、スマートフォンに触る.。画面ロックを解除すると、通知が何件かきていた。

 アプリを開くとたまこから予定を確認する連絡が届いていた。学校の昼休みはもう終わっている時間だからか、朔とアカはすでに返信をしている。

 たまこたちとはこの前の集まりの最後にSNS以外の連絡先を教え合った。グループをつくって、ネットには書き込めない個人的な話はそこで交わしている。

 今後も集まるにあたって、栞たちは前よりもそれぞれの日常について知っていることがぐっと増えた。

 住所でいえば、たまこが一番遠くに住んでいて、朔は住んでいるのは近所ではないが通っている大学が比較的近い距離にある。そしてアカは栞と同じ駅を使っていた。栞の出勤先の駅とアカの最寄り駅が同じだったのだ。

 できすぎた偶然にお互い目を丸くしたが、現実なんて意外と思いもよらない偶然が重なってできているものなのかもしれない。

 もしくは、だからこそ縁とは繋がるものなのかもしれない。

 栞とアカの日常が重なっていたことは、アカが親を説得するのに多少は有利に働いた。

 今後も集まりに参加するのであれば、後々のリスクを避けるために、アカには事情を正直に親に話しておいてもらわないといけない。けれど、必要性を理解してもアカは首を縦にはふらなかった。

 絶対に許してもらえない、うちの親はそういったことに理解を示す人ではないと言って。

 大人の無理解と子どもが感じてしまうものは、実際はただ個人の考えにすぎないのだが、子どもにとっての親は世界そのものだ。

 子どもの目から見える大人という存在は自分の親をベースにつくられていく。

 親が信頼できる相手であれば子どもは他の大人も信用できるし、親が信じられない相手であるならば大人の全てが信じられる相手にはなり得ない。

 アカは栞たちに心を開いている様子ではあったが、それは彼女にとっての栞たちが大人というよりも趣味を共有できる友人という面の方が強かったからだろう。

 アカの親に対する頑なさは栞にも覚えのあるものだった。それは昨日今日うまれたものではなく、親と子として生きてきた時間分、与えられてきた言葉がつくらせた頑なさだ。

 そんなアカの気持ちを栞は簡単に切って捨てたくはなかった。大人の理論で、安易な正しさで、諭したくなかった。

 だから、それが大人の行動としては正しくないのだとしてもいいと思った。

「私と、アカさん、最初から知り合いだったことにしませんか?」

 自分から話を切り出すのも提案をするのも栞は苦手だ。けれど、こればかりは見過ごすことができなかった。

 しかし無謀な発言をたしなめるようにぴしゃりと言葉が飛んできた。

「どうやって?」

 頭を冷やすためにわざと淡々と投げかけられた言葉だった。たまこに目を向けると静かな瞳でじっとこちらを見つめている。

「嘘はいつかバレるよ。嘘をついたらついた分、信用はしてもらえなくなる。最初はいいかもしれないけどバレた時にはアカさんとはもう会えなくなるだろうね。私だったら子どもに嘘をつかせる大人と自分の子どもを会わせようとは思わない。それとも、塩さんはバレない嘘をつけるの?」

「それは……、でも、でもだってこのまま」

 まるで自分が子どもに戻ったようだった。理屈に納得ができず、言い返したいのに、反論の言葉が自分の中にない。

「たまこさん、あの、そこまで言わなくてもいいんじゃないですか。塩さんだって嘘をつかせたくてつかせようとしてるわけではないんですし」

「――ごめんなさい、少し言い過ぎたね」

「いえ、私も……」

 私も、なんだろう。続く言葉は思いつかなかった。

「あの、」

 恐る恐るアカが口を開く。笑いを浮かべようとしたのだろう表情はひきつっていた。

「えっと、我儘を言って、ごめんなさい。……塩さん、ありがとうございます。でも、もういいです。たまこさんの言う通り、嘘がバレたらスマホ没収とか、よくてもネットに制限かけられちゃうかもしれません。そうなったら色々困るし、そうなったら会うどころか、ネットで話すこともできなくなっちゃう。だから、だからもういいです」

「本当にそう思って言っていますか?」

 正しさよりも、栞は彼女の気持ちを大事にしたかった。正解だけを選ばなくてはいけなくなるのは、大人になってからでいい。

「……いや、でも、だって、だってうちの親、どう言ったって許してくれるわけないし、そりゃできるなら、私だって次も参加したいですけど、」

「親御さんが、認めてくれそうな理由さえあればどうにかなりますかね?」

 腕を組んで思案していた朔がこぼした。

「アカさん、高校とか大学とかの進路ってどれくらい決まってます?」

「え? ええっと、高校まではエスカレーターなので多分そのまま進学すると思いますけど、大学は、詳しくは決まってないですけど、まあ、多分どこかには行くと思います」

 返答を聞いた朔は良い笑顔をつくった。目論見が当たって満足しているような、狐のような食えない笑顔だ。

「私の通っている大学、自分で言うのはあれなんですけど、そこそこ偏差値高いんですよね。それって、説得する材料として有利に働くと思いませんか? なんとなくですけど、アカさんの親御さんって学歴とか気にされるタイプでは?」

「その通りです。めちゃめちゃ気にします、そういう親です」

 朔は先程よりも狐の笑みを深めた。

「いい大学に通っているってだけで大人の心象って良くなるんですよねえ。まあ、そんなわけで進路の相談とか勉強の相談をしている内に仲良くなったとか、聞こえのいい理由はいくらでも使えます。問題は接点くらいですね」

 そこが一番の問題ですけど。と朔は苦笑した。

 中学生と大人の接点なんて中々作りようがない。その子の親と関わりがないのなら、学校の先生とか家庭教師とか習いごとの先生でなければ、普通に暮らしている社会人と中学生が個人的な会話を交わすことはないだろう。

「私、駅ビルの店舗で働いてるんですけど、それって接点になりますか?」

 頭を振り絞って出た答えがこれだった。

「塩さんの働いてるお店にアカさんがお客さんとして来たってことですか? でも、そこから友達、というか個人的な知り合いになれるものなんですか?」

「相談にのった、とか。ちょっと悩んでるけど背中を押して欲しくて店員に相談されるお客様だったら普段からいらっしゃるので、アカさんともそうやって話してる内に、ええっと、気が? あって、そこから、えっと、」

「ちなみに、塩さんの働いてるお店って中学生のお客さんも結構来るようなとこなんですか?」

「インテリア雑貨の店ですけど、入浴剤とかハンドクリームとか手に取りやすい商品も置いてるので、中学生が友達の誕生日プレゼントを購入しに来てもおかしくはないです」

 価格帯的に二十代以上の女性がメインの客層ではあるけれど、まったく学生が来店しないというわけでもない。

「なるほど。なら私と塩さんが元々知り合いで、進路に悩むアカさんの相談相手に私を紹介したってことにすればどうにかまだありそうな説明になりますかね。それからたまたま趣味の話が合って、仲良くなったとか……どうですかアカさん?」

「不自然でさえなければ、そこまで詳しく聞いてこないのでいけると思います。干渉してくるわりに、私の親、私自身のことには興味ないので」

 さらりと告げられたそれは、栞にも覚えのある感覚だった。

「自分の子どもとしての私には興味あるのに、私には興味ないんですよ。面白いですよね」

「……ですね」

 相槌しか返せなかった。もっと上手に言葉を使えたらいいのに、どれだけ小説を読んでいたってこんな時に彼女に渡せる言葉すら思いつかない。

 朔やたまこの様子を伺ってみると、二人とも複雑そうな表情を隠せていなかった。

「分かった。なら、私は保護者、というか責任者のような立場として呼ばれたってことにしようか」

 ずっと黙って話を聞いていたたまこが、大きなため息とともに言う。

「それでもなるべく嘘は少ない方がいいから、いらない嘘はつかないようにしましょう」

 そうして、栞と朔とたまこが元々知り合いだったところにアカが加わった。ということになった集まりは、無事アカの親から許可を得ることができた。

 朔の大学の名前を出したら反対するどころか喜ばれたそうだ。

 最寄駅の駅ビルで栞が働いているのも、違和感なく受け入れられる要因になってくれた。アカの母親も栞の働いている雑貨店に何度か買い物に来店していたらしい。

 へえ、そうなの。と驚いているのか納得したのかただの相槌なのか分からない反応だったそうだが、不審に思っている様子はなかったようだ。

 話に綻びができないように細々とした部分を詰めていた際、栞とアカが同じ駅名を口にした時は必然性のような何かを感じた。

 きっと大丈夫だと確信めいたものを感じた。それと同時にこれは簡単に手放していい出会いではないのだと、思った。

 大切にしようと思った。今度こそ。


 たまこたちとのグループトークを確認し予定について返信し終えても未読のメッセージがまだあったが、それには触れずにスマートフォンから手を放す。

 昼休憩は一時間あるが、共有スペースから店までの移動時間を考えるとそこまでゆっくりしていられるものでもない。

 広い駅ビルというのは働く側にまわってみると、面積の広さに伴う移動時間もだが、細かくルールも決まっていたりして色々と面倒なことも多い。

 休憩から戻ると、レジにアルバイトの木村がいるだけで店内にお客の姿はなかった。

 平日の十五時は、学校や仕事帰りの人が立ち寄るにはまだ早いので客足が少ない。

「戻りました」

「お帰りなさい」

 荷物をロッカーに仕舞うために事務所の扉を開けると、在庫に囲まれた中、小さな机の上で荒垣が事務作業をしている。

 パソコンを見つめながら考え事をしているようで指でとたとたと机をリズミカルに叩いていた。

「木村さん帰るまでに次のフェア商品の確認しておいてもらえる?」

「了解です」

 木村は、開店時間の十一時から十六時までのシフトで働いている。栞が契約社員になった頃にアルバイトとして勤務し始め、三十歳ですでに小学五年生の子どもを立派に育てている母親だ。

 明るくパワフルな人で、はっきりした人柄に気後れする時もあるのだが、彼女の快活さは接していて気持ちが良い。

「幕井さん、前より明るくなったよね」

 本部から支給されているタブレットを手に取り、フェア商品の詳細を確認していると、脈絡なく荒垣が口を開いた。

「そう、ですか?」

「ちょっと前くらいからかな? はっきり何がどうとかは説明できないんだけど、雰囲気が明るくなったよ。木村さんもそう言ってた、幕井さん何か良いことでもあったんですかねって」

「良いこと」

 最近であれば、原因は一つしかない。

「思い当たることあるんだ? ふうん、そっか。そっか、そっか」

 栞の顔色から察したのか、喜びを押さえられないといった様子で、荒垣は口の端を持ち上げている。

「どうしたんですか店長」

「嬉しくて」

 柔らかく微笑む荒垣の目はとても優しい色をしていて、直視できなかった。

「身近な人に良いことがあると嬉しくならない?」

「……そうですね」

 つい素っ気ない言い方になった。

 もっと上手な返し方ができたらいいのに相変わらず会話が下手だ。まだ笑顔を浮かべられただけ良かっただろうか。

 なんの引け目もなく、鬱屈した思いも抱かずに、素直に頷くことができる人間なら良かったのにと心から思う。

 どうしても羨ましいと思ってしまう。栞も、こんな風に人を愛せる人間になりたかった。

 人に心を開ける人間になりたかった。

 素直に言葉を受け取れる人間に、人の喜びを自分のことのように手放しに喜べる人間になりたかった。

 なのにそうなれないから、目をそらしてしまう。

 荒垣と初めて会った時、アルバイトの面接で彼女と出会った時からそうだ。

 面接のはずなのに事務的な話は最初だけで、途中から脱線してあれこれ自分の話をさせられたのだが、荒垣は栞の話に一喜一憂していた。

 初対面の相手の話をどうしてそこまで真剣に聞くのだろうと不思議だったし、変わった人だなと思った。

 働き始めてからも、彼女は従業員の話をよく聞き、一緒に喜び一緒に悲しむ人だった。けれど自分の負の感情は表に出さない人だった。

 最初は少し嘘臭いなと思っていた。人が良すぎて、苦手だった。

 だって、栞は人はもっと利己的な生き物だと思って生きてきたのだ。

 人が人に優しくできるのは自身に余裕があるからできることだと思っていた。

 人が人に抱く興味というものは実際のところとても軽いものだと思っていた。

 ニュースを見て浮かぶ共感も、会話をしていてうまれる共感も、インスタントな共感だと思っていた。だって所詮他人事だ。

 人が人に持つ興味というものは、とても消費的なものでそれのほとんどは好奇心でつくられたものだと思っていた。

 人の噂話で盛り上がるような、情報番組で瞬間的に火がつくような刹那的なものだ。だから本質的には、人は人に興味がないものだと思っていた。

 その人が持つ装飾品――容姿、家庭環境、学歴、才能、自分にとって都合が良い存在かどうか、そういったものにしか興味を持たないのだと思っていた。

 現実には、物語に出てくるような人間はいないと思っていた。

 だからこの人は純粋に良い人なのだと気づいてしまった時の形容しがたい感情を、栞はまだ引きずったままでいる。

「この分なら、大丈夫そうで良かったよ」

 頬っぺたが落ちそうな笑顔を荒垣はひっこめた。

「何がですか?」

 安堵した内心を吐露するような言い方が妙にひっかかった。彼女はあまりそういった面を見せる人ではない。

「私、今年いっぱいで退職するから」

 言葉が、頭の中で意味を成してくれなくて理解するまでに時間がかかった。

「………………え?」

「退職するの、人事にはもう話してある。まだ、半年あるから店の皆には黙ってたけどね」

「な、んで、ですか」

「大学受験するから」

 結婚するからとか、転職するからとか、地元に帰るからとか。

 当たり前に思いつく言葉が荒垣の口から出てくるのを身構えていたから、想像もしなかった単語が飛び出てきて、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。

「だいがく」

「うん、今から取り返そうと思って」

 荒垣はとても晴々とした顔をしていた。

「ふっとね、思ったの。まだ後悔があるなら今からでもやればいいって」

 ひとまわり年上の荒垣は今年三十七歳になるはずだ。これまでは断っていたそうだが、このまま働いていればおそらく近い内に店舗スタッフから昇進して営業本部に移るはずだった。

 彼女との別れが来るのであればきっとその時だと栞は思っていたのだ。

 高卒で荒垣はこの会社に入社したのだと前に聞いたことがある。ならば、十九年間働いていた仕事を辞めるということだ。

 アルバイトの頃も含めれば栞も働き始めて五年目になるが、十九年同じ仕事を続けるというのは想像もできない。そこまで続けた仕事を辞めるというのなら尚更だ。

 心境も何もかもそれがどのようなものなのか思い描けない。

「いつ言おうかタイミングに迷っちゃって、すぐに伝えられなくてごめんね。退職するにあたって幕井さんには色々と引き継ぎとかお願いすることも多いのに」

「いえ、それくらいはいくらでも。あの、応援、してます」

「ありがとう。私も、応援してる。私がいなくなった後もこの店をよろしくね」

「…………はい」

 へらりと、どうにか浮かべた愛想笑いは多分とても頼りないものになっていただろう。


 雑踏から聞こえてくる会話の全てが、呪文にしか聞こえない。

 にぎやかな駅構内ならまだしも、会話が少ない帰宅ラッシュ中の電車内でもそうだった。人の言葉が言葉の形になって耳に入ってこない。

 今日はシフトが早番だったため、帰り道に人の姿が多い。

 普段はそこまで気にしないのだが、密集した空間に多くの人がいると、人間ひとりひとりの存在の強さを感じてしまう。人間ひとりが持つ情報量の多さに圧倒される。

 そんな中で、栞の頭はたった一つのことしか考えられなかった。

 荒垣の「退職するの」と言った声が頭から離れない。

 会話が早々に打ち切られた後は通常業務に戻ったが、自分がまともに働けていたのかあやふやだ。もしも今日の閉め作業でレジの金額が合っていなかったら栞のせいだろう。

 上司が変わるなんて普通のことだ。人事異動だって当然その内あるはずだった。それが今回は異動ではなく荒垣の退職という形になっただけだ。

 なのにどうしてこんなにも、これまで積み上げてきたもの全てが崩れ去っていくような心持ちになっているのだろう。

 自分が変化が苦手な性格だということは分かっている。だがしかし今のこの気持ちは、いつもの漠然と忌避する気持ちとはまた違った種類の感情だ。

 冗談でしょう、と。己を詰りたい。

 数年付き合った海にすら執着できなかったくせに、結局いつまでたっても与えられなかったものを求め続けていただなんて馬鹿みたいだ。

 自分が荒垣に何を求めていたのか、何を重ね合わせていたのか、知りたくない。

 気づかなければ、なかったことにできるだろうか。

 朝は降っていなかった雨が、しとしとと地面を濡らしている。

 今週の天気予報は毎日傘マークがついていたので、ちゃんと折りたたみ傘が鞄に仕舞われていた。そう、あらかじめ分かっていれば対策できるのだ。

 帰りの雨を予想して履いてきたレインシューズでばしゃりと水たまりを踏む。

 ぱっと見普通のスニーカーと変わらないこの靴は、ここ数年重宝していた。

 梅雨の時期はどちらにしろ出勤したら靴を履きかえるが、ぐっしょりと濡れた靴下を脱ぐ手間を減らすことができるので必需品だ。

 ばしゃりと水たまりを踏む。

 二回目は一回目よりも足に力が入っていたので、跳ねた水がズボンの裾を濡らした。

 家までの帰り道、栞は水たまりを踏み続けた。

 折りたたみ傘からはみ出していて濡れてしまった鞄を帰宅してすぐに拭いた。

 歩いた道のりに足跡が残っていないのを見て、フローリングを踏む靴下が濡れていないというのは、やはり雨の日のストレスを半分くらい減らしてくれていると思った。

 ラップで小分けにした冷凍ご飯を解凍して、昨日作った回鍋肉と、納豆、フリーズドライの野菜スープを適当につけたテレビ番組を流しながら食べる。

 食べ物を嚥下していると、身体に体温が戻っていった。

 感情が肉体をつくっているのか、肉体が感情をつくっているのかは知らないが、少なくとも温かな食事は気分をいくらかましにしてくれるようだ。

 事態は何も解決していないけれど、少しましになったメンタルで当たり前の日常生活をこなす。

 食べ終えた食器を片付けて、お茶を入れて、明日の洋服を決めて、お風呂に入って、髪を洗って、ドライヤーで乾かして、スキンケアをして、そうしながら流すだけ流していたテレビをだらだら眺めたり、SNSをチェックしたりして、面倒くさくも思うが日々繰り返すしかない作業をこなしていく。

 個人の感情、よりも日常の方が強い。

 何も食べたくないような気持であったとしてもお腹は空くし、二日酔いになったとしても次の日のシフトは消えてなくなったりしない。

 大人になった栞はそれをよくよく理解している。だからご飯を食べる、明日の用意をする。スマートフォンに表示される未読メッセージを無視だってする。

 未読の数字だけが増え続けるメッセージの送り主は二人いる。

 一人は海だ。

 お互いに持っている合鍵を返さなくてはいけないのだが、ポストにでもいれておけばいいと言う栞に対して、彼は防犯的に問題もあるし手渡しするの一点張りで意見が平行線になった。

 自分の荷物を相手の部屋に置いたりしない二人だったので、あの日を最後にして一度も会わずにメッセージのやり取りのみで栞と海は別れた。それなのに今更になって合鍵の存在を思い出した彼から連絡があったのだ。

 最初に連絡があったのは三週間前だった。

 別れる時には『分かった』とあっさり引いた海が何故か今回は簡単に済まさないので、長々と堂々巡りのやり取りを繰り返している。

 いい加減返答しようがなくなり、栞は『会えそうな時があれば連絡します』とだけ送って、今は絶賛放置している状態だ。

 週に一度、海から『この日なら会えるから予定が合うなら返信して』と連絡があることからもいつまでも避けていられないのは分かっているが、中々勢いがつけられずに見て見ぬふりをしてしまっている。

 だがまあ、海からの連絡はちゃんと必要なもので、億劫な気持ちから放置しているせいで未読の数字がぽつぽつ増えているだけだからまだいい。

 問題はもう一人の方だ。

 無視しているのが分かっているのかいないのか、毎日未読の数字が増え続けている。

 嫌々ながらも一度は折り返し連絡もいれたが、せっかく気持ちを押し込めて電話をかけたというのに留守電に繋がった。

 栞の気力はその一回で完全に使いきってしまって、再度電話をかけようとは思えない。

 どうせ見たくもない言葉が並んでいるのだろうと簡単に想像できてしまうので、送られてくるメッセージを開く気にもなれない。

 ぼうっと画面を眺めていると、それまで表示されていた画面がぱっと変わりデフォルトの着信音が鳴り響いた。

 急な音に驚き、反射で肩がびくりと震える。

 誰が電話をかけてきたかは見なくとも分かった。

 到底出る気にはなれなくて、虚しく鳴り続けるスマートフォンから手を放す。

 栞の電話番号を知っている相手は限られている。

 今時、メッセージアプリで事足りるため仕事関係ならともかく友人知人と電話番号の交換なんてしない。

 着信履歴を確認しても、職場からの電話かこのもう一人の名前しか見つけられないだろう。

 留守電に切り換わるまで粘ったようで、着信音は三十秒ほど鳴り続けた。

 かけ直してきた電話にうっかり出てしまわないように、用心して数分待ってからスマートフォンを手に取る。

 履歴には想像した通りの人の名前があり、留守電が一件残されていた。

 負の感情を息に変えて身体から吐き出し、留守電を聞くためにスマートフォンを耳にあてる。

 直に声を聞くのも嫌だったので耳とスマートフォンの間には少し距離を開けた。

 スピーカーに変えてもよかったのだが、部屋の中にあの人の声が残ってしまいそうな気がしたので止めた。

 留守電が再生されると女性の電子音声が数分前の日時を告げた。

 待ち時間というものはそれがたった数秒だとしても、待ち受けているのが嫌なものであればあるほどとても長く感じる。

『もしもし、栞?』

 スピーカーから早口でまくしたてる女性の声が流れてきた。

 第一声からすでに声に苛立ちが滲み出ている。短気なこの人が三十秒も電話を鳴らし続けたのだ。待った時間分イライラも募ったのだろう。

『あんたねえ、私のこと馬鹿にしてるの?』

 尖った声音に、いつも通りだな、と思った。

『忙しい忙しいって大した仕事してるわけでもないのにいい加減にしてくれる?』

 自分だって仕事はパートでスーパーのレジ打ちをしているのに、同じ接客業でも栞の仕事は彼女の中だと大した仕事ではなくなるらしい。

『今年の夏こそ帰って来るんでしょうね? 正月もお盆もちっとも帰ってきやしないんだから、本当に勝手な子。今年は帰って来なさいよ、いいわね』

 よく秒数内に間に合ったなと思うくらいには短い時間の中であの人らしさが詰まっていた。始めは疑問形だったのに最終的には命令になっている。

 大学進学を機に家を出てからは、大学生になった最初の夏と、大学卒業の年の正月と、あとは二年生か三年生の正月にもう一回帰ったくらいで、就職してから栞は一度も実家に帰っていない。

 帰ったところで、壁打ちの壁になるだけなのだ。自分から積極的に帰ろうと思うわけがない。

 だってこの人は、たまには顔を見ないと心配だからとか、せめて年に一回くらいは会いたいからとか、そういう思いで栞に帰って来いと言っているのではない。

 一年に一度くらいは娘が実家に帰っている姿を近所に見せておかないと外聞が悪いから帰って来いと言っているのだ。

 勝手なのはどっちだ。

 そう思っても、あの人の頭の中では悪いのはいつも自分以外の誰かにすり替わるため口にしたところで意味がない。

 その対象は例えば栞だったり、亡くなった祖父であったり、同居している祖母であったり、別れた栞の父親だったり、はたまた名前も知らない誰かだったりと様々だ。

 昔はもっとこの人に対して思うところもあった。望んでいたこともあった。けれど大人になった今ではもう何も期待していない。

 ただ、ひとつ、ひとつだけぶつけてやりたい恨み言はあるけれど――。


 両親は、栞が小学校五年生の夏に離婚した。

 小学校にあがる頃にはすでに夫婦喧嘩の声が子守唄になっていたから、今から思えばよく何年も離婚せずに結婚生活を続けたなといっそ感心している。

 離婚の際、あの人は親権を主張して栞を引き取った。

 娘を愛していたからそうしたのではない。離婚を聞きつけた母方の祖父母や親戚に、当然お腹を痛めて産んだあなたが育てるのでしょうと直接的にも遠回しにも言われ仕方なく引き取ったのだ。

 父親とは離婚以来一度も会っていない。噂では再婚したらしいが、どうでもいい。

 あの人がどれだけ拒絶しても法的に許されている以上父親が望めば面会だってできるのに父はそうしなかった。だから、どうでもいい。

 栞の地元は関東の端っこの端っこにある山と田んぼに囲まれたど田舎だった。

 人口の少ない田舎だと、結婚も離婚も出産もすぐ近隣にしれ渡る。

 父もあの人も、同じ町で生まれ同じ町で育ち、同じ町で親になった。だからこの町にいる限り事情を知っている人間の中で生き続けることになる。それを厭った父は仕事も変えどこかに引っ越していった。

 噂にさらされ続ける栞のことなど簡単に捨てて。

 田舎であっても本当なら離婚なんて珍しくはない。結婚した内の三組に一組の夫婦は離婚していると言われている時代だ。栞の同級生にだって片親の家庭はあった。

 ただの離婚であれば人の話題にのぼったとしても一日くらいで通りすぎていくだろう。だが栞の両親は高校の卒業間際にあの人が妊娠していた。

 未成年同士で無責任に子どもをつくったことを上の世代の人たちは覚えていて、離婚したと知るやしたり顔で話をしていた。

 やっぱり離婚した――子どもが子どもを産んだ結果がこれだ――どうせこうなると思っていた――父親はあっさり娘を手放したらしい――幕井さんも面倒をかかえこんで可哀想に――産まれた子どもを見かけたけれど愛想がなくて可愛げがなかった――孫くらいはまともに育つといいのにね――。

 ひそひそと隠れて話されたとしても念のこもった言葉というものはどこかから本人にも届く。そうした噂話を聞いている内にふと栞は気づいた。

 自分は、あの人たちにとって失敗の象徴なのだということに。

 どうして笑ってくれないのだろう、抱きしめてくれないのだろう、好きなものすら否定するのだろう、そう思っていた。

 どうすれば笑ってくれるのだろう、抱きしめてくれるのだろう、会話してくれるのだろう、そう思い悩んでいた。

 全て無意味だった。だって、存在そのものをうとまれていたのだ。

 中学三年生の春。あの人は「あんたさえいなければ」と憎々しげに言い、どれだけ栞のせいで自分の人生が狂ったのかどれだけ栞が足を引っ張り続けているのか栞がお腹にいた頃から今まで感じていたというありとあらゆる恨みつらみを吐き出した。

 どうやらその頃付き合っていた相手に栞の存在を知られたせいで振られたらしい。

 相手は当時あの人が働いていた職場の同僚だったはずだ。

 あの人が離婚したあとに県外からやってきた人だそうで、過去の諸々を知らない相手と接することで栞を妊娠しなければ存在していたかもしれない人生への思いが強くなったのだろう。

 あの人は、どうやら栞さえいなければ幸せな人生をおくれるはずだったらしい。

 だいたいの事情はすでに知っていたけれど、本人の口から聞かされると思いもよらない気持ちになるものだ。そしてその日から、あの人に期待するのは止めた。

 正直なところ、あの人は恩着せがましく誰が育てたと思っているんだと繰り返すけれど、離婚してから栞の生活にかかる費用の大半をまかなっていたのは祖父母だ。

 離婚に伴い、アパートを引き払って祖父母の家に同居することになったが、持ち家なので家賃は発生しないし、水道光熱費は祖父が支払っている。食事だってほとんど祖母が作っていた。

 小学五年生の夏。まだ、三人で暮らしていた頃。その時までは義務は果たしているという意味ではあの人も栞の親だった。感情はともかく衣食住などの生活の面倒はみていた。けれどその生活は決して余裕のあるものではなかった。

 高校生であの人が妊娠した時、一つ年上の父親はすでに高卒で働いてはいたが、三人分の生活を支えられるほどの給料をもらえてはいなかった。

 父方の祖父母も母方の祖父母も、二人が親になることに否定的であり、妊娠が発覚した際の話し合いで関係に亀裂が入っていたため二人は両親に頼ることもできなかった。

 実際は陰でどちらも援助をしていたそうだが生活がどうにか成り立つレベルの話だ。それまで不自由なく暮らしていた人間が急に覚悟もなく日々の生活に頭を悩ませるようになれば、その結果どうなるかなんて分かり切っている。

 貧しさとは毒だ。いずれ心身を脅かす。

 愛だけでは生きていけない。安定した生活が伴っていない愛はゆるやかに崩壊していく。余裕がなくなっていく。相手の些細な行動に苛立つようになる。不幸の理由を探すようになる。目が濁る。世の中を斜めに見るようになる。主観が歪んでいく。

 愛さえあればどうにかなるというのは、盲目な子どもの理想か、恵まれて育って大人になった人間の甘い考えか、嘘だ。

 妊娠してから離婚するまでの生活で、今のあの人はできあがった。

 栞のせいで苦労したという思いであの人はできあがった。

 現在の生活はもうそこには関係がなく、彼女は完成してしまっている。だからどうしようもない。

 二十代という大切な時間を栞のせいでどぶに捨てたという彼女の強い気持ちの前では、これから栞が何をしようが取り戻せない。

 もう栞はあの人に何も求めていない。親らしさも望んでいない。面と向かって嫌味を言われようが、何も思わない。

 怒りもなければ悲しみもない。愛されたいなんて思っていない。

 けれどたったひとつだけ、ひとつだけ心の奥底でくすぶり続けている気持ちがある。それが栞を突き動かし、お前のせいだとなじりたくなる瞬間がある。

 愛してくれなくてもいい、でも、これだけ、せめてこれくらいはと、思う。

 母親だというのなら、せめて――人の愛し方くらい、教えておいてほしかった。

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