中編
恋多きわたしとは違って、その子には小学生の頃から片思いをしている相手がいた。けっこう人気のある目立つ男の子で、わたしは最初ふうん、なんて思っていたけど、でもそのうち、確かに好かれるだけのことはある人だと思い始めた。
元気でおかしなことばかり言っているかと思えばちゃんと気の付く優しい人で、そのやさしさがわざとらしくない。自然にさりげなく人のフォローをしてあげられる人。この人は大人だねえ、とわたしは感心したものだった。
聞いたところによると彼のお母さんは外国の人で、彼のお父さんが駆け落ち同然で日本に連れ帰り結婚したのだという。そのことで彼自身いろいろ思うことがあったらしい。
「そういう嫌なことを表に出さないのはマコちゃんと一緒だね」
そう言われたけどわたしは彼の方が何倍も偉いと思った。自分の性格に難があるのは自分がいちばんよくわかってる。人に決して優しくないことも。比べて彼は、本当に出来た人だった。
その彼にも好きな人がいるのだとその子は言っていた。
「だからいいんだ。片思いで」
わたしには逆立ちしたって到底言えないセリフだった。そのうえその子がわたし以上に親しくしている友人こそが彼の片思いの相手だと知ったときには、わたしはひっくり返りそうになってしまった。いやはや、感心もしたけれど、心の隅で怖いなあと思ってしまった。怖いよ、女の子って。
実は彼のお父さんは小さな貿易会社を営んでいる人で、結構なお金持ちらしかった。長男の彼は当然後継ぎで、それだけでわたしの食指を動かす要素は十分だったのだけど、何故かわたしは彼とだけは仲良くなろうとは思わなかった。
友達の好きな人っていうのも勿論だし、競争率が高そうだったし、そんな人をわざわざ選ぶなんてわたしらしくないと訳の分からない理由を付けて、彼のことだけは意識しないようにしていた。
そう、意識しないふりをしながら、その実めちゃくちゃ意識していたんである。大人になって思ってみれば、あれが私の初恋だった。自分では認めなかったけれど、あれが確かに初恋だった。
本人よりもその財産を愛している男にならいくらでも積極的になれるのに、本当に好きな相手には何もできなくなる。嫌われたら怖いから。昔から私はこういう馬鹿で臆病な奴だったのだ。
中学時代にわたしが全力を注いで尽くしたのは同級生のウエハラくんという男の子だった。そこそこ勉強ができて、そこそこ運動もできてサッカー部のレギュラーで、だけどイケメンというわけではなかったから彼を好きだと言う女の子はわたしくらいだった。
所詮子どものときにモテるかモテないかなんてのは、カッコイイか悪いか、人を楽しませる才能があるかないか、この二種類だけだと私は思ってる。ウエハラくんにはこのふたつはなかったけど財産はあった。わたしにとっては願ったりかなったりの人だったんである。
ウエハラくんの家は昔からの地主で大きなマンションをいくつも所有していた。わたしの見る限り学校でいちばんのお金持ちだった。本人の性格はいたって男らしくさっぱりしていて無頓着なくらいで、こういう男の方が御しやすいと思ったわたしはひとりほくそ笑んだものだった。
ところが、ところがである。彼は重度のマザコンだった。
一度だけ彼の御屋敷に遊びに行ったとき、彼のお母さんはよくは思ってないなというのをヒシヒシ感じた。中学生なんだから学校のことだけを一生懸命やってればいいというふうな困り顔。ウエハラくん自身はと言えば、ババアはいちいちうるさいとかババアが家にいないとせいせいするとか、そんなことばかり言っていた。
あるとき、彼の愚痴を黙って聞いているのにも飽きて、わたしはポロっと彼のお母さんを非難するような意見を言ってしまった。そしたらまあ、
「余計なこと言うんじゃねえよ!」
とウエハラくんは激怒した。自分が母親をけなす分にはいいけれど、他人にそれをされると腹が立つらしい。身内だからこそ悪口を言えるのであって他人に言われると気に障るって気持ちはわからなくはなかったけれど、それにしてもウエハラくんのはちょっと異常だった。目の色が変わってたもの。
思うに、彼の悪口は愛情表現だったんだね。ほーら、お母さんはこんなに僕にかまってくれる、嬉しいなって。ママがいないと何もできないっていうのだけがマザコンじゃないんだと私は中学生にして学んだ。
ひとつ利口にさせてもらったことには感謝して、わたしは速やかにウエハラくんから手を引かせてもらった。男がみんなマザコンだとしても程度の差ってものがある。
中学生でわたしが知ったことがもうひとつある。自分の優秀さについてだ。
小学生では勉強なんてどんぐりの背比べで頭の良し悪しより運動能力の差がものをいった。それが中学生ともなると成績の差というのが如実に表れておもしろいくらい学校生活に影響してくる。
ネクラだのとろいだのとわたしを散々みそっかす扱いしていた母親はころりと態度を変え、弁護士さんになれだの女医さんになれだの言いだした。現金なことこのうえない。でもこの事実はわたしにちょっとした衝撃を与えた。
わたしの能力があれば男を当てにしなくても生きていける。頼らなくても生きていける。
そう自覚してから私は人生の指針を百八十度変えた。男の子なんてそっちのけで勉強に打ち込みだしたんである。元来真面目で地味な性格の私にとって机に向かいっぱなしになるのは苦ではなかったし、それで良い結果が得られれば嬉しかったし張り合いにもなった。
高校、大学ととんとん拍子に進み就職氷河期と言われている中、私は大手の出版社で文芸誌の編集員として働き始めた。母親はどうしてもっと高収入の職に就かなかったのかとぐずぐず言っていたが一切無視して通した。野望なんて持たない方がいいに決まってるし、それよりも自分のささやかな夢をかなえたかった。そういう境地に私はなっていた。
そして私は自立という念願を果たした。自分一人の生活を、自分一人の力で支える。誰にも干渉されずにひとりきりで暮らすこと。人によってはそれを寂しいというけれど、孤独を好む私には寂しいくらいがちょうどよかった。
何もいらないと思った。誰もいらない。将来への不安はあったけれど、どうせいつ死んだっていいんだから、と思うと気が楽になった。もともと自分だけがかわいい利己的な人間なのだ、私は。それなら最初から自分一人のことだけを考えて生きていきたい。