34 金曜日 知らないままで(一)
「ベル?」
シャペルの呼びかけに返事はない。
シャペルはできるだけ静かにベッドを出た。
毛布をかけなおしながら、ベルが本当に眠っているのかを確かめる。
その寝顔は無防備で、シャペルは愛しいと同時に憎たらしいとも感じた。
信頼してくれている証拠なのかもしれないけど、異性としてどこまで意識しているのか……。
シャペルは心の中でぼやきながら順番に灯りを消し、最低限にする。
その後、バスルームに向かい、着ていた服をもう一度身につけた。
「ベル、ちょっといいかな? 大事な話があるんだけど」
ベルは答えない。
完全に眠っていた。
シャペルは静かにベッドに腰かけると静かな声で話しかけた。
「ごめん」
シャペルは目を閉じた。
「真実を知りたい気持ちはわかる。誰だってそうだ。でも……知らない方がいいこともある」
ベルに話した内容は嘘ではない。
カミーラと第三王子の組み合わせ。ヘンデル優先。縁談は無理。妹も同じ理由で無理。
非常にわかりやすい内容だ。
しかし、これは多くの縁談話の中の一つでしかない。他にも様々な縁談があった。
現状を見れば、どのような縁談が過去に上がっていたとしても、まとまらなかったことはわかる。
ベルが縁談の内容を知ったところで意味はない。
むしろ、どのような縁談があったのかを知れば知るほど、シャルゴット姉妹がいかに政略的な話し合いの中に身を置いていたのか、本人の気持ちは全く無視されているというのがわかってしまうだけだ。
だからこそ、両親も祖父母も兄も何も教えなかった。それだけの話だった。
「政治の世界はとても汚い。ベルには綺麗でいて欲しい。傷つけないようにしたい。できるだけね。だから、人生やダンスを楽しんでいればいいよ。知ったところで、何もできない」
シャペルは深いため息をついた。
「多くの者は、第二王子の側近は凄いと思っている。重臣だと思っている者達も多い。でも、それは間違いだ」
重臣というのは国王に直接仕えるような者達のことになる。宰相や大臣、重要機関のトップになる者達だ。
そのため、側近と言われる者達であっても、重臣とは限らない。
基本的に王族付きの補佐官は重臣ではない。重臣として扱われるのは国王の首席補佐官だけだった。
王太子の首席補佐官であるヘンデルさえ、重臣ではない。そのため、重臣会議には呼ばれない。
「第二王子の側近なんて、完全に範疇外だ。僕もベルと同じ、何も教えられない。知ったところで何もできない。実際、何もできなかった」
シャペルはもう一度ため息をついた。
「もっと早く出会っていれば……そう思った時もある。でも、結果は同じだった気もするよ」
シャペルは初めてベルと会った時のことを思い出した。
シャペルがベルを初めて見たのは、ベルが社交界にデビューした時だった。
学校も派閥も違うため二人の接点はなく、ヘンデルやカミーラの妹として名前を知っている程度だった。
シャペルはイレビオール伯爵令嬢ベルーガ=シャルゴットに特別興味を持っていたわけではなかったが、隣にいたセブンに教えられた。
「ヘンデルが連れているのが妹のベルーガ。愛称はベルだ」
ヘンデルが会場に来ると、すぐに多くの者達が集まり、その姿が見えなくなった。妹のベルも同じく。
「見えないなあ」
「踊る時に見える」
ファーストワルツ。その中にはヘンデルと踊るベルの姿があった。
随分楽しそうに踊っているなあ。
シャペルの視線はヘンデルと嬉し楽しそうに踊るベルの姿を捉えたまま離れない。
セブンが何か言っていたが、小声であるせいもあり、完全に聞き流していた。
シャペルはダンスが好きなだけに、ベルのダンス技能についてチェックしていた。
「……らしい」
曲が終わる頃、セブンが何かを言った。
シャペルはなんとなしに聞き返した。
「えっ? なんだって?」
「縁談だ」
シャペルの胸に驚きと興味が押し寄せた。
「セブンと?」
セブンは無表情のまま答えた。
「違う。三番目だ」
シャペルはすぐにわかった。
第三王子のことだと。
「デビューしたばかりなのに、早いなあ」
「愚かしい」
シャペルは眉をひそめた。話が読めない。
「ごめん。少し考えごとをしていた。もしかして、何か重要なことを言ってた?」
セブンは呆れるような眼差しをシャペルに向けた。
「……全くお前は。金の話しか聞く気がないのか?」
「えっ、お金の話? だったら教えて! ダンスの話でもいいよ!」
「金の話ではないが、政治的に踊っている者達の話ではある」
セブンはもう一度話をした。
王太子派の貴族の一部が王太子と非常に親しくしているヘンデルの妹であるカミーラとベルをそれぞれ第二王子、第三王子の妻にすることを画策しているという内容だった。
シャルゴットやイレビオールはカミーラを王太子の妻にどうかと思っていたが、王太子はカミーラに関心がない。ベルに対しても同じく。
そこで、第二王子と第三王子にシャルゴット姉妹を嫁がせ、その内情をヘンデルや実家を通して王太子や王太子派に知らせる役目を与えようという話だった。
「スパイか。ヘンデルの力が強くなりすぎない?」
「そうでもない」
王太子派の貴族は王太子とヘンデルが親しくするのはいいとしても、シャルゴットが更に爵位や領地を増やすことには反対している者達が多かった。
しかし、王太子とヘンデルの友情と信頼は深まるばかり。いずれはヘンデルが何らかの功績を立て、褒賞を得るのも時間の問題だと思われた。
そこでヘンデルはシャルゴット侯爵位とその領地を受け継ぎ、カミーラはイレビオール伯爵領を持参金に第二王子に嫁ぎ、ベルはヴィルスラウン伯爵領を持参金に第三王子に嫁ぐ。
そうすればヘンデルの領地は一つに減る。妹を通して王家の外戚になるが、その栄華は一時的でしかなく、二つの領地を王家に返上したのと同じことになるという筋書きだった。
つまり、王太子派の一部の貴族達はシャルゴットとイレビオールが王族の外戚になるように画策すると同時に、将来的にはそれが元で弱体化するのを狙っていた。
「足の引っ張り合いか」
「どの派閥にもあるような話ではあるが、くだらないとしかいいようがない」
第二王子派の貴族の中にも、娘を第二王子に嫁がせることができないのであれば、王太子や第三王子に嫁がせ、内情を探る。そうすることで、自らの立場が強まることを画策する者達がいた。
王太子や第三王子の妻の実家が権力を持ち、第二王子や第二王子派の貴族に不都合な状況になるのを防ぐためでもあった。
「エゼルバードはカミーラに興味ないよね。無駄じゃない?」
「王太子派の一部が勝手に考えているだけだ。妹もデビューすれば、否応なしに政略的な話が増えるだけだろう」
「カミーラはともかく、妹の方はさっさと嫁がせて家から切り離せばいいのに」
「大事な切り札を簡単に手放すわけがない。学生であることを理由に縁談は断り、慎重に相手を見極めるだろう。カミーラは大学院まで行くかもしれないが、妹は花嫁学校だろう」
「頭が良くないの?」
「悪くはないが、誰もが姉を基準にして妹を見る。そのせいで劣ると思われている。一般的には中程度のようだ」
「だったら花嫁学校の方がよさそうだね」
シャペルは気分転換をするため、踊ることにした。
どうせならデビューしたばかりの女性がいい。ベルを誘うのも悪くないと思った。
だが、無理だった。
ベルは多くの男性達に囲まれていた。ほとんどがヘンデルの友人や知り合い、王太子派の者達だ。
大事な妹のデビューを華々しく、それでいて問題が起きないように守っていた。
側には誰もが認める評判の美女、姉のカミーラもいた。余計に人が集まる。
ヘンデルがベルのエスコート役を務めているため、カミーラのエスコートはヴァークレイ公爵家の跡継ぎであるキルヒウスが務めていた。
キルヒウスからカミーラを引き離そうとする者はいない。不可能に決まっている。
威圧感が半端ないなあ……。
第二王子の友人であるシャペルが王太子派の巣窟ともいえる場所にいるベルに近づけそうな雰囲気も隙間も全くなかった。
ベルが化粧室に行く時も、姉のカミーラが付き添う。
勿論、二人だけではない。カミーラの友人や王太子派の女性が侍女のように周囲を固め、その外周を男性達が護衛騎士のように固める。
ヘンデルやキルヒウスが王太子の元に行ってしまっていても、ベルを守る壁は異常な程に厚かった。
まるで王女だなあ……まあ、カミーラの時もそうだったけど。というか、あれはカミーラを守る壁でもあるんだろうなあ。
シャペルがベルに近づけなかったのはその時だけではない。それからずっとだった。
シャペルが黒蝶会に入るまで、ベルとは別世界で生きているのと同じようなものだった。
芽が出たのは……。




