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くたばれ詐侮軽

作者: 倉紀ノウ

 田中さんが失踪してからもう、十八年も経つ。

 あれから田中さんの家を出た後、田中さん解放記念をやってしまったから手元に金は無く、もはや貧困とかの問題ではなく無一文。当面の金は、家にある物品を売れば数万円になるだろうと考えた。甘かった。家にあるネックレスと置物とスキー用品などを売って得たのが三千円程度。酒盛り一回分の金にしかならなかった。結局、職探しをする運びとなった。

 職探しは難行するかに思えたが、案外すんなりと就職が決まった。

 チラシにあったピザ屋のバイトであった。

 最初は、配達の業務だった。だが、俺は地図が読めないので時間内に客の住所へ辿りつくことができない。結局、俺は厨房で具を並べる担当となった。

 電話で次々と注文を受けて、加えて直接店に客が来てピザを買っていく。俺と他のバイト五人は、注文通りにミックスピザ、シーフードピザ、ミックスハーフピザなど、あらかじめカットされた具を並べていく。初めは不慣れなために、何度も高校生のバイトから教えを乞うた。

 皆、高校生のバイト。俺一人だけ良い年のおっさん。入った頃は不審な目で見られた。

 しかし、同じ仕事をするうちに連体感も生まれ、失敗した拍子に冗談も出るようになって、俺と高校生のバイトはフレンドリーになっていった。ファミリーレストランや、カラオケにも誘われるようになった。

 そうして、いつしか「きむさん」「ひがりん」「きーむん」「きむひが」といった可愛らしいあだ名も生まれた。単に「ひがれ」と呼ぶ者もある。いいじゃないか、フレンドリーで。

 高校生たちは、数年すると辞めて、また新しい高校生がやってくる。その度に不審な顔をされるが、結局は仲良くなれるのだった。

 そうしてピザ屋の仕事を十八年もやっている。ピザ屋の仕事を、もうこんなにやっているのに、具を並べることと、床の掃除。世の四十八といえば、もう立派に肩書きのある役職ついているか、肩書きは無くとも、与えられた仕事以上のことを、自分で考えてできる年だろう。でも、俺はどうよ。やばいんじゃないの? と思う時も正直ある。他の高校生は、具を並べる他に、店に来た客の注文を取る、レジスターを使って会計をする、電話で応対する、くらいのことはやっている。安い時給で、俺よりも働かされる高校生たちに、後ろめたいものを感じていた。

 ある日、こんなことがあった。

「ひが、ひが」と言っているので、やはり俺の悪口を言っているのか、と思って、聞き耳を立てた。

 すると、最近入った一人の高校生が、俺の悪口を皆に言っているところだった。自分より仕事のできない俺の方が、時給が良いということが気に入らないらしかった。確かにそうである。俺が逆の立場でも、憤るに決まっている。実際、俺にろくな労働ができないのは、とうに自覚していた。

 ごめんよ。他になんもできないんよ。許して、ここを追われたら家庭が。

 胸の内で謝罪した。陰でなら、どうにでも言ってくれ。俺は悪口を聞き続けた。そうやって、皆で俺の至らないところを扱き下ろすことがあるのだろう。だが、聞いているとそうではないらしかった。悪口を言っているのは新入りただ一人で、他の人はその不満に対して、それは違うと説得をしているらしかった。

「ひがりんはね、安い給料で家庭を支えるために頑張っているのよ」

「奥さんはアル中で出てったのに、娘と二人で帰りを待ってるのよ」

「娘は学校でいじめに遭って、全裸でプールで泳がされているのよ」

「具を並べるのはひがりんが一番上手いじゃないか」

「お前がひがりんの家賃を払え」

「給料をひがりんに寄付しろ」

 と、みんなで囲んでその新入りを吊るし上げていた。

ごめんよ、みんな。と途中で聞いていられなくなって、目に涙を溜めながら走って帰ったのをよく覚えている。

 翌日になって、俺の悪口を言っていた新入りが、妙に俺に優しく接してくれるようになった。唇が切れて、腕には青あざがあったけども。

 そんな感じで、俺はこれまでの人生の中でも一番心安らぐ日々だった。

 これまで悲惨な地獄の嵐に揉まれて、流れ着いたこのピザのバイトがちょうどポケットのような場所であった。当てもなくさまよい歩くうちに、偶然にも風当たりの弱い場所に収まったのだ。

 少しだけど、貯金もできた。もう県民税の督促に怯えることもない。

 驚いたことに、結婚もした。周りより自分が一番驚いたのであった。

 妻との出会いは園芸用品店。春になって、アパートに無数のアリが家に侵入してきて気持ちが悪いので殺蟻剤を探しに行った、そのときに出会ったのだった。

 年内にピザ屋に就職し、結婚もした。充実した年だった。アパートも3LDKに引っ越した。

 現在は、十八になる娘と二人で暮らしている。妻はいない。

 結婚したとき、妻はウィスキーブレンダーという粋な職業に就いていた。ウィスキーブレンダーという職業は、ウィスキーの原酒を巧みにブレンドし、うまいウィスキーをつくる、という仕事である。一日に結構な量のアルコールを摂取するために、いつしかアル中になってしまい、人間性が崩壊し、仕事を辞めた。妻は一日中家にいて、パック酒などの安酒を飲み、それに耐えられなくなるとパチンコに行って散財した。そうして、「ごめんなさい。あとはたのみます」というメモ書きを残して出ていった。今は更生施設かどっかにいるのだろうか。まるで音沙汰がない。いつかは帰ってきて昔のように暮らせるだろうと信じて、妻の部屋も綺麗に掃除して待っている。

 

 

 娘の名前を吉子という。

 喜村吉子。こんなに幸福の詰まった名前は無いだろう。というか、親の俺が幸福に飢えていたので、無意識に「幸せになれるように」というメッセージを織り込んでしまったのだろう。

 娘も俺の顔と同じで、ゴリラに特殊メイクを施して、ようやく人間の顔にした、みたいな動物顔をしている。それでも、生まれた時からずっと成長を見てきたので可愛いと思っている。娘の内なる可愛さを、外見だけで判断して欲しくないと世間に訴えたい。

 それはよいとして先日、その娘が初めて彼氏なるものを連れて家に来た。

「豆草君ていうの。豆草私利君」

 まめくさしり。まず、名前が胡散臭かった。

 俺は玄関で迎えたのだが、風体が異様だった。

 坊主頭に、緑色の眼鏡。背丈は百四十センチほどしかない。黒髪と白髪が半々くらいに混ざっている。老け顔で、それにもかかわらずのニキビ面である。眉毛は全て剃り落している。若いのか、結構年がいってるのか、見当がつかない。「salmon」と刻印のある金色のネックレスを首につけて、指の爪には黒いマニキュアを施している。

 第一印象はどんな男だったか、率直な感想を申し上げると、目が気持ち悪いほどに陰湿な光を放っている男だった。その顔の感じ、醸し出す陰鬱な感じが、排水溝のぬるぬるそのものだと思った。こいつは排水溝のぬるぬるを連想させるのだ。

「あ、ども」

 と、その男は腕組みをしたまま、頭だけをくいっとおろした。

 まじかよ。これが娘に初めてできた彼氏かよ。俺は思った。できるなら、もう少し彼氏らしい男を連れて来い。こんな気味の悪い生き物を連れてくるな。

 その豆草という胡乱な男は、最初は、娘に会うついでにパソコンを持参して遊びに来る程度だった。だが、どういう訳か調子に乗り、頻繁にやって来るようになった。吉子のいないときにも随意に家に上がり、あまつさえパソコンやその他の機器を据えて、自宅のごとく自由に出入りするようになったのだった。

 娘は、一体なにを言ったのだろうか。

 おまけに、奴の知人だか友人だか知らないが、そういう得体の知れない連中が部屋に居ることがままあった。当然、無断であり、ネットカフェにでもいるかのような振る舞いであった。風体や雰囲気からして、奴と同じ種族であることは間違いなく、白髪混じりで、若いのか年寄りなのか分からない顔、排水溝のぬるぬる感、などが同様であった。

 そういう連中が、四六時中誰かしら家にいて、低くて陰湿なぼそぼそ声で意味不明なことを口走っておるのであった。

 家中にダニがわいた気分であった。

「豆草君がお腹すくと悪いから、なんか食べさせてあげて」

 吉子がそう言うので、最初のうちは気を遣ってスーパーの焼き肉弁当や、冷凍食品の牛丼などを部屋に持って行ってあげたのだが、最近では面倒になって、八十八円のラーメンを買い置きし、それをサーブするようにしていた。部屋を手前勝手に占拠しておいて、食事まで用意しろというのは一体どういうことか。というか、そこは妻の部屋だ。妻が帰ってくる部屋なのだ。勝手に物を置くなというんだ。

 部屋で一体何をしているのか、と奴に尋ねたことがあった。

 すると豆草は、

「え、コミュニティだけど」

 と低くて陰湿な声で言った。

「なんなんだ、あいつ」

 と、後で娘に問うてみた。

「ああ。豆草君はね、独立してアニメグッズ販売会社をやるんだって」

「仕事がそれなの?」

 俺が聞くと、

「まだ会社は興してない」

 と言う。

 別にアニメグッズ販売でも、SMグッズ販売でも、好きにやったらいい。そこは容喙しない。でも、人の家に勝手に上がるな。妻の部屋を集会場にすんな。俺は奴が家に来てから、ずっと憤慨していた。

 

 

 最近の若者は、反省をしない。感謝もしない。自分が間違っているとも思わない。ただ若者による若者感にまかせて、ギラギラし続ける。時代のせいか、異様な拝金主義で、金さえもってりゃモラルなど簡単に手放す。

 豆草の奴も同様に、「もしかしたら自分が間違ってるかも」という、自分の行動を顧みることをしない。陰湿な目をぎらつかせて、ぶつぶつ低い声で話す。

 聞くところによると、奴は二十五歳だそうだが、実に疑わしいものだ。後頭部はすでに薄く、俺より禿げている。

 一週間経っても、一向に部屋の占拠をやめる気配がない。ほとんど住んでいるといってもいい。

 むかつく。ぬるが家に上がって、陰湿な仲間を呼んで「シャロンの声優って、倉紀ノウなんだって。げへげへ」というような理解しがたい会話をしていると、細胞が死んでいく気がして、全く気が休まらない。なぜ家を借りている俺がこんな嫌な気持ちになっているのに、奴は悠々とくつろいでいるのだ。

 けっ、ぬるの奴め。こんな人道に外れたことをしていると、来世で後悔するぞ。来世では遅いよな。今、後悔させてやりたいものだ。

 俺の中では、排水溝のぬるぬるのイメージであったので、いつしか俺は、陰で奴をぬる、と呼ぶことにしていた。

 その、ぬるとのことでまた一悶着あった。それは火曜日のこと。俺のバイトは火曜日休みなのだ。

午前十時のことであった。たまの休日で、ぬるの奴もいない。ぬるのいない生活がこんなに安らぎに満ちているというのは、新しい発見であった。

 と、勝手口の開く音。一変して、不快な気分で胸が満たされた。

 ぬるの奴、来やがった。奴が俺の家に闖入してくるとき、玄関が閉まっていることがあるので、施錠をしていない勝手口を使うのだ。鍵を閉めると、娘が「豆草君が入ってこれない、活動ができない」と怒るので仕方なく開放していたのだ。

「あー、風俗行きてー。金ねー。てか、だりー」

 などと普段は出したことのない、大声で喚きながら、妻の部屋へ入っていく。

 馬鹿め。俺が火曜日休みであるとも知らず、この家に自分しかいないと思ってやがる。

 ふと俺は考えた。俺が不在のとき、この家でこいつは一体どんなことをしているのだろうか。少し探ってやろうと思った。

 部屋の前まで行き、そのまま静かにしていた。

「なんだよ、この糞」

 中から、なにかガンガンという音が聞こえてきた。何かを殴っている。何を殴っているのだ。

「ったく、汚ねえ家だな。掃除くらいしろよカス。埃が落ちてるじゃねか」

 潔癖症なのか。さらに聞いていると。

「スイッチちゃんと入れよ、マジ殺すぞ」

 って、またなにかを殴る音。あれはおそらく、妻が買ったコードレスの掃除機だろう。

「イライラする。ちゃんと動けや」

 掃除機に八つ当たりすんな。ぬるは、掃除機をどついた後、その掃除機で掃除をしているらしかった。それから掃除が終わったのか、

「あ、もしもし。豆草だけど。え、ここ? 喜村吉子の家、ほれ、見える? え、うちらが使ってる部屋」

 誰かと電話していた。声の様子からして、テレビ電話のようであった。

 会話をしばらく聞くうちに分かったことは、ぬるは、いつも俺が食事として出しているカップラーメンが不満のようだった。

「え、めし? ああ、喜村の親から、え、別に、まずいけど。インスタントラーメンばっか出してくるし」

 と言い、

「栄養が偏るで、マジ。こっちは客だっつーの。喜村の親、マジ死んでくれよ」

 と、おっさんのうがいのような汚い声で吐き捨てた。

 普段はそんなことを言っているのか。というか、四十八にもなって死ねと言われた。

「こっちくれば? 別に居ても普通になんも言われんけど。出前とかも普通に取ってるし。あ、ティアナのさ、USBに入れてくれた? ティアナ、マジ神なんだけど」

 ティアナというのは何の事だ。神というのは、奴がそういうティアナ神というような神を崇拝する宗教の人間ということか。いや、違うよね。仏教徒が「大日如来様、マジ仏なんだけど」とは言わないし、クリスチャンが「イエス様、マジ神なんだけど」とは言わない。だってそれは、大日如来が仏、キリストが神なのは至極当然であるからだ。

 ティアナちゃんの話を最後に、電話を切ったようだ。後はパタパタとパソコンのキーを叩く音だけが聞こえる。月末に俺が支払う電気代で、当たり前みたいにパソコンしやがって。総合格闘技のように、奴の両手をロックして好き放題顔面に拳を打ち込みたい。

 俺がドアの前で思案するうちにバタバタと足音が聞こえ、

「うっほおおおおおー。ティアナちゃん、マジさいこおおおおおーっ!」

 と部屋の中で絶叫したかと思うと、そのままの感じでドアを開けて出てきやがった。

 鉢合わせした。目と目が合った。ヤギが屠殺された瞬間のような、光のない目であった。そのまま男女の見境なく強姦をしそうな目でもあった。

 きもかった。純粋に、その思いだけであった。

 ぬるは、俺が当然いないと思っているので、一瞬だけ驚いて固まった。それから、やにわに視線を逸らし、俺の脇を抜けるようにして、便所へ向かった。

 便所のドアを開ける際、小声で、

「聞かれたーやべー」

 とぬかした。

 ここは自分の家で、むしろ自分が主として使用するべき家なのに、個人的な話を聞かれた。プライベートをのぞかれた。そういう意味の言葉であった。

 どれだけ身勝手なんだ、と思わず制裁してしまいそうになったが、奴の性格上、卑怯な詐術を身につけているだろう。軽く小突いただけで「顔を強く殴られた。暴行を受けた」などと警察に嘘の通報をしそうなので迂闊に手は出せない。

 心が空洞化して、奴の用足しが終わるまでずっとそこに立っていた。ややあって、ぬるがトイレから出て来た。

 何か、言った方がよいのだろうか。というよりも言うべきことは当然あるのだけど、俺は呆れ、恐怖、怒り、気持ち悪さが合わさって、声が出せなかった。

 ぬるの奴が、俺の脇まで来た。そこで奴は一度、わざとらしく立ち止まり、

「米を食わせろよ米を、と言ってみる」

 と、虚ろな目で、俺と視線を合わせずにぼそっと言い捨てて部屋へ戻って行った。

 直感的に、卑怯な台詞だと思った。

 と言ってみる、ということはつまり自分はその言葉の責任を負わないけども、ちゃっかり主張はする。本意ではないけど試験的にそういう言葉を出している、というスタンスでの主張をすることで、米を食わせろ、という主張が失敗に終わったときでも、自分には何の痛みも無い。いわば等価交換を避けている行為だ。

 奴の「と言ってみる」という言語は、飽くまでも独り言で、それを脇で俺が聞いているという位置づけの会話に仕立てたいという意味なのだ。そういう心理の表れでしょう。二重に卑怯だ。そういう姑息な策だけを護身術のように身につけていて、きちんとした礼儀やコモンセンスをわきまえていない。

 いっそのこと「飯を食わせてください」と面と向かって言われたならば「そうかそうか」と冷凍の中華丼やショウガ焼き定食なんかを出してやるのに「米を食わせろよ米を、と言ってみる」と、こうくる。

無責任なネットの書き込みみたいな真似をしやがって。言うことは言うけど、自分が傷つくことは嫌なのか。

 こんな奴がこの国を背負っていくというのなら、確実に国が崩壊するだろう。核攻撃の応酬が始まり、自然や人間はどんどん死滅していくだろう。

 今まで体験したことのない不快感であった。

 その日はもう、何もする気が起こらず、かといって何もしないのも大切な一日を奴に奪われたような感じでまた不愉快なので、意味もなく遠くの大型デパートへ行って、何も買わずに帰って来た。



 奴が家に来てから、得体の知れない液体が辺りに付着するようになった。暗い緑色をしていて、蜂蜜のような粘り気がある。拭き取っても、脂のようにいつまでも跡が残る。それに腐った石鹸水のような悪臭がする。

 しかも困ったことに、その液体には害虫が湧くのである。

 今まで見たことの無いような、巨大なゴキブリとムカデ、それから黒くて細かい足の生えた蜘蛛に似た虫が、その液体に群がっていた。この家に越してから、そういう不快害虫に悩まされたことが無く、「この家で害虫に悩むことは絶対無い」という神話が崩壊するのを感じた。

 害虫みたいな顔して、なおかつ虫まで集めやがって。

 奴のことで頭がいっぱい。

 最近では、奴の気配を感じだだけで、めまいがするようになってきた。

 奴のなにが気持ち悪いかというと、顔はいわずもがな。冷静な分析をしていくうちに、声の出し方がキモイことが分かったのである。

 奴の陰気な声の正体は、はっきりと喋らないことから来るぼそぼそ感である。よく、腹から声を出す、と言われるが、奴の場合は顎の辺りからヨダレでも垂らすかのようにぬるっと出すのである。

 奴がよく口にしている「サブカル」というのも気になる。最近、何かというとぬるとその仲間内でその単語が頻出するのだ。

「豆ちゃんて、サブカル通だよね」という具合に。

 さぶかる、というのは何か。俺はテレビをろくに見ないし、新聞などもとっていない。だが、四十八生きていると、大抵のことは経験で判断できるものだ。すなわち、さぶかるっていうのは、何かの造語だよね。しかも、語呂的に漢字を略してくっつけたような造語。

 さ、というのは昨今話題の、詐欺のことであろう。ぶ、は侮蔑の侮。ここまでは妥当な解釈だよね、八割方当たってるよね。かる、の部分なんだけど、やはり狩るが来るのが言葉の座りが良い気がするけど、詐侮狩る、っていうのは意味不明なので、侮、を使うあたりを考えて、軽。さぶかるとは、すなわち詐侮軽のことであろうな。

 つまり、奴を指して詐侮軽と言うのならば、善人を詐称し、他人を平気で侮蔑し、軽んずる。と、こういう人種のことを言うのであろう。そう考えれば合点がいく。だが、吉子は奴の前でさぶかる、さぶかる、と言っていた。ということは本人は自身が詐侮軽であることを承知の上で、しかも吉子も奴が詐侮軽であることを認識して付き合っていたということか。そうなると、吉子は不細工なだけでなく、頭も弱いということになってしまうのか。奴にしてみれば、さぶかる、さぶかると呼称されるのは自身のアビリティーというか、レゾンデートルみたいなもので、悪人が極悪と称されれば喜ぶ、というような心理なのだろう。

 夕方の五時、俺はピザ屋のバイトを終え、家に帰った。

 玄関に入ると、ぬるの気配。妻の部屋が半開きになっている。中には誰もいない。どこか違う部屋にいるのだろうと、思う暇もなく奴がキッチンから現れた。

 手には、丼鉢。しかし、カレーの匂いがする。

 俺が食おうと思っていた、レトルトのビーフカレーであった。奴はそれを温め、炊飯ジャーから勝手に飯をよそってカレーをこさえたのだ。カレー皿を探すのが面倒だったので、目についた丼鉢を使ったのだろう。

 匙でルウと飯をぐちゃぐちゃに混ぜながら、部屋に入って行こうとするところであった。

 俺は玄関の土間にいて、奴はすでに家に上がっているので、俺の一段上に位置する格好になる。

ぬるの奴が、俺を見下ろした。

 俺を一瞥してから、悪びれもせずに部屋へ入って行こうとする。

「ちょっと」

 思わずひきとめた。

「え、なに」

「なにかこう、一言あってもいいんじゃないかな。人の家に上がってるわけだし」

「え、一言って?」

 はあ? と言いそうになった。

 俺はできるだけフランクに、でも説教にならんように気をつけながら、

「だからさ、君は人の家に上がってるわけじゃない? それで俺、帰って来たじゃない? 大抵の場合、なにか言った方がいいよね」

「え、俺、聞いたことないけど。てか、常識とかに縛られないタチだけど。あ、でも非常識ってわけじゃないってことね、普通に考えて」

 しばらく、どのような言葉を返してよいものか考えてしまった。どういう生き方をすれば、こんな人間になるのか。というか、こいつは本当に人間なのか。爬虫類のような生物か、アメーバが擬態しているとしか思えない。

 とりあえず、なぜか震えはじめた手と足を動かして靴を脱いだ。

 その間、奴はあろうことか手に持ったカレーの味見をした。それから首を捻った。

「じゃあさ、ちょっと聞いていい?」

「え、なに?」

 といって、もう一口カレーを食った。

「君の言う、さぶかるっていうのはなんのことなの?」

「え、だから、サブカルだけど」

「どういうものなの?」

「え、だから、サブカル」

 あの、顎の辺りから漏らすような低い声で言った。

 ぬるの奴は、俺の理解力が欠如しているがために、何度も同じ説明をさせられる可哀そうなぼく、みたいな被害者ぶった顔をしていた。この話も、後でネタとして仲間内で語るのだろうか。

 俺は悟った。言葉は通じるけども意志の疎通はできない。

 俺がもう何も言えず黙っていると、

「時間が勿体ない」

 と言ってから、

「米が固い。炊き方が悪い、と言ってみる」

 と吐き捨てて部屋に入って行った。

 一般の四十八歳なら、こういう事態にどう対応するだろう。ちょっと待てコラ、と言って部屋に押し入って胸倉を掴むくらいはした方が良いのだろうか。俺はどうしたかというと、その場にへたりこんでしまった。二十とか、それくらいの頃、自分はこの歳にもなれば貫禄も自然と備わり、堂々と物事に対処できるものと盲目的に思っていた。やっぱり、気弱な性分は変わっていなかった。

 そんなこんなで、豆草を追い出せないまま、さらに数か月が経過してしまった。奴はまだあの部屋を自分の居場所として疑わず、というかむしろ交流の場として積極的にオープンにしていく、みたいなことも言っていた。俺が敷金礼金払って、七面倒な書類にサインして、市役所と警察署と郵便局なんかにも足を運んだ苦労を全く知らないで部屋を占有している。リーナちゃんの誕生日だといってパーティーを開いていたこともある。肝心の、リーナという人物はいなかったけども。リーナちゃん不在のまま、大騒ぎをしていた。あれはどういうことだったのだろうか。

 あの得体の知れない液体の正体は未だ分からない。だが、そのぬるぬるにしっかり害虫は湧く。どれだけ駆除しても、次の日になるとその液体に湧いている。布団にも紛れてくるので、眠るとき一度布団の裏表を確認しなくてはいけない。

 ぬるの奴、許せん。何度も思った。

 そんなある日、というか昨日のことだけど、豆草の奴に不思議なことが起こった。

「今日めっちゃ暇なんだけど。うっ、でる」

「牛って、めっちゃでかいよね。うっ、でる」

 と、なにかにつけて、その「うっ、でる」というワードを口走るようになったのだ。

 よく考えてみれば、以前にも「うっ、でる」という言葉は言っていたような気がするけども、最近は特に頻繁に口走る。

「うっ、でるでる、うっ。うっ、でるでる、うっ」

 と、でるでるをリズムに合わせて連呼することもある。

 一体これは、なんなのだろう。

 つうか、なんであろうが気味が悪い。キモイ。よっぽど通報しようかと考えたが、これは罪にあたるのか、と考えて、もし罪にならなかった場合、逆にこっちが訴えられるかもしれないと気弱な俺は思った。

 俺はもう、精神的に弱っていた。だが、なんとか気力を振り絞って、うっ、でる、の正体を突き止めようと思ったのだ。

 その日、思い切ってピザのバイトを休んだ。そして朝、出勤するふりをして、奴が家に上がり込んだあと、そっと帰宅をしたのだ。最近、ぬるの奴は俺の出勤日と休日を把握するようになっていて、月水木金土日が出勤、火曜日休日、ただし、第三週目は火水と二連休することを知っていやがる。俺が家にいるときは、俺関連の話は避けて、パソコンに没頭する。俺が出勤する日には、俺のことをさんざんに言いながら、テレビ電話をしているのだろう。

 ぬるの奴は、思惑通り、家に上がり込んで俺の電気を盗んでパソコンをしていた。

 俺が五時近くまで帰ってこないのを熟知しているせいで、油断しまくっている。大音量で「愛する人がどこかに行ってしまったので悲しい。幻でもいいので顔が見たい」というような月並みな歌詞のアニメソングを流していた。

 靴を脱ぐときに多少の音を出してしまったが、ぬるの奴は気づかない。妻の部屋へ忍び寄り、俺はドアの丁番のついている側の隙間に目を当てた。この隙間から見ると、ちょうどパソコンに向かう奴の顔が見えるのだ。

 相変わらず、人を嫌な気持ちにさせる顔面だ。一般の人が、こうはなりたくない、というような不細工な要素を凝縮させた容姿とも言える。

 奴は、俺の家に置いてあったインスタント珈琲を勝手に部屋へ持ち込み、ついでに魔法瓶も脇に持ってきて、コーヒーをいつでも飲めるような環境にしていた。

 俺の留守中はそんなことしてやがったのか。今すぐ入って行って、肘打ちを食らわせたかったが、ぐっとこらえた。

「ああ。ちっくしょー。結局ボツかよ。うっ、でる」

 例のあれが始まった。今まで声しか聞いたことがなかったが、今日は何をしているのかが明らかになる。

「ちっ、くそが。これだから頭の悪いやつは。うっ、でる」

 奴は、うっ、でると言って鼻を押さえていた。普通の人なら鼻水だと思うだろう。だが、先から謎の液体が、奴が触った箇所に付着する怪現象を知っている俺は、あのぬるぬるの正体があの鼻から出る液体であることを瞬時に悟った。

 絶対に鼻水ではない。あの濁った色の液体は、鼻から生成された汚い汁、つまり奴の汚汁なのだ。よく観察すると、その汚汁は鼻の毛穴から噴出しているようだった。

「うっ、でるでる。でるでる。うっ、でるでる、うっ」

 と奴は鼻から汚汁を次々に出しては、そこらじゅうに塗りたくっている。

 やめろ。壁とかに塗るな。

 というか、あの汚汁を塗りたくるのをやめさせなければ、家が腐敗する。あの液体には、害虫が湧くことはすでに立証済みである。それに、変な臭いもするしね。

 今、勇気を持って行動しなければ、この家を奴に破壊される。奴はこの家が崩壊したとしても、自分が借りた家ではないので、笑ってこの家を去っていくだろう。

 なんとしても家を守らねば。アル中の妻が愛した娘を守らねば。

 俺は、当然ノックなどせずに、部屋へ入った。

「うわ、びっくりした」

 と、抑揚の無い声で言った。やはり、ノックもせずにいきなり入ってきた、プライベートをのぞかれた可哀そうな僕、みたいな目をして、その目は被害者的だった。

 他人の家に勝手に上がってくつろいでいるのだから、まず言うことがあるだろうに、奴は黙って俺を眺めるばかりで、そんなことを言う気配すらない。付け入る隙を与えた俺が悪いのだろうか。

「キミさあ、そのぬるぬるはなんなの?」

「え」

 奴は珍しく、少し焦っていた。

「それを鼻から出してさ、その辺で拭くのはやめてくれないか」

「え、そんなん自分のせいじゃないけど」

 ぬるの野郎、あろうことか俺を無視してパソコンの画面を見やがった。マウスでなにか操作している。

「君が出したものだから、君が責任を持って拭いてくれよ。そのぬるぬる、虫が湧くんだよ。変な臭いもするし」

「虫が湧くう? そんなわけないじゃん」

 やはり、顔に少し焦りが見える。

「いや、実際に見てるから」

 強く出た。ここで引いたら一生の不覚、人生の敗北とばかりに、俺は引かなかった。

「自分、そんな汁出してないけど」

 実際に俺が見て確認しているものを否定する。どういうことか。結論から言うけど、自分の出したぬるぬるから悪臭がして、虫が湧くという事実を認めるという一点を崩されたら負けるので、黒いものを白と言っているのである。

 つまり、だだをこねる、という幼稚な手段に出たのである。

 あれだけ家のそこここにぬるぬるを撒き散らしておいて「そんな汁出してないけど」はないものだ。自分で「うっ、でる」と汁がでることを自覚して発声しているのに。

「じゃあ、うっ、でると君はよく言って鼻を押さえているけど、それはなに? それこそがぬるぬるの正体でしょ」

 と、俺は目で見た事実を引き合いに出して、奴の逃げ道を封じていった。

 すると今度は、

「え、じゃあ、今まで俺の行動を見てたってこと? それは法律に抵触しますけど?」

「ここは名義上俺の家で、勝手に上がり込んだ君の様子を見てたって罪にはならんでしょう。逆に、君は不法侵入にあたるよ」

「で、さっきからなんでそんなに怒ってんの? マジウケるけど。今までなんも言わなかったじゃん? あ、あれですか、来るなら土産くらい持ってこいってこと?」

「そうじゃない。つまり、君が自分の家みたいにさ、好きなときに上がり込んで、俺の家にいるっていうのが良くないんだよ」

「え、全く理解できないんだけど。偉そうな説教するからには、納得のいく説明をして欲しいけど」

 と言われて、俺は考えてしまった。その訳は、今の説明で理解できない、ということが理解できなかったからである。

「じゃ、たとえば、君の家に、知らない人が上がって、勝手にお茶を飲んだり、くつろいでいたら、嫌な気持ちになるだろ?」

「別に、自分はいいけど?」

 嘘に決まっている。知らない人間が自分の家に上がり込んでいたら、誰だって落ち着かないし、不愉快になる。

「だからもう無理。無理なんだよ。気持ち悪いし、変な臭いもするしね。君はもう来ないでほしいんだよ。悪いけど、君の活動はよそでやってくれないか」

 ぬるはわざとらしく伸びをしてから、

「はーあ。これだから、頭の固い大人は。若者に理解を示さない。だからこの国は廃れていくんだよ。先駆者の足を引っ張る低能老人。自分の無能さを認識しろ、と言ってみる」

 姑息な回避をしつつ、新しい切り口を見つけて攻めてくる。といっても、有効な方向転換ではなくて、苦し紛れに「俺は理解されない。俺、可哀そう」と被害者的に訴えただけのことである。

 本当にやってられんよ。

「現代の若者の多くが、君みたいな人間だったら、国が滅ぶよ。いっそ中国やアメリカに吸収された方が幸福なくらいだ。俺みたいなジジイは、君の詐侮軽とかに理解を示さないから、もう帰ってくれよ」

「あ、そ。俺がここで会社を興せば、あなたにも少しは利用料を払ってやったのに。あーあー。貧民が一生に一度のチャンスを逃したねー」

 といって、荷物を乱暴にまとめはじめた。



 一週間が経過した。奴は、あれから家に来ていない。妻の部屋は、奴の汚汁で汚染されていたので、一度アルコール洗浄した。奴が使用した匙や丼鉢や、コップなんかも全て捨てた。

 奴の付けた汚れを取り去ろうと必死になっていた。暇さえあれば、奴が触れたであろう場所を洗浄剤で拭き清め、ぬるぬるの痕跡を完全に消し去ろうとしていた。

 とりあえず心の平穏が戻り、夢見は良くなったし、めまいもなくなった。

 だが、最近また奴のことが気になりはじめた。

 奴を追い出したのは本当にめでたいことだったのだが、それで本当によかったのかということ。奴のグッズ販売とやらが成功した場合、奴はとんでもない金持ちになるだろう。本当に奴が会社を興して金持ちになった場合、利用料を払ってくれる。年収二十億なら、俺には少なくとも数千万は支払われるだろう。ということは、働かなくても億万長者。もう、月々の支払いや、家賃などのことも気にしなくてよいし、娘を専門学校でも、大学でも行かせてやれる。有り体に言ってしまうと、今の収入では吉子を進学させてやれない。

 俺は、もしかしたら本当にチャンスを逃したのか。豆草の恩返しを期待して、もっと我慢した方が良かったのだろうか。

 奴のビジネスは成功しただろうか。

 気になってなんだか気持が落ち着かないので、娘に、

「なあ、最近豆草君はどうしてる? 元気にしてるかな」

 と探りを入れた。

 吉子は、

「え、もう別れたよ。あんなブサキモイの」

 とだけ言った。

「つうか、あいつ、幼女を盗撮しまくってたから捕まったよ。ニュース見てないの?」

 試しに、吉子のパソコンを借りて、動画投稿サイトでニュースを検索してみると「豆草私利(二十五)幼児盗撮で逮捕。家宅捜索で違法ソフト、児童ポルノも所持」とあった。

 俺はそのまま思考停止した。一時間遅れてピザ屋へ出勤したが、具の並べ方がイケてなかったせいで、みんなから「ひがりん、きょう、どうしたの? 並べ方全然イケてないじゃん」とまで言われ、ひがりんの並べ方がこんなにイケてなかったことはかつて無い、きっと、大切な人が亡くなったか何かしたに違いない、とみんなが妙に気を遣ってくれるものだから「いやね、ちょっと、頭痛が、腹痛が」と言って、早退した。

 すぐに帰っても吉子が家にいるので、猫缶を買って、十八年ぶりに田中さん家の猫を見に行った。

 田中さんの家がどうなっていたかと言うと、家自体がすでになく、「笑い水」というネパール風の焼鳥屋になっていた。仕方ないので、とりあえず一杯飲んだ。

 豆草、捕まったか。それはめでたい。喜ばしい。元からグッズ販売会社など興す能力が無かったのだろう。あのブサキモ野郎。ぬるぬるしやがって。ああ、世界は正しかった。今頃は刑務所にいるのかな。

 上も下もわからんくらいに酔い潰れて店を出たのが深夜一時。

 世界が一周していた。天と地の狭間がなくなって、その紙一枚ほどの隙間に、最後に残ったのが真っ暗な夜空。夜空というよりも、鉛筆で引いたような、ただ一本の黒い線であった。その線上に豆草を襲撃する天使がいた。

「まめくさ、まめくさまめくさ」

 と、天使は口々に豆草の奴を攻め、魂だけを連行しようとしていた。

 俺は、天使たちによる豆草の堕落ショーを数秒眺めてから、来た道を歩いた。

 実際、もうどうでもよかった。

 豆草私利は、俺の中で過去の存在になろうとしていた。

 結局、俺は勝ったのですか。負けたのですか。わからん。きっと、ティアナ神にも分からないだろう。



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