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自動ドアが開くと同時に、入店をつげる明るい音が鳴り響いた。
店内に足を進めると、元気な子どもの声、赤ちゃんの泣き声、かしましく会話する女性たちの声、カトラリーと食器がぶつかる硬質な音が栞の耳にどっと飛び込んでくる。
「いらっしゃいませ。申し訳ございませんが、お名前を書いてお待ちください」
片付けた食器をトレイにのせた女性店員が、通りすがりに声をかけていった。栞が返事をする前に店員は下げた食器をキッチンに戻しにいき、すぐに注文を取る際に使うハンディを持ってホールに向かっていく。忙しそうだ。
ちょうどお昼の時間帯になった休日のファミリーレストランはとても混雑していた。
順番待ちをしている人が名前と人数を書いたウェイティングリストには、斜線が引かれた下にもまだ四組名前が並んでいる。
ぼうっと立ちつくしていると、先程注文を取りにホールに向かった女性店員が、再び栞の前を通りすぎようとした。
「あの! すみません、えっと……待ち合わせ、なんですけど、タグチ……で」
この混雑具合では自分から声をかけないといつまでたってもここでただ突っ立っているだけになってしまう。忙しく動き回る店員に声をかけて足を止めさせるのは申し訳ないが仕方ない。
「お待ち合わせですか、失礼いたしました。ご案内いたします」
店内が混み合っているのもそれに伴う店側の忙しさも彼女のせいではないのだが、こちらが恐縮してしまうほど申し訳なさそうにしてから席まで案内してくれる。
「あちらの席でお待ちです」
指をそろえた手で左斜め前にある席を示してから一礼し、店員は足早に仕事に戻っていった。
案内された席は四人がけのテーブル席だった。すでに二人の女性が、向かい合わせに座って和やかに会話を交わしている。
一人は少しふくよかな体格をしている四十代くらいのほがらかな雰囲気の女性。もう一人は生真面目そうな空気感をまとう二十代であろう女性だ。
「タグチさん……えっと『たまこ』さん? ……ですか?」
栞はまず四十代に見える女性の方に話しかけた。
今回の集まりにあたって予定を決める際に自分が一番年上のはずだと自己申告していたから、当たりをつけて声をかけてみたのだ。
肩につくくらいの茶髪を揺らしながら立ち上がった女性は、ぱっと花開くような笑顔を浮かべた。
「そうですそうです、はじめまして、たまこです。……えっと」
「あ、あの私『塩』です」
「ああ! 塩さん! こんにちは」
周囲まで明るくなりそうな挨拶をしてから、たまこは向かいの席を手で指した。
「はじめまして塩さん、『朔』です」
たまこが促した席の奥に座っていたのは、おしゃれな丸眼鏡をかけて黒髪をハーフアップにまとめた女性だ。これまで文字だけで会話をしてきたが、想像していた通りの見た目をしていて少し感動する。
「朔さん! はじめまして」
彼女は確か前に一度学生だと言っていた。未成年ではないので大学生のはずだ。ならば自分よりも年下なのだが、これまで交わしてきた言葉のやり取りからも感じていたが、見た目からも落ち着いた雰囲気が漂っていて年下には見えない。
「どうぞ、座ってください」
「失礼します」
薄手のベージュのジャケットを脱いで席に座る。例年通り五月の陽気は夏のように暑く、店内はもう冷房がきいている。
栞はエアコンが苦手なのですぐに肌が冷えて上着を羽織り直すことになるのだが、日焼けを避けるためにじりじりとした暑さを我慢して上着を脱がなかったため今は涼しさを欲していた。
「あとは『アカ』さんだけですか?」
「そうですね」
今日は四人で会う約束をしていた。
スマートフォンで時間を確認すると十二時五十分だった。約束の時間まではあと十分ある。
「とくに遅刻の連絡はもらってないのでアカさんもそろそろ着くと思いますよ」
予定に不都合が生じたり、遅刻しそうな時はたまこに連絡をすることになっていた。ならば彼女が言う通り、連絡が入っていないということは時間までにアカも到着するということだろう。
本題に入るのは全員が集まってからの方がいい。変に先に盛り上がってしまうと、遅れて到着したアカが疎外感を感じてしまうかもしれない。
誰かがわざわざ口にしたわけではないのだが、一先ず全員が当たり障りない話題を選んで話していた。
「あの、タグチさん……ですか?」
五月のくせに夏のように暑い気温に対して軽く文句を言い合っていた時だ。ハスキーだが軽やかな高音の声が三人を振り向かせた。
予想通り、時刻はまだ十二時五十六分。誰も遅刻せずに全員集合だ。
たまこや朔が自分にしてくれたように栞もにこやかにアカを迎えようと思い、笑顔をつくった。だが、彼女の姿を目にうつした途端に持ち上げた口角の端がひきつる。
最後の一人――ショートカットにつり目の彼女は、どう年齢を高く見積もっても未成年の少女にしか見えなかったからだ。
「…………アカ、さん?」
ぱちぱちと目を瞬かせながらたまこが言った。
「そうです! 良かったあってたー! 間違ってたらどうしようかと思いました。店員さんがこの席まで案内してくれたけど、顔は知らないから絶対たまこさん! ってのは分からないし。やっぱり初めて会うって話しかけるまでドキドキするものなんですね。……って、うわ! もしかして私、最後ですか? ごめんなさい待たせちゃって」
緊張しているのか、必要以上にテンションの高いアカの喋り声が、戸惑い中で不自然に浮きあがる。
空気のおかしさに気づいたのか、ちらりと探るように視線を合わせながら黙りこんでいる栞たちの様子をいぶかしんだのか、アカは不思議そうに首を傾げた。
「あの……?」
「とりあえず話は座ってからにしましょうか」
いち早く我に返った朔が、アカにたまこの隣に座るように促した。
「えっと、皆さんどうしたんですか? まさか私、集合時間を間違えちゃいましたか?」
スマートフォンを取り出して、メッセージを確認しようとしたアカを朔が制する。
「間違えてないですよ。約束は十三時であってます」
「良かった! てっきりずっと皆さんをお待たせしちゃったのかと思いました」
遅刻していなかったことを知りアカはほっと息をついて緊張をといたが、いまだ栞たちから向けられる視線が困惑を帯びたものであることに気づくと不安そうな表情に戻った。
三人の態度は彼女を歓迎していないようにも取れる。状況が把握できないアカはふらふらと栞たちの間で視線をうろつかせた。
さぐり合う空気が数秒漂ったが、そんな中たまこが意を決したように口を開く。
「アカさん、ぶしつけで悪いんだけどあなたの年齢を聞いてもいい?」
「……十四歳です。中学、二年生」
アカの返答は、これから自分が叱られる予想を脳裏に浮かべた子どもみたいだった。
「親御さんに、今日のことは話した?」
「話してないです。……え、親の許可が必要だったんですか?」
心の底から驚いた様子だった。きっと報告するという発想自体なかったのだろう。
「えっと……なんて言えばいいのかな……」
どう説明すれば彼女に伝わるのか、たまこと一緒に栞も悩む。
中学生というのは、一番言葉の渡し方に慎重にならなくてはいけない年齢だと思うのだ。
自分のことを思い返してみても中学生の頃が一番複雑怪奇な精神をしていたような気がする。
「……私たちは、言ってしまえばどこの誰かも分からない大人なわけだから。例え私たちにアカさんに対して危害を加える気持ちが一切なかったとしても、親御さんからすれば信用はできないし、どうしても心配してしまうと思うんですよね」
また朔が栞たちよりも先んじて、アカに言葉を投げかけた。
「えー! でも皆さん知らない人ではないじゃないですか。もう半年もSNSでやり取りだってしてるし」
「そうですね。でも会うのは初めてでしょう?」
「んー、確かに会うのは初めてかもですけど、教室で毎日会ってるはずのクラスメイトより、塩さんとか朔さんとかたまこさんのことの方が私知ってること多いですよ」
教室、も。クラスメイト、も久しぶりに聞いた。
彼女のその言葉には血が通っていて、きっと栞が教室と口に出したところで彼女が舌にのせるようには聞こえないだろう。
当事者でなくなると、言葉の鮮度も死んでしまうということをこんな時に気づいた。
「そうですね。私も大学で顔だけは見覚えがあっても、名前すら知らない人が沢山います。その人たちよりアカさんのことの方がよく知っています。でも、アカさんが中学生だってことを今日こうやって会うまで私は気づけませんでした。そんな風に、例えば塩さんやたまこさん、私の内の誰かが実は男だった可能性があったかもしれない。もしかしたらアカさんをだましてやろうとか傷つけてやろうとか考えていたかもしれない」
「いやいやいや半年も時間と労力かけてお金持ちでもなんでもない一般家庭の私のことだましたりする人いないですって!」
大仰に手と首を振ってアカは朔の言葉を否定した。
「そうじゃな、」
「はい、私からもいいですか?」
たまこが小さく片手を上げた。朔は言葉をのみこみ、譲る意図を込めて頷く。
「母親としての意見になるんだけどね。鬱陶しいって思われているのが分かっていても、どうしても親って子どもを心配をする生き物なの」
アカは納得できないとでも言いたげな顔をした。それはそうだろうなと栞も思った。親が心配するからという理由で言うことを聞く子どもは世の中に少ない。
「もしも自分の息子がアカさんのようにどこの誰かも分からない大人に会うって知ったら、私だってきっと心配すると思う。もしかしたら行かないように止めるかもしれない。自分はこんな風に朔さんたちと会っているのにね。矛盾してるって思うかもしれないけど、自分の子どもは特別扱いをしてしまう。悪いもしもを考えて、必要以上に用心してしまう。アカさんと私たちはもう半年もやり取りしてるんだからとか、つぶやきを見る限りどう考えても女性としか思えないからとか、そんなことは関係ない。絶対に大丈夫なんて言い切れないの。さっき朔さんも言っていたけど、私たちがアカさんが中学生だってことに気がつかなかったようにね。……確認を怠った私たちも悪い。でも、アカさんには自分が未成年だってことは事前にちゃんと伝えてもらいたかった」
「……ごめんなさい」
「どうして教えておいてほしかったかというと、それは保護者に対する配慮だけじゃなくてね。例えば事故とか、何かしらアクシデントがあった場合なんだけど、アカさんが未成年である以上は責任は一緒にいる私たち大人が背負うことになるの。私たちがあなたの保護者じゃなくても、行動をともにするなら他人でも大人にはその義務が発生する。知らなかったを理由に責任からは逃れられない。だからそういう意味でも未成年だと申告してほしかった」
「……はい」
すっかりアカはしょげてうなだれている。たまこの言葉を反発せずに受け入れてくれたようだ。
「うん、分かってもらえたようで良かった。……あ! 早く注文しなきゃね。お店の迷惑になっちゃう」
最後の一言により朔と栞の肩から力が抜けた。張り詰めていた空気もほどけ、周囲のざわめきに自分たちも馴染んでいく。
テーブルの上にメニューを広げると、マンゴーフェアをしているようで艶やかな黄色いマンゴーが沢山のったパフェやパンケーキがまず目に入った。美味しそうな写真につられて、肝心の主食より先にデザートをじっと見てしまう。
すっかり気分を切り替えたのか朔やたまこも昼食のメニューを選んでいる。二人は栞と違ってちゃんと食事のページを見ていた。ただでさえ自分は決めるのが遅いのだから早くしなくてはと思い、隣に座っている朔が広げているメニューをのぞき込む。
ファミレスに来るのは久しぶりだったが、心なしか前よりも定番のメニューが増えているような気がする。
そんな中でアカだけがまだ一人うかない顔をしていた。
「……あの、私、帰った方がいいんでしょうか?」
しょぼくれた声にメニューからアカへ視線を移した栞たちは一瞬顔を見合わせると、代表してたまこが返事をした。
「どうして?」
「だって、さっき……」
「ああは言ったけど、もうアカさんはここに来て私たちと会ってしまってるんだから今更すぐに帰したって仕方ないでしょう。夜ならともかくまだお昼だし、ご飯くらい食べていっても構わないと思うよ」
「散々言っておいてなんですけど、アカさんのことだまそうとか思ってないですしね。そもそも中学生だまして得られる利益って……誘拐するにしたって、デメリットの方が多いと思うんですよね。――塩さんもそう思いません?」
「あ、はい。そうだと思います」
利益やら誘拐やら直接的な表現を口にするので、あまりお昼のファミレスにふさわしくないところまで言及するのではないかと内心焦っていると、急に話を振られたので慌てて同意する。
「とはいえ、口先だけならなんとでも言えるからそれをどこまで信じるかって話になっちゃうんだけど……今のところ会って話した感じ、私は朔さんも塩さんもこれまで接してきた通りのお二人だと思うので、大丈夫なんじゃないかなと考えています」
「私も、たまこさんも塩さんも大丈夫だと思ってます」
「私も、同じくです」
大人なら判断できても、まだ経験の足らない子どもでは判断しようがない物事はある。茶番のようなやり取りに思えるが、これも必要なやり取りだろう。
「と、いうわけです。ほらほら、固い話は終わりにしてちゃっちゃと注文しちゃいましょう。……やっぱり外食する時って自分ではなかなか作らないもの頼みたくなるね」
「分かります。せっかくだし凝ったもの頼みたくなりますよね」
「私、無駄に悩んだ結果無難なの頼んじゃいます」
「あー、それもありますね。食べて、うわ! 失敗した! ってなった時になんとも言えない気持ちになりますもんね。とりあえず残さず全部食べますけど」
「ちゃんと全部食べるんですね」
「残すのって罪悪感ありません?」
「ありますけど、それよりも好みじゃない味を食べ続けるのがどうしても……」
ぽんぽんと飛び交う会話に、アカはぽかんとしている。
「私もう決まったので、どうぞ」
見かねたたまこが、アカにメニューを手渡した。
「あ、え、えっと、ありがとうございます」
「好きなのを選んでいいからね。アカさん細いけどダイエットとかしてるの? ちゃんと食べなきゃ駄目だよ」
いかにも母親らしい言い回しだった。本当にたまこは誰かの親をしているんだなと実感する。
「ダイエットはしてないです」
「なら良かった。どう? 食べたいものある?」
「……オムライスに、します」
少し気恥かしそうに言ったアカは、栞の目からも可愛らしく見えた。
「朔さんと塩さんは決まりました?」
「決まりました」
「……はい。決まりました」
正直、まだ決まってはいなかったのだけれど、待たせたら悪いのでぱっと目についたカルボナーラを頼むことにする。
「改めてちゃんと自己紹介しておきましょうか」
注文を終え一息つくと、アカの一件でうやむやになっていたのを取り返すようにたまこが切り出した。
「じゃあ、言い出した私から。『たまこ』こと、田口絢子です。主婦してます」
アカがいるからだろう。本名と職業もあえてたまこは口にしたようだった。
もしも親から今日のことを聞かれた時、すぐに説明できる程度の情報は知っていた方がいい。
「『朔』、新子美月です。大学生です」
たまこの行動に賛同するように朔が続く。
「『塩』です。幕井栞です。接客業してます」
異論はなかったので、栞も追随した。
「『アカ』……松崎佳苗です。中学二年生です」
俯きがちになっていた顔をあげて、アカがまっすぐ栞たちを見据えて言った。
つり目だからなのか、本人の性格からくるものなのかは分からないが、彼女は目力が強い。
「こうやって会って誰かとホノマホの話ができるなんて思ってなかったから嬉しいです。ありがとうございます」
先程のことを引きずっているのか堅苦しい物言いだった。
「こちらこそ。アカさんと塩さんがいなかったらそもそもこの場はなかったわけですし、お礼を言うのは私の方ですよ。たまこさんも、会いましょうって言ってくれてありがとうございます」
「お礼を言われるようなことはしてないですよ、文字よりもっと話したかっただけです」
今回の集まりはたまこの『会いませんか?』という一言から実現したものだ。
だがそもそも、本来は接点がない四人がこうやって会うまでになったのは、半年前の栞の行動が始まりだ。
あの日『誰かとホノマホの話がしたい』とつぶやいていたアカウントに、衝動のままに栞はメッセージを送った。
送信をタップする瞬間、うるさいくらいに心臓がばくばく鳴っていた。
栞はあまりSNSに積極的なタイプではなかったので、まったく面識もない相手にいきなりメッセージを送るというのは、はじめての行動だった。自分のアカウントすら数年前から放置していたものを発掘してきたくらいだ。
一瞬のためらいよりも勢いが勝ち送信したはいいが、見知らぬ相手から急に声をかけられて迷惑だと思われるのではないか、ぶしつけだったのでないかとすぐに不安におそわれる。けれど栞が落ち込むよりも早くスマートフォンが軽い音をたてた。
画面を見ると通知が来ている。メッセージを送信してからたった一分で返信が届いたのだ。
『はじめまして! ホノマホのファンの方ですか? まわりに話せる人が誰もいなかったので、声かけてもらえて嬉しいです。私、ルビーとリオが大好きです』
ルビーとリオが大好き。その一文で、感情が鮮やかによみがえったのが分かった。
摩耗していた感性が生き返ったように気持ちが動く。心なしか体温も上がったような気がした。
ホノマホ――『炎と魔法使い』は栞が中学生だった頃、友達と夢中になって読んだ少女小説だ。
友情を、恋を、勇気を、愛を、栞はホノマホから教えてもらった。
ホノマホは全十二巻の小説で、アニメ化はしなかったけれど出版されていたライトノベルのレーベルの中だと人気の作品だった。
主人公は、波うつ鮮やかな赤い髪がトレードマークの、無鉄砲だけど明るくて前向きで勇気をいっぱい抱えている友達想いの女の子、ルビー。
そして、一巻の表紙にルビーと手を繋いで描かれているもう一人の女の子。理知的な顔立ちをした綺麗な黒い髪を持つルビーの友達、リオ。
物語は二人を中心に動いていく。
プロローグのあと、十五歳のルビーとリオが同じ家に住み暮らす描写から物語は始まる。
正反対の性格をしているのに仲の良い二人は、読み進めていくと似ていない双子でも、年子の姉妹でもないことが分かっていく。一緒に住んでいるのにどうやら家族ではないリオはルビーの一家に世話になっていて、血の繋がりはなくとも、本当の家族のように暮らしていた。
冒頭で描写される日々の暮らしはつつましいけれど幸せそうで、中学生の栞には羨ましいくらいだった。
けれどルビーとリオの穏やかで優しい生活はページを進めていくと簡単に崩れていってしまう。
波乱が無ければ物語にならないと分かってはいても、それまで小さな世界の中で幸せに生きていた彼女たちの全てが踏みにじられて壊されてしまう展開には胸が痛んだ。
ルビーはコンプレックスといえばくせ毛くらいで、それ以外のことにはあまり頓着しないおおざっぱだけど太陽みたいに明るい普通の女の子だ。
世に溢れる御伽話の主人公のように、実は特別な生まれだったり、実は特別な力を秘めていたりもしない。無知で、無力で、どうしようもなく運命に翻弄される。理不尽に踏みつぶされそうになる。
最初から最後まで、たったの一つも特別な力など持っていない女の子がホノマホの主人公だった。
でも、なんの力もない女の子のはずなのにルビーは誰よりも大きな勇気を持っていた。絶対に希望を諦めない心の強い女の子だった。彼女に特別なところがあるとすれば、きっとその心だろう。
特別なのはルビーではなく、リオの方だった。リオはうまれついての魔女だ。
ホノマホの世界では男の魔法使いは国に重宝されるのに、力は変わらなくとも魔女は性別が女というだけで迫害されている。そのためリオは生まれてすぐに素性を隠してルビーの一家に預けられていた。
聡明なリオは自分の素性をよくよく理解していて注意深く暮らしていた。絶対に自分が魔女だと誰にもバレないように気をつけて生きていた。
しかし、ある日溺れた子どもを助けるために咄嗟に魔法を使ってしまい、その姿を行商の男に見られたことでリオの存在は告発されることになる。
弁明の余地もなく、その日の夜には魔女を隠匿した罪でルビーたちの家は炎で焼かれ、家に入り込んできた男たちに父も母も殺害される。
父母の機転でルビーとリオは先に家から逃げ出せていたが、暗闇の中、暴力的に赤々と燃える炎に全てを奪われる様を二人は隠れながらも目の当たりにすることになる。
炎の明かりは影に潜む彼女たちの元まで届いて、ルビーの赤い髪をいっそう赤く染めた。彼女の流す涙すら反射で仄かに赤く見えた。そう書かれていたシーンのことを栞は今も鮮明に覚えている。
全てを失うことから彼女たちの旅は始まる。
親を失い、家も失い、たった二人であて先もないまま逃げ出した。世界はちっとも彼女たちに優しくできてはおらず、その後も苦難ばかりが彼女たちを待ち受けている。
失い、裏切られ、失望する。
それでもルビーは諦めなかった。リオが捕まり二人が離れ離れになっても、誰もが諦めるような状況になってもルビーだけは進むことを止めなかった。そんなルビーの人間性に惹かれて物語が進むごとにだんだんと二人に協力してくれる人は増えていく。
そうやって沢山の人や、国すらも巻き込み、ルビーとリオは魔女だけが迫害されるようになった理由を、世界の根幹に触れる魔法の秘密を解き明かしていくのだ。
彼女たちは世界を知ることで、悩み、苦しみ、喜び、傷つき、救い、愛おしみ、怒り、迷い、慈しみ、救われ、恋をする。人を、愛する。
――憧れた。
ホノマホは、栞にとって一番大切な物語だった。
思い返すだけで、心に熱が宿る。
心が、潤う。満たされるとは、こういうことを指すのだろう。
ホノマホの新刊が発売するから、嫌なことがあっても頑張れた。高校受験だって、ホノマホをご褒美に乗り越えたのだ。新刊が出るたびに友達と時間を忘れて感想を語り合った。
楽しかった。まばゆいほどの輝きがそこにはあった。
十代の栞の中心にはいつだってホノマホがいた。
それなのに、いつの間にか自分の内側にしまい込んで蓋をしてしまっていた。
何よりも大切なものだったのに、いつから自分はそうなってしまったのだろう。
友達に他にもっと好きなものができて、話を振ってみたとしても今までのような反応を返してもらえなくなった時からだろうか。
好きなものについて聞かれたからとホノマホの話をしてみたら、興味なさそうに流された時からだろうか。
いや、明確なきっかけがあったわけではない。
少しずつ、些細な――けれど栞にとってはけっしてどうでもよくはなかった一つ一つが積み重なって、いつしか誰にも話すのを止めたのだ。
思い返してみれば、付き合いはじめに一度だけ海にもホノマホの話をしたことはあった。けれど、興味のなさそうな様子にしり込みしてすぐに話を切り上げて、それ以降一度だって話題にしなかったのだ。
ルビーやリオ、彼女たちの存在が栞の心を形づくったというのに自分の中に隠すように閉じ込めた。
所詮、フィクションの中にしか存在しないキャラクターだと誰かは言うかもしれない。けれど人を人間にするのは言葉だと栞は思う。
生まれついての性質というものだって確かにあるのかもしれない。けれど与えられた言葉が、手に取ってきた言葉が、その人自身をつくりあげていくのだと思うのだ。
だから栞をつくったのはホノマホだ。
不安定な中学時代にホノマホに出会えたから、すかすかだった栞の内側に言葉が積み重なりどうにか大人になることができた。
中学生が不安定なのは、自分の内側にある空白を自覚してしまうからだ。
子どもから一歩踏み出し、現実を知り、自分の中身がすかすかで何者でもないことに気づいてしまう。それを隠すように自分は特別なのだと思い込んだり、逆にそんなものには興味ないとでもいいたげな振る舞いをしてしまったりする。
黒歴史や厨二病と揶揄する風潮があるけれど、誰にでも空白はある。そこには焦燥や恐怖も伴っていたはずだ。
説明のできない空虚ほど恐ろしいものはない。
大人になれば生きてきた年数分の経験で空白を埋めることもできるが、子どもではまだ埋められるほどの人生経験がある子は少ない。
それに内側にある空白、というものは埋まらない人はきっと死ぬまで埋まらない。
埋めずとも、埋まらずとも、きっと正常に生きてはいけるのだろうけれど、その空虚さは底のない井戸のようなものだ。いつか落ちたら、きっと戻っては来られない。
本当は内側に存在する空白とは埋まるものではなく、生きている限り広がり続けるのではないかと考えたこともあるが、それはあまりにも恐ろしすぎるので考えるのを止めた。気づかずにいられるのならそれが一番良い。
「気になってたから教えてほしいんだけど、アカさんってどんなタイミングでホノマホを知ったの? 本屋にはもう置いてないよね?」
運ばれてきたばかりのパエリアを食べながらたまこが言った。
「前に好きな作家さんがホノマホのことを話してたの見かけて、検索してみたら電子書籍があったのでそれで読みました」
「電書か!」
「なるほど……うわ、なんかちょっとジェネレーションギャップ感じました。そうですよね、そりゃそうですよね。中学生でもスマートフォン持ってるの普通ですもんね、電書だって使いますよね」
たまこも朔も栞も食事の手を止めてまじまじとアカを見る。
「いやでも、普段は漫画とか小説とか普通に本屋で買ってますよ。ネットで何かしらお金かかる時は親の許可取らないと駄目なんで、面倒くさいんですよ。購入履歴残るから隠しようがなくてごまかせないし。でも、なんか、どうしてもホノマホ、読みたくて、お願いしてみました」
集まる視線に照れながらアカは話を続けた。そんな彼女を栞や朔は微笑ましそうに見たが、たまこは何故か一人苦い顔をしている。
「アカさんのところは許可制なんだ……やっぱりそれがいいよね。うちの息子、一度だけソシャゲのガチャ回しすぎたとかで泣きついてきたことあるもん……」
「え、どうしたんですかそれ」
「あの子のお年玉貯金を崩した。私も反省したよ……最初から許可制にしておくべきだったんだよね……お互いのためにも……」
頭を抱えながらたまこは乾いた笑いをもらした。
「ガチャは……地獄ですよ……」
どうしてか朔までが遠い目をしている。
「朔さんソシャゲやる人なんですか? 意外です」
「そうですか? 結構やりますよ。今はもうどれもゆるくやってるだけですけど」
栞とたまこにはよく分からなかったが、どうやらアカと朔は共通のゲームをやっていたようでイベントがどうこうと二人で盛りあがっている。その間、栞とたまこは目の前の料理が冷める前にさっさと食べることにした。
ただでさえ栞は食べるのが遅い。話していると余計に遅い。
今の内に食べ進めなければいけないと思い黙々とカルボナーラを口に運んだ。
「すみません、お二人に分からない話をしてしまって」
半分以上食べ終わったところで、たまこと栞が黙ったままでいることに気づいた朔がそれまでの勢いをぴたりと止めた。
「いいよいいよ、気にしないで。楽しそうで何より」
「それに分からないなりに聞いていて楽しかったですよ」
「あ! なら塩さんもやってみませんか?」
「えっと……あの、ゲーム苦手で……すみません」
話の腰を折る返事しかできないことに申し訳なく思う。
「謝ることないですよ。ゲーム苦手って友達、学校にもいます」
あっけらかんと言うアカにほっとしてしまった。
中学生相手に情けないと自分でも思うが、大人になっても誰かの申し出を断るということが栞は苦手だ。
「あれ? さっきまでなんの話してましたっけ?」
「アカさんがどうやってホノマホ知ったかって話。電子書籍ってどう? 私まだ使ったことないんだよね」
「便利ですよ。場所取らないですし」
「読みにくかったりしない?」
「慣れれば全然でした」
栞もたまこと同じく電子書籍はあまり使ったことがない。
最近は小説も漫画も電書で読む人が多くなったけれど、どうしても本は紙の本で読みたいという気持ちがあって中々手を出すことができないでいる。
「私も小説はまだ本屋で買ってますけど、漫画はほぼ電書ですね」
「やっぱり今の子ってそうなんだねえ」
しみじみとたまこが言った。これまで母親らしさは感じても年齢を感じさせる発言は少なかったのに、その言い方には妙に年を感じた。
アカと朔が今の子であるなら、栞はどちらなのだろう。この気持ちは年齢で区切れてしまうものなのだろうか。
「……手に、取りたくなったりはしないですか」
無意識に思ったことがそのまま口から出ていた。瞬間、しんと静まった空気にひやりとする。
「なりますよ。だから、本当に好きな作品は本棚にいます。勿論、ホノマホもちゃんと手元に置いていますよ」
ほがらかな笑顔を朔から向けられたことで、不快に思われていなかったのが分かり安心する。ついこぼれた一言が非難しているように聞こえたのではないかと心配になったのだ。考えすぎなのかもしれないがどうしても栞は気になってしまう。
「いいなあ、私もホノマホは本で買いたかったです」
「確かもう絶版になってるはずだけど、どうにか手に入ったりしないのかな?」
「ネットとかで探せば買えるのかもしれないですけど……その場合、親の許可がもらえないと思うんですよね。一度読んでるんだから必要ない、同じもの買ってどうするのって言われると思います。うちの親、フィクションがいらない人間なので、」
「分かるよ」
「……え?」
きょとんとしたアカの顔を見て自分が食い気味に言葉を発したことに気づく。
あまり自覚できていなかったのだが、どうやら自分はこの場が楽しくて、浮かれていて、いつもより口が滑りやすくなっているのかもしれない。
「あ、えっと、私の親も、フィクションを必要としていない人間だったから」
「そうなんですか?」
「うん。……昔、そんなもの読んで何になるの。って、言われました」
栞の親は、小説を読まない人だった。映画を見ない、ドラマを見ない、漫画も読まない。人生に物語を必要としていない人だった。
「共通言語を持っていない相手と会話をするのって難しいですよね」
苦笑しながら朔が言う。
「共通言語?」
「お互い日本語を使っているはずなのに会話できないことってあるじゃないですか。そういう時に私は、ああ、この人と私は共通言語を持っていないんだなって思うんです」
「……どういうことですか?」
説明を聞いてもよく分からないようで、アカはぱちぱち目を瞬かせながらぽかんと口を開けている。
「朔さんが言っている共通言語が違うっていうのは、ようは常識が違う……ってことかな?」
口元に手を当てて考えながらたまこが言った。
「分かりやすく言うならそうです」
「でも感覚的にはちょっと違う?」
「そう、ですね。常識も勿論含んでいると思うんですが、それ以外にも経験とか固定概念とかそもそもの性格とか環境とか、色んなものが複雑に混ざり合って共通言語ができると思うので、常識だけだとちょっと違うかなって気持ちになりますね。ニュアンスは同じだとは思うんですけど、もしも常識だけが違うなら、もっと妥協しあって歩み寄れるような気がしてしまうので」
どこかで朔も苦い思いをしたことがあるのだろうか、何かを思い出すように言った彼女は曇った表情をしていた。
「言葉が通じるのに、会話ができないって虚しいですよね」
喉が、きゅっと鳴った。
腹の底から込みあがってくる感情を栞はぐっとのみくだした。そうしないと熱いものが目からこぼれ落ちてしまいそうだった。
人は、唐突に、思いもよらないところで、気持ちを代弁してくれる言葉に出会ってしまうと、こんなにも心が揺さぶられてしまうのか。
俯くと堪えるのが難しくなりそうで顔を持ち上げた。すると、正面に座っているアカと目が合う。
彼女から小さく息をのむ音がした。もしも今、鏡を見れば、自分ですら見たことのないような表情を栞はしているのだろう。
見てはならないものを見てしまったように、さっとアカは栞から目をそらした。
「……うん、そうだね。話がちゃんとできるって、実はすごいことだったりするんだよね」
「はい、そう思います」
たまこも朔も、涙を止めるために顔に力を入れて変な表情になっている栞の様子に気づいているはずなのに、素知らぬ顔で会話を続けている。
「……だから、なんていうのかな……こうやって、会えて、良かったよね」
なんか照れるね! と言うとたまこは手で顔を扇いだ。髪からのぞいている片耳は赤くなっている。
「私も、そう思います。だから、もし良ければ、なんですけど。それぞれ、都合が合う時でいいので、また…………会いませんか?」
「――是非」
朔の申し出に答えた自分の声はまだ潤んでいて、気持ちをごまかせてはいなかったけれど、人前で泣いたら迷惑に思われてしまうだろうかなんてことは、この時は少しも思わなかった。