魔法の射手その9
その後も、叔父とゆうは一歩も互いに譲ることなく、終いには、叔父の方が「疲れたから風呂に入る」と言って、良い塩梅に話を切り上げたのだった。しかし、ゆうにとっては、何も消化できておらず、寧ろ、時間が経てば、経つほどに、消化不良は悪化して、ムカムカと、不快感で胸を詰まらせるのであった。
「あのじじいめ」
ゆうは呪詛のような言葉を繰り返していた。すると、それを見かねたのか、テツが、バスタオルと彼女の着替えを持って、部屋に入って来た。
「おい、入室の許可はしてないぜ」
「すいません、両手が塞がっていたもので、足で開けさせてもらいやした」
「あたしに用か?」
「4代目が風呂から上がられました。どうぞ、お嬢も今日の疲れを落として来て下さい」
「4代目、あのクソ爺に、そんな大層な呼び名は不要だ。それに、あたしに、老いぼれの油入りの風呂に入れだって。冗談、そんなのに入るぐらいなら、豚骨ラーメンのスープの中を泳ぐわ」
ゆうが虫を払うように、手で引っ込めと合図しても、テツは引き下がらなかった。彼女にここまでしつこく迫れるのは、叔父とこの男を置いて、他にはいないだろう。
「取引しましょう」
「は?」
「風呂に入って下さったら、擽りを1セットやります。ああ、ここで言う1セットは一時間のことです」
「そ、それは」
ゆうは身体を起こすと、真剣な眼差しでテツのことを見ていた。彼からすれば、こんなことで取引になるのかと、自分で口にしておきながら、信じられなかった。しかし、彼女にとって、これが魅力的なサービスであることは、長い経験で学んでいる。そして、ゆうは照れくさそうに、頬を赤らめると、目線をテツからずらしながら、ボソッと言った。
「擽るだけ?」
その言葉の意味をテツは知っている。
「いえ、オプションとして、言葉責めと縄が付いてきます」
「な、なら、入って差し上げてよ」
語尾が壊れるぐらいに、ゆうは興奮していた。普段のサドっ気溢れる態度はどこへやら、テツは、彼女の危ない性癖のパートナーにされたみたいで、何とも言えない心地がしていたが。
次の日、優達のクラスに、黒沢健一に代わり、新たな新人教師がやって来ることになった。驚いたことに、黒沢は、昨日のゆうとの戦い以降、失踪しているという。
「今日から来る先生、どんな人かなぁ?」
棗は近くの席にいる楓に耳打ちしていた。やや、不謹慎だと、優は思ったが、そもそも、他人の死や失踪なんて、皆無関心だ。それがどんなに仲が良かろうと、所詮は他人、家族とは違う。優は達観したように、二人の姿を見ていると、その視線に気が付いた棗が、ズカズカと、彼の席までやって来て、両手で机を叩いた。
「び、びっくりしたなぁ」
「びっくりしたじゃないわよ。あんた、この失踪に思うところは無いの。ここは、新入部員期待のルーキーとして、意見を貰おうじゃんよ」
棗の背後から、彼女をフォローするように、楓がひょっこり姿を表した。
「つまりね、棗ちゃんが言いたいのは、檜山くんも会話に参加しようよってことなの。ほら、この娘、素直じゃないから」
「ちょいと楓さん、そういう話は本人のいない時に、こっそりしてよ。恥ずかしいじゃん」
二人のやり取りを見ているうちに、優は自然と笑顔になっていた。しかし、それが罪深いことであるかのように、すぐに顔を強張らせて、元の無表情に戻ってしまった。
「ね、ねえ、どうして暗いの?」
「楓、聞き方がおかしいし失礼だよ」
「ごめん、僕は、前の学校で色々あってね、少し、人付き合いが苦手なんだ。でも、平気だよ。すぐに慣れるからさ」
優の発言が気に入らないのか、棗はむすっと頬を膨らませていた。一方、楓は同情とも取れるような、慈悲深い表情で、うんうんと頷いていた。
三人の間に奇妙な静寂が流れていると、その空気を切り裂くように、教室の扉がガラガラと、乱暴に開かれた。そして、赤いジャージ姿の若い女教師が教壇に立って、黒板に自分の名前を書き始めた。
「ええ~、今日から皆さんとこちらとお勉強させて頂くこととなりました、天王寺翠蘭と申します。よろしくね、イエイ」
何故か彼女は両手でピースをしていた。しかし、天王寺という名字には聞き覚えがある。きっと、それはこのクラスにいる誰もが、感じていた共通の疑問である。
「隣のクラスにいる、天王寺櫻の姉よ」
こちらから質問するよりも早く、翠蘭の方から答えがきた。
「櫻とはずいぶん似てないでしょ。あの娘は部屋で読書するタイプだけど、あたしはこの通り、外に出て走るのが好き」
櫻と翠蘭、似ているのは茶色掛かった髪の毛だけだった。櫻は髪を腰の辺りまで伸ばしていたが、対して、彼女は、後ろに一本で結んでいる。きっと、走るのに邪魔なのだろう。
「うう、同じポニーテールとして、彼女はライバルになりそうね」
何故か、棗は勝手に翠蘭に対抗心を燃やしていた。優も楓も、特にツッコミを入れること無く、スルーしていた。関わると怪我をする。二人とも本能で危機を回避していた。