魔法の射手その10
翠蘭の担当科目は体育らしい。早速、一時間目はその体育なので、生徒達はテンションが上がっていた。というのも、翠蘭は妹の櫻に負けず劣らずの美女である。多感な男子達にとって、若い女教師は身近な異性であり、クラスの女子以上に、女というものを感じさせてくれる。
「バカね、男子って」
棗は吐き捨てるように言うと、ギロッと優の方を睨み付けた。
「な、何さ」
「あんたは違うわよね。まさか、あんたまであの教師に夢中にならないわよね?」
「あはは、天王寺先生は綺麗だと思うよ。でも、相手は先生だし、別に意識しないよ」
優は笑いながら言うと、また顔を強張らせてしまった。
「あのさ、笑ったら尻バットとか無いわよ。何で笑おうとすると、それを止めちゃうの?」
「違うんだよ。笑うってことはさ、ある意味では、相手に弱味を見せるのと同じだと思うんだ。ほら、笑ってる間って無防備でしょ」
「何よ、だったら、あたしには弱味を見せられないってこと?」
「そうじゃないけど、僕は昔のような失敗は繰り返したくないんだ」
「失敗って?」
「君には言えないよ。言ったら、もう口を利いてもらえなくなる」
優は寂しげにそう言った。すると、二人のいる校庭の端に、翠蘭が走って来た。それも、取り巻きとも呼べる、彼女のファンである男子生徒達を多数引き連れて。
「檜山君、校門に警察の方が来ているわよ。あなたに話があるって」
翠蘭の言葉に、優は目を丸くした。警察の世話になるようなことはしていないつもりだが、仮にも教師を名乗る人間が、そんな下らない妄言を吐くとは思えない。だから、大人しく従うことにした。傍らにいた棗は、心配そうに優を見ていたが、特に弁解も何もせず、黙って、警察の人が待つという、校門へと向かった。
校門の前には、パトカーが止まっており、サイレンの鳴るランプは外されていた。車外には二人のスーツ姿の男がおり、片方はまだ若く、もう片方は、それよりも少しだけ老けている、とは言っても、まだ40にも満たないような年齢にしか見えない。彼らは、ニコニコと笑顔ではあるものの、その瞳には、疑惑の二文字が映っている。恐らく、自分にとって、有益な話は聞けないだろうと、優は覚悟した。やましいことは無い。でも完全じゃない。だからこそ、彼は不安で、二人の顔を見られず、うつ向いたまま歩いていた。
「こんにちわ、檜山優さん」
先に歳のいった方の刑事が話し掛けてきた。優はようやく顔を上げると、色彩を失った灰色の眼を、彼に向けたまま、低い声で挨拶した。元より、相手も優に愛想なと期待していない。だから、当然のように、車内に彼を案内し、後部座席に座らせ、刑事二人で取り囲むように、彼を真ん中にして、左右の席に座った。
「お久しぶりですね。あたらしい学校はどうです。もう慣れました?」
優とこの刑事は前にも関わり合いになっていた。だからこそ、彼も何の疑問も持たずに、車に乗ったのだ。
「あなたが来る前は楽しかったですけどね」
「あははは、ご安心を、すぐに消えますから、実はねぇ、黒沢健一について聞きたいことがあるんですよ」
刑事は黒沢の写真を見せながら言った。すると、ずっと静かにしていた、若い方の刑事が口を開いた。
「彼が行方不明になる直前、つまり、最後に出会った人があなたなんですよ。実はね、ここの近くの空き地で、あなたと黒沢健一が言い争いになっているのを、近所の方が目撃しておりまして、それで、あの後、どうしたのかと思いましてね」
刑事達の言葉は、優の心を抉るのに十分だった。彼らは優のことをよく知っているつもりだが、実は、彼の人格の一割も知らないのである。
「僕は無関係だ・・・・」
そう口にしながら、優は一年前の光景を思い浮かべた。
一年前、優はクラスメイト達から苛めを受けていた。それは、彼が元々苛められていた、ある生徒を庇ったことが原因だった。当時、彼の通っていた学校は、私立の名門として知られていたのだが、その裏では、陰湿な苛めが横行していた。まだ、正面切ってカツアゲされる方が、後世のネタとして残るかも知れない。しかし、弁当にホチキスの芯を混ぜられたり、上履きの上に画鋲を撒かれた日には、とてもじゃないが、それが、バカな学生時代の思い出として、語れる気にはなれないだろう。
ある日、いつものように、苛めグループから暴行を受けていた優は、ついに彼らによって、決定的な瞬間を迎える。苛めグループのリーダーである、そばかすの男子生徒は、優を脅かそうと思って、懐からナイフを取り出したのだ。無論、彼は優を刺すつもりは無い。しかし、冗談とは言え、光り物が飛び出して来た以上、いつかは、この脅しもエスカレートして、本当に優をナイフで刺す日が来るかも知れない。
鋭利な刃を喉元に突き付けられて、優の意識は弾けるように消失した。