05 金曜日 アルバイト
金曜の夜。ベルは支度をして部屋で待っていた。
ドアがノックされると同時に声がする。
「ベル、いる? 迎えに来たよ」
シャペルだった。
ベルはちょっとした手荷物を入れたバッグを持つと、ドアを開けた。
「行きましょう」
「荷物があるなら持とうか?」
「大丈夫よ」
二人は正装である。普通に見ると、これからどこかの夜会や催しに一緒に行くような装いだった。
馬車はすでに待機していた。勿論、シャペル専用の馬車だ。通勤用である。
「さすがお金持ち! 凄い馬車に乗っているわね」
ベルは感嘆した。
外装はいかにも地味な黒い箱馬車だが、中は違う。
豪華絢爛な内装で、通常の馬車よりも広々としていた。
「見た目は大きくないのに、中は広く感じるわね?」
「そう? いつも乗っているからわからないな」
「うちの馬車が狭いのかしら? 普通のサイズだと思うけれど」
「これは結構新しい。両親が馬車を買い替えるとお古をくれる。それぞれが複数台所有しているから、いらなくなる馬車の数も多くてね。わざわざ自分で買う必要がない。買いに行く暇もないし、特注の馬車は作るのに時間がかかるから丁度いい」
ベルは金持ちのボンボンらしい説明だと思った。
「お古なわけね、これで……」
「これは母のお古。女性に優しい馬車だ」
ベルはキョロキョロと馬車内を見渡した。
「まあ、女性的な内装といえばそうね。豪華ともいえるけど」
「ちょっとごめん」
シャペルはかがみこむと、ベルの足元に顔と手を近づけた。
「ちょっと?!」
「動かないで。蹴られると痛い。それから、足を上に浮かせてくれる?」
「上に浮かせる?」
「できる?」
「こんな感じ?」
ベルが揃えた両足を上に浮かすと、シャペルはベルの足元、椅子の下の部分を引き出した。
「足台がある。これで、足が下につきやすくなる。楽になった?」
「いいわね! 楽だわ!」
女性と男性では身長差があり、足の長さも違う。
そうなると、丁度いい座高の高さも違う。
馬車は普通の座高だが、女性にとってはヒールの高さなどがあっても足が下に届きにくく、疲れやすくなってしまう場合もある。
そこで、椅子の下に足台が収納されている。足台を引き出して使えば、足が疲れにくくなる。
「クッションも柔らかい。ベンチというよりは、ソファに座っている感じにしてある。スプリングを利かせているんだ」
「そうかも。ソファみたい」
「その分、馬車に酔いやすいかもしれない」
「でも、とても静かだし平気だわ」
「技術的な工夫がしてある。近場なら全く問題ないよ。すぐ着くしね」
「もしかして、酔いやすいから嫌だってお古になったの?」
ベルがお古になった理由を尋ねた。
「馬車の中で赤ワインをこぼした。綺麗にクリーニングしたけど、よく見ると少しだけ染みが残ってしまってね。張地や中綿を変えるにしても、特注品の張地は時間がかかる。面倒だから買い替えるという話になって、染みつきの馬車は処分すると言い出した。だから貰った。通勤用だし、一度こぼしているなら、またワインをこぼしても平気だと思って」
「考えようによってはそうかもね」
ベルはシャペルの母親の気持ちを理解できた。
女性にはよくいるのだ。ワインや食事の染みを気にする者が。
女性のドレスは男性の衣装よりも淡い色が多く、汚れが目立ちやすい。クリーニングしても染みがうっすらと残ってしまうこともある。
ブローチやコサージュをつけるなど、そこだけうまくカバーする者もいる。
しかし、裕福な女性ほど、一回着たドレスは大抵それで終わりだ。二度と着ない。出番がない。汚れているなら捨てるという判断をする。
ディーバレン伯爵夫人は裕福だけに、馬車も同じような感覚なのだろうとベルは推測した。
「でも、しょっちゅう馬車を買ってたら、物凄くお金がかかりそうね」
「そうでもない。これは格安」
「そうなの?」
格安の馬車には見えない。
恐らく、金持ち感覚の格安に違いないとベルは思った。
「これは担保の差し押さえ品。銀行から借りたお金が返せないというよりは、もう担保を持って行ってくれって話でね。普通は競売にかけてなるべく高く売る。それで貸し付けたお金を少しでも多く回収する。でも、母が気に入ったから最低価格で落札したことになった」
「だったらかなり得してそうね」
「中古品でいいならそうだね。でも、染みつきは許せなかったらしい。むしろ、安く手に入れたからこそ、我慢したくなかったんだと思う。自分がこれを特注していたら、その分は思い入れがある。こだわり抜いたデザインとかね。それがないからいらないってなった」
「納得だわ」
「いくらだと思う?」
「購入価格?」
「そう」
「最低って言ってたけど、一ギールとかじゃないわよね?」
シャペルは笑った。
「さすがにそれはないよ。お金を貸したわけだから、貸した額程度の価値があるって馬車だよ」
「それもそうね」
「この馬車を特注した際には、百万ギールかかったらしい」
「えっ!」
ベルは驚愕した。
「そんなにするの?」
「特注は元々高いよね? しかも、途中であれこれ変更したりオプションつけたりとかいっていると、どんどん高くなる」
「まあ、そうだけど……」
「査定は厳しいから十万ギールだった」
査定の厳しさをベルは感じた。
しかし、銀行はボランティアではない。厳しく査定をするに決まっていた。
「じゃあ、十万ギールで買ったの?」
「いや。オークションというのは少し安い金額から始まる。これは母が欲しいというのもあって、五万。普通の馬車と同じ価格だ」
まあ……金持ちにはそうでしょうけどね。
ベルも貴族の令嬢だ。どちらかといえば裕福な方であるため、一般的な感覚とは言い切れない。
しかし、イレビオール伯爵家はお金に対して非常に厳しい。
成金趣味は絶対に駄目だときつくいわれている。
イレビオール伯爵家は古い家柄だが、跡継ぎが名乗るヴィルスラウン伯爵位は新興の爵位であるため、あからさまに金遣いが派手だとすぐに悪く言われてしまう。
母親は一目置かれている青玉会の正会員であるからこそ、女性でも自立して自ら収入を確保すべきという教育方針を持っている。そのせいで小遣いは一般的な貴族の女性とあまりかわらない。
必要なもの、ドレスなどは買って貰える。予算の中から経費で落とす。但し、予算は両親が厳しくチェックする。
本当にベルが自由に使えるお金、小遣いは決して多くはなかった。
カミーラは率先して母親の手伝いをすることで小遣いを上乗せして貰っている。だが、ベルはカミーラほど手伝いをしていない。
そのせいで小遣いは少ないままだった。
「ベルは自由な小遣いが少ないらしいね? イレビオール伯爵夫人の教育方針で」
ベルのことが好きなだけに、シャペルはしっかりと情報収集していた。
「だから、アルバイトもするって聞いた。こういうのとか、夜会に一緒に行くようなものとかも」
「今更隠しても仕方がないわね。そうよ。貧乏で悪かったわね!」
「カミーラみたいに家の仕事を手伝えばいいのに。そうすれば小遣いが上乗せされるよね?」
「みんなそう言うけど、書類仕事は向いていないの。性格的にね」
「まあ……仕事にも好き嫌いはあるね」
シャペルも書類仕事が得意なわけではない。能力や嗜好を考えれば、騎士向きだ。官僚になるしかなかったからこそ、渋々しているだけに過ぎない。
だからこそ、側近として下っ端でもいいと思っている。執務補佐官として書類に囲まれて部屋に籠るよりも、あちこち動き回る仕事の方が断然いいとも。
「私は社交が好きなわけでも上手ってことでもないわ。でも、ダンスは好き。だから、踊ってお金を稼げる方がいいの。楽しく稼ぐことができるわ。とはいえ、踊り子にはなれないわ。イレビオール伯爵家の名誉にかかわるから」
「そうだね」
「それに、踊り子も練習とか厳しいし、食事制限もあるし、シビアな世界よね。お金持ちのパトロンが必要とか」
「そうだね。結構シビアだと思う」
「だから、踊り子になろうとしても無理。私は楽しく踊りたいだけだから。美しく踊ってお金を稼ごうってつもりはないの。最高に芸術的な踊り手になろうって野望もないのよ。だから、アルディーシアの向上心は凄いと思うわ」
シャペルは眉を上げた。
「仲いいの?」
レイジング公爵令嬢のアルディーシアはダンスにかける意気込みが違う。
母親はレイジングス公爵がパトロンを務めていた踊り子のため、出生時の身分は平民だ。父親が養女として引き取ったために公爵令嬢になったものの、何かと母親のことを言われ、蔑まれて来た。
アルディーシアは母親譲りの才能で見返してやるといわんばかりにダンスの技能を磨き、その才能を開花させることに成功した。
今では多くの貴族達がアルディーシアの才能を認め、エルグラード屈指の舞踏家の一人だと言われるまでになった。
そういった出自や経緯もあって、アルディーシアは公爵令嬢であるにもかかわらず、王立学校や花嫁学校には通っていない。
家同士が親しいわけでもなく、出入するような場所も違う。王宮の公式行事等で見かける程度で、個人的に親しくなるような接点はなかったように思われた。
「側妃候補として入宮していた時に話したのよ。それがきっかけで仲良くなったの」
「そうなのか」
「アルディーシアは美しきダンスの会に入っているの。誘われたんだけど、あそこは本当に美しいダンスを踊ることを目指す人達ばっかりで……厳しいの知っているから断ったわ」
ダンスを愛好するグループは多くある。勿論、どのような趣旨か、気風なのかもかなりの差がある。
白蝶会は踊ることが好きな女性が集まっているものの、個人のダンス能力は重視されていない。好きならダンスが下手でもいいのだ。
しかし、アルディーシアが所属しているようなグループは個人のダンス能力を向上させることが目的であるため、能力審査に合格しなければ入会できない。
入会後も集まって練習し、技能を上げる。または、美しく踊るための研究をすることがメインの活動だ。
他にもダンスは好きなものの、踊るのではなく鑑賞するのが好きという者達のグループもある。
ダンスが上手い者、踊り手のファンクラブも多数ある。まさに多種多様なのだ。
「美しきダンスの会はレッスン料もあって年会費も高いのよね」
「あちこちグループを掛け持ちすると、金銭事情による都合も出てくるだろうね」
「シャペルはいいわね。少なくとも金銭的事情で判断しなくてよさそう」
「かもしれない。でも、時間の都合はある。誰だって一日二十四時間しかない。一カ月、一年だって同じだ。一人だけ一日多いなんてことはない」
「まあね。でも、自由に使える時間は多そう」
「これからはきっと少なくなる一方だよ。やることが増える。本当は家業も手伝わないとだけど、免除されているんだ。二つ爵位を持てば、余計に仕事が増える。遊べないよ」
「そうね。領地だけでなく、家業もあるものね……」
シャルゴット家は三つの広大な領地を持っている。領地経営だけで十分収入がある。それと切り離したような家業はない。
商業的な事業をしていても、それは領地経営の一環でしかない。
「領地経営だけだって大変なのに、よく銀行なんかやるなあと思うよ。でも、銀行をしているからこそ、領地経営にも都合がいいのはあるしね」
「なんとなくだけど、シャペルは賢い女性と結婚すればいいと思うわ。そうしたら、領地経営か銀行の仕事を手伝ってくれるんじゃない? 逆にやりたい女性だったら、任せちゃえば楽だわ。私よりカミーラを狙うべきじゃない?」
シャペルは苦笑いをするしかない。
「ヘンデルもそう言われてそうだなあ。賢い女性がいいだろうって」
「物凄く言われているわよ」
「でも、無理だね。女性には任せられない」
ベルは途端にムカついた。
「女性軽視だわ!」
「まあそうかも。でも、それが普通。女性は領地経営や銀行の仕事を勉強していない。学校ではね。選べないから」
「経済学は専攻できるわ!」
「領地経営は政治を学ばないとだし、商売するにも、結局は政治が関わって来るんだよ。コネとかも。同じクラスってだけでコネが作れるのに、女性は政治や法律に関わるコースに進めないから不利なんだ。別にこれは女性に限ったことじゃない。男性でも何を専攻したかによる偏見はある。芸術科卒業で領主やっても大丈夫かって思うのが普通の感覚。偏見だけど、一般的な感覚、普通の見方、常識でもあるんだ」
言いたいことはわかるとベルは思った。
だが、女性を軽視するのは許せなかった。
「女性が不利だとわかっているなら、余計に配慮すべきじゃないの? それに、両親とかから学べるでしょう?」
「アデレードもそう言って頑張っている」
「ローゼンヌ公爵令嬢?」
「そう。でも、銀行ってかなり古臭くて堅苦しい世界なんだ。完璧に男性優位。だから、アデレードが必死に勉強して後を継ごうとしても、みんな乗り気じゃない。女性というよりは、性別関係なくいとことして個人的に応援はしているよ。でも、周囲がどうしようもないから……爵位なんて、それこそ当主次第だ。公爵位がなければ、銀行も継げないよ。それでこっちに期待が来るから大変なんだ。ディーバレン伯爵位を継ぐなら銀行家になる勉強は必須。ローゼンヌ公爵位とその銀行を継ぐにも丁度いいって言われる。アデレードが仕事をしたいなら、秘書とか補佐業務をすればいいって。当主になる必要はないって思われている」
ベルは頷いた。確かにそう思われるというのはわかる。
ようするに、トップはシャペル。男性。優秀なアデレードは女性のため、その補佐に回る。そうやって実務に関わり、支える。
男性達はそう考える。いや、世間一般がそう考える。
しかし、アデレードは自分がトップになりたいのだ。女公爵、女当主、女性の銀行家に。
それを周囲が許さない。認めない。非常識だという。男性達だけでなく、世間一般の人々が。そういう社会、いや、世界なのだ。
「アデレードは青玉会に入りたがっている。入会できれば自立した女性として認められるというわけだ。それを武器にしてコネを拡大し、公爵家や銀行の跡継ぎとして認められたいと思っている」
「もしかして、紹介して欲しいってこと?」
青玉会に入会するには、まずは会員の紹介で準会員になる必要があった。
「いや、いい。アデレードが青玉会に入ると破滅だ」
「シャペルが困るってこと?」
「違う。アデレードが。ローゼンヌ公爵はアデレードに継がせる気がない。娘を男性だらけの厳しい世界に縛り付けて苦労させたくないんだよ。だから、持参金として財産を沢山分けて、自由に楽な人生を送ればいいと思っている。働く必要なんかないってね」
「甘やかしているわけね」
シャペルもかなり甘やかされている。いとこであるアデレードも同じ、むしろ女性だからこその甘やかしもあるだろうとベルは思った。
「そういうこと。でも、アデレードは男性や財産にぶらさがって楽に生きることを選ぶような女性じゃない。何でも自分の思い通りにしたい女性なんだ。妹達の上に君臨していたから、余計そうなのかもしれない。女王がいいんだよ。王の配偶者や臣下は嫌なんだ」
「なるほどね」
「アデレードが青玉会に入会したら、ローゼンヌ公爵は物凄く怒る。爵位継承権を取り上げるって脅したこともある。だから、紹介しないでいい。アデレードのために言っている」
「それ聞いちゃうと、紹介できないわね」
「ベルに迷惑をかけたくない。カミーラにも言っておいて。関わるなって。勿論、イレビオール伯爵夫人にも」
「わかったわ。まあ、そういう女性はいるのよね。青玉会の会員であることを利用して自分の立場を強めたいって女性が。女性の当主とか跡継ぎは特にそう。むしろ、女性当主、跡継ぎに認めて欲しい、男系優先をなくすための足掛かりにしたいって女性は多いわ」
「だろうね」
「青玉会もその辺は警戒しているの。政治的な問題や爵位継承に絡む問題に巻き込まれるのは困るから。そういう女性は完全に女性当主になってからでないとまずもって無理ね」
「適切だね。危険要素をグループに取り込むのは愚行だ」
「教えてくれてありがとう」
「いや、こっちの事情だから、知っておいてくれないと困るだけというか……偶然だけど、話す機会ができたから」
「そうね。丁度良かったわね」
「ベルとこんな話をするなんて思わなかったけれど」
「そうね。私もシャペルとこんな風に話すことなかったしね」
「みんながいると話せないことは結構ある」
「そうね」
「二人っきりにもならないし」
「まあね」
そこで一旦会話が止まった。
今は二人きりだということを互いに実感し、なんとなく気まずい雰囲気になる。
「……もうすぐ着くと思うんだけど」
シャペルはカーテンをめくって窓の外を見たが、夜のために景色は見えにくい。
「仕事の話をもう一回しましょう。確認したいの。少し緊張してきちゃったから、間違わないようにしたいの」
「わかった」
二人は今回の仕事についてもう一度確認することにした。