エピローグ
満開の桜の花にまぎれて葉っぱが見えはじめた四月の頭、本が完成した。
朔の家に届いた本を受け取るために、去年の十月ぶりにいつものファミレスに栞は向かった。
一月に会って話し合った後は、朔やアカは期末テスト、栞は新しい店長に変わったことによる忙しさで予定を合わせるのが難しかったのだ。幸い、グループ通話やメッセージのやり取りのみでも問題はなかったので無事に本は三月中に完成させることができた。
あらかじめデータで朔に見せてもらった完成稿は、はじめて作った本にしては良い出来だった。
朔が限界までこだわったこともあって、デザインなども素人作品には見えないくらいにちゃんとした物になっていた。
「お待たせしました」
いつもなら早めに到着している朔が珍しく約束の時間ぎりぎりになって現れた。走ったのかぼさぼさになった髪の毛を手ぐしで整えている。
「ちょっと色々と準備していたら遅れてしまって……」
「時間には間に合ってるよ、気にしないで」
「そうですよ、それに今日は荷物も多いでしょうし」
今日の朔は大きめのトートバックを肩に下げていた。中身の重さを示すように底の部分がずっしりと落ちている。
空いていた栞の隣の席に座ると、朔はバックから本屋でもらうような手さげのビニール袋を三つ取り出して、たまことアカと栞に手渡した。
受け取って中をのぞき込むとうすい本が三冊入っている。
「すごくいい本になったと思います」
袋から一冊取り出してみると、表紙に印字されている「炎と魔法使い」の文字がきらきら明かりを反射して光った。朔が、箔押しにさせてください。と言っていたやつだろうか。
「うわ、なんか、すごい、本の匂いがする」
本を開いたたまこが顔を近づけて匂いを嗅いでいた。
「紙とインクの匂いですね。いい匂いですよね」
たまこを見習って栞も本に顔を近づけて匂いを嗅いでみる。すると、本屋で購入する本よりももっと濃い紙とインクの匂いを感じた。
ぱらぱらとページをめくる。
頭の十二ページは一巻ずつホノマホのあらすじと感想。その後は、四人それぞれがホノマホの思い出を綴った文章や朔のイラストがページをうめている。
この前食べに行った林檎と洋梨のタルトの写真と感想も載せていた。朔に聞いてみたら、売らないならアルバムに写真をおさめることと変わらない。とのことだったのでせっかくだから使ったのだ。
ページをめくるごとに、これを自分たちで作ったのだと思うと、何とも例えられない感情が込みあげてくる。
本から目を離してすーっと息を吸い込んで視線を上に向けた。
もてあますほどに胸に満ちるあたたかな気持ちをふーっと息に混ぜて外に出すことで、どきどきうるさい心臓を落ち着かせた。
周りに目を向けると、たまこは食い入るように本をめくっていた。朔は、それぞれの反応を満足そうに眺めている。
アカは、胸にぎゅっと本を抱えて俯いていた。
ショートカットの彼女は俯いても髪で顔が隠れたりしないので表情が伺えてしまう。
眉間に皺が寄るくらいにアカは目をぎゅうっとつむっていた。
腕に力を込め自分ごと本をかき抱いている姿は、いつもよりもさらに幼く見える。
縮こまったままアカは口だけを動かした。ざわざわと周囲から聞こえてくる話し声や物音にまぎれて、誰のためでもないアカ自身のための言葉が漏れ聞こえてくる。
「好きでいたい……ずっとずっと、好きでいたい」
消え入りそうなくらいに小さくつぶやかれた声は不思議と栞の耳に鮮明に届いた。
彼女が、抱えたままでも大人になれたらいい。
神様なんて信じてないけど、小さく幼い彼女のために栞は何かに祈りを捧げた。
帰り際、朔にSNSに何ページか本の中身の画像を載せて、自分たちのためだけに同人誌を作ったことをつぶやいてもいいか確認された。
断る理由が誰にもなかったのですぐに了承されたそれは、栞たちの目の前で投稿された。
どうやら今日朔が時間ぎりぎりだったのは、SNS用にあらかじめ投稿の下書きを用意していたからのようだ。
ホノマホのこと好きだったなって誰か一人でも思い出してくれれば嬉しいと思って。と、朔が三人に語った思惑を超えて、数日後にそのつぶやきはSNSでちょっとした話題になった。
私もこれ作りたい! そんな一言とともに、フォロワーの多いアカウントから取りあげられた栞たちの同人誌は一日だけネットの中で注目を浴びたのだ。
漫画も小説も書けないけどこれなら作れそう。とか、学生の頃の卒業アルバムよりもよっぽど思い出のアルバム。とか、棺桶に入れてほしい。とか、色々とつぶやかれている。
母数が増えれば望んだ場所にも届くようで、ホノマホのファンだったという人のつぶやきもどっと増えた。
好きだったな。という一言から、自分の思い出を書き連ねてくれる人もいて、一年前はあんなに探しても見つからなかったのにと思う反面、きっかけさえあればホノマホのことを思い起こす人が沢山いたことが栞は嬉しかった。
朔のアカウントに作った同人誌を売ってもらえないかとホノマホファンの人から連絡もあったが、それは全員一致で断った。
あくまでも栞たちが作ったものは自分たちのための本だったからだ。誰だって、家族のアルバムを売ろうとはしないのと同じだ。
売ってほしいとまで思ってもらえたのは光栄ではあるけれど、これは栞たちの思い出であって、エンタメではない。
ホノマホへの自分の気持ちを書き残そうとしたら、四人とも自分と切り離した感想は書けなかった。エンターテイメントとして消費できないくらいに何かを強烈に好きになると、自分の人生にも存在が組み込まれてしまうため自然とそうなってしまったのだ。
生きていく限り避けられない苦しみや喜びとともにホノマホは栞の内側にある。
人を愛したいという渇望と、人を愛せない自分の欠落が栞の中で同居しているように、悲哀や歓喜、全ての感情を包括する人生の中にホノマホも混ざり合っていて、分離することはできない。
それほどに特別な物語と出会えた栞の人生は、きっと不幸ではないのだと思う。
つらつらと考えごとをしながらホノマホで検索した画面をスクロールしていると、海と別れ、アカを見つけたあの日と同じ行動を取っている自分に少しおかしくなった。
あの日とは検索結果も随分違えば、栞自身の感情もだいぶ変化している。
きっとこれから先、再び自分に失望する日が来たとしても栞は生きていけるだろう。
自分たちの手で作ったこの本が、過去の自分が、未来の自分を救ってくれる。
そうやって、生きていく。
軽くなった身体でまだ終わりなく続いている感想のつぶやきを眺めていると、明るい電子音がてぃろんと鳴り、画面にポップアップが表示された。
メッセージは朔からのようだったが、栞個人にではなく、どうやら四人のグループ宛に送られていた。
何か連絡事項でもあったのかと確認してみると、言葉ではなくURLだけが貼りつけてあった。朔のことだから説明もこれから送るのだろうと思い数分待ってみたが、十分待っても音沙汰がない。不明瞭な言動をしない彼女にしては珍しい行動だった。
不思議に思ったが見た限りではSNSのリンクだったので、とりあえず開いてみることにした。
『あの子たちを、好きになってくれてありがとう。今も好きでいてくれて、ありがとう』
ぱっと目にはいってきたのは、そんな言葉だった。
朔がSNSに載せた同人誌についてのつぶやきを引用してコメントされている。
一体どういうことなのかそれだけでは分からなかったので、アカウントのアイコンをタップしようとしたところ……手が、止まった。
名前に、見覚えがある――だって、それは栞の本棚におさめられている名前と同じだ。
驚きで心臓が高鳴る。スマートフォンを持つ手が少し震えた。
ホノマホの、作者は、ホノマホが完結してから、一冊も本を書いていない。
SNSもやっていない。だから、読者は彼女が今どうしているのか何も知らなかった。
震える手でアイコンをタップする。ホームに飛ぶと、朔から送られてきたつぶやきの後にも書き込まれている言葉があった。
アカウントは新しく作られたものらしく、最初に目に入れたつぶやきが一番最初につぶやかれたもののようだった。それから改めて、経緯や現在の状況が綴られていた。
そこには、今回栞たちの作った同人誌が話題になったことで知り合いから連絡があり、どうしてもお礼を伝えたくて初めてSNSのアカウントを作成したこと。
事情は伏せるが、小説を書くのが難しくなっていたこと。
そして、ファンレターで心配の声が届いていたにも関わらず何も伝えられなかったことへの謝罪が書かれていた。
『何年も前に完結した作品を、今でも愛してくれて本当にありがとうございます。その大きく深い気持ちに自分は何を返せるのだろうかと考えたのですが、私には小説を書くことしか出来ないと改めて気づかされました。望まれていた頃の自分であるかは分かりませんが、また、物語を書こうと思います』
手が、震える。
自分が今何を目にしているのか理解が追いつかない。
なんだろう――これは、こんなことが、あっていいのだろうか。
ホノマホは、栞の、全部で、本当に、救い、で、だから、それを書いた作者のことを、どこか、遠い存在だと思っていて、同じ世界に生きている人だと、思えていなかった節があって、だけど、この人は、同じ時代に、同じ時間を生きている人間で、この、手の中の、画面に表示されている、向こうに、その人はいて、だから、だから――。
ありがとう。
ホノマホを生み出してくれて、ありがとう。ルビーに、リオに、会わせてくれてありがとう。友情を恋を勇気を愛を教えてくれてありがとう。ありがとうありがとうありがとう、ありがとう、あいして、いる。
愛している。
あなたがいなければ、あなたが書いた物語がなければ、きっと生きてはいけなかった。
あなたが、栞に、生きていくための力となる言葉をくれた。
あなたが、栞に、ホノマホをくれた。
こんなことに、今この瞬間まで、気づきもしなかった。
乏しくて、欠けてて、何かが決定的に足りてなくて、そんな自分が本当に嫌で、ルビーのようになりたくて、人を、愛したくて、足掻いて、自分に失望したり、虚しさで消えてしまいたくなったりしたけれど、とっくの昔からそれは栞の中にあったのだ。
私は、人を、愛せる。
最後まで読んでくださりありがとうございました。