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 アルテミスの使徒。

 第一護神武装は弓。その力は射掛ける相手が男性に限り、命中精度と威力が格段に向上する。熟練の使徒にもなれば超長距離射撃を可能とし、その威力は堅固な飛竜(ワイバーン)をも一矢で堕とす。

 加護は月の祝福。今は月が出ていないため効果は無いが、昼夜問わず空に月が昇っていると、月齢に応じて自身の能力が向上するというものだ。

 また、女神アルテミスは処女神としての側面を持っている。そのため、使徒には女性が選ばれ、純潔である限り、神々からより強力な力が与えられる事となる。

 一部限定的な条件はあるものの、概ね強力な部類に入るのがアルテミスの使徒という存在である。

 先代が教会という世界最大組織において、最強の使徒部隊である第九聖歌隊に所属していたことからも、そのポテンシャルは推し量れる。

「クリス、赤崎君をこっちへ」

「ケーン」

 パクリ。

 クリスが赤崎蓮を包む毛皮を咥え、そのままジャンプ。

 人一人咥えたまま軽々とひとっ飛びで黒岩剛の下へ。

「おいコラ! オレらを巻き込むんじゃねえ! やるなら別のとこでやりやがれ!」

「大丈夫。僕とクリスとで二人には傷つけさせないようにするから」

 身動きの取れないまま戦闘に晒される赤崎蓮としてはたまったものではないが、黒岩剛のその確固たる宣言に、渋々口をつぐむ。

 心境としては半ば「なるようになれ」だ。

 残りはある種の信頼ではあるが。

「ちょ、ちょっと待って! 守ってくれるんならメアちゃんも! ……って、あれ、いない?」

「内藤のやつならさっき走って逃げてったぞ」

「えー!?」

 パトラの部下達にとって、内藤芽亜は見逃して構わない存在にすぎない。

 むしろ目標以外を無駄に殺傷するのは避けたかったため、そのまま見逃した。

 ――と。

 正面に淡い光が生まれる。

 それは白く、冷たい光。

 パトラの手の中の光は矢の形を取り、弓へと番えられる。

「避ければ後ろの方に当たりますわよ」

 弦が引き絞られ――矢が放たれる。

 矢は空気を裂き、目にも止まらぬ速さで獲物を目指す。

 獲物――黒岩剛は左手を出し、払った。

 弾かれた光は後ろで着弾し――爆発した。

 正確には爆発ではない。光の矢には爆発の性能などない。

 単なる威力、着弾の衝撃だけで光の矢は地面を抉り、大量の土砂を撒き散らしたのだ。

 戦車砲の不発弾のように。

「……なるほど。あれを弾きますか」

 本来であれば、あれを素手で払いのけられる者などそう多くはない。相当に上位の使徒である証と言えよう。

「でしたら」

 パトラが動く。

 矢継ぎ早に光の矢を撃ち込みながら駆け出す。その足は非常に軽快で、速い。

 初撃より威力を落とした光の矢を雨のように浴びせつつ、横へ横へと円を描いて回り込むように走る。そして少しずつ距離を取り始めた。

 黒岩剛は防戦一方だ。

 だが、普通の使徒であればサンドバック状態になっているところだが、未だに何ら痛痒を感じていない顔で防いでいる。

 動かないのは後ろ二人の肉盾になっているからでしかない。

(あれだけの数を受けてもガードが緩む気配はありませんわね……普通ならもう耐え切れないでしょうに)

 パトラも内心、舌を巻く。

 実際、彼女の矢は一発一発が鉄壁を穿つ威力だ。それらを受けられる使徒は大勢いるが、連続で喰らっては致命的にダメージが蓄積していくものだ。

 それが――目の前の彼には一切通用していない。

(玄武の加護は純粋な鎧。神の装甲による全身防護。物理無効の加護と違い、鎧の強度を上回る威力であれば通じるはず……ふふ。相手が悪かったですわね)

 余裕の笑みのパトラは慎重に狙いを定め、且つ間断無く矢を放って行く。

 ただ水魔法による遠距離攻撃のみを警戒している。

 だがそんなパトラの猛攻を他所に、黒岩剛は黙々と手と足を動かし、全ての矢を打ち払っている。

「よし。クリス、二人をお願い」

 黒岩剛が突然前に出た。

「!!」

 その動きの変化にパトラは即座に反応。更なる猛攻を仕掛ける。手数を増やし、左右へのランダムな動きも加える。

 だが彼はパトラの動きに合わせて、常に後ろを庇い射線上に立ち続ける。

 短時間で彼女とその矢の動きに目を慣らした彼は、その程度の変化に惑わされず全て完封した。

「うん、行ける」

 幾条もの閃光が引き千切られる。

 更に重い体に力を入れ、一気に飛び込もうとした時だった。

「……ふっ、そんな足でわたくしを捕まえられるとでも?」

 飛び下がるパトラ。

 その一手で再び間合いが開く。

 いや、更に距離が大きく開いていた。

「これでお分かりでしょう。あなたの足ではわたくしには永遠に追いつけない。そして、わたくしの攻撃は射り放題。どうやってもあなたに勝ち目はなくてよ」

「……けれど、君のその攻撃じゃあ、いつまで経っても僕には致命傷を与えられないよ。試してみる?」

「ふふっ、それもいいかも知れませんわね。ですが……わたくしの実力がこの程度だとは思わない事ですわ」

 その言葉と同時に、パトラの胸元が光る。

 同時に彼女の前に何かが召還される。

 現れたのは――大熊。

「ガアアアアアアア!!」

 通常の熊よりも一回りも二回りも大きい。立てば5mを超えるだろうか。

 しかも超重量級でありながらもその足は速い。

 四足で駆ける大熊はあっという間に黒岩剛との距離を詰め、その豪腕を振り上げた。

 鎧で武装した人間を数人まとめて軽々と宙に吹き飛ばせる腕力だ。

 その森の王者たる爪の威力を知るパトラは、彼のいい足止めになると信じて疑っていない。

 実際、他の使徒であれば大ダメージを負いかねないため、要警戒に値する。アルテミスの使徒自慢の相棒だ。

 だが黒岩剛は違う。

「――なるほど。それなりに力はあるね。だけど、まだまだ鍛え方が足りない!」

 豪腕を真っ向から受け止めた挙句、そのまま片手で空へブン投げた。

 1tを超える巨体をだ。

「で、あの人は――ん?」

 パトラは遠くにいた。

 ずっと遠く、小さくなった彼女は尖塔の上で弓を構えていた。

「あれは――」

 光が集まっていた。

 パトラの前に浮かぶ光弾。それは次々と集う小さな光を飲み込んでいき、急激に膨れ上がっていく。

 既にその大きさは人間の背の倍に届いており、なお巨大化し続けている。

 その光に篭められた力を見て取った黒岩剛は、素早く皆の前へと駆け戻った。

「おい、何なんだよあの光。なんかヤバくねーか?」

「うん、あれはちょっとマズいね。たぶんこの周辺一帯が吹き飛ぶレベルだと思う」

「は!? ちょ、おい! ならオレを解放しろよ! このまま転がされたまま死ぬなんて冗談じゃねえぞ、コラ!」

 血相変えた赤崎蓮がグルグル巻きにされたまま捲くし立てる。

「えー! じゃあ早く逃げなきゃじゃない! 逃げ切れるの? ねえ逃げ切れるの? なんか今にも撃ってきそうだけど! ふにゃああああ!?」

 涙目の白野珠が足をガクガク震わせ必死に黒岩剛の袖を引っ張ってくる。

 そんな二人に、彼はパトラからの盾となりながら言った。

「大丈夫」

 その声は自信に満ちていて。

「二人は僕が責任持って守るから」

 そして絶対の覚悟があった。

「だから、二人はそこでじっとしてて。クリスも僕の後ろに――――――少し、本気になる」

 その言葉を聞いたクリスは大人しく黒岩剛の背に入る。

 彼女は知っている。

 黒岩剛の本気を。

 だから迷わない。

 そこは世界で最も安全な場所なのだから。


 一方、その俊足で離脱したパトラは、あらかじめ見繕っていた無人の建物へと移動していた。

 そこは手ごろな高さの朽ちた教会。そのまま壁と近くの木を交互に蹴り上り、三角飛びで尖塔の上へ立つ。

 そしてすぐさま弓を構えた。

 この間、黒岩剛が大熊と交戦するまでのわずかな間である。

「カルが、ああも簡単にあしらわれるなんて……!」

 そこで見たのは、カルと呼ばれる大熊が空に放り出される光景だった。

 正直、目を疑った。

 次に不吉な胸騒ぎを覚える。

 だが、それが形になる前に無理矢理振り払った。

 どちらにしろ、もう次で終わるのだから。

「これでフィナーレですわ!」

 アルテミスの使徒の第一護神武装『ヤクト・ナハト』が輝く。

 白銀の弓の重い弦が引かれると、弓の前に小さな光の球が生まれる。

 それは白々しく冷たい光。雪のように淡く、そして静かな光だった。

 弓の弦が引き絞られていくにつれ、光は周囲に生まれた同じ小さな光を吸い寄せていく。

 あっという間に数百、数千、数万を越える光を集めた光球は、今や仰ぎ見なければならないほど巨大な光弾へと成長した。

 溜めに時間がかかるものの、その威力は折り紙つきだ。アルテミスの使徒の名を全世界に轟かせているのはこの『矢』によるところが大きい。

 彼女は獲物を見て笑った。

「……あら、逃げずに受けるつもりですか。ご立派ですこと。まあ逃げようとしても周りの子達が阻止しておりましたが……受けるというのなら、好都合。アルテミスの使徒の一矢の威力は、全使徒の中でも最強の部類に入るのですから。いかに玄武の使徒が硬くとも、真正面から受けきれるものではありませんわ。例え生きていたとしても、重傷は絶対にまぬがれません」

 絶対の自信とプライド。

 完成された光弾にそれらを乗せて、彼女は高らかに叫んだ。

「腐もノンケも、尊き百合の前に滅びなさい!」

 指が弦から離れる。

 同時に光弾が閃光のように放たれた。

 『シュテルンリヒト・アインツ』。

 矢は必中にして、無数の群光。

 その冷たい光一つ一つが必滅の意思を以って獲物を討つ。

 対する黒岩剛は不動。

 今更その脅威に気付いたところで遅い。

 もはや避け様が無い。

 そのまま光弾に直撃するとパトラは確信し、同時に勝利の笑みが浮かぶ。

 そして彼の使徒が光に飲み込まれるその直前、


 ――ケモノの雄叫びが轟いた。


 爆音が街全体を揺るがす。

 音が物理的な力を以って周辺一体を薙ぎ払う。

 抉られた大量の土砂が天高く撒き散らされ、視界が遮られる。

「ふふっ、無知とは罪ですわね……このわたくしの矢を真正面から受けようなどと……最後の断末魔の叫びは華麗とはほど遠いものですが、まあ悪くない響きでしたわね」

 これで今回も無事、任務終了。

 後は残っている遺留物を確保し、部下と共に事後処理に戻るだけ。

「ああ、その前に皆と汗と埃を流したいですわね。早く支部へ戻るとしましょう。報告書は後回しで構いませんわね」

 弓を下ろし、尖塔から飛び降りようとした所で、彼女は動きを止めた。

「あら……? 何か影が……動いて……? ………………動いている?」

 ある程度土砂煙が収まり、視界も徐々に晴れてくると現地の様子が見えてきた。

 常人より視力の良い彼女は、爆心地に立つ人物をハッキリと視認した。

 生きている。

 これはまだいい。上位の使徒であれば一撃で仕留めそこなう時もある。

 だが。

「……無傷(ノーダメージ)? え? そんな、まさか……まさか?」

 多少土を被ってはいたが、彼の使徒は見た目、まったく血を流しておらず、その上四肢も正常に動いていた。

 気がつけば彼の背、彼の後方だけが『シュテルンリヒト・アインツ』を撃つ前と変わりなかった。

 逆に、彼の後方以外は全てクレーターと化していた。

 後方では体についた土を払おうと身を震わせる子狐クリスや、鼓膜が破れんばかりの音を間近で被りひっくり返っている白野珠、黄金の毛皮の入り口を塞いで丸まった中に閉じこもった赤崎蓮がいる。

 彼らもまた、五体満足だった。

 パトラの部下達もこの結果に動揺し、中には武器を取り落としている者すらいた。

 そして更に、パトラは無傷以上に戦慄する事実に気付く。

「――嘘」

 黒岩剛は一歩たりとも動いていなかった。

 そう。大聖堂や堅牢な城壁すら破壊する『シュテルンリヒト・アインツ』を真正面から被弾しておいて、だ。

 どんな使徒であろうと直撃した以上、例えダメージは例え耐え切れたとしても後ろに下がらされて(ノックバックして)しまう。その衝撃力は強制と言ってもいい。

 というか大抵の場合はミンチになって、そうでなくても良くて五体バラバラで空を舞う。

 上位の使徒でもない限り真正面から耐え切れるものではない。

 それなのに――不動。

 一言。

 ありえない。

「だ、大丈夫ですわ。まだこの距離を維持すれば、いくらでも安全に矢を――」

 声が震えていたのは、決して幻聴ではない。

 それでもすぐさま気を取り直し、弓を構えた時には元の戦意を取り戻せた事は流石と言うべきだろう。

 ただし、もはや意味のない事であったが。

 気を取り直し獲物を捉えようとしたパトラは、見た。

「――――」

 目が合ったのは一瞬。

 だがその一瞬、パトラの動きが止まった。

 黒岩剛の目は野獣の如く。

 いや、野獣など生ぬるい。

 それは今まで彼女が見たどの魔物より怪物(モンスター)らしかった。

 非力な人間が突然未知の魔物と遭遇したかのような、根源的な恐怖。

 助からない。

 食われる。

 死ぬ。

「……はぁっ!」

 気がつけば、彼女は息を止めていた。

 心臓の音が耳にうるさい。

 冷や汗がどっと吹き出す。

 そう、この感覚は……

「第九聖歌隊の方々を初めて前にした時のような……」

 気がつけば、彼の目は『人間』に戻っていた。

 ただ、先に見たものが夢幻でない事はおこりのように震える手と足が証明していた。

 その遠くの黒岩剛はといえば、屈んで何かを拾い上げている。

 そのまま腕を大きく振りかぶって――投擲した。

 ――ボッ!

 それは瓦礫だった。

 投げられた瓦礫は目にも止まらぬ速度であらぬ方向へと飛んでいった。

 そう――パトラの目でも追えなかった速度で。

「あ、あら?」

 反応すらできなかったパトラは、遅れて事態を把握する。

 おそらくは彼女を狙ったであろうその瓦礫。実際は惜しくも何ともない大暴投。

 そのまま後ろで空力加熱により発熱しながら街の外、遥か彼方へと飛び去っていった。

 もしあれが当たっていたら。

「………ま、まあ距離もありますし、この様子からして別に動かなくても当たる事は――」

「やっぱり僕は全力で投げるとコントロールがぐっと甘くなるね。あれだけ遠くの相手に投げて、ピンポイントで当てるのは苦手だ」

 次に黒岩剛は皆を後ろに下がらせた。

 クレーターの底に降り立ち、地面を蹴りつける。

 大地が悲鳴を上げ、大きく揺れる。

 遠く離れたパトラの所までその振動は届いた。

「な、なにを……?」

 爆発した土砂と共に前方へ高く浮かび上がった無数の『弾』。周囲に転がっていた瓦礫だ。

 黒岩剛は拳を開き、その目が鋭く光った。

「玄武ガトリング砲!」

 落ちてくる瓦礫。バラバラに落下するそれらを、彼は左右両手を使ったサイドスローで次々とキャッチ&スロー。

 そも、簡単に言えば銃とは鉛玉を音速で目標にぶつけるための装置にすぎない。

 爆発の力を利用し、かつそのベクトルを一方向に操作した結果、音速となる。

 ならば全身の筋肉という強靭なバネを使う事で爆発的な力を生み出し、投球モーションで一方向へ力の流れを操作することで物体を音速で投げる事もまた不可能ではないと言えよう。

 そんなわけで、下手な鉄砲数打ちゃ当たる、と言わんばかりの『銃弾』の雨がパトラを襲う。

「ちょ、ちょっと!?」

 しかしパトラも並の使徒ではない。反射的に弓を構え、光の矢で弾幕を張る。

 刹那の判断で自身に向かって来る瓦礫を次々選別している事からも、彼女の非凡さが窺える。

 第一弾の『弾』を投げ終え、黒岩剛は更に前進、疾走。

 進行途中に転がっていた倒木をすれ違いざまに片手で持ち上げ、そのままブン投げる。

 こちらはその大きさからさすがに音速とまではいかないが、当たり判定は大きい。

 だがそれはパトラにとっても同じ事で、あっという間に光弾でハチの巣にされてしまった。

 更に前進。

 今度は屋根が吹き飛んだ無人の建物にグーを叩き込み、破壊。新たな『弾』を補充。

 そして再び降り注ぐ瓦礫の銃弾。

 足を止めず、道中で『弾』を次々と投げつける。

 たまらないのはパトラだ。

 必死で撃ち落としているが、迂闊に移動ができない。

 左右へ下手に移動しようものならいつ撃ち抜かれてもおかしくないし、後方への移動をしようにも、背を向けるには危険すぎる。無防備なまま直撃したら致命傷になりかねない。

 ならば。

「この尖塔を盾に、一度下に降りましょう」

 こちらの攻撃が通用していない今、このまま相手の手の届きやすい高所での撃ち合いは不利。

 下に降りれれば障害物を利用できる。そして俊敏さを生かして撹乱もできる。

 まだ勝機はある。

 最悪、ギリギリまで引きつけて、一気に駆け抜けて最低限の目標である白野珠を確保するという手もある。

 そう考え、弾幕を止める。

 その一瞬。

 塔から跳び下りるほんの一瞬。

 それが終幕の始まりだった。

「きゃっ……!?」

 尖塔が衝撃と共に大きく揺れる。

 パトラが揺れた尖塔を全力で蹴って地上へ加速する直前、彼女は見た。

 やや離れた場所で黒岩剛が止まっていた。

 その足元で大地が裂けている。

 今の揺れは彼が止まったその足を地面に叩きつけた衝撃によるものだった。

 そう。

 彼は既に『有効射程距離』に彼女を捉えている。

「そんな――」

 中空で風を切る中、彼女は自分が何を相手にしていたのかを本当の意味で思い知った。

 彼から立ち昇る神威。

 これまで見た事のない、尋常ならざる力の奔流を。

 史上未だかつて誰も見た事のない、雄雄しく、荒々しい玄武の咆哮を。

「こんな……こんな…………使徒の範疇を超えている……!?」

 水神たる玄武。その使徒が今ここに、その力を示す。

「玄武――」

 黒岩剛の拳が放たれた。

 遠くから虚空を打つ拳。

 それは大気を抉り、巻き込み、(ねじ)れ――竜巻となる。

「――コークスクリュー!」

 拳によって生み出された巨大な乱気流がパトラごと尖塔全てを呑み込み、砕き折る。

 一滴たりとも水の神格と関係のない力技を前に、パトラができた事は咄嗟にガードを固める事だけ。

「くぅ――!?」

 衝撃。

 過去、経験にない未知の威力がパトラを圧殺せんとする。

 その上、渦の回転が全身を捻り切ろうとする。

「――――――!!!!」

 だが、それでも耐えた。

 余りのダメージに着地する余裕すらなく、背中から地面に叩きつけられ、勢いのまま何度もバウンドしていく。最終的には雑木林に突っ込んでようやく止まった。

 全身は衝撃波でズタズタにされ、ボロ雑巾のよう。

「マズイ、ですわね……!」

 即座に全身のチェック。

 全力でガードしたおかげだろう。全身から流血し、片足は力が入らないものの、まだギリギリ動ける。

 三つ編みはほどけ、乱れていた。

 制服はその面積の半分以上が破け、防護の役割はもう望めそうにない。

 パトラの着用していた制服は特別製だ。

 年に一度しか採取できない聖獣の毛、それを織り込んで紡ぎ上げた限定生産の布。希少なそれを借金をしてまで入手し、制服とした。

 この制服一つで豪邸が五つは建つだろう。

 それに見合うだけの価値があった。耐風、耐雷、耐衝撃、耐刃、耐霊、軽量化。

 各種耐性を兼ね備え、中級モンスターですらダメージの大部分を吸収する逸品だ。

 それが、先ほどの一撃に耐え切れず大部分が消し飛ばされている。

 そこまで現状把握した後、ゾッとした。

「……全力でガードして、なおこの有様だと言いいますの……? あれほど距離があったのに……?」

 もし減衰無しの至近距離だったら制服の上から五体バラバラになっていたかもしれない。

 そう思わせるほどの威力だった。

 ちなみにスケルの毛皮は更に上のランクで、ほとんどの中級モンスターの攻撃を完全に弾き返す代物である。人間の勢力圏での上級モンスターは数が限られるため、事実上最強の防具の一つである。

 そこでパトラは顔を上げた。

「まだ……終わっていないという事ですわね」

 大地が揺れている。

 振動と重低音が小刻みに続き、同時に強くなっている。

 超重量級の何かが近づいて来ている。

 敵だ。

 まだ続いている。

「くっ……もうそこまで……!」

 パトラの俊足には劣るものの、黒岩剛は速かった。

 もはや一般人でも顔を窺える程度には接近されている。

 対するパトラは満身創痍。

 手持ちで最強威力の札は完封され、多大なダメージにより全力はもう出せない。

 撤退。

 その単語が脳裏に浮かぶ。

「……ええ、もはやそれが正しいのでしょうとも。ですが……」

 パトラはそれを選べない。

 今はまだ選べないのだ。

 彼女の立場がそれを許さない。巡り合わせが悪かったとも言える。

「わたくしの双肩には大勢の百合愛の希望がかかっているのです。まだGLクイーンとしても道半ば……こんな所で朽ち果てるわけにはいかないのですわ! 女神様。そしてファンの皆様、どうかわたくしに力を、目の前の醜い悪鬼を打ち滅ぼせるだけの力を――!」

 一度は消えかけた闘志。

 それが激しく燃え上がる。

 全世界のGL達、今もどこかで百合を待ち望む愛しい同胞達。

 それらの応援が、パトラの耳に届いた気がした。

「わたくしは、まだ戦えますわ!!」

 全身の痛みをおして、彼女は立ち上がる。

 彼女にも守るべきものがあるのだ。

 (ほとばし)るピンク色の闘気。彼女は湧き上がる力と共に今一度弦を引き絞る。

 これが最後になるだろう。

 不思議と静かな心持ちで彼女はそう感じ取った。

「どうか、力を――」

 技も駆け引きもない。

 する余裕すらないというのが本当の所ではあるが、彼女はただただ無心に白銀の三日月弓を構える。

 引き伸ばされる時間の感覚。

 その中で伸びて来る玄武の使徒の拳。

 生まれた光は女神の神威。

 そして全ての百合の者達の愛。

 それらに背中を後押しされながら、パトラは引き絞った弦を――放す。


「――」

 パトラへと目前まで迫った黒岩剛は、彼女の目が変わった事に気付いた。

 まるで神が降りたかのように透き通った瞳。

 同時に彼女からこれまでにない強力な神威が爆発する。

 それは黒岩剛もハッとするほど。

 数多の思い。願い。祈り。そして愛。

 瞬間、彼女の背に大勢の影が見えたような気がした。

 それでもなお、彼は真っ直ぐ突き進んだ。

 前へ。

 ただ前へ。

 己の肉体。玄武の装甲と重量、そして鍛え上げた筋肉量に絶対の信頼を寄せ、彼は真正面から行く事を選んだ。

 その弓に(つが)えられた小さな光が彼を狙っている。

 『シュテルンリヒト・アインツ』と比べれば余りにもちっぽけな光だ。

 だが、黒岩剛はその光に一種異様な迫力を感じ取った。

 決して油断はできない。

 そんな直感。

 だから彼もまた自分の思いを乗せて拳を打ち出す。

 百合と筋肉の愛が交差する――


「……ぐ」

 呻き声。

 何もない大地の上を風が吹き抜ける。

「わたくしは八つの頃から十年……百合界に身を置いてきましたわ」

 開けた視界。

 もはや雑木林は消え、残っているのは地表にわずかに顔を出した根と、遠く離れた場所で積み重なった倒木の数々。

 その中心で。

「最初は拙かったお絵かきも、少しずつこの国の皆様に認められてきて、ファンレターを下さる読者の皆様にもっとより良いものを届けられるよう努力していましたわ。そして、いつしか『GLクイーン』と呼ばれるようになって……」

 勝者と敗者が見つめ合っていた。

「わたくしの創作物を待ち望む方々は大勢いらっしゃいます。そして、その方々の応援がわたくしに無限の力と勇気を与えて下さってました。ここで倒れるわけにはいかない、と。使命が、もっと大勢に百合を届ける使命があるのだと。なのに、なのに何故……」

 敗者は地に伏せ。

 勝者はそれを見下ろす。

「何故わたくしは、負けたのですか」

 敗者、パトラは血まみれだった。

 裂傷、骨折、打撲。

 あげく、左腕は上腕部から丸ごと失われていた。

 それでも黒岩剛のあの一撃と真正面からぶつかった結果としては上出来な部類と言えた。

「わたくしの、わたくし達の愛。百合界を支える何十、何百万という支えは、あなたのマイナーな愛に届かなかったというのですか?」

 勝者、黒岩剛は――無傷。

 衝突による多少の衝撃のダメージはあったものの、通常活動に問題無しと言って差し支えない。

「それは違うよ」

「では……?」

 徐々に血の気を失い、青くなっていく顔。そして荒い息。

 そんな彼女に黒岩剛は優しく語る。

「筋肉を愛する者はね、何も毎日筋トレをしている人達だけじゃないんだよ」

「え?」

「筋肉っていうのは人間が動くために必要なもので、手足はおろか心臓だって筋肉で動いている。人は皆、日々筋肉と共に生きているんだ」

「……それが、どうしたというのです……」

「ただ健康でありたい。運動が好き。走り回れる喜び。日々の散歩の楽しみ。普段の日常をケガ無く過ごせる事への感謝。いつも通り体を動かせる幸せ。そう、それら全てが筋肉への小さな感謝なんだ。世界中のそれらの小さいけれど、確かな思い。筋肉への思いは、決して百合界に負けるものじゃないんだよ」

「そんな……まさか……」

 もしそれが本当であれば、その数は百合スキーとは比べ物にならない。

 百合はおろか、その範囲はノンケ(ふつうのひと)まで広がるのだから。

「そしてね。あなたの百合愛は排他的だ。百合好きの人だけしか受け入れていない。だけど人間はね、たくさんの『好き』があるんだ。世界には百合と薔薇と筋肉が同時に好きだったりする人もいる。皆の好きな属性は一つだけとは限らないんだ。だからね……もう少し、他の人の『好き』を許してもいいんじゃないかな」

「ふっ、甘いこと……それはこの世界の真髄に踏み込んでないからこそ言えるのですわ。その『好き』とやらを本当に極限まで昇華した時、他のものこそが最高だと言われてごらんなさい。その者にとっては己の芸術が辱められたと同義。即ち、戦争になるしかありません……この街はそうやって今まで鎬を削ってきたのです」

「それは……悲しい道だね。けれどうん、そうだね。僕はもう、君達の世界を受け止めきれずに背を向けた側の人間だ。もう道を違えているから何も言える立場じゃないかもしれない……ただ最後に一つだけ」

「……なんですか?」

「あなたの百合への愛もまた、本物だったと思う。すごく、重かった。それだけは確かだったよ」

 沈黙。

 出血で意識が薄れてきているのか、反応らしい反応は無かった。

「じゃあ、僕達は行かせてもらうね。とりあえず白野さんを逃がす前に、他の人たちに声をかけておくから。使徒ならその傷でもしばらくは大丈夫だろうし、早く手当てしてもらって」

 (まぶた)を閉じて動かないアルテミスの使徒を置いて黒岩剛は(きびす)を返す。

 地響きと共に走り去るその大きな背に、もう届かない小さな声が。

「本物だったなど……当然ですわ……あなたに負けたとしても、百合が負けたわけでは決してありませんから……」






筋肉は生命

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