side父親
彼女を手に入れようと決意したのは、暗闇の中だった。
彼女の小さな手のひらに隠れるナイフで、醜い豚のような老獪の首を切り裂いた彼女の姿に僕は見惚れてしまった。
夜会に姿を現した時から目を離すことの出来ない女性だった。夜空のような濃紺のドレスを纏い、滑り込むように貴族たちが自由に過ごす夜会に入ってきた彼女に気が付くものは居なかった。貴族たちの間を器用に渡り歩き、時間が過ぎるのをやり過ごしている姿は、平凡で目立っことなど一切なく、誰の記憶に残らないように上手く立ち回っていた。
その姿を、僕は目を離せず見続けていた。
今思えば、あれは一目惚れのようなものだったのだろう。
そして、会場の明かりが全て消え去り、周囲が悲鳴と暗闇に包まれた時、僕は彼女を手に入れたいと強く思った。
夜会の主催者はフォード侯爵。侯爵位を持ち、その身分に胡座をかき庶民達が抱く愚かで悪しき貴族そのものを体現したかのような人生を歩んできた老獪だった。
会場が闇に包まれた直後、ナイフを取り出し老獪の首を迷いなく切り裂いた彼女。
彼に違和感なく近付く為に、彼女が気配を薄め、自然な形で動き回っていたのだと、気づいた。
首を横一線に切り裂いた後、手にしたままだったナイフを老獪の胸に突き刺し、彼女は老獪から遠ざかる。そして、踵を返して逃げようとしている彼女。けれど、空中に滲み出てきたローブに覆われた人物に体を抱え上げられ、彼女の姿はそのまま消えてしまった。
体に腕を回された時に、ずっと笑みを浮かべていた彼女が驚き、素の表情を晒していたが、それもまた可愛らしかった。
突然現れ、消えた。
あれは、魔法使いだろう。
魔法を自在に操り奇跡を起こす魔法使いや魔女は数が少ない。この国に住んでいる魔法使いなど、一人しか居なかった。
『白の魔王』と、同じ魔法使い、魔女にまで恐れられている男だ。
動かすには、巨額な報酬が必要だと言われている。
分かりやすい動きしか出来ない、小物でしかない老獪の殺された理由などに興味は無い。魔法使いまで動かした依頼主も、予想がつく。
興味が沸いたのは、こんなくだらない事で何故『白の魔王』が動いたのか。
けれど、その興味も、何度も頭に過る彼女のお腹に腕を回し体を密着されて連れ去ってしまったという、僕の胸をチクチクと突き刺す苛立たしさの前に霞んでいた。
明かりが戻り、夜会は悲鳴に満ちることになった。
主催者が殺されているのだ。当たり前だろう。
けれど、僕の頭は彼女の事で満たされ、大して重要と思っていなかった取引相手の事など、とうの昔に消去していた。
駆け付けた衛兵の事情聴取を終え屋敷に帰ると、僕はすぐに部下たちに命令した。彼女について調べあげろ、と。
この国の裏側は掌握したに等しく、表でも僕の力が及ばない場所は少なかった。
だからこそ、彼女の事はすぐに見つける事が出来た。
彼女は、僕の予想通り国が遣わした存在だった。
宰相が管理する諜報室に属する諜報員。
名前はエーリン。年はもうすぐ29。15歳で諜報室に入り、数々の功績をあげている。主な任務は潜入。今回は他に動ける者がいなかった事で彼女が任されたようだ。
これは運命だろう。
彼女は来る予定では無かった。
僕も、たまたま気が向いたから招待を受けた。
僕と彼女は本当に偶然で、運命めいていると喜びが沸いてきた。
どうしたら、彼女とまた会えるだろうか。
どうしたら、彼女を僕のものに出来るだろうか。
そんな事ばかりを考える。
表も、裏も、仕事が手につかない程に彼女の事ばかりを考えてしまう。
そして、思い付いたのは彼女が潜入を主にする諜報員であるということ。
僕の下に、派遣されるように仕向ければいい。
思い付いた時は嬉しさの余り、部下たちを怯えてさせてしまったらしい。
僕は、ウォルター・アルフォード。
子爵の位を授けられた一族に生まれ、受け継いだ。
僕が家と爵位を受け継いだのは、15歳の時。もう、25年も前の事だ。両親や多くの一族は惨殺されていた。迷宮入りとされた事件の犯人を僕は知っていた。敵対していた組織の仕業だった。
アルフォード家は国の建国から存在する名家に数えられている。由緒正しき青き血でありながら、何処で何時間違えたのか、小さいながらも悪名深い裏社会にどっぷりと浸かる組織を率いていた。
僕はただ一人生き残り、家と爵位と共に組織を受け継いだ。
有能なものは引き込み、裏切れないように薬などの様々な手段を用いて逆らえない体にした。年若い僕を侮り裏切ろうとした奴等は見せしめも兼ねて、死なないように処置をしながら拷問に拷問を重ねて始末した。
金に成ることは何でも行った。
あまり興味もなく、そういった行い自体は楽しいとも感じ無かったが、被害にあい右往左往と騒ぎ、許しを乞う人間の姿を見るのは楽しかった。
組織は段々大きくなり、今やこの大きくはないが小さくもない国の裏側の掌握は終わり、近隣諸国にも食い込むことが出来ている。
半分以上の貴族達を操る事が出来る程度には面にも影響力をつけている。
それを少し、国に教えてやればいい。
そうすれば、国は諜報員を送り込んでくるだろう。
後は、そうだな。彼等が彼女を選ぶようにさせよう。
彼女に似ている娼婦を何人か用意させた。
貴族の義務として妻を貰い、子供も作った。
妻は子供を産んで死んだ。
それ以来、節操の無いことはしていないまでも、適度に処理はしていた。
不信に思われることも無いだろう。
これで、彼等は僕の下に送り込む者として彼女を選ぶ。
さぁ、後は待つだけだ。
彼女を思うと、娼婦に触れるのも気持ち悪かったが我慢した。
組織の末端に送られてきた諜報員は一部を痛め付けながらも敢えて逃がし、多くは始末した。
そうする事で、末端では無く、僕の側に彼女を送れと彼等に命じた。
その想いは届き、彼女は僕の前に再び現れてくれた。
ある貴族の集まりに現れた、美しい装いをした彼女エーリン。
さりげなく僕に近づき、自然を装って話しを交わし始めた。
にやけてしまいそうな顔を必死に抑え、僕は彼女と話を進めていった。
彼女の設定は、名前はエリシア。とある男爵家に嫁ぎ、若くして夫を亡くした未亡人。亡夫との間に二人の娘がいることにしたらしい。多分、彼女が可愛がっている部下である二人の少女と任務を一緒にしようと考えているんだろうね。それもいい考えだ。僕には娘がいる。お互いに子供が居る、連れ合いを亡くした同士が再婚する話はよくあるからね。
すぐにでも屋敷に連れ帰りたい気持ちを抑え、僕は彼女と話を交わし、何度も会い、まるで普通の恋人同士のように仲を深めていった。
それを遠くから睨みつけ、圧力をかけてくる視線にも気づいていたが、これといって気にすることは無かった。だって、今彼女を占有しているのは、僕なのだから。
あの、魔法使いではない。
そして、彼女は僕の妻になった。
彼女が僕の隣に立って、僕の屋敷に居てくれるだけで、生まれて初めてとも言える喜びを覚えた。彼女が、僕に毒を盛っていることも気にならないくらいに。
最初は、懇意にしている遠方に住む魔女に用意させた解毒薬を秘かに服用して毒を消していた。そして、彼女の前では体調を崩しているように演じた。
ベットの中で寝転がり、介抱する彼女の腕を掴んで眠ったふりをした事など数えきれない程行なった。その度に彼女は困ったような顔をしながら、それでも腕を振りほどくことなく起きるまでそこに居てくれた。
病人ということで彼女を困らせるような事をした。
彼女は溜息をつきながらも、傍にいてくれた。
そして、僕はある事に気がついた。
毒を飲み、解毒する日々が一年程続いたある日のことだった。
彼女は任務の為にここに居る。
成果が無ければ撤収させられるかも知れない。
僕の事など、すぐに忘れてしまうだろう。
ならば、彼女の記憶に永遠に残ろう。
その為なら死んでしまってもいい、と。
元々、そんなに人生に執着はない。
やりたい事は、やり尽くしたし。
後は、彼女を手に入れたいだけ。でも、それは到底不可能だ。あの魔法使いがいる。遠目で睨みつけてくる姿を何度も見かけていた。その姿から、彼がいる限りエーリンを手に入れる事は出来ないと気づいた。『白の魔王』ならば僕を今すぐにでも始末出来るだろう。それをしないのは、エーリンの任務を全うしようという真面目な性格と、彼がただ余裕と我慢しようという意思を持ち続けているというだけ。
それも限界が近づいているように思えた。
僕は毒を飲む。
彼女が注いでくれたお茶を迷うことなく飲み干す。
彼女が作ってくれた焼き菓子を口にする。
一年もすると、段々と目が霞み、身体が震えていく。
二年目ともなると、ベットから抜けることが出来ない日も出てきた。
死期が近い事は誰の目から見ても明らかだった。
あと持って数日の命、と枕元で医者が彼女に告げているのを浅い眠りから目覚めかけている中、聞いた。医師が去った後の部屋で、僕が起きている事にも気づくこと無く、ホッと安堵の息をついていた。そして、うっすらと開けて見た彼女の顔に、苦し気な表情が浮かんでいることに僕は喜んだ。そんな表情をさせているのは、僕なんだと。
彼女が部屋を出ていくと、僕の喉から笑い声が漏れ出た。
まだ、外にいるかも知れない彼女に聞かれないように手で口を押さえたが、笑い声を止めることは自分自身でも出来なかった。
しばらくして、彼女は部屋に戻ってきた。
眠ったふりをした僕に背を向け、水差しとコップを触っている。また、薬を入れているのだろう。彼女は薬を胸元に入れている。そんな薬なら喜んで水で薄めるなんて勿体無い事せず直に飲むのに、なんて幼馴染みで組織のNo.2を任せている親友に一度溢したら、変態めっ‼と引かれた事を思い出す。あいつには僕の想いを全て吐き出してある。その上で、僕が死んだ後は組織を好きにしていいと既に伝えておいた。もう、最期の別れも済ませた。今頃は、必要な物を全て持ち出し姿を隠し、ほとぼりが冷めるまでの期間を見定めていることだろう。
「エリシア?」
今起きた。
そう思わせるように、掠れた声を出す。
「まぁ、あなた。ごめんなさい、ボォッとしていたわ。大丈夫?」
笑顔で振り返ったエーリン。
「あっ、お水はいかが?」
毒入りとはいえ、掠れた声を心配して言っているのは、表情を見れば分かった。本当に、何故諜報員になったのだろうと問い質したくなるくらい、エーリンは性根が優しい。そして、そんな所が可愛くて仕方がない。
「あぁ、貰えるかな?」
水が飲めるよう、肘をベットについて上半身を上げようと試みる。弱々しく見せれば、エーリンが駆け寄り手伝ってくれる。背中に丸めた枕を差し入れる。僕が楽に座れるようにしてくれるエーリンの想いが嬉しい。死にかけている標的など、放って置いてもいいものなのに。
「ありがとう。」
「いいえ、いいのよ。」
礼を言えば、照れる。そんな所も可愛い。
水の注がれたコップを渡された。
そっと手元でコップを手渡されたエーリンの手に触れ、そのままその手を自分の手で繋ぎ続けた。
そして、コップの中の揺れる水面を見つめ、僕は考える。
もう、明日あたりには起き上がれなくなるかも知れない。
なら、エーリンに僕を刻み付けるには今日がいいんじゃないかな、と思う。
そうだ、そうしよう。
コップを見つめ、俯いてエーリンに見えないことをいいことに、口元に笑みを漏らした。
「どうしたの?」
顔を上げれば、首を傾げている愛おしいエーリン。
僕が全てに気づいているなんて、露にも思っていない。
「あぁ、すまない。」
謝るのに、コップを持つ手を動かさない僕をエーリンは不思議に思っていることだろう。
「あなた?」
さぁ、どんな表情を見せてくれるのかな?
「…出来れば、薬の入っていない水が欲しいんだ。」
えっ。
きょとんとした、本当に驚いているエーリンの顔に心が沸き立つ。
アハハハハッ と小さな笑いが喉から起こった。
エーリンの腕を繋いだ僕の手に力を込める。僕が使う、最期の力だ。躊躇いもなく、骨と皮のようになった腕が壊れようとも構う必要もない。
エーリンの身体を、先程まで眠っていたベットの白いシーツの中に沈める。
大きく開かれたエーリンの目は、今にも零れ落ちそうな飴玉のようで、舐めて、食べてしまいたいという思いが巻き起こった。
「もう、薬は必要ないだろう?あと数日もすれば死ぬ体だ。」
先程、医師が言っていたことを口にする。
自分でも分かる。
今の動きだけで、すでに倒れてしまいたい程の苦しみが襲ってきている。
力が抜けそうになる体は、エーリンに圧し掛かり、彼女が逃げられないようにするのに丁度いい重石となっている。
まだ手に持っていたコップを投げれば、部屋の中に甲高いガラスの割れる音と水が飛び散る音が耳を打つ。驚愕したまま固まっているエーリンの肩も少しだけビクリッと反応した。
「な、何?」
その表情もまた、とても可愛くて、僕は彼女の顔に自分の顔を近づけていく。
「知っていたよ。
君が僕に毒を盛っていたことも、君が国から送り込まれた諜報員だということも。」
多分、エーリンは気づいていないだろうね。自分が、僕の言葉に反応して僅かとはいえ首を振っていることを。ありえないと思っているだろうね。それもそうだろう。自分が死ぬと分かっていて放っておくなんて、狂人の所業だ。
そう、狂人なんだ、僕は。初めての恋に、エーリンに、トチ狂った人間だ。
そして、彼女が僕を忘れないように、強烈な釘を一本。
「ねぇ、エーリン。」
「えっ?」
彼女の本当の名前を呼ぶ。
あぁ、初めて彼女に向かって呼ぶことが出来た。
これで、彼女は僕を心の奥深くに傷つけることが出来ただろう。
「知っていたんだよ。可愛いエーリン。僕は全てを知っていた。君が僕の周囲を探っていたことも。君が魔女をから毒を手に入れて、僕に飲ませていたことも。知っていて、黙って見ていたんだよ。必死に頑張る、君の姿を、ね。」
そう知っていた。見ていた。
僕がそう、仕向けた。
驚きを通り越して、青褪めてしまった可愛いエーリンの唇に口付けを送る。
甘い、甘い、甘美な味がした。
最期の晩餐としては最高だろう。
グッ
腕に再び力を入れて、エーリンの顔を頭に刻もうと起き上がる。
すると、喉の奥底から熱い激流が駆け上ってきた。
ゴホッ
口から、真っ赤な液体が零れ落ちた。
白いベットのシーツに、そしてエーリンの顔や体に僕の血が降り注ぐ。
あぁ、なんて美しい。
青褪めたエーリンを彩る、僕の赤黒い、毒に犯された血。
僕は満足した。
この突然の吐血が誰の仕業かなんて想像がつく。
ゴホッ ゴホッ
咳は止まらない。咳をする度に、細かい赤色がエーリンをより一層彩っていく。
ヒュー ヒューと鳴る喉など気にもかからなかった。
エーリンの頬についた僕の血に手を伸ばし拭う。いや、エーリンの肌に強く擦り付ける。僕の血が、エーリンの体内に入り込んで、一つになれと念じておく。
今度は、胸の奥で切り刻まれるような鋭い痛みが生まれ始めた。
これも、彼の仕業だろう。
そんなにも、僕が彼女に刻み込まれるのが嫌なのだろうか。嫌だろうね。この三年、すでに我慢は限界だろう。
「まったく、最期の別れもさせてくれないのか…」
僕にとっては、これが最期の別れだというのに。ゆっくりさせてくれないなんて。
いや、その気持ちは分かる。
彼は僕と同じだ。伝説に名を残す魔法使いも、恋の前には只の男だということか。
「心の狭い男だ。」
もしかしたら、気づくかも知れない。そうなれば、真面目なエーリンは彼を責めるだろうね。任務を最期まで終わらせなかった、と。
ふふふ。少しくらいは邪魔をさせてもらおう、恋敵。
「さようなら、エーリン。地獄でまた会えることを楽しみに待っているよ。」
神なんて、死後の世界なんて信じてもいない。
だけど、死んだ後にエーリンに会えるのなら死後の世界を信じてみよう。
僕は決まって地獄行きだ。長く地獄で留まることだろう。
そして、エーリンも。
だって、彼女は僕を殺した。裏に属する者として、これまでもその手を赤に染めただろう。
なら、地獄で待っていればエーリンは何れやってくる。会えるんだ。
地獄でまた、新婚生活を楽しもうね。僕の愛おしい奥さん。
強い魔力を持つ魔法使いは不老不死だと言われている。
『白の魔王』である彼だって、この千年姿形は一切変わらずに存在していると言われている。なら、地獄に彼が降りてくるのは、僕よりもエーリンよりもずっと先のことだろう。
ならば、その間エーリンと一緒にいられるだろう。
それに、僕とエーリンは偽りとはいえ夫婦なんだから、ね。
折角の言葉も、力がほとんど残っていない体では音に出来なかった。
でも、大丈夫だろう。エーリンは読唇術が使えた筈だから。
霞んでしまった目ではエーリンの顔は確認出来ない。
だから、僕は夫婦だった間に見る事が出来た、エーリンの笑顔を最期に思い浮かべよう。
あれは確か、野で摘み作った小さな花束をプレゼントした時に見せてくれた笑顔だ。あれが一番彼女らしくて、輝いていた笑顔だった。
宝石も、美しい花束も、ドレスも彼女は作った笑顔しかしてくれなかったが、あの時は素の笑顔を見せてくれた。
バイバイ、エーリン。
また会おう。
次は『side魔法使い』です。