棗ターン
棗と櫻は階段を上って、いつの間にか、見覚えのある廊下に出ていた。
「あれ、ここって」
「病院よ。優の入院している欅病院。まさか、病院に地下室とかあったの?」
「秘密の実験室かもよ。ホルマリン漬けの死体とかあったのかも」
「あながち否定できないわね。この病院、10年前に麻薬の取引が、ナースの間で行われたらしいもの」
二人は額に汗を浮かび上がらせながら、院内を探索していた。すると、正面から、ぞろぞろと白衣を着た人影が、いくつも並んでこちらへと向かって来ているのが分かった。
「何、あれ知ってるわ。テレビドラマとかで見たわよ。そうかいしんだっけ?」
「ふう、少し黙ってて。何だか妙よ。さっきから患者らしき人の姿は見当たらないし、それに、あの人達も、不気味だわ。まるで、生気が感じられない。例えるならゾンビかしらね」
櫻の予想は見事に当たった。彼らの眼は灰色で、虚空を見つめていた。そして、こちらに近付いて来るにつれ、彼らの肌の色が、蝋のように緑色で無機質な色合いであることが分かり、より、二人を恐怖に陥れた。
「な、化け物よ」
「え、ええ、棗、逃げるわよ」
櫻は驚愕している棗の腕を引いて、彼らと反対方向に走り出した。正直、呆気にとられているのは、櫻も同じなのだ。しかし、彼女の冷静さと、生まれ持った危機回避能力が、この状況で立ち止まることを、善しとしなかった。理屈より先に手が出ていた。
「信じられない。ゾンビに病院って最高の組み合わせじゃないの」
「ええ、その通りよ。赤い糸で結ばれたみたいに、最高のカップル誕生だわ。ホントに、これは夢よね」
「あ、櫻、危ない」
棗と櫻の足が縺れて、二人揃って廊下に俯せに転んでしまう。まるで、二人三脚で失敗したみたいに、滑稽なほど鮮やかに、二人は倒れた。
「うう、最悪、やっぱり、私と棗は相性悪いのね」
「櫻、へへ、先に逃げてて」
棗はホラー映画のキャラクターのような台詞を吐きながら、無意識に消火器を掴んでいた。
「ちょっと、それで勝つつもり?」
「仕方無いでしょ。このまま逃げても、いつかは捕まる」
棗は覚悟を決めたように、櫻の方を一度だけ見つめると、そのまま、消火器片手に、ゾンビ軍団に殴り掛かって行った。そこで、櫻は思わず眼を疑う光景に遭遇する。最も、ここに来てから、まともなものを見ていないのだが、今回のは特に凄まじかった。
「うりゃあああ」
棗は気付いているだろうか。いつの間にか、彼女の抱えていた消火器は、逆さかにしたパズルのように、バラバラとピース状に分解され、よく、死神が持っているような、黒い大鎌に姿を変えていた。それは、あまりにも幻想染みた、嘘のような光景。しかし、彼女は既にそれを使いこなしている。
「来いよ。あたしが刈ってやるよぉぉぉぉぉ」
棗の大鎌が、次々とゾンビどもの首を、文字通り刈って行く。ゾンビどもは、緑色の体液を放出しながら、床に倒れ、そのまま、跡形も無く消えて行った。
「ウオオオオオム」
奇妙な咆哮と共に、ゾンビ達は棗に狙いを定める。棗は舌なめずりしながら、それを受け入れる。
「上等、ぶっ殺してやるわぁぁぁぁぁ」
次々とゾンビ達は消えて行く。棗は楽しそうに、全身から煌めく汗を流しながら、まるで、そういうスポーツであるかのように、異形の者達を次々と葬って行った。
「誰?」
優は下から聞こえる物音で目を覚ました。カーテンの隙間から、外を見ると、そこは星1つ存在しない漆黒の闇。もうこんな時間かと、身体を起こすと、奇妙な違和感を感じだ。
「ん?」
同時に、病室の扉が開け放たれ、大量のゾンビが、全身緑色の人間が、彼の前へぞくぞくと押し寄せた。
「ひっ」
優は思わず息を呑んだ。目の前にいる異形の者達は何者なのか、何故、ここにいるのか。数多の疑問が脳内を駆け巡り、彼の身体を鈍器のように、重く鈍くしていた。
「誰か、助けて」
優はナースコールを押した。彼にしては、この極限状態にしては、合理的な選択をしたと、普段の彼を知る人がここにいたならば、彼をそう褒めていただろうが、それだけでは、この危機を乗り越えるには足りなかった。
「うああ、来るな」
ゾンビの何体かは、既に、優のベッドの足にまで到達している。
もうダメだ。彼が諦めて眼を閉じたその時、心の中で、静かな少女の声が聞こえた。
「あたしに変われ」
「え?」
瞬間、優の肉体は、もう、優のものでは無くなっていた。彼、もとい彼女は、ゾンビの顔を足で踏みつけると、そこに唾を吐き捨てて立ち上がった。そして、挑戦的な眼で、ゾンビどもを睨み付けた。