幸せの日記その2
その時、乾いた音が楓の耳に届いた。同時に、痺れるような痛みが、彼女の頬を打った。
「え?」
「最低」
自分が棗に平手打ちされたと気付くまで、数秒のラグがあった。そして、頬から伝わるジンジンとした感覚に、しばらく、棗の顔を見つめたまま、呆然としていた。
「あんたは、あたしの親友だと思っていた。でも違った。ああ、今分かったよ。あんたは親友でも仲間でも無かった」
周りの視線も気にせずに、ヒステリックに叫ぶ棗。楓はようやく思い出した。私は彼女のこういうところが嫌いだったのだと。そこに、心配になってやって来た優が、不安そうに、二人を交互に見比べていた。
「優、あんたも同罪よ。まあ、あんたは椿と知り合って、まだ3ヶ月ぐらいだろうし、仕方無いのかも知れないけどさ」
「ちょ、ちょっと・・・・」
それを言うならば、自分も同じだと、楓は言い掛けるが、彼女に横目でギロッと睨まれて、口をつぐんだ。
「僕らも探すよ。ねえ、楓・・・・」
優が言い終える前に、楓は踵を返して、二人の前から走り去って行った。優は本当に頼り無い。何故、自分を庇ってはくれないのか、それが八つ当たりだと分かりつつも、楓は感情の波を押し止めることができなかった。
「うう、ダメ」
机の引き出しが、ガチャガチャと音を立てている。楓はそれを心の中で必死に抑える。そして、中から飛び出そうとする黒いナニカを押し戻そうとする。
「私にだって、幸せになる権利があるのよ」
家に帰れば、また酒乱の父と母の喧嘩を見せられる。いや、あれは喧嘩では無い。喧嘩とは対等な者同士がするのだ。あれは、一方的なリンチだ。母は父に殴られて、蹴られて、仕事帰りで疲れているのに、そこに、感謝の言葉すら聞かされずに、父によって傷付けられる。
「うう、うあああああ」
周りの人から好奇の眼で見られながら、楓は泣いた。不謹慎なのは分かっていた。こんな時に、自分だけ遊ぶなんて、許されないとは分かっていた。でも、少しの間でも、幸せになりたかった。もっと幻想的に表現するならば、シンデレラになりたかったのだ。夜中の12時になると魔法が解ける。それは、彼女からすれば、家に帰ると言うこと。家に戻ればいつもの楓に戻るから、せめて、外にいる間はシンデレラでいたかった。
「あうう」
引き出しが外れて、床に落ちそうになる。グラグラと天秤みたいに不安定に揺れている。
「楓、楓・・・・」
突然、女性の声が聞こえて来た。それは、母のようでもあったし、若い少女のようでもあった。何とも不思議な感覚に、最初は耳鳴りだと思い、無視していたが、声が大きくなるにつれて、それは自分に向けられたものであると知った。
「だ、誰?」
楓の問いに、その声は優しく答える、
「私はマリア・クレセル。魔法使いですよ。うふふ」
「そんな、まさか、あなたなの?」
「ふふ、そう、私こそがあなたにアレを貸したのです」
「そんな、私には入りません。引き取って下さい」
「いえ、今のあなたにはアレ必要なはず。さあ、私こそはマリア・クレセル。未来のあなたです。今こそ、この名をあなたに継承しましょう」
「なっ、あなたの発言の異図が分からないです」
「異図などありません。私は、人の身でありながら、魔法界にて修行を積み、人間初の魔法使いとなった、松嶋楓です。そして、私は過去の私であるあなたに、今こそ、魔法の全てを譲るのです。さあさ、こんな狭い世界から抜け出して、私と魔法界へと旅立ちましょう」
楓はそれには答えず、家に戻った。そして、玄関の前で深呼吸すると、まるで空き巣に入るかのように、ガチャリと静かにドアノブを捻った。
「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃ」
次の瞬間、楓は有らん限りの声で叫んだ、そして、その声に父がビクッと肩を震わせていた。その手には血濡れの包丁が握られており、足元には、胸から血を流した母が仰向けになっていた。
「嘘、どうして、お母さんがぁぁぁぁ」
「ちちち、違うんだ。楓、母さんが襲って来たんだ。だから、俺は・・・・」
「嘘つき、ウソつき、うそつきぃぃぃぃぃぃ。あんたが、あんたが母さんを殺したんだぁぁぁぁぁ」