魔法の射手その16
その後は優と入れ替わり、幽は彼の心の中で静かに眠った。
次の日、朝食を終えて、いつものように、学校へ行くための支度を済ませると、丁度、見計らっていたかのように、インターホンが鳴った。こんな朝に来客とは珍しい。優は玄関を開けると、そこには、見慣れた、赤い髪のポニーテール、棗が立っていた。
「ハロー」
「あ、どうしたの?」
「えへへ、あたし達って家近いじゃん。だから、一緒に学校に行こうと思って」
「あ、そうなの」
言葉では上手く表し難いが、優は嬉しかった。友達と一緒に登校なんて、有りがちだけど、生まれてから一度も経験したことは無い。しかも、相手は女の子である。そこを忘れてはいけない。
「う、うん。行こう」
二人は並んで歩いていた。まるで恋人同士のような光景に、優は嬉しい反面、周りの視線も気になった。最も、棗レベルの美少女相手なら、噂になっても構わないだろう。
「いやぁ、翠蘭ちゃんが、顧問になってくれて嬉しいよ」
「ダメだよ。ちゃんと天王寺先生って呼ばなきゃ」
棗は新聞部が公式化したことが嬉しくてたまらないらしかった。優からすれば、それはどうでも良いことなのだが、彼女の嬉しそうな顔を見ていると、自分の頬も自然に緩んだ。何より、彼女の太陽のような輝きが眩しくて、暗い自分を照らしてくれている錯覚がしたのだ。
通学路とは異なる、寂れた商店街を通り、二人はいつまでもお喋りをしていた。棗が常に話題を振ってくれるので、二人の間に、沈黙や気まずい空気が流れることはない。
いつまでも続いて欲しい、楽しい日々。しかし、優は知っていた。そんなものは、砂でできた城に過ぎない。たった一回の波で、全て崩れさってしまう。儚くて短命な存在。だから、次のような光景がが眼前に広がろうとも、彼は傷付かなかった。寧ろ、こう思った。ようこそ非日常。
「ひっ、嘘でしょ」
棗は目の前の光景に、ただ震えていた。そして、路地裏の中に駆けて行った。それを見て、優は叫ぶ、そっちは行き止まりであると。
「くっ」
これが愚作であることは、重々承知ではあるが、棗を見捨てては置けない。優は彼女の後を追い掛けて行った。そして、そんな二人の背後には、ナイフを握り締めた男が、口元を歪めて、ハロウィンのカボチャのように笑っていた。
「何で、どうしてよ。あれって黒沢先生でしょ」
「ああ、そうだよ。彼さ。薄々勘づいてただろ。女子高生連続引き裂き事件。その火中に突然失踪した、黒沢健一。どう考えたって犯人さ。それにしても、鬼塚刑事め、出て欲しく無いときは、すぐ現れるクセに、こういう時は顔も見せない」
二人は当然のように行き止まりにぶつかった。そして、袋のネズミとでも言いたげに、振り返った二人の前に、黒沢が現れる。
「先生」
棗は叫んだ。しかし、黒沢はそれに対して、眉一つ動かすことも無い。
「先生か、まだお前は私を先生と呼ぶのか。くくく、これは面白い。今から、このナイフで殺され、顔に最低な装飾を施されるというのに」
黒沢の手元が僅かに光っている。彼の手にはナイフが握られている。
「う、うああああ」
優は叫びながら、黒沢に掴み掛かった。叔父の言葉がこんな時に思い出される。自分で人を殺す覚悟も無いクセに、誰かに頼むなんて最低だ。だから、今度は自分でやる。優は黒沢に体当たりすると、小柄な身体を必死に動かして、彼のナイフを奪おうとした。
「いや、優、逃げてぇ」
「ダメだよ。あう、女の子がナイフで襲われたら、男なら助けなきゃ。男はピンチの女の子を助けるように、遺伝子に刻まれているんだからね」
こんな時にキザな台詞を吐ける自分を、優は少し見直した。今の自分ならできると思った。
「うりゃゃゃゃゃ」
黒沢のナイフが宙に浮いた。そして、コンクリートの地面に音を立てて落下する。優はそれをすぐに拾おうとする。しかし、それが間違いだった。
「へ?」
「くははは、バカめが」
優の脇腹を赤い閃光が抉った。忘れていた。黒沢にはコレがあった。空き地で襲われた時、黒沢は何かを投げた。同じ手に優は引っ掛かったのだ。
「あぐ」
優はいとも簡単に、地面に大の字に倒れた。ドクドクと生暖かい血液が、真っ赤な絵の具みたいに、コンクリートのキャンパスを塗り潰して行く。ああ、やはり現実には勝てなかった。優は諦めて瞳を閉じた。頭の上では棗が泣きながら叫んでいる。彼女にだけは助かって欲しいと思うが、それすらも現実の前では叶わないだろう。