憑いて喰われる話⑵
僕らが訪れた公園では、度々女の幽霊が目撃されているという。
数年ほど前に、若い女性の首つり自殺があったそうだ。
それ以来、夜になると誰もいないのに苦しむような女の呻き声が聞こえるとか、木の上から青ざめた女の首が降ってくるとか、車で付近を通りかかったら、目の前に白い人影が飛び出してきて消えたとか、そんな話が後を絶たない。
だが、内心僕は不幸な事故や事件があった場所にありがちな、尾ひれのついた、ただの噂に過ぎないと思っていた。
そこは森林公園で、普段はたくさんの人たちで賑わう場所だということが伺える。
公園に隣接している駐車場に車を停めると、未だに爆睡しているIを起こして三人で公園内に向かった。
Mはというと、特に何か喋るでもなく僕らの後をついてくる。
もっと何か感じるとか、どこがヤバいとか言ってくるものだと思っていたので、少し拍子抜けしてしまった。
まあ、そもそも噂自体が作り話であるなら、何も感じなくて当然なんだろうけど。
それから僕らは遊具のある広場に公衆トイレ、池に噴水と、あらかた探索したが、結局何も起こらず。
Mも始終黙ったままだった。
やっぱりただの噂にすぎないのか。ほっとしたような、残念なような。
帰りはMが運転してくれることになり、僕は助手席、Iは変わらず後部座席に座った。
Iは後ろから身を乗り出し、Mにやや食い気味に聞く。
「――M、お前本当に何も見なかったのか?」
「見たけど」
意外な返事に、僕は目を瞬かせた。
「はぁ? じゃあなんで言わねんだよ!」とIが喚く。
「どうせ言っても二人には見えないし、下手に教えたらパニックになると思ったから」とMは言う。
そんな気遣いは無用。詳しく説明しろと騒ぐIに、Mは前方を見たまま大きなため息をつくと。
「言っていいの?」
「……いいよ。大丈夫」
今度は僕が答えた。
このままではIがずっと五月蠅い。
Mは僕を横目で見やると、おもむろにマスクを下げる。
初めて見るMの顔は、やはり薄暗くてよく見えない。
「途中で休憩したベンチで、Tさんの上から人の足がゆっくり降りてきたのが見えた。……男か女かはわからなかったけど」
頭から冷水を浴びせられたみたいに僕の身体から血の気が引いた。
思わず身震いする。
Iは「マジかよこえー!」と興奮気味にしばらく一人で騒いでいたが、
「でも、やっぱり見えなきゃつまんねーよな」
と言って、シートに倒れこんだ。
「……ほんと、見せてやりたいわ」
小さなため息の後、微かに笑ったようにMが呟いた。
その言葉は、僕にしか聞こえていないようだった。
僕はあえて聞こえないフリをして、窓から見えるシルエットのような景色をひたすらに眺めていた。
それから無事に地元まで帰ってくると、時刻はすでに午前0時を回っていた。
Iの提案で、何故か僕の家に行くことになった。
だが、正直ひとりでアパートに帰る勇気もなかったので、ここは素直にIの提案に応じた。
僕は進学を機に今のアパートに引っ越してきて、今年で二年目になる。
築年数は少し古かったが、管理人さんは優しくて良い人だし、幸い住民トラブルなどもなく、自由気ままな一人暮らしを満喫していた。
人を呼ぶのは、家族以外では今回が初めてだ。
当然Mは帰るだろうなと思っていたので「送るよ」と言ったのだが、彼は首を横に振った。
なんだかんだ言って、Iに懐いているんだなとその時の僕は少しほほえましく思っていた。
「言っとくけど、布団二枚しかないから雑魚寝だぞ」
「平気平気。ってか、どうせ寝ないだろ?」
そう言っていたIは布団に横になった途端、3秒も経たずに眠ってしまった。
「何が寝ないだろ、だよ。爆睡じゃねーか」
このとき僕は、Mと二人きりにされて少し気まずさを感じていたので、僕らを置いて先に眠ってしまったIを恨めしく思った。
なんとなくテレビをつけて気を紛らわすが、相変わらず会話がない。
するとMが「シャワーを浴びたい」というので、僕は少しほっとした。
Mの後に僕もシャワーを浴びた。
髪を洗っている最中、色んな妄想が頭を過り、その度に背後を気にしては怯えていたのだが。
結局なにも起こらなかった。
まあ、そんなものだ。
それにしても、なんだかどっと疲れたな。
やっぱり、心霊スポットなんて行くもんじゃない。
そんなことを考えながら部屋に戻ると、Mは布団に横になって寝息を立てていた。
マスクを取ったMの顔をまともに見たのは、この時が初めてだった。
目鼻立ちが整っていて、意外と童顔だった。あどけない寝顔はさながら少年のようだ。
僕には年の離れた弟がいるので、なんとなくMとだぶらせてしまい、不覚にも少し可愛いなと思ってしまった。
「僕も寝るかぁ」
電気を消すと、唯一空いているIとMの間に腰を下ろす。
誰かとこんな風に寝るのはいつぶりだろう。
二人に挟まれて安心したのか、僕は目を瞑るといつの間にか眠ってしまった。
それからしばらくして、息苦しさに目を覚ました。
窓を見やる。真っ暗だ。
変な時間に目が覚めてしまったと思ったが、またすぐに眠気がきて、うとうとし始めた時だった。
どこからか、何かを引きずるような音が聞こえてきた。
ズッ。
ズー……、ズルッ。
ズズッ……ズッ……。
畳を這いずるような音。
なんだろう? 僕は眼球を動かして音の位置を探った。
すると、自分の腹の辺りに二本の太めの棒みたいなものがぶら下がっているのに気がついた。
闇の中、それは青白く光るように、ボゥ、と浮かんでいるように見える。
ぼんやりした頭のまま、暗闇に目を凝らす。
その瞬間、ぎょっとした。
それは足だった。
だらりと垂れ下がった人間の足が、ぷらん、ぷらんとその場で小さく揺れている。
僕はとっさに身体を動かそうとするが、ピクリともしない。
声を出そうとしても、喉から息がもれるばかりで音を発することができない。
心臓がどくどくと胸の内を叩く。
足はまだ同じ場所で揺れている。
怖かったが、寝たふりをしていればやり過ごせるかもしれないと思い、僕は固く目を瞑った。
直後、何かが腹の上に落ちてきて、その衝撃で反射的に目を開けてしまった。
女の顔があった。
青白く粉をふいた肌。血走った眼球が今にもこぼれ落ちそうなほど見開かれ、乾いてひび割れた薄い唇はうっすらと開いて透明な液体が顎のラインを伝う。
あまりの恐怖に、頭が一瞬真っ白になった。
「……た、すけ……」
震える女の口から漏れた言葉を最後まで聞く前に、女は仰け反るようにして僕から剥がれると、目の前から姿を消した。
何が起こったのか分からずしばらく呆然としていると、いつの間にか金縛りが解けていることに気づいた。
首筋と額に冷たい汗が伝う。
シンと静まり返った部屋に、自分の荒い息遣いだけが聞こえる。
少し落ち着いてきて上半身を起こす。
そこで僕は目を見張った。
暗闇の先で、何か巨大な黒い塊が蠢いている。
するとどこからか、不気味な音が聞こえてきた。
バキッ、パキッ。ミシッ!
グチャッ、ニチャ……、グシュッ。
そこでふと、脳裏に肉食獣が獲物を貪り食べている光景が浮かんだ。
肉を引き裂き、内臓を抉り出し、骨を噛み砕く。
あまりにも凄惨なシーンが頭に浮かび、思わず叫びそうになったところで誰かに口を塞がれた。
そこには隣で寝ていたはずのMの姿。
「Mく……」
Mは人差し指を自分の口元に当て「声を出すな」と目で合図をする。
僕は身を竦めて必死に声を殺した。
しばらくして音は止み、やがて蠢いていた塊はゆっくりと起きあがると、”もぞ、もぞ” と動き出した。
畳から壁、壁から天井。
移動している。
気がついたら、音の進む方を自然と目で追っていた。
そこで僕は初めて、その黒い塊の正体を見た。
蜘蛛だった。
正確には、蜘蛛のような形をした毛むくじゃらの巨大な化け物。
それが肉塊のようなものを咥えて、天井の中へスルスルと消えていったのだ。
静まり返る部屋。
現実味のない出来事に、しばらくぽかんとその場に座り込んでいると、Mが立ち上がって電気をつけた。
突然の光に目がくらむ。
やっと目が慣れてきて、あたりを見回した。
部屋はいつもと変わらず、どこも異常はない。
Iはというと、相変わらず気持ちよさそうに寝息を立てていた。
僕はその姿を見て安堵したのか力が抜けてしまい、その場に倒れ込んでしまった。
その後はあまり覚えていない。
たぶん、そのまま気を失ってしまったのだろう。
ただ、こちらを見下ろしているMの顏だけは、やけに鮮明に覚えている。
***
早朝。僕はIに叩き起こされた。
こんな早くに何だと問うと、汗でベタベタで気持ち悪いからシャワーを貸してくれという。
ああ、そういえば。
昨晩Iはシャワーを浴びてなかったんだっけ。
僕は寝ぼけ眼でIをシャワールームに案内すると、もう一度寝直そうと部屋に戻った。
襖を開けると、さっきは気がつかなかったがMが起きていて、隅でスマホをいじっていた。
「あ、おはよう」
何の気なしに声をかけた。
すると、Mは僕を見上げて「おはよう」と返してきた。
小さかったが、確かに聞こえた。
僕は思わず「えっ」と声を上げてしまった。
「なに?」と怪訝な顔で見上げるM。
「いや、まともに返してもらえるとは思ってなかったから」
口が滑って、つい失礼なことを言ってしまった。
だがMは気にしていないようで、スマホの画面に視線を落したまま、「やっぱり、あの女はアンタにくっついてきたみたい」と言った。
「……ってことは、やっぱり昨日のあれは夢じゃなかったんだ」
もしかしたら全部夢だったのかもしれないという淡い期待は、Mの言葉で完全に消滅した。
話を聞くと、昨晩、女の霊が僕の前に現れたとき、Mも金縛りに合っていたそうだ。
そして、あの蜘蛛のバケモノが女の霊を狩ると、金縛りが解けたのだという。
「あの蜘蛛は、結局何だったの?」
「さぁ? 知らない」
僕は肩を落とした。
「最初はよくこんな部屋住めるなって思ってたけど、少なくともアレはアンタに危害を加えるつもりはないみたいだよ。今のところは、だけど」
確かに、あのバケモノの姿を見て驚きはしたけど、不思議と女の霊のように怖いとは感じなかった。
まあ、霊を食べていたのはすごく怖かったけど。直に見ていないにしても、グロいのは駄目だ。
「でも、なんで?」
僕が首を傾げると、Mは心底面倒くさそうに眉をしかめた。
どうやら彼は思ったことが顔に出やすいタイプらしい。
「自覚ないみたいだけど、アンタは引き寄せやすい体質なんだよ。で、昨夜のことから察するに、あのバケモノは霊を喰う存在。つまり、ここはアレの巣で、アンタは獲物をおびき寄せるための餌だってこと」
「でも、できれば早めに引っ越した方がいいよ」とMは言う。
そこで僕はふと思う。
もし、その引き寄せる力がなくなってしまったら?
僕はどうなってしまうのだろう。
お払い箱は、やはり喰われてしまうのだろうか。
なんだか複雑な気持ちだが、不思議と怖いとは感じなかった。
今の平穏無事な生活がキープできるのなら、それでもいいかもしれない。
まるで他人事のようにそう思った。
ところで、このとき僕は少し嬉しかった。
Mが、昨日とは比べ物にならないくらい喋ってくれるようになったからだ。
もしかしたら本当にただの人見知りだったのかもしれない。
「何にやにやしてんの?」
「え? あ、いや。別に」
すると突然、シャワールームから「うぉえぇええッ」と、嘔吐く声が聞こえた。
思わず身を竦める。
「な、なんだ?」
「ああ、I先輩も、見えないけど中てられやすいタイプだから」
慌てる僕とは裏腹に、Mは慣れているようで、スマホをいじりながらさも興味なさそうに言う。
それを聞いて、僕は昨晩のことを思い出す。
たしかに、あんな状況下で平然と眠っていられるなんて、どんだけ図太い神経してんだと思ったが、Iも影響を受けていたのだ。
しばらくして、Iがよろよろと部屋に戻ってきた。
「大丈夫か?」
「うー、なんか急に気持ち悪くなって……。冷房で冷えちまったのかなぁ」
思わずMの方を見る。お互い目が合った。
僕は苦笑いする。
悪い、I。うちに冷房は、ない。
***
それから今日まで、あの部屋では幽霊も蜘蛛のバケモノも見ていない。
だが、困ったことが一つだけある。
どうやら僕はあの日以来、少しそういうものに敏感になってしまったようだ。