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 気まずくなる可能性があるからこそ、楽しい空間に行こうというたまこの申し出で、新年の空気が落ち着いた頃に、四人でケーキ屋に行くことになった。

 栞の気持ちを慮って朔は黙っていたみたいだが、お目当てのタルトは秋から一月末日までの期間限定だったので結果的にはこれが最良の選択だったように思う。

「ごめんなさい!」

 いつものファミレス現地集合とは違い、今回は駅で待ち合わせをしていた。

 一番早く到着していた栞の姿を改札を出てすぐに見つけると、アカは走り寄って開口一番に謝罪をし頭を深く下げた。

「頭をあげてください」

 言葉にしたがい恐る恐るアカは顔を上げる。彼女の強張った表情とは反対に、栞はやわらかい頬笑みを浮かべた。

「謝ってもらいたいから予定をたてたわけじゃないですよ」

 会うのは去年のあの件以来だったが、すでにメッセージで謝罪の言葉は送られていた。そして栞はもうそれを受け入れていたのだ。

「でも……」

「反省したんですよね? それとも私が受け取ったのは、字面だけの嘘だったんですか?」

「嘘じゃないです! ちゃんと、たまこさんと朔さんに自分が何を言ったのか教えてもらって……その、反省、してます」

「ならもう謝る必要はないですよ。それに、ニュアンスの問題というだけで間違ったことを言ったわけでもないんですから。……クラスメイトの子を無視しちゃったのはよくないなとは思いますけどね」

 フィクションと現実は別物ですよね? という発言だけじゃない。人を嫌いになっちゃいけないんですか? という問いだって、別に間違いではないのだ。

 人が人を嫌いになることが悪であるのなら、世界はとっくに崩壊しているだろう。

「はい……」

 頭で理解はしても気持ちは納得できないのか、うなだれた様子の彼女に栞は笑いかけた。

「落ちこまれるよりは、楽しそうにしてくれた方が嬉しいんですけどね。せっかくこれから美味しいものを食べに行くんですから。しかめっ面より笑顔の方が宝石みたいなタルトには似合うって、そう思いませんか?」

 俯いた顔をのぞき込みながら言うと、ぎゅっと固まっていた彼女の身体から力がぬけていった。

「塩さん、アカさん、こんにちは。二人ともお早いですね」

 しばらくしてどっと人の流れが増えたタイミングで朔が改札から出てきた。二人が和やかに会話している姿を見て、ほっとしたように息をついている。やはりどこか心配してくれていたのだろう。

 同じ電車に乗っていたのかたまこも朔に続いて数分後には合流した。

 目的の店はもうオープンしているそうなので、挨拶もそこそこに動き出す。最寄り駅から徒歩十分とサイトに記載されている店に歩いて向かった。

 昼とはいえ冬の空気は冷たく、ぴゅうっと風が吹けば身体が縮こまる。

 前方はたまことアカ、後方は栞と朔が並び一車線しかない細い道を歩く。

 たまこが着ているモスグリーン色のダウンジャケットはとても暖かそうで、栞はひそかに来年こそコートを新調しようと心に決めた。

 今着ている茶色のPコートも使い勝手がいいので気に入っているのだが、もっと寒風にも勝てそうな上着が欲しいのだ。

 冷えた指先をポケットの中に避難させ、朔からおすすめの小説の話を聞いたり、お互いの近況を話しながら歩いていると、あっという間に目的地にたどり着いた。

 サイトのトップにのっていた写真そのままのこじんまりとしたお店は、やさしさのある白を基調に作られていて水色の屋根も可愛らしい、絵本にでも出てきそうなケーキ屋さんだった。

 店先には冬だというのにピンクや紫色の花が鮮やかに咲いていて雰囲気を惹きたてるのに一役買っている。

 ドアベルのちりんちりんという音を鳴らして店内に足を進めると、温かみのある木目調の空間が四人を出迎えてくれた。

 中に入ってみると外観で想像していたよりも店内は奥行きがあり、カフェスペースは四人掛けの席が一つと、二人掛けの席が二つある。

 店員に案内されて席に向かうと、進む途中にショーケースにならんでいるケーキたちを目にすることができた。

 整然とならべられているケーキはどれも宝石みたいにきらきらしていて見ただけで自然と気持ちが浮き立つ。

 四人ともケーキは当然、林檎と洋梨のタルトを注文した。

 飲み物は栞がダージリンをポットで、たまこと朔はコーヒーを、アカはアッサムのミルクティーを頼む。

 ケーキを待っている間も、壁の片隅に黒猫のシルエットが描かれているのを見つけて盛りあがったりした。

 店先だけでなく店内にも花が飾られていて、心が癒される。

 花瓶に活けられた花の名前で分かるのはヒヤシンスくらいだったが、名前は分からなくとも内側が淡くオレンジに染まっている白い花が、ドレスのように花弁を重ねていてとても綺麗だった。

 タルトが運ばれてくると、ホノマホの挿絵で見たのとあまりにもそっくりで四人ともスマートフォンを手にし連写した。

 カラーイラストで見たことはないが、もしもあの挿絵に色がつけば今目の前にある色彩になるのだろう。

 撮影会が一段落つきフォークを手にする。だがその瞬間、浮き立つ感情を冷ますように昔タルトを食べた時にがっかりした記憶がふっと過った。

 夢にまで見た林檎と洋梨のタルトが今目の前にある。けれど、もしも憧れを口にすることで宝石が石ころに変わってしまったら? それくらいなら最初から口にしない方がましだ――少し前の栞ならきっとそう考えた。

 林檎と洋梨のタルトはとてもとても美味しかった。

「それじゃあ、とりあえず今日はざっくりと決めていきましょうか」

 タルトを味わい終え、二杯目の飲み物を各自頼んだところで、朔が切り出す。

「うん、分かった。と、言いたいところなんだけど、一応自分でも調べてはみたものの正直何が何やらまったくよく分からなかったんだよね。イベントに参加して売るわけじゃないから書いてある内容だと私たちには当てはまらないんだろうなって部分も多かったし、オフセット? オンデマンド? ってのが説明を読んでもちょっと理解できなくて。オンデマンド配信なら聞いたことあるけど、それとは関係ないんだよね?」

「ええっと、多分語源としては同じ意味から取ってるとは思うんですけど、物としては無関係ですね。基本的に同人誌を制作している印刷所だと印刷方法が二種類に分かれていて、それがオフセット印刷とオンデマンド印刷になります」

 オフセットは百部以上など沢山の部数を刷る人が使い、オンデマンドは少ない部数で作る人が利用するのが一般的であると朔は続けて説明した。

「オフセットだと版を作るので部数が少ないと金額が高くなってしまうんですよね。オンデマンドは分かりやすく言うとコピーなので少部数でも金額が一律になるんです」

「え! コピー? それだと自分たちでやるのと変わらなくない?」

「はんってなんですか? 班?」

 たまことアカの疑問が重なった。

 向かい側から同時に発された質問に頭を悩ませながら、朔はどうにか伝わるように努めようとしている。

「コピーとはいっても、普通のコピー機ではないのでとても綺麗です。私も昔オンデマンド印刷で作ったことがありますけど綺麗な仕上がりでしたよ」

「そっか、なるほど。印刷所なんだからそりゃ普通のコピー機とは違うよね」

 たまこが納得した様子を確認すると、朔は斜め前に座っているアカに顔を向けた。

「ええとそれで版っていうのは、版画ですね。一から版画を作ってそれを元に刷るのでオフセットの方はその分お金がかかるんです。より綺麗に作れはするんですけどね」

「あ、なんか小学校の頃に図工で版画彫った記憶あります」

 二人からの疑問をどうにか解決できた朔はほっと胸をなで下ろしている。栞もそうだが、たまこもアカも同人誌の作り方どころか読んだこともなかったため彼女の負担が大きくなってしまった。

「そんなわけで、私たちはオンデマンド印刷で本を作ろうかと考えているのですが、どうでしょうか?」

 否定の意見は誰からも出なかった。ちょうど注文していた飲み物もやって来たので一口分の休憩が挟まれる。

「印刷所とのやり取りなどは私がやりますね。あ、なので最終確認も私がやろうと思っています。あと編集と、あとは、」

 カップからすぐに口を離した朔はらしくない調子で話を進めていく。

「朔さん」

 隣から遠慮がちに声をかけると、ぴたりと動きごと喋りが止まった。

「お任せする部分が多くなってしまってすみません。でも、私にもできる作業があるのならそれはやらせてもらいたいです」

「塩さんの言う通りだね。せっかく四人で作るんだから、面倒くさいところもちゃんと四人で分けよう」

「あの! 私も、私もあの、できることはそんなにないとは思うんですけど、何かやらせてください!」

 三人の申し出を聞いた朔はぱちぱちと何度か瞬きをすると、どこか肩の荷をおろしたように緊張をといた。

「そうですね、お願いします」

 二杯目のお茶を飲み終わる頃には、各自の役割と暫定的な締切が決まっていた。

 高校受験をしないにしても、中学三年生になれば今ほどアカと頻繁に会うのは難しくなるだろう。朔に勉強や大学受験について相談をしているという名目があるにしても、いつか親に咎められる可能性だってある。

 そのため、三月までに完成させる目標で私たちは動くことになった。

 とはいえ朔いわく印刷所に入稿してから一週間程度で本はできあがるらしいので、無理せずにその時の状況次第で考えようという仮の予定だ。

 役割としては、他にできる人間がいないため朔が印刷所対応、表紙と挿絵にデザインに編集。それと最終確認をすることになった。

 栞は全員のスケジュール調整。たまこはお金の管理。アカは朔と共同で表紙やデザインのアイディア出しという配分になったので、どう考えても朔の負担が大きすぎるのだが、自分が言い出したことだし、やりたいと思ってやるのだから任せてほしいと言うので甘えることにした。

 本の作成にあたってかかる費用は均等に四人で分割するのだが、アカは自分で働いたお金でいつか支払うという約束をして費用はたまこが肩代わりすることになった。

 大人からすれば大したことない金額でも、中学生にとっては安くない。

 アカを含めずに三人でお金を出し合ってもよかったが、もしも自分が同じことをされたら良い気はしないだろうというのが共通認識としてあったので、そうすることにしたのだ。

「なんかわくわくしますね」

「まさか大人になってこんな風に誰かと共同で一つのものを作るようになるなんて思わなかったよ」

「ちょっと文化祭とかに似てますよね」

「私あれなんですよね。中学生の頃も高校生の頃も、文化祭とか学校の行事どれもちゃんと中心の方では参加してなかったので、今になってこうしているの不思議な気持ちです」

 前に話してくれた昔の朔であれば、確かに行事に率先して参加するタイプではなさそうだ。

「中学生の朔さんってどんな子だったの?」

「絶対友達になりたくないひねくれた子どもですね」

 視線をそらしながら朔が言うと、アカもたまこも意外そうな顔をした。

「朔さん昔から落ち着いてて大人っぽい子なのかと思ってました」

「そうだね。でも、うん、なるほどでもあるかも、朔さん頭がいいもんね」

「頭がいいというよりは小器用なだけですよ」

 栞は必死に勉強してそこそこ偏差値を上げた努力型なので当てはまらなかったが、昔の同級生には地頭がよく斜に構えた性格の子がいた。おそらく、たまこも思い当たる相手がいたのだろう。

 頭がいいというのは、一つの物事に対して見える幅が広いということなのだろうと栞は考えている。

 自分に見えているものを「ない」ように振舞われるから、憤ったり諦めたりするようになるのだ。

「なので今、だいぶ、たのしい、です」

 はにかんだように言う彼女の頬はうっすら赤く染まっていた。

「うん、そうだね。私も楽しい。文化祭かあ、いやー、懐かしい、いいね。母親じゃない自分って感じが一層する」

 赤面する朔を見てたまこは晴れやかに笑った。

「母親じゃない自分?」

「え? ……ああ、うん、そう」

 アカに聞き返されたことで自分の口からこぼれていた言葉に気づいたようだった。苦笑をもらしながら肯定している。

「息子は可愛いし、疲れたって思うことはあっても主婦業に文句があるわけじゃない。母親である自分が嫌いってわけでもない。けど母親でしかない自分はちょっと、ね」

 アカはどうも言葉がのみ込めないようで、目だけで説明を求めた。

「アカさんは、中学生ってだけで自分の全部を判断されると嫌だなって気持ちになるよね?」

「……はい」

「私もそう。子どもを産んだ瞬間から私のてっぺんから爪先まで母親だって思われ過ぎると、ちょっとなんだかなあって気持ちになっちゃう」

 口元に手を当ててアカは三拍ほど言葉を咀嚼しようとしていたが、最終的に首をこてんと傾けた。

「でも、お母さんですよね?」

「そうだよ。でも、アカさんだって中学生なのは事実だよね」

「あ、」

「良い意味でも悪い意味でも母親だって個人だよ」

 アカはしゅんとしたが、中学生なら母親が母親としか思えないのは普通のことだ。栞だってそうだった。

「母親だって個人だから自分の子どもと分かり合えないことだってあるんだよ。アカさんのおうちだって、アカさんを産んだ人なのにお母さんは小説も漫画も読まない人なんでしょう? 自分の考えを持つ一人の人間だからそうなるんだよ。そりゃ同じ家に住んでいたら嗜好が似る可能性はあるし、そっくりな親子だっていると思う。でもそうじゃない人もいる。それは、親だとしても血縁関係があるだけの他人だからだよ」

 人の目から鱗が落ちる瞬間を初めて見た。

 アカは瞬きもせずにもともと大きなつり目を更にいっぱい見開いている。

「あれ? 話が脱線しちゃったね。えーっと、だから、母親じゃない自分でいられるのって結構嬉しいんだよ。今こうやっているのとか、ホノマホを読んでいる時は私は凄く私で、だから――ホノマホが、私を、私に戻してくれたから、特別なんだって……思ってるっめ今自分で口にしてはじめて気づいたかも」

 たまこがホノマホを初めて読んだのは入院中のベッドの上だった。

 あくまでも念のための検査入院で何か重大な病気が見つかったわけではないと頭では分かっていたが、出産以来の入院はたまこの心を弱くさせた。

 気持ちが萎むと普段は気にも止めないようなことまで怖くなっていく。

 例えば、もしも今自分が死んでしまったとしたら、母親以外の自分はどこにも残らないな、とかそんなことだ。

 悪い方に向かっていく思考を潰すためだけに、たまこはその日ホノマホを読んだ。

 文章を目にしながら深く考え事をするのは難しい。積み本も片付くし一石二鳥だと思った。その程度だったのだ。

 それなのに、文字の中で全身全霊で生きている強く脆い少女たちが、たまこに思い出させてくれた。

 小説にのめり込む、わくわくする気持ち。

 何かに熱中して没入する時間。

 それは、生活だけが日々の中心になってしまっていたたまこにとって幸福な熱だった。

「……なるほどね、これを、書こうかな。せっかく気づけたわけだし」

「いいと思いますよ。たまこさんのも皆さんの書かれるものも読むのが楽しみです」

 会話に一区切りがついてしまったのをゆるんだ空気が示す。だがアカに視線を向けてみると、目を見開いて固まったまま何かを考えていた。

「アカさん、どうしました?」

 手をひらひらさせながらそっと声をかけると、時間が動き出したように彼女はゆっくり止めていた息を吐いた。

 二回深呼吸をすると、アカはまとまらない頭の中身をそのまま引っ張り出しているようにたどたどしく話し出す。

「親と、考えが、違っていても、普通、なんですか?」

「そうだね。だって、私と息子は同一人物じゃないからむしろ当たり前だね」

 なんでもないことのようにたまこはさらっと自分の答えを返した。

「……親と、だって、違っていてもいいなら、皆が個人で、それが普通なら、親じゃなくても、あの、クラスメイトとか、なんか、世の中? とかと、考え方、とか、気持ち、とか、多数派じゃなくても、それがもし、自分一人が思っているようなことだったとしても、間違い、じゃなくて、それは、それが、普通なら、私は私を、変えなくても、いいんでしょうか」

 痛切な問いだった。

 両親と共通言語がないことをアカはずっと気にしていた。栞も朔もたまこもそれには気づいていたが、悪意はなくともアカの両親には嘘をつきアカとこうして会っている。

 だから、家族の事情に踏み込みすぎて何か問題が起きることを恐れていた。

 アカから直接助けを求められない限りは口出しをしないようにしていたのだ。

 中学生が、自分から助けてなんて言えないと知っていたのに遠慮をした。そうやって距離を取ってしまったから彼女の悩みの表層しか見えていなかった。

 アカにとって親と自分の違いというものは、あくまでも起点だったのだ。

 親がそうであるならクラスメイトやそれ以外の誰かもそうなのではないかと思ってしまった。

 一番身近な他人を基準にしてしまうのは当たり前だろう。それに対して視野が狭いと賢しらげに注意するような真似は栞にはできない。

「アカさんが――何について言っているのかは分からないけれど、少数派って間違いって意味じゃないよ。ただ、全体を見れば少数派になったというだけだよ。それにそれが九十九対一でも五十一対四十九でも言葉でくくれば少ない方が少数派になるんだから、あんまりあてにならないよね。私は、誰かを基準にして自分の考えや気持ちを変える必要はないと思う」

 口火を切ったのはたまこだった。自分の意見を口にし終えると、たまこは朔と栞に次を促すような目線を向けた。

「私もそう思いますよ。それにほら、前にも話したじゃないですか、本を読まない人は多いって。でも、ここに四人もホノマホの――小説のファンが集まってるわけです。例え世間からすれば少数派かもしれなくてもここでは多数派に変わる。状況や環境によって変わる曖昧なもののために自分の気持ちを曲げる必要はないと思いますよ」

 二人の話を聞きながら、自分はアカに何を伝えるべきなのだろうかと栞は考えた。

 アカは中学生の栞とは違う。

 似た経験をしていたとしても違う人間だ。それでも結局は、自分の経験からしか、自分の内側にある言葉しか見つからなかった。

 きっとどれだけ想像を巡らせたとしても、ないものを渡すことはできないのだ。

 だから、栞は栞の言葉を渡すしかない。

「私は、親に否定されながら大人になった人間です。考えだけじゃなくて、あらゆることを否定されました。だから親に否定される気持ちがどんなものなのかを知っています」

 子どもにとっての親はどうしても特別な存在だ。

 親の言葉は生涯のこる。心に消えない澱をつくる。

 栞はもう母とは決別した。けれど、これから先も一生頭の片隅にあの人は残り続けるだろう。それはもう自分の意思でどうこうできるものではないのだ。

 親の言葉というものは、子どもにとってはそれくらいの影響力がある。

「否定されると自信がなくなる。どれだけ自分の気持ちを信じたくても、誰かが肯定してくれたとしても、親から投げかけられた否定の言葉一つで簡単に折れてしまう。けど、そうなってしまう自分を弱いと思ってはほしくはないです。私だってそうだった」

 親から愛されたい。肯定されたい。そう思う気持ちは当たり前なのだ。それを拒絶されて傷つくことを弱いと言いたくない。誰かに思ってもほしくない。

「私も、自信が、なかった。自分の考えに、自分の好きなものに、自分の存在に、自信がありませんでした。自信がないから、人と話すことが怖かった。自分の考えを口にするのが怖かった」

 ホノマホのことだけじゃない。本当に些細なことすら自分の意思で選ぶのが怖かった。

 誰かと食事に行って、何を食べるか決めること。

 誰かと出かける時に行き先を決めること。そんなことだって否定されることを考えると、口にするのが怖かった。

「……でも一年前の、あの日、私はアカさんを見つけた。アカさんが、同じ――世界に、いてくれた。それが私はすごく嬉しかった。アカさんがいてくれたから私は私の気持ちを口にすることができるようになった。だって、会いたかったんです。あなたに会いたかった。ホノマホのことが、ルビーとリオを好きな人が、今同じ時間を過ごしている人のなかにいる。それがどれだけ、嬉しかったか……。アカさんがいたから、私は朔さんとたまこさんにも会えた。あなたが私に沢山のきっかけをくれたんです」

 どん底だったあの時に見つけたアカの『誰かとホノマホの話がしたい』という言葉がどれほど栞の支えになったか、彼女は知らない。知らなくていい。

 アカの「フィクションと現実は別物ですよね?」という言葉に取り繕えないほどに動揺したのは、アカに過去の自分を重ねていただけではない。

 アカが、栞にとって、救いだったからだ。

 たまたま最初に栞が見つけられたのがアカだっただけで、それが朔であったり、たまこであった可能性だってある。三人以外の誰かだった可能性もある。

 けれど、あの日、自分のからっぽさがどうしようもなく耐えがたく何もかも全てが消えてなくなりそうだった栞をつなぎとめてくれたのは、アカの存在だった。

 勝手に救われただけだ。だからアカは栞の事情なんて知らなくていい。伝える気もない。

 ただ、栞と出会ってくれた、そこにいてくれた彼女に、栞はほんの少しでも大人になるのも悪くないかもなと思える未来を手渡したい。そう思える言葉を渡したかった。

「これからも、アカさんの親はアカさんの好きなものを否定するかもしれません。私だって認めたくなかったけれど、家族だから絶対いつか分かり合えるなんて、夢みたいな話なんです。現実にハッピーエンドはない。血縁関係があったって一生平行線のまま終わることだってある。クラスメイトの子とだって、これからアカさんが出会うであろう沢山の人たちとだって、分かり合えなかったり、社会と関わりあう中で自分が少数派になってしまう場面はきっとあると思います」

 子どもに希望を持ってもらいたいと思っても、悲しいことに現実は優しくできていない。理不尽で、どうしようもなくて、虚しくなることが沢山ある。

「――でも、否定する人がいるのなら、肯定する人だっている。絶対にいる。一人になんかならない。私がアカさんを見つけたように、きっといるんです。例え隣にはいなかったとしても、どこかにきっといるんです。だからアカさんは、アカさんの気持ちを、考えを、捨てなくていい。変わらなくていい。アカさんのままでいていいんです。大丈夫。どこにいたって、あなたは、一人じゃないです」

 話し終えた栞を、アカはまっすぐ見つめている。

 彼女はずっと静かに耳を傾けていた。

 子どもは大人が真実自分に向き合ってくれているのかどうかに敏感だ。アカはそれに気づいたのだ。

 彼女の胸には今じんわりと何かが宿ろうとしていた。頭で理解できるほど育つにはまだ時間がかかるだろう。しかしそれは、やわらかな輝きとして彼女に届いた。

「話すの、下手って、言ってたのに」

 大きなつり目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれていった。

 こぼれ落ちた涙を追いかけるように涙は次々と流れていく。彼女の涙は綺麗だった。

「人と話すの、怖いんじゃ、なかったんですか……?」

 いつも快活だった声が今だけは潤んでいて消えそうなほどに小さい。

「皆さんに会って、私、変わったんです。今の私、結構良いと思いませんか?」

 冗談めかして言うと、涙を手の甲でごしごしぬぐったアカは顔をくしゃっとさせて笑った。


 薄紫色の背表紙を持つ文庫本は少し色褪せている。

 ぱらぱらとページをめくりながら一体何を書けばいいのかと栞は頭を悩ませていた。

 二月も半ばになり、全員で制作する部分はすでに大枠がまとまった。

 頭の方は漫画などで見かけるファンブックのようにしてみようという方向で話がまとまり、一巻ごとに一ページ使って内容紹介を載せることになった。

 ホノマホは全十二巻なので三巻ずつそれぞれ自分の好きな巻を担当することになり、その中で、栞は三巻と十一巻、そして最終巻について書くことになった。

 ホノマホの最終巻を読んだのは、高校二年生の秋だった。

 読み終わってしまえばこの物語が本当に終わってしまうのが淋しくて、惜しむように一ページ一ページをかみしめるように読んだ。

 終わらないでほしいという気持ちと、ルビーとリオの未来を早く見届けたい気持ちで、購入したその日にはあとがきまでたどり着いていた。

 本に涙が落ちないように袖に涙を吸い込ませ、喜びと淋しさが身体を満たす中あとがきの最後に書かれている作者の名前を感謝をこめて見つめてから、高校生の栞は本を閉じたのだ。

 小説とは、物語とは、とても不思議だ。

 自分はどこにも行っていないし、何も成し遂げていないはずなのに、心がこんなにも揺れ動く。

 心の内側にもう一つの世界を作ってくれる。

 ただの文字の羅列が、人間の輪郭を作る。熱をもち、色彩を滲ませる。そうして生まれた人物が、読者を遠く遠くに連れて行ってくれる。

 現実にどれだけ絶望しても、内側に生まれた世界が力をくれる。

 まだ、生きていても、いいかもなあと、思わせてくれる。

 文字の中にしか存在していないはずの少女が、暗い暗い心の中の穴に落ちて消えてしまいそうな時、手を掴んで引っ張り上げてくれる。

 誰よりも遠いけど、誰よりも近くにいる女の子がここにいる。

 最終巻でルビーは十二巻分の時間で出会ってきた人々に背中を押され、魔女であるリオとも生きていける世界を自分の手で掴み取りに行く。

 ホノマホは十代向けの少女小説だが、根本的に人が善の生き物であるようには書かれていない。それはルビーであっても同じことだ。

 主人公のルビーにだって、人を憎む心、妬む心、自己保身、逃げたいという気持ちは存在していた。強くかっこいい彼女だってとても人間だったのだ。

 弱く、醜い。人の心を底の底まで見通せばきっと誰もがそうなのだろう。

 最終巻にたどり着くまでルビーもリオもそんな人間の弱さによって傷つけられ、苦しんできた。

 それでも、ルビーがいつだって立ち上がることができたのは、最後には誰かがルビーやリオを助けようとしてくれていたからだ。弱さを抱えながらも人の心にはちゃんと勇気だってそなわっている。それはきっと誰かの希望になるだろう。

 人間という生き物を心の底から嫌いにもなれば、いつだって期待したくもなってしまう。信じたくなってしまうのだ。あんまりにも、ホノマホに出てくる人々が傷つきながらも、人の強さを信じているから。そうして物語がハッピーエンドを見せてくれるから。

 最終巻を読み終えて、高校生の栞の心に浮かんだ気持ちを思い起こす。そうしていると頭の中に、ぽんと一つのフレーズが思い浮かんだ。

 物語をしめくくる一冊を表すなら、きっとこれしかないだろう。

 願っても、変わろうと努力しても、ぼろぼろになった穴ぼこだらけの栞の気持ちは、今もまだそれができないけれど、こう思う。

 ホノマホは、人を愛したくなる物語だ。

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