魔法の射手その4
「ただいま」
優は力無く玄関の扉を開いた。彼はこの家が嫌いだった。帰りたく無かった。この家からは死臭とも呼べる、冷徹で無機質で、それでいて、噎せ返るような血生臭さと野蛮を感じるのである。
「坊っちゃんおかえりなさい」
強面の男達が、優に一斉に頭を下げる。その誰もが、黒スーツを着こなしており、いかにもという顔をしている。
「ねえ、叔父さんは?」
「今日もお仕事です。ええ、夜になったら連絡すると」
「ふうん」
優は鞄を黒スーツの一人に渡すと、そのまま、階段を上って、自分の部屋に入った。
「どうしようかな」
女子高生の引き裂き事件、犯人はきっとウチだ。極道を名乗る檜山家は、人を人とも思わない残酷な連中であると、優は自負している。人をコンクリートに詰めて海に投げ捨てるなんて、都市伝説か何かだと、一般の、カタギと呼ばれる人々は思うだろうが、事実を知っている優からすれば、それは決して、ちょっと怖い架空の話では無い。直接は見ていないが、そんなことが執り行われたという事実は、黒スーツの一人から、幼い頃に聞かされたし、今は亡き両親も、自分が小学校に上がる辺りで、そんなことを口にしていた。
「皆、嫌いだよ」
どうして、普通の家庭に自分は生まれなかったのか、後悔しない日は皆無だった。きっと、殺された女子校生は、檜山組の経営している風俗とかで働いていたのだろう。そして、何かの軋轢が組織との間に生じて消された。有り得ない話では無い。
その刹那、フワッと、宙を舞うような奇妙な、解放感のようなものが、優の心と体を解き放った。そして、彼を可憐な美少女に変えてしまった。
「ふうう、さてと、なあ、テツ、テツはいるかぁ?」
少女、仮にゆうと呼称する。ゆうは欠伸をしながら、畳の上に寝転がると、檜山組のナンバー2こと、郷田鉄郎。通称テツを部屋に呼びつけた。
「お嬢、いかがなさいました?」
「あのさ、ほら、あれ、いつものやつ頂戴」
「はっ、ただいま用意して参ります」
「うん、よろしくね」
ゆうはニコッとウィンクすると、そのまま襖を閉めて、ごろりと寝返りを打った。そして、人の顔のような染みがある、天井を眺めながら、静かに目を瞑った。
数分後、テツは薄気味悪い茶色の、ドロドロとした液体に満たされた、ガラスのコップを、ゆうの机に置いた。
「ふふ、スペシャルドリンク飲まないとね、体調悪くてさ」
スペシャルドリンクとは、ゆうの好物である。砂糖を混ぜた麦茶に、ハチミツとガムシロップを多量に入れて、よくかき混ぜる。そして、味の無いソーダ水を入れて、最後にレモンを浮かべれば、ゆうのための、特性ドリンクの完成である。この、不気味な炭酸飲料を、彼女は満面の笑みで、一口に飲み干してしまった。
スペシャルドリンクは誰でも作れるわけでは無い。砂糖の量、炭酸の量、かき混ぜる強さ、全てが一瞬でも狂えば、ゆうは飲んではくれない。今のところ、そこ黄金比を守り、ゆうの好み通りのドリンクを作れるのは、世界でテツ一人だけだった。かく言う、ゆう自身も、自分が飲むスペシャルドリンクを、彼ほど完璧には作れない。
「お嬢、新しい環境で浮かれるのも分かりますが、少し帰宅するのが遅すぎかと」
「はぁ、あたしのせいじゃないよ。コイツが勝手に、新聞部なんてもんに入るから」
ゆうがコイツと言う時、それは、もう一人の自分、優を示しているのだ。優はゆうの存在を知らないが、ゆうは優のことを認知している。主人格では無いが、影の支配者は、紛れも無く、ゆうの方である。