15 オマケ
「…………」
道の左右に広がるのどかな牧場の風景の中、大男が一匹の子狐と共に金色のお荷物を引きずりながら歩いている。
黒岩剛とクリス、及び赤崎蓮だ。
ちょうどいい道端の木陰を見つけた黒岩剛はそこで水分を補給する事にし、小休止する。
「はい、クリス」
水神玄武の力で水を両手の平に生み出し、そっと地面近くまで下げる。それを上機嫌で舌で舐めとるクリス。
随分と歩き、もう小鳥たちのいた町は地平線の彼方となっていた。
「はい、赤崎君も」
「その前にいい加減これ解きやがれ……!」
「うーん、まだもう少し町から離れてからね。赤崎君の翼の機動力はちょっと厄介だからね。それまでは我慢してて。はい」
「ちっ、オレはいらねえ! 誰が飲むか!」
「……いいけど、飲みたくなったらいつでも言ってね」
「ぐぅぅ……!」
獣の如き唸り声と歯軋りを気にも留めず、黒岩剛は首の神印を隠す黒い布を結びなおす。
目の前でスイスイ飛び回るトンボを鬱陶しそうに顔を振って払うクリスを眺めながら、彼は何気なしの世間話のように言った。
「ねえ。一つ聞きたいんだけど、赤崎君は実際小鳥さんを無理矢理連れてこられていたら、どうするつもりだったの?」
「あん?」
「わざわざ手下を使ってまで攫おうとして、どうして?」
「……なんでテメーなんざに言わなきゃなんねーんだよ」
赤崎蓮を包む黄金の毛皮の隙間から炎がわずかに漏れ出した。
彼の言葉に険が混じり、ドス黒い憎悪混じりの声色が空気を張り詰めさせる。先ほどまでとは打って変わって悪鬼の如き形相となった彼がいた。
「もしかして復讐のつもりだった?」
だが、そんな彼の威圧もどこ吹く風と軽やかに流し、黒岩剛は更に踏み込み続ける。
その一言は赤崎蓮の激情に冷水を浴びせ、一瞬怯ませるには十分な威力があった。
「……」
途端黙りこくった赤崎蓮の様子にも黒岩剛は頓着せず、どこか呑気な顔で空を見上げている。
確かに彼は最初、無理矢理二人の仲を引き裂いて滅茶苦茶にしてやるつもりだった。
どんなに懇願されても止めるつもりはなく、泣いて謝る姿を想像し、その中ではどんな残酷な仕打ちでもできた。
けれど……今、こんな事になってしまって少しほっとしている自分がいる事を赤崎蓮は自覚していた。
果たして、実際に彼女が彼の目の前に引っ立てられてきた時、本当に彼女を傷つける事を実行できたのか。
それが今の彼には分からなかった。
「小鳥さん、可愛かったよね。明るくて、一生懸命で、優しくて……僕なんかにも話しかけてくれたりして。まあちょっと天然かなーって思う時もあるけど」
透き通った声。
どこか遠く、懐かしむように言葉を投げかける巨漢の少年の横顔を、思わず赤崎蓮はマジマジと見てしまった。
「赤崎君が好きになるのも分かるよ」
「テメエ……」
何かに気付いたように、赤崎蓮の声が苦々しいものになった。
何故、と赤崎蓮は思う。
この男は何故そう笑っていられるのかと。
苦しくはないのか、憎くはないのかと。
泣きたくならないのか、と。
穴が空こうかというほどに凝視し続ける。
「……」
「まあ、しばらく一緒なのは我慢してね。解放してまたすぐお礼参りに町に戻られたら意味ないし」
「……けっ、一日だってテメエの側になんざいたくねえよ。すぐにぶっ飛ばして自由になってやる」
「好きにしていいよ。させないけど」
悪態をついてそっぽを向く赤崎蓮に、やはり呑気な笑顔の黒岩剛。そこに赤崎蓮の毒はわずかながらも薄れていた。
そんな二人を、クリスが不思議そうに首を傾げて見ていた。
「他の皆はどうしているのかなぁ……」
高い空を見上げ、黒岩剛は大して関わりのなかったかつてのクラスメイト達へと思いを馳せた。
☆☆☆☆☆☆
とある町のとある小さな家にて。
「聞いてよ! もうほんっっっとーにヒドイ目にあったんだから!!」
一人の少女がリビングのテーブルに手を叩きつけ、噛みつかんばかりに熱弁を奮っていた。
彼女が訴えかけているのはこの家の主であり、同じクラスメイトだった少女だ。その少女にこれまでの自分が味わってきた艱難辛苦を身振り手振りを交えて訴えかけていた。
「それでね、アカ君も捕まっちゃって……全部あのキモイやつが悪いんだから!」
「それはひどいねー!」
「でしょでしょ! 住み込みで領主のところで働いてたらいきなりあのでっかい大男がやって来て、皆を殴ってひどい目に合わされて……あたし達、なんにも悪い事やってないのに!」
悔しそうに拳を握り、涙を流すその姿はまさに悲劇のヒロインだった。
「ここに来るまで辛かったね……」
「もうほんっと苦労したよ……なんとか隙を突いて逃げ出したのはいいけど、逃げれたのはあたし一人だけで……変な怖い動物に追っかけまわされるわで怖い思いもして、もー! マジやばかったんだから!」
「うん、そっか。そういう事なら芽亞ちゃん、しばらくここにいてもいいよ! あ、そうだついでにあたしの原稿手伝ってくれない? ベタ塗りだけでもいいから」
そう言って家主の少女は麻から作られた紙を彼女、内藤芽亞に手渡し、「催し物の締め切り近いんだよねー」と言いながらペンと紙を持って書斎に入って行った。
「駆け込む先、間違えたかな……」
☆☆☆☆☆☆
街を取り囲む外壁、その一際高い物見塔に一人の男が立っていた。
貫頭衣のような武道着を着た彼はまだ若く、青年と言っていい。身を刺すような凍える風が吹き付ける中、彼は威風堂々と眼前に広がる敵軍の陣容を眺めていた。
十重二十重と連なる圧倒的な敵陣を見つめるその目には、だが苦々しさはなく悲愴感すらない。ただ絶対的な自信と決意に満ち溢れていた。
やがて敵軍の一角が動き出し、前進を始めてくる。
そこにはためく軍旗はもはや見慣れた物で、幾度と無く拳と刃を交えた仲だ。
「来るか……」
「し、使徒様……」
青年の隣にいる年老いた老人が不安そうに、縋るように、そして申し訳なさそうに見上げてくる。
「心配無用。俺がいる限り、この街は決して落とさせはせん。何度来ても追い返してみよう」
元は三人いた使徒も、相次ぐ戦いに敗れ今や彼一人。
劣勢どころか、もはや詰みまでの道筋が鮮明に見えているこの状況。
だがそれでも彼は逃げず、裏切る事なく前へ出る。例えそれが最後の足掻きだと嘲笑されてもだ。
彼は戦う。
命を助けてくれたこの街のために。
そして義のために。
彼はその背に街中の民の運命を背負い、戦い続ける。
☆☆☆☆☆☆
第十球は最南端の国であり、異世界セフィロートに絶大な影響力を持つ一大宗教の本拠地である。
数年前に聖地で一大騒動があって大混乱があったものの、今では再び大国としての栄華と繁栄を取り戻している。
さて、その首都には一人の聖女がいた。
この世界でも数少ない貴重な癒しの力を持つ使徒で、その恩恵は惜しみなく民衆へともたらされており、聖女とそれを擁する教会の人気は天井知らずに伸びていた。
定期的に開放される大聖堂にてヴェールを被った聖女が黒衣の騎士と聖職者らに囲まれてその癒しの奇跡を寄付を対価とした民衆に与えていた。
白と薄黄色で統一されたワンピースはドレスのようだった。袖は肩で膨らみ、腕は絞られ、手の甲で広がる。裾はAを描くようにふわりと広がっており、各所にリボンとフリルが着いている。首から十字架を下げ、その十字架も宝石や装飾など華美さや豪奢さとは無縁な素朴な造りであり、その全体像は豪華なバラというよりより白百合のイメージに近い。
顔こそヴェールでよく見えないが、決して威圧感や畏れ、傲慢さを感じる事はなく、その立ち居振る舞いはどこか繊細で儚げな感じがしていた。
そんな彼女は教会が確保している唯一の癒しの使徒として、まさに姫となんら遜色のない扱いを受けていた。
月に一度はその存在を民衆へ誇示するために小さなパレードを行い、民衆はそれを一目見ようと集まる。彼女の乗った馬車が見えると感涙と共に跪き、両手を組んで熱心に彼女の神、アポロンへと祈りを捧げる者も少なくない。神印を見た民衆は誰一人とていないが、教皇庁が彼女をアポロンの使徒だと保障しているのでそれを疑う者はいない。
やがて教皇庁へと帰ってきた彼女はその敷地にある一つの塔へと入る。そこは幾重にも衛兵による護衛網が敷かれ、厳重な守りでもって聖女を囲んでいる。更に常時一名の使徒がすぐ側に控えているという徹底ぶりだ。本来国の最高戦力たる貴重な使徒をここの護衛の配置に回されている事からも、教会が如何に彼女を大事に扱っているかが分かるというものだ。
そして彼女は一人、塔の最上階に与えられた部屋でヴェールを脱ぎ、天蓋付きベッドに腰をかけてぐすぐすと子供のように鼻を鳴らす。
「涼ちゃぁん……」
☆☆☆☆☆☆
「まだあの街を落とせないんですかぁ?」
戦で敵地に展開している自陣、その中でも高級将校かそれ以上の立場の者に与えられる一際大きな天幕には周囲とは違った色と紋章の旗が掲げられている。
その中には二人の男性の姿があった。
一人はこの天幕の主であり、この軍での唯一の若き使徒だ。
本国を発った当初は四名いた使徒は、たった一人の敵使徒によって彼一人だけとなってしまっていた。
対するもう一人は文官、本国から遣わされた使徒の監査役だ。お目付け役として若き使徒の行動とそれに伴う全ての功罪を本国の上司に報告するのが仕事だった。
評価する側とされる側、そのような関係の二人なので当然のように仲が良好とは言い難い。尤も若き使徒にはそれ以外の事情もあるのだが。
今日もまた、文官は若き使徒の天幕に顔を出してネチネチと現状に対する不満をぶちまけていた。
「敵の使徒は残りたった一人なのでしょう。いつまで時間をかけているんですかぁ、この役立たずが。兵を賄う糧食だって、ここに陣取っている間は輸送し続ける必要があるんですよぉ。一日ごとにかかる費用と食料の量をあなたにも分かりやすく伝えてあげましょうかぁ?」
「……役立たずはどっちだ。そのたった一人の使徒にやられた三人の使徒は、お前ら直属だろうが」
奥歯を噛み締め、呪い殺さんとばかりに篭められたその怨念の言葉は、だが寸での所で止まっていた。
当然そんな事に気がつかない文官は一人、延々と嫌味を今も言い続けている。
「いいですか、そう何度もチャンスがあると思わないで下さいねぇ! もしこれ以上失態を続けるようなら……用済みになるだけです。あなたも分かっているでしょう」
途端、若き使徒の肩がビクリと固まり、苦しそうに、そして呻くように声を捻り出す。
「……はい。枢機卿猊下のご厚情には感謝しており、決してその期待を裏切りはしません。必ずや成果を出してご覧にいれてみせます」
「まったく、これだから無能は……もう少しまともな使徒を本国から早急に回してもらわねば……」
最後にそう吐き捨てて、文官は天幕を出ていった。
後に残された若き使徒は項垂れたまま、己のままならぬ境遇に行き場の無いドロドロとした憤りを必死に抑えていた。
「……くそっ」
頭を抱え、不甲斐ない自分を呪う。
脳裏には二人の男女が浮かぶ。彼のよく知った顔が。
一人は厳しい顔で睨み、もう一人は心細そうに泣いていた。
「すまない……」
☆☆☆☆☆☆
――三年前。
「………………」
瓦礫の山があった。
何か施設があったのだろう、そこら中にレンガや木材の塊が転がり、破壊された壁の残骸が地面の上に小さく残っていた。
火災でもあったのか、ほぼ全ての建物の残骸でひどく黒ずんだ跡がある。
事故か天災か、或いは人為的に引き起こされたのか……その凄惨な破壊の爪痕の前に一人の青年があった。
彼は立ち眺めていた。
よほど悲惨だっただろう光景は、しかし今はもう過去に埋もれようとしている。瓦礫の隙間から草花が手を伸ばし、廃墟はもう随分と緑に埋もれつつある。蔦が瓦礫に絡みつき、背の高い雑草が風に優しく吹かれている。
その中を青年は槍を片手にゆっくりと一人歩き、やがて大きな石碑の前に立った。
それはここが破壊に見舞われた後に建てられたのだろう、比較的新しく、無傷だった。
石碑には大勢の名前が刻まれていた。
ここで無残にも死んだ無辜の民の名前だ。
その中にある名前を見つけ、彼はそっと空いた手で触れた。
冷たい。風雨に晒され続けてきた無機質な手触りが伝わってくる。
彼はずっと、ずっと手を当てたまま動かない。
「……」
生温い風が荒野を吹き抜ける。
たくさんの雲が空を流れ行き、影の向きが変わってしまうほどの時が流れた頃。
ふと唐突に青年の表情が不快気に歪んだ。
「久しいな、少年よ」
青年の背に声を掛けてきたのは初老の男性だった。
彼は長年使い込まれて血と汗と傷に塗れた、くたびれた武装とタスキのような黄金の布に身を包んでおり、いかにも古参兵や古強者といったように見える。揺るぎ無き眼光は幾度の戦火をくぐり抜けた者のそれで、屈強な老戦士を思わせるに十分な力があった。
彼は成人の男女二名を両脇に従え、黒鎌を片手に慎重に間合いをはかりながら一歩ずつゆっくりと近づいて来た。
いつの間にか青年は大勢の兵に取り囲まれていた。やや離れた所から遠巻きに見える彼らは皆、一様に同じ紋章を付けた鎧を着ており、その一糸乱れぬ整然とした動きは素晴らしい練兵ぶりを窺わせる。そして同時にその熟達さは威圧感となって中央の青年へと向けられていた。
取り囲む兵らは教会の誇る精兵だ。各地で武勲を立て、課せられた厳しい訓練を潜り抜けた者だけが入れるエリート部隊に所属している。
そんな彼らは――緊張と動揺を必死に押し殺していた。
青い顔をした者。歯を鳴らしている者。足が震えるのを抑えている者。吐き気を堪えている者。
皆が一様に恐怖の上に立っていた。
一般民衆にはその心強くも一切容赦ない狂戦士の如き戦いぶりから非情の断罪者とまで畏怖されている彼らが、一人の青年を前に重圧を感じているのだ。
それはひとえに、彼らが今、一体何を目の前にしているのかを知っているからだった。
「またこうして顔を合わせる事になるとはな。これも神のお導きか」
「……」
旧知の間柄のように老戦士が感慨深げに語りかけるも青年は未だ背を向けたままだ。
すると黙する青年に痺れを切らしたかのように、老戦士の右側にいた男性が前に出て叫ぶ。
「大敵よ! 己の罪に向き合う時が来たぞ!」
だが青年はそれでも無言のまま振り向かない。
叫んだ男性には神印があった。使徒だ。
一方、左側に控える女性には神印はなく、ただの人間である。が、老戦士の隣に立つという事は使徒か或いはそれに準じる力の持ち主という事が推察される。
男性が激昂し、暴発しかけるも老戦士が片手で制す。
そして厳かに告げた。
「教皇猊下の勅命だ。少年よ、ここで君を討つ」
老戦士は教会の切り札だ。
今でこそ古傷を理由に半ば隠居してはいるが、2年前まではこの世界に知らぬ者は無しとまで恐れられた世界最強の使徒だった。彼が出れば敵味方問わず激震が走る。そんな存在だった。
故に、彼の側に控える男女二人もまた、目の前の大罪人が相手であろうと勝利を疑っていない。そんな自信に満ちていた。
「……」
青年は無言。石碑と向き合ったまま微動だにしていない。
その背は一見、あまりにも無防備で。
「……今なら討てるんじゃないか?」
男性にそう思わせるには十分すぎる程だった。
「……手を出すなよ。アレの『天地無尽』はあのままでも今のお前を一蹴するには十分だ」
そう言って老戦士は男性にクギを刺し、己の右目を見せる。そこには濁り曇った、もの見えない役立たずの眼球があった。
尊敬する老戦士の言葉に男性は思わず生唾を飲み込むが、それでもこちらを今なお無視し侮辱を続ける青年に何か言葉をかけられずにはいられなかった。
「何を浸っている。まさか貴様、犠牲者の死を悼んでいるのではあるまいな。もしそうだとしたら、それは死者の冒涜に他ならんぞ!」
「……」
ピクリと青年がわずかに身じろぎをした。
初めて見せたその反応に、男性は義憤で応えた。
「まさか図星だと言うのか? だとしたら貴様、厚顔無恥と言うしかないぞ……この惨状! この破壊! 全て貴様の罪だろう!!」
「……」
青年の雰囲気が変わった。
その静かな変化に、老戦士の脇の男女二人は心臓を直接鷲掴みにされたような幻覚を覚え、体中から冷や汗を噴き出した。
場に吹く湿り気を帯びた風は黒雲を呼び、次第に広がりつつあった。
「教会か……」
青年がゆっくりと振り返る。
彼は恐ろしく冷たい眼光をしていた。
人を人とも思わぬように、路傍の虫ケラを見るかのようなそれは、その奥に例えようもないくらいの憎悪と怒りが煮えたぎっていた。
「…………運が無かったな」
取り囲む兵らは既に重圧で立つのが精一杯。
男女二人も表情から余裕をなくし、咄嗟に身構えてしまっている。
老戦士だけが唯一何も感じていないように自然体で立ち塞がっていた。
「今、ここで、俺様の前に出てきた自分の迂闊さを呪ってろ」
どこまでも低く、暗い声。
青年の黒髪の奥から覗く双眸は吸い込まれるように黒く、そして――死神の如く輝いていた。
「教会の狗が、目障りだ」
青年が一歩を踏み出す。
その瞬間すかさず老戦士が片手を上げ、同時に閃光の如き一矢が彼らの遥か後方から疾り、青年を撃った。
三人目の使徒の伏兵による渾身の初撃。それが青年へと一直線に向かい――周囲を巻き込んで盛大な破壊の嵐をもたらした。
それが開戦の狼煙となる。
老戦士と男性が大量の土砂と風の中に消えた青年へと駆け出す。
女性は声を張り上げ、周囲の兵へ指示を出す。
「死ね」
吹き荒れる破壊音の中心からそんな死神の声だけが聞こえてきた。
――この日、教会は二人の使徒を始め多大な戦力を失った。
☆☆☆☆☆☆
強い風が吹きつけ、霧のような雲が空を颯爽と駆けゆく。
町すら手の平で覆えそうなくらい小さく見える高高度の空に数騎の飛竜が風を切り裂きながら滑空していた。
「諸君、じき町に着く。今回の相手は賊だが使徒が一人いる。どこから捕捉され、攻撃されるか分からん。くれぐれも気を引き締めろ。周囲を警戒し、油断するな。我ら国家の威信に掛けて捕縛するぞ」
飛竜を駆るワイバーンライダー部隊のリーダーであり、ホドの国が擁する使徒である二十歳前後の女性がそう指示を出す。
その直後だった。斥候として前方に出ていた一騎から緊急の合図があったのは。
「騎影接近だと? ワイバーンライダー? 目標の使徒とは別口か?」
彼女の部下がいつでも迎撃可能なように体勢を整え、指示を仰ぐ。
そして直後、前方から大空に轟く彼女ら以外のワイバーンの鳴き声が届いてきた。
「っ! 全騎停止! 整列し、待機姿勢で頭を下げ、高度を維持したまま滞空せよ!」
その鳴き声を聞いた彼女は途端に血相を変え、慌てて指示を飛ばす。
普段クールな印象しかない彼女のその剣幕に、部下らは泡を食って従う。
やがて真っ赤な鱗を持つ一体のワイバーンが一人の若い男性を乗せて悠々と接近してきた。それを彼女らはただ黙って頭を垂れて迎えた。
「構わん。頭を上げろ」
赤い飛竜に乗った男性は鷹揚に言い、その懐かしい英雄の声に女性は湧き上がる喜びを抑えながらゆっくりと面を上げた。
「ルイ様」
「よくぞはるばるここまで来てくれた……空で話し込むのも騎竜に悪い。ひとまず下へ降りるぞ」
「かしこまりました。全騎降下せよ!」
手馴れた手つきで飛竜を操り、そしてスムーズに地上に降り立ったワイバーン部隊らは全員すぐさま飛竜から下り、跪いた。
男性はまだ二十歳をようやく超えた程度の若者だった。だが年齢不相応な獅子の如き威厳を以って彼女らの前へと立つ。
「ここまで長時間の騎行、ご苦労だった。立て。まさかお前ほどの者が直々にやって来るとはな。他にも回せる使徒がいただろうに」
「ルイ様たってのご要望とあらば、いついかなる時でも馳せ参じる所存であります!」
許しを得た女性はきびきびした動作で起立し、一種異様な迫力でそう答えた。
「……もう俺はお前たちの主ではない。そう畏まらなくて構わん。今なお変わらぬ忠義は有難いが、それでは今の主はともかくその周囲から不興を買うぞ。お前は相変わらず堅苦しいな。だが、壮健そうで何よりだ」
「はっ!」
まるでアイドルに声をかけられて嬉しい子供のように頬が緩みそうになるも、なけなしの自制心で堪える女性だった。
「それで長官宛に出した手紙の件だが、忙しい所にわざわざ呼び立ててすまないが、もう既に解決した」
「は……と仰られますと……ルイ様が直々に賊を討伐なされたので?」
「いや、俺ではない。とある流れの使徒だ」
ほんの少し上機嫌そうに語る彼の姿を、彼女は「おや」と珍しい物でも見るような心持ちで見ていた。
「そういうわけで、無駄足を踏ませてしまった。すまないな」
「いえ。そういう事でしたら問題はありません……では確認だけして参りましょう」
「ああ。世話をかけるな」
「とんでもございません。しかし……あまり御身お一人でお出にならないようお願い致します。王宮には未だ排斥論を唱える過激派の輩が、少数ではありますが存在しているのです。いかな貴方様とはいえ、万が一があっては……」
「案ずるな。警戒は怠っていない。かつてほどの動きはできんが、そうそう遅れをとるつもりはない。なにより心強い相棒もいる、なあ」
その男性の目配せに、彼の愛竜が間髪を入れずに「ガァ!」と鳴く。そこには人と竜とが信頼し合う姿があった。
「ルイ様……」
「何だったら、今ここで全員相手にしてもいいくらいだ。試してみるか?」
その言葉に盛大に顔を引きつらせたのは彼女の後ろにいる部下のワイバーンライダー達だ。
何しろ、彼らにとってその言葉はまったく冗談になっていない事をこの上なくよく知っているのだから。
栄えあるホドの国の精鋭中の精鋭にしか与えられない栄誉。たった一部隊で一軍の戦線を抑え込む事すら可能とする脅威の戦力。使徒に次ぐ重要な軍事力。それがワイバーンライダーだ。
その彼らがたった一人の、使徒でない正真正銘ただの人間の男性に気後れしていた。
「そうあまりお戯れを申さないで下さい。部下が困ってしまいます」
「そうか。まあそういうわけだ、諸君らは慌てずに来るといい」
「ハッ!」
「では、俺はもうしばし相棒を空で遊ばせてから町へ戻る。あくまで俺は今は騎竜の調教師なのだからな。共に行動するわけにもいかん」
「かしこまりました。よろしければ護衛を付けたいところなのですが――」
「いらん」
「でしょうね……それではくれぐれもお気をつけを――Louis先王陛下」
「ああ、諸君らもな。任務ご苦労」
そう言う男性の赤いワイバーンには獅子と飛竜を描いた王家の紋章があった。獅子と飛竜を掲げる二王家によって治められているホドの国には、かつて獅子王と呼ばれた若王がいた。
ルイ・ユイット王。
彼は13歳で即位した。当時、国王が崩御したと同時に隣国から侵攻されたため、急遽選ばれた王が彼だった。
本来なら彼より上の王位継承権保持者の王家の男子がいたのだが、病弱でほとんど寝たきりの状態だった。いつ容態が急変するか分からず、戦時中にコロコロ王が代わるのはマズイという事で臨時に担ぎ出されたのだ。
彼は生まれた時に赤飛竜を与えられ、幼い頃からずっと一緒に育ってきていた。彼は王宮よりも飛竜といる事を好み、その飛竜への入れ込みようは一種異様とまで形容され影で『野人』と言われるほどで、王宮でも奇矯な子として扱われていた。
そんな彼が即位したわけだが、人望も人脈もなく当然ながら実権もなかった。周囲は若王に人形であれと圧力をかけたが、「死んでも問題ないのなら、俺は俺で好きにやらせてもらう」と言い放ち、議会を放り出したその足で子飼いの手勢である同年代のワイバーンライダーの部隊を率い、己自身もまた愛騎を駆って前線に飛び出して行った。
当然戦場には敵戦力が殺到し、一時は泥沼の激戦区となった。
最前線に姿を見せた若王に対して敵軍は「功名に逸った愚王」「戦場を英雄譚か何かと勘違いしている」「子供の我侭」などと考え、王の首級を上げれば更なる士気向上になるだろうと若王を狙った。
だが当人は敵味方両軍の考えなど全く頓着する事無く敵陣へ突撃を敢行。13歳での初陣で文字通り群がってくる敵兵を次々と薙ぎ払い、獅子奮迅の槍捌きを見せた。
槍を一度振るえば血飛沫が舞い、飛竜を駆れば自由自在に戦場を飛び回る。
あげく、敵軍にいた二人の使徒の内、強力な太陽神ヘリオスの使徒と刃を交わし、何事も無かったかのように生きて帰ってきた。
帰ってきた王は。
「中々死なないものだな」
という言葉を残したと記録されている。
彼は子供でありながら天性の槍捌きで戦場を魅せていたが、それ以上に飛竜の扱いが巧みにすぎた。当時ホドの国のどんな老練なワイバーンライダーでも、彼以上に乗りこなせる者はいなかったという。
そして敵使徒との五度に渡る一騎打ちの末、見事ヘリオスの使徒を討ち取ってみせた。
ただの人間が、である。
使徒は本来、あらゆる面で人間を凌駕する。さすがに完全無欠ではないものの、ただの人間と比べると遥かに強力な力を奮えるようになる。それゆえ使徒は国の最高戦力の扱いを受けられているのだ。
その使徒をルイ王は独力で破ったのだ。とはいえ、その戦いで片足に決して癒える事のない傷をもらう事になってしまってはいたが。
これにより、ルイ王は『使徒殺し』という史上稀に見る人間にとっての最上級の誉れを手に入れた。
戦自体はルイ王が即位して二年で終わった。
敵軍が引き揚げて行った後、本来即位すべきだった王子も二年の間に体力が戻り、運動もできるほどには健康になっていた。
その頃には国の英雄となって民衆はおろか王宮内でも相当数の支持が集まっていたルイ王だったが、王位を健康になった王子へ譲り、以後王宮でその姿を見る事はなくなったという。
これにて一章完。
ちょっと中断している別小説を終わらせるため、こっちは一旦完結扱いにしておきます。




