side継母
目の前にあるベッドの上には、息を荒く吐き顔を青ざめ眠る夫の姿。
一年程前から体調を崩し、二週間前からベットから降りることが出来ない状態に悪化した。掛かり付けの医師には、原因不明、このままでは一ヶ月持つか持たないかと宣告されている。
部屋の隅のテーブルに用意してある水差しの前に向かい、目を閉ざしている夫だが何時起きるかも分からない。夫から水差しが見えないように身体で遮るように私の身体を配置する。
そして、水差しの中に、胸元から慎重な動きで取り出した薬を溶かす。
この行動を始めて三年。
あと少し。
三年の月日をかけて盛り続けた効果はしっかりと出ている。毒に冒されきった夫の体は何をしても回復を見込めない程にボロボロになっている。
この男が死ねば、私の役目も一つの段階を終える。
私は今の名は、エリシア・アルファード子爵夫人。
これまでの経歴から作りこんだ完璧な、偽りの名前です。
本当の名は、エーリン。
この男、ウォルターを調べ上げ、そして殺す為に送り込まれた国家に仕える影です。諜報室潜入隊の隊長という肩書きもある。
ウォルター・アルフォード子爵は、国家に巣食う巨大な闇です。
若くして子爵家を継いだウォルターは多くの事業に手を出し、成功を収めた人物として噂の人物だった。資金繰りに頭を抱えた貴族の多くが、ウォルターに支援を願った。ウォルターはそれを快諾し、そして貴族社会に大きな影響力を持つようになっていた。
ウォルターは穏やかで人の良さそうな笑顔を浮かべ、慈善事業に精を出し、国民の人気も手に入れていった。
けれど、秘かに流れる噂もあった。
諜報室はそれを調べ、国王と宰相に報告を上げた。
報告を見た国王と宰相は、ウォルターを完璧に調べ上げ、処罰を下すことを決定した。そして、送り込まれたのが、エーリンと、エーリンの部下であるアマンダとマリアだった。
夜会で未亡人という設定で近づき、私はウォルターの妻となった。
11歳と10歳だったアマンダとマリアは私の連れ子ということにした。
三人で調べ上げたウォルターの真実は恐ろしいまでに黒一色で、手に染めていない犯罪など無いと言っていい程だった。取り込み支配した貴族たちを使って手に入れた国家機密を、危険な国に売り払っていた。
国はウォルターを秘密裏に裁く事にした。
彼が犯した罪はあまりにも多く、多くの人間を巻き込んでいた。公にすれば、国の貴族の大半に罰を下さなければならないことになる。
エーリンに命令が下された。
ウォルターに毒を盛れと。
そして、私は毎日ウォルターに特別に調合された毒を盛っている。
徐々に毒は彼の身体に蓄積され、体調を崩していった。
「エリシア?」
三年にも渡る任務に思いを馳せていると、背後から声が聞こえた。
ウォルターが起きたのね。
「まぁ、あなた。ごめんなさい、ボォッとしていたわ。大丈夫?」
心配しているような笑顔を作り、後ろを振り返る。ベットの上に寝たまま、目を開けた顔を私に向けているウォルターがいる。
「あっ、お水はいかが?」
こうして見る限り、青褪めてげっそりとやせ細っている顔に優しげな表情を浮かべている姿はとても弱弱しい。とても、近隣諸国の裏世界に悪名を轟かせ恐れられている男には見えない。
「あぁ、貰えるかな?」
笑って起き上がろうとしているウォルター。
水をコップに注ぐ前に、彼が起き上がろうとしているのを手伝う。
背中に腕を回し、彼の背中がベットから起き上がったところに丸めた枕を差し入れた。
「ありがとう。」
「いいえ、いいのよ。」
ウォルターから離れ、水差しからコップに水を注いでウォルターの下に戻る。コップを手渡した時に、渡した後の手をウォルターに繋がれ、離してもらえなかったけど、それはいつもの事で気にならない。
ウォルターは何かと触れ合おうとしてくる人だった。
一緒に移動することがあれば、どれだけ短い距離だろうと手を繋ごうと差し出してきた。
毒を盛られ、ベットから立ち上がる事が難しくなった以降は、介抱する私の手を掴み眠りにつく事が多かった。
「どうしたの?」
コップを手にしたまま飲もうとしないウォルターに首を傾げる。
「あぁ、すまない。」
ウォルターは謝るが、そのコップを持ったまま手を動かさない。
「あなた?」
「…出来れば、薬の入っていない水が欲しいんだ。」
えっ?
掴まれていた腕を引かれ、気づいた時には私はウォルターの温もりがしっかり残っているシーツに身体が沈んでいた。
皮と骨だけになっていたその腕の何処に、これだけの力が残っていたのか。
全ての動作を腕一本ですませたウォルターを見上げる私の目は、大きく開いているだろう。
どういうこと?
「もう、薬は必要ないだろう?あと数日もすれば死ぬ体だ。」
身体をベットの中に押さえつけられ、ウォルターが放り投げたコップが割れ、水が飛び散る音を聞いていることしか出来なかった。
「な、何?」
圧し掛かられ、ウォルターの顔が私の目の前に近づいてきた。
「知っていたよ。
君が僕に毒を盛っていることも、君が国から送り込まれた諜報員だということも。」
知っていた。
いいえ、そんな事あるわけない。だったら、何故私を放っておいたの?毒だって…
「ねぇ、エーリン。」
「えっ?」
どうして、私の名前を・・・
「知っていたんだよ、可愛いエーリン。僕は全てを知っていた。君が僕の周囲を探っていたことも。君が魔女から毒を手に入れて、僕に飲ませていたことも。知っていて、黙って見ていたんだよ。必死に頑張る、君の姿を、ね。」
ウォルターの顔が降りてきて、冷たくガサついている唇が私の唇に触れた。
グッ ゴホッ
笑顔で離れていったウォルター。
「何をするの」と声を上げようとしたのに、それを口から出す前に出来なくなった。
ウォルターは苦しみに顔を顰め、咳き込んだ。
その口から、赤黒い血が飛び散り、その血はベットのシーツや私の身体の上を色づける。
ゴホッ ゴホッ
ヒューヒューと音の鳴る喉を押さえ、もう片方の手は私の頬を撫でた。離れていった彼の指が赤くなっているということは、私の顔についた血を拭ってくれたのかしら?
「まったく、最後の別れもさせてくれないのか…」
ウォルターの声は雑音が混じり聞き取り辛いもの。けれど、何故か何を言っているかをはっきりと聞き取ることが出来た。
「心の狭い男だ。」
男?
「さようなら、エーリン。地獄でまた会えることを楽しみに待っているよ。」
地獄でまた、新婚生活を楽しもうね。僕の愛おしい奥さん。
最後の言葉はもう、音にはなっていなかった。
でも、これでも訓練を受けた諜報員。彼の口の動きで何を言っているか理解出来てしまった。
それを最期に、彼の身体は力無く私の上に落ちてきた。
「ウォ、ウォルター」
声をかけても無意味だと分かっている。
私の身体に密着している彼の身体から何の音も聞こえない。
残っている身体の温もりも、しばらくすれば消えるだろう。
まだ数日残っていた筈の命。
どうして、いきなり死んでしまったのだろうか。
「あぁ、ようやく死んだんだね。」
毒によって衰弱して痩せ衰えていたとはいえ、大人の男性の命を失った身体は、私一人で動かすのは難しい。大声を上げて、使用人やマリアやアマンダを呼ぼうかと思った。
けれど、その前にウォルターの身体が私から剥がされ、ベットの下に落とされた。
それを行なったのは、真っ白い顔に隠し切れない機嫌の悪さを張り付かせた、黒いローブの男だった。少年と青年の間くらいの年の頃に見える男は、床に落とされたウォルターの首の後ろ襟を掴んでいた。
「ローク。」
その男には見覚えがあった。
諜報室に就職する前からの知人だ。幼い頃、今はもう存在しない実家の近くに住んでいた怪しい魔法使い。初めて会った時から一切姿形の変わらない化け物のような男だ。
「やぁ、エーリン。長い任務がようやく終わったね。さぁ、後始末をして帰ろう。打ち上げのお店も用意してあるよ?」
名前を呼ぶと、不機嫌な顔を一変させて笑顔になったローク。
「どうする?燃やしてしまう?それとも、何か他の手がいいかな?」
ニコニコと恐ろしい手段を語っていくローク。放ったおくと、本当に遣りかねない。この男はそういう奴だ。何度も任務中の私の前に現れて、いらない助力を出してくる。その皺寄せは何時も私に押し付けられるのだ。
「まだよ。任務はまだ終わっていないわ。」
「彼は死んだのに?」
要らぬことをするなと言い捨て、ロークを睨み付ける事で釘を差す。
そう、彼が死んだからと言って任務が終わったわけじゃない。
「まだ、娘が残ってる。彼女の安全を確保しないと。それに、彼の組織の後始末も完璧にしないと後の憂いになるわ。」
ウォルターには、12歳になる娘がいる。
彼に溺愛されていたシンデレラという娘は、そこら辺に普通にいる貴族の娘のように後ろ暗い話など何も知らずに育っている。
何も知らない子供に親の罪を背負わせる訳にはいかない。けれど、そのまま貴族にしておく訳にはいかない。それが国の決定だった。
アルフォード家の爵位、財産は没取。屋敷は残されるが、使用人は全て解雇し、シンデレラには私やマリア、アマンダから庶民としての生きる術を学んで貰う。数年後、私達が撤収しても大丈夫なように、すり寄ってくるだろう馬鹿どもを始末し、シンデレラを育てる。それが、残りの任務だった。
そして、彼が率いていた組織もちゃんと処理しなくてはならない。組織が有していた力や財産、情報は巨大で、国の脅威にしかならない。まぁ、そちらは私達以外の担当だから、私達が直接関わることは無いだろうけど。
「えぇ~そんなこと放っておけばいいのにぃ~」
「五月蝿いわね、ローク。だいたい、あんた別に国に仕えてる訳でもないくせに‼口出しに手足出してきてんじゃないわよ‼」
大人しく、黙って、どっか行きなさい‼
ベットに横たわったままになっていたエーリンは、勢いよく足を動かして、ロークの太股に的中させた。
「ちょっ、乱暴…」
「さっさと、どっか行って。」
ベットから飛び上がり、そのままエーリンは部屋から飛び出した。
「誰か‼ウォルターが‼」
そんな声がロークの耳に届く。
「痛いなぁ~相変わらずお転婆エーリンのまんまなんだから。」
幼い頃に出会ったエーリンの姿を思い出す。
お転婆で近所の子供たちの大将であったものの、中身は夢見る少女だったエーリンが、まさか諜報員になるとは、如何に伝説の魔法使いであるロークでも予想していなかった。そして、任務で誰かの妻になってしまうなんて…。
「ムカつく。まぁ、いいや。お前の事なんて、任務が終わった後にエーリンから消してしまえばいいんだから。」
エーリンに、お前の事なんて塵一つ残さない。
ロークはウォルターの体を足蹴にし、姿を消した。
ロークがそれを実行に移せるのは、この日からなんと7年の時間が過ぎた頃になる。それも、何時までも終わりそうにない任務に業を煮やし、エーリン達の奮闘虚しく愚かに育ったシンデレラを唆すことで、だ。
エーリンを手に入れる事が出来たロークは、エーリンを他人に見せる事も、声を聞かせる事も許さない程に溺愛し続けた。