49 土曜日 ごめんなさい
「この弁当、また食べたい。でも、次は交換してくれなさそうだな」
シャペルは空になった弁当箱を片づけながら言った。
「お兄様に頼めばいいんじゃないの?」
「物凄い警戒されている。理由はわかるよね?」
ベルはすぐに自分のせいであることを察した。
「よく考えたら、これを手配したのはレーベルオード子爵よ。だから、レーベルオード子爵に頼めばいいかも」
「じゃあ、ベルから頼んでよ」
「私はレーベルオード子爵と親しくないわよ」
「でも、ベルはリーナ様と親しい。リーナ様経由で頼んでくれれば、パスカルは間違いなく了承するよ。こっちから頼むと何か条件をつけられそうだし」
「リーナ様を利用する気ね!」
「ベルもまた食べたいよね?」
これほど美味な弁当を食べたくないという者がいるわけがないとベルは思った。
「リーナ様の外出とかで弁当を頼む時、パスカルに頼むといいよ。その時、毒見用とか予備としてちょっと多めに頼めばいい。余ったのを譲ってくれるだけでいいから」
「狡いわ」
「愛する女性と同じものが食べたいだけ。しかも、凄く美味しい。どちらも人間として普通の欲求だから仕方がないよね?」
愛する女性。
ベルの胸が疼いた。
「……それって、リーナ様のこと?」
「えっ?」
「愛する女性」
「ベルのことに決まっているじゃないか!!!」
王太子が勘違いしたら大変だとシャペルは感じて慌てた。
「でも、全部なかったことにしたわ。結婚するって約束したのに」
「それはベルのためだよ。あんな風に結婚したら後悔する。交際を結婚に変更したのも卑怯だって思ったから」
「私も卑怯だったわ。シャペルの気持ち、知ってて言ったんだもの」
ベルの胸に痛みが走る。それでも言葉は続けて流れ出た。
「ずっとレイフィール様に憧れていたの。素敵な王子様がいたら、夢を見たっていいじゃない。女の子なら誰だってそう思うはずって。でも、本当に夢でしかないってことを確認するのが怖かった。カミーラを王太子の妻に、私を他の王子の妻にどうかという人だっていたし」
幼い頃から王家との縁組を目指し、勉強しろと言われたのはカミーラだけではない。ベルもまた王族と縁組できるのであれば、その方がいいと口にする者がいた。
「でも、ようやく……大丈夫かもしれないって思ったの」
カミーラは縁談が駄目になった理由を知らないと言った。ベルはその言葉をそのまま受け止めただけで、深くは追及しなかった。
それは一切知りたくなかったからではない。むしろ、知りたかった。しかし、それ以上に傷つくのが怖かった。
頭でわかっていても、決定的だと思えば打ちのめされる。どうしようもないほど苦しくて悲しくて堪らなくなる。
カミーラは姉として、女性としてベルに愛情を与え、必ずベルを励ましてくれる。しかし、ベルの望む方法ではないこともわかっていた。
強くなれと叱咤激励されたくない。ただ、優しくされたかった。
どんなに苦しくて悲しくてどうしようもなくなっても、まだ優しさがある。それが弱り、傷ついた心を支え、癒してくれると感じた。
「私の推測は正しかったわ。話を聞いて辛くて苦しかったけれど、シャペルは優しくしてくれた。励まされたの。頑張らないとって。だから、私……きっと、これからも沢山辛いこととか悲しいこととかあるかもしれないけれど、シャペルが一緒にいてくれれば大丈夫かもしれないって思ったの」
シャペルの胸がぎゅっと締め付けられた。
「ベルは……一緒にいて欲しかった?」
「そうよ」
「一晩だけ?」
「できるだけ長く一緒にいてくれる方がいいに決まっているわ。だから、結婚でもいいと思ったの」
「僕で良かったの?」
「シャペルが良かったの」
シャペルの胸が強くドクンと鼓動した。
「私はずっと心から愛してくれる男性と結婚したいって思っていたわ。それに一緒に踊ると楽しいし安心できる人。ダンスが好きだから、素敵なダンスパートナーが欲しくて」
ベルはレイフィールが好きだった。いつ見ても太陽のように輝く特別な存在だった。
レイフィールと結婚できたら幸せになれるような気がした。
しかし、理想と現実は違う。
レイフィールはベルを心から愛してくれる男性でもなければ、いつも側にいて優しく微笑みかけ、楽しく一緒にダンスを踊ることができる相手でもなかった。
レイフィールが優しくないわけでも、ダンスが嫌いなわけでもない。王族の責務がある。それは時に妻と幸せな時間を享受するよりも優先される。
例え結婚できたとしても、レイフィールは軍の仕事で王都を不在にする。一人残されて過ごす寂しい日々を過ごすことになるのは目に見えている。
気晴らしにパーティーに出ても、夫がいない。王子が夫だけに、軽々しく他の男性達と親しくするようなことはできない。ただ、楽しそうに踊っている者達を眺めるだけ。それはお世辞にも幸せとは言えない。
そう言ってレイフィールを初恋の相手として心の中にしまい、別の男性と結婚した友人達は何人もいた。
ベルもいつかそんな風になるかもしれないという予感を抱きつつも、両親が婚姻に対して後ろ向きであるがゆえに、具体的な婚姻話がまったく持ち上がらなかった。
そのことをベルは仕方がないと思いつつ、それでいいとも感じていた。
もう少し夢を見ていたい。両親が縁談を薦めないのは幸いだと。
気づけば何も変わらないまま年月だけが過ぎ去っていった。
このままではいけないと感じつつも、ベルはどうすればいいかもわからなかった。
ようやく、きっかけができた。
最初のきっかけは王太子の命令と兄の手伝いで、リーナの側にいることだった。
そのおかげで、ベルはこれまでには経験できなかったことを経験した。
イレビオール伯爵家の屋敷以外での生活は、ベル自身に様々なことを教え、実感させた。
王族の妻は大変だということ。王宮も後宮も住み心地がいい場所とはいえないこと。官僚の給料は少ないということ。働いて得たお金だけで自活するのは大変なこと……他にも多くのことがわかった。
学校では学べないことをまさに経験した。いや、体験している最中である。
シャペルのこともまた同じく。
ずっと同じ二蝶会に所属していた仲間であるにもかかわらず、金持ちでダンスが上手い第二王子の側近としか知らなかった。それ以上知りたいとも思わなかった。
しかし、アルバイトを受けたことで、シャペルのことが少しずつわかってきた。
新鮮だった。そして、楽しく、嬉しかった。
シャペルは魅力的な部分と駄目な部分が沢山ある男性だった。長所と短所が見えたからこそ、自分の判断は現実的で客観的なのだと思えた。
ようやくベルは第二王子の側近のディーバレン子爵であるシャペルではなく、シャペル=ディーバレンという男性自身を見ることができた気がしたのだ。
「狡いことを言ってごめんなさい。でも、仲間の方がいいのかもしれないわ。私の我儘でシャペルを一生縛るわけにはいかないもの」
「そうじゃない!!!」
シャペルが叫んだ途端、馬車が止まった。
ドアがノックされる。王立歌劇場に到着した合図だった。
「着いたみたい」
ベルは自分でも驚くほど冷静な声が出た。
「……お仕事中なのに、余計なことを言ってごめんなさい。でも、話せて良かったわ。ちょっとだけすっきりしたかも」
「僕は全然すっきりしないよ! もっとベルとはしっかりと話す必要がある!」
「取りあえず、今は急ぎましょう。王族の入場に間に合うかもしれないし」
シャペルは同意するしかなかった。
貴族であり、ディーバレン伯爵家の跡継ぎでもある。王族を出迎えるために整列するのが務めだ。
「……そうだね。急ごう」
二人は馬車から出ると、すぐに走った。
正面玄関のロビーに貴族達の姿はない。王立係員と警備の者だけだった。
遅かったかもしれないと二人思ったが、係員がすぐに駆け寄ってきた。
「ディーバレン子爵、お急ぎください! 入場のベルはまだ鳴っていません!」
王族が入場する前にはベルが鳴る。それがまだだということは、間に合う可能性があった。
「僕は一人で行ける! イレビオール伯爵令嬢を案内しろ!」
「私が担当致します!」
すぐに別の係員が走り寄る。
「ごめん、先に行くよ!」
シャペルはベルに謝った。その後、まさに全速力で走り、階段を跳躍するように段を飛ばして上っていく。
速すぎる! あんなに素早いなんて!!!
シャペルはダンスや剣が得意なだけに、運動能力が高かった。
ベルは今になって切実に思い知った。
お願い! もう少し……五分……一分だけでも待って!!!
扉の前にいる係員が手を上げた。ここだという合図である。そして、扉を開けた。
その瞬間、ベルが鳴った。
嘘?!
ベルが鳴ってしまうと、扉の前にいる係員は扉を封鎖する。その後は中の状況が落ち着くまで、つまり三連続のワルツが終わるまでは出入りできなない。
しかし、係員は扉を閉めなかった。ギリギリまで待ってくれるつもりなのだとわかる。
ありがとう!!!
心の中でお礼を述べつつベルが中に滑り込んだ瞬間、扉がすぐに閉められた。しかし、慌てて閉められたような音はしない。
さすが王立歌劇場の客室係! 扉の開閉を極めるプロだわ!
そう思いながらベルが自分の席に移動し終えた瞬間、王族達が入場した。
ベルは息を整えながら、間に合ったこと安堵の笑みを浮かべた。




