32 金曜日 消えた縁談(一)
隠れ家に着くと、シャペルはベルを寝室へ連れて行こうとした。
「ちょっと!」
ベルは怒った。
「話をするだけのはずよ!」
「この部屋は駄目だよ」
「どうしてよ?」
「すぐ隣に部屋付きがいるじゃないか。こっそり聞かれたら困る。念には念を入れないと」
ベルはシャペルを睨んだ。
「話をするだけって約束する?」
「結婚するのに、どうしてそんなに警戒するのかな? やっぱりやめた方がいい気がする」
シャペルはベルを見つめた。
「世の中には知らない方がいいことだってある。秘密は秘密のままでいいということが。好きでもない相手と結婚する約束をしてまで、知るほどの価値があるとは限らない。考え直すならこれが最後だ。寝室に入ったら朝まで帰さない。話をするだけであっても、ここに泊まって貰う。結婚するという約束の証としてね。どうする?」
ベルは首を横に振った。
「私、相当な覚悟をしているの。でなければこんな取引はできないし、ここへも来ないわ。シャペルは信用できると思ったの。他の人だったら、知らないのに知っているふりをするかもしれない。だから……シャペルこそ、いいの? 嘘ではなく、真実を話してくれるの?」
シャペルは頷いた。
「真実を話す。一応はエゼルバードから聞いた話だし、信頼できる情報だと思う」
「第二王子から聞いたのね」
「ベルも言っていたけれど、王家との縁組がある女性を狙うのは遠慮しないといけないからね。交際や結婚を申し込む前に確認するのは当然のことだ。友人なら確認しやすい」
「そうでしょうね」
「覚悟ができているのであれば、自分で寝室に入って欲しい。ベルの意思表示として」
「わかったわ」
ベルは前を向き、ためらうことなく自らが望んだ一歩を踏み出した。
豪華な応接間の隣にあるだけあって、寝室もまた豪華なものだった。基本的な雰囲気は似ている。揃えてあるのだろうという内装だ。
「灯りをつける」
シャペルは灯りを順番につけたが、それでもかなり暗い。
元々寝室には豪奢なシャンデリアはなく、サイドテーブルやチェストの上、壁にあるような灯りしかない。間接照明ばかりのため、部屋全体をしっかりと照らすことはできなかった。
「こっちはバスルーム。向こうが衣装部屋。女性ものの着替えはないから、ドレスがしわにならないように別のものに着替えた方がいい。バスルームの灯りもつけてくる」
シャペルはバスルームに行く。そして、少ししてから戻って来た。
「シャワーを浴びる?」
「もう一度言っておくけど、話すだけよ。まずはイレビオール伯爵家に挨拶に行って、正式に婚約して貰わないとだわ」
「……意外と乗り気なんだね。結婚に」
「覚悟はできてるって言ったはずよ。自分から寝室にも入ったわ」
「まあ、そうだね。じゃあ、待たせて悪いけど、軽くシャワーを浴びてくる。それほど時間はかからないと思うけど、着替える時間はあるよ」
「着替えないわよ!」
「今夜は泊まって貰うと言ったよね? 皺だらけのドレスで帰るのはよくない。それこそ何かがあったかもしれないと勘繰られる。ベルが結婚してくれるというなら、その言葉を信じるよ。だから、今夜は話すだけ。でも、ベッドは一つしかないから一緒に寝て貰う。端と端で大丈夫だ」
シャペルは衣装部屋に入ると、白い寝間着を持って来た。
「バスローブもあるけど、こっちの方が……まあ、はだけにくいと思うから。後、お互いに冷静さを失わずに過ごせるように努めよう」
シャペルは更に上着から財布を取り出した。
「財布はここに置く。どの程度入っているのかは大体わかると思う。最後の最後だ。気が変わったのであれば、ここからお金を取っていけばいい。部屋付きに言えば、女性でも安全に乗れる馬車を手配してくれる。チップは忘れずに渡して欲しい。但し、百だ。それ以上は絶対に与えてはいけない」
シャペルはもう一度だけベルに考え直すチャンスを与えた。
「でも、本当に話が聞きたいのであれば、これに着替えてベッドに潜り込んでおくこと。じゃあね」
シャペルはそう言うと、バスルームに姿を消した。
しかし、すぐにまた顔を出す。
ベルはあまりの早さに驚くしかない。
「ちょっと! 早すぎるわ!」
「……先に化粧室を使っておく? しばらくは出てこないから」
「大丈夫よ! さっさと行きなさいよ!」
「わかった」
ドアが閉まり、鍵をかけた音がした。
ベルは両手を広げて深呼吸をしたが落ち着かず、もう一度深呼吸をした。
シャペルはもう一度ベルに考え直すための時間を与える口実を作るため、シャワーを軽く浴びるふりをするつもりだった。
まず歯磨きをした後、より時間を稼ぐために顔と手足を丹念に洗うことにした。
ベルが自分との交際の価値を軽んじていると感じたことによって苛つき、失われつつあった冷静さが徐々に戻って来る。
取引の対価として、ベルと結婚するのはよくない。
そう思うものの、それでも結婚できればいい、そうしなければ結婚できないだろうと思う気持ちもある。
どうすればいいんだ……。
ふと、シャペルはリーナのことを思い出し、その言葉が頭をよぎった。
心から愛しているのであれば、相手の女性の気持ちを大切にしてください。
でも、ベルは自分から望んだ。何度も確認した。それでもということであれば、いいということじゃないか。
リーナの声が答える。
愛は素晴らしいものですが、時に人の理性を奪い、狂わせてしまうこともあります。それが絶望や不幸を呼び寄せてしまうこともあるでしょう。だからこそ、冷静さを失わないようにすることが重要なのです。
シャペルは深いため息をついた。
取引をして対価を釣り上げたのは利口だったかもしれない。だが、優しくも冷静でもなかった。ベルが望んだのは付き合うことで、結婚することではない。
やっぱり駄目だ。まあ、悩んだところで、もういないだろうけど。
シャペルはバスローブに着替えた後、寝室につながるドアを開けた。
ベルの姿がないことに落胆するものの、すぐにベッドの上の毛布がこんもりとしていることに気付いた。
クッションかもしれない。期待はしないでおこう。
少なくとも枕ではなさそうだと思いつつ、シャペルは声をかけた。
「ベル、寝てない?」
いるという前提で声をかける。返事はない。しかし、毛布の塊が動いた。
い、いるよ……! ベルが! いや、もしかすると、暗殺者かもしれない! 絶対に油断してはいけない!
シャペルは気づかれないように深呼吸をすると、バスルームのドアを閉めてベッドへと向かった。
「えっと……少しだけでも毛布の中に入れて欲しいと思うんだけど?」
実際は衣裳部屋に予備の毛布がある。
だが、その前に毛布の中を確認しなければならない。
そういえば、ドレスがなかったな……。
シャペルは警戒心を高めつつ、覚悟を決めて毛布をめくった。
すると、見覚えのある髪色が見える。
そして、間違えようもない顔も。
「ベル……」
いたのか。
心の中でシャペルは呟いた。
シャペルの全身に感情が溢れていく。それは喜びであり、苦しみであり、愛であり、困惑であり、欲望でもあった。
人生において最大級の試練が訪れた瞬間でもある。
シャペルは堪えるようにこぶしを握り締めた。
「……ドレスは?」
「衣裳部屋。しわにならないようにハンガーにかけたわ」
ドレスがなかった謎はすぐに解けた。
「正直に言うと、いないと思った」
ベルはシャペルを睨んだ。
「いて悪かったわね!」
「そんなことない。嬉しいよ。でも困ったな。話をするだけなんて……」
ベルは驚愕した。
「絶対駄目よ! 本当に心から愛しているなら誠意を見せて!」
まあ、それはわかっているけど……今のところは。
シャペルはシャワーを浴びたせいで肌寒いと理由付け、毛布の中に入り込んだ。
どさくさついでにベルを抱きしめる。
「夢かもしれない……このまま眠ってしまった方がいい気がする」
「何言っているのよ?! 話がまだでしょう!」
シャペルを現実に引き戻したのはベルだった。
「ちゃんと話してよ! でないと、許さないわよ! もうこんなことしているんだから! 十分前金を払ったのと同じだわ!」
「そうだね……」
シャペルはベルを離すと後ろを向いた。
その行動にベルは驚くしかない。
「どうしたの? もしかして、疲れちゃったの?」
ベルはベッドに潜り込んだものの、待っている間に眠気が強くなっていた。
このまま寝てしまうわけにはいかないと、必死になっていたため、シャペルも同じように疲れて眠くなってしまったのかもしれないと思った。
シャペルはため息をついた。
「疲れたのはある」
色々な意味で。勿論、精神的な部分が大きい。
「それと、理性がなくならないようにするには、こうした方がいいと思って……」
ベルはほんの少しだけシャペルを見直した。
「そう。じゃあ、話して。全部よ。完全に。洗いざらいよ!」
辛いなあ、色々と。
シャペルはもう一度ため息をついた後、ベルの知りたいと思っていることを話し始めた。
具体的な内容は次回。




