魔法の射手その1 1
次に目を覚ました時、優は反射的に手に持っていた、ある物を投げ捨てて、その場に尻餅を突いて、眼を見開いていた。冷たい汗が、額から顎を伝い、アスファルトの地面を濡らした。それが、汗では無く、血であることに気が付くのに三秒掛からなかった。
「うう、うあああああ」
生まれて初めてあげる自分の絶叫、一瞬、これは本当に自分の発した声であるのか、疑問に思ったほどだ。それはまるで、電話越しに聴く自分の声のように、違和感でしか無かった。自己防衛本能の一種なのか、彼の視界は極めて狭くなっていた。見てはいけないと、全身で何かの信号を発しているようだった。
「え?」
優は自分が無意識に投げた物を拾ってみた。それは、赤黒くなった金属バット。真っ赤な鮮血と黒い血の塊が混ざり合い、奇妙なコントラストを描いている。血はすでに固まっており、そこから、かなりの長い時間、彼はこの場所にいたことが分かった。
「う、うああああ」
そして、視線をふと前方に向けた時、優を第二の絶叫の波が襲った。そこには、普段は憎々しい表情ばかり浮かべていたはずの、苛めグループの、ピエロのように滑稽な顔だった。
いつも、自分の弁当にホチキスの芯を入れていた、そばかすの少年は、口元を、裂けてしまうのでは無いかと、心配してしまうほどに、口を左右に三日月の形に歪めている。そして、鼻はひしゃげていて、目元から額の辺りまで、真っ赤に染まっている。男なのか女なのか、そんな最低限の区別すらつかない程に、原型を留めていなかった。
その後、彼の起こしたとされる、この暴力事件は、檜山組の圧力もあって揉み消された。しかし、優の心の傷は深い。彼はいつしか、幼少期に自らが生み出した架空の人格「幽」のことを思い出すようになった。幼い頃、彼は幽と名付けた架空の人格に成り切って、遊んでいた。ちょっとした変身ヒーローのつもりで楽しんでいたのだが、いつしか、それが真実味を帯びてくる気がして、成長すると共に、胸の奥底に封印したのだった。
「檜山さん。大丈夫ですか。もしもーし」
鬼塚に何度か肩を叩かれて、優はようやく我に返った。車内にはエアコンが利いていたはずだが、彼の全身は汗でびっしょりと濡れていた。
「何だか、お疲れのようだ。もう帰ってよろしいですよ。お友達も、我々を良くは思っていないようですからね」
鬼塚は窓の外を見ながらそう言った。そこには、公平、棗、楓を始めとして、彼らよりも付き合いの短いはずの、椿や櫻までもが、敵意を剥き出しにして、刑事二人を睨んでいた。まるで、優に何かしたら、覚悟しろと、言葉には発していないが、眼でそのように凄んでいる気がした。
「あの、僕は無関係ですから」
「あはは、それは我々が決めることですよ。まあ、前みたいに、あなたのご家族によって、無かったことにされちまいますがね。もしかすると、我々ごと消されたりして」
優は話を最後まで聞かずに外へ出た。これ以上、悪い大人の毒気に曝されるのは、精神衛生上良くないと思ったからだ。
レポート 幽とは?
檜山優のもう一つの人格、今まではゆうと、ひらがなで表記していたが、これからは「幽」と呼称する。
ルール1 優と幽は同一人物である。
ルール2 人格が入れ替わる際、性別も変わる。そのため、肉体的な違い(身長や体重など)や性差(性的機能の違いや身体つきの違いなど)がある。
ルール3 半陰陽では無い。完全なる陰と陽である。
ルール4 二人は同じ肉体を共有しているので、怪我や病気も共有する。ただし、性格や性別の違いで、痛みの感覚が両者で異なることはある。優が右腕を骨折すれば、幽も右腕を骨折する。しかし、どの程度痛がるかは、二人の性格による。
ルール5 優は平和に暮らしたい。