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「クリスちゃん、お風呂! お風呂行こう! 洗ってあげるね!」

「きゅぅん……」

 小鳥が満面の笑顔でクリスを抱え、上機嫌な様子で軽い靴音を響かせて浴室へと消えていった。

 片やクリスはドナドナを歌いだしそうな顔でされるがままだった。


 さて。この二人の様子からも分かる通り、クリスの謝罪はすんなりと済んだ。

「ほら、クリス……」

「……」

 キャピシオン家に戻った二人と一匹は、まずロウイスが手早く武装を解除して何事も無かったか風を装い、黒岩剛は尻込みするクリスの背中を押して、ケガをした手に布を巻いている小鳥の前へと立った。

 そして口にくわえていたスモモを小鳥の足元に転がして腹ばいの伏せをする。

 スモモは戻って来る時に採ってきた物だ。お詫びの印のつもりだろう。クリスとしてはネズミを捕ってきたかったらしいが、それは時間的な都合により諦めた。小鳥的にもそれが正解である。

 頭を下げ、耳を伏せ、精一杯小鳥に「ごめんなさい」をするクリス。

 そんな仔狐に、小鳥は屈んで視線を合わそうとしながら優しく微笑みかけた。

「いいよ。わたしこそゴメンね、嫌がってたのに……」

 それからクリスが躊躇いがちに距離を詰め、虎穴に飛び込むように小鳥の膝へと上がり、毛づくろいをすると言わんばかりに小鳥の頬を舐めた。

「きゃっ。ク、クリスちゃん……?」

 最初は驚いていた小鳥だったが、すぐに笑顔になってクリスの小さな体を恐る恐る撫でてみた。クリスは逃げなかった。

「へえ……クリスが触るのOKだって」

「ほ、本当? いいの? えっと、もし嫌な所があったら言ってね、クリスちゃん」

「クゥン」

 それから一人と一体は互いに存分にキャッキャウフフし、打ち解けたのだ。

 そして小鳥が暴走して苦手なお風呂に拉致されても、クリスは「これも運命」とばかりに殉教者の如き覚悟で受け入れていた。

 リビングに残ったのはロウイスとその胸に抱かれている娘イザベラ、そして黒岩剛の三人。

「タケシ、これを」

 そう言ってロウイスは小さな金属製の筒を放り投げて寄越した。

「これは?」

「竜笛だ。明日もし危なくなったらこれを吹け。助けに行こう」

「ありがとうございます。けど、使わないと思います。ロウイスさんは小鳥さんの傍にいてください」

「コトリのために動くという君を、見捨ててはおけん。いいから持っておけ」

「……はい」

 軽く礼をする。

 ロウイスはただ黙って頷いた。


 そして日付が変わり、長い夜が終わり、少しずつ空の闇色が溶けていく頃。

 黒岩剛の姿は石畳の上にあった。

 その視線の先にあるのは緩い坂道の上の領主の館。赤崎蓮達の本拠地。

 じき、山々の間から太陽が顔を出そうとしていた。

「さあ……行こうかな」

 一度大きく息を吸う。

 吸い込んだ空気は肺へと巡り、丹田から力を生み出し、全身へと循環させる。

 息を吐く。

 発達した筋肉が盛り上がり、そのまま肉の鎧と化す。

 そして玄武の加護たる重量、それを一気に増大させる。

 瞬間、足元が陥没した。

 黒岩剛はそれに構わず、ゆっくりと一歩を踏み出す。

 大地が揺れ、地響きが遠くまで轟く。それは近くの領主の館はおろか、町全土を越えて近隣一帯をも揺るがした。


 ――玄武、侵攻開始。


 ☆☆☆☆☆☆


 吹きさらしの高台で彼らは一列に並び、自称玄武の使徒を待ち構えていた。

「なあ、マジで来るのかな……?」

「江戸川乱歩や宮本武蔵みたいに、わざと時間ズラしてくるのかもしれないな?」

 場所は領主の館前。そこに六人の元クラスメイトを筆頭に、大勢の私兵達がいる。

 彼らは馬鹿正直に真正面から挑んでくる奴が本当にいるのかと疑いながらも、迎撃の準備を終えていた。後ろには倉庫から引っ張り出してきた攻城兵器もある。

 赤崎蓮は彼らに一番手を任せて館でメイドを侍らせながら優雅に高みの見物としゃれ込んでいた。

「お、もう夜が明けるぞ……」

「……来ないな……」

「無駄骨とか勘弁してくれよ……ふわぁ」

 呑気な軽口を叩く彼らには緊張感はない。

 そもそも彼らのバックには朱雀の使徒、赤崎蓮がいるのだ。これまでずっと彼らを救い、守って戦い抜いてきた彼の存在は守護神ともいえるものだった。

 だから、今回も彼らの手に負えないようなら赤崎蓮が出てきてくれる。そして彼が負けるなど有り得ない。そう信じている。

「ふざけんな! この額の傷、あいつにやられたんだぞ! ぜってぇブチ殺してやる!」

 一人、戦闘で気炎を上げているのは昨日黒岩剛に一発でノックダウンされた木場だった。

 彼は雪辱を果たすべく、誰よりも気炎を上げていた。

 その時だった。


 ――ズ…………ン!


「ん?」

「うおっ、揺れた? 地震か?」

 突然の足元の小さなグラつきに、全員が泡を食う。

 すぐ収まるかと思いきや、その震動は一定のリズムで立て続けて襲い掛かり続ける。

「あれ、地震じゃない?」

「…………もしかして、これ足音じゃないのか?」

「ええ? どういう……」

 怪訝な顔をして聞き返そうとした時、上ずった大声が全員の気を引いた。

「お、おい! あれ! あれ見ろ!」

「――来やがった!」


 ――ズ……ン!


 彼らの一人が指し示した先、遠く離れた道の先、そこには朝日の中をただ無防備に歩いて来る一人の少年の姿があった。

「おい、歩いてきているぞ」

「舐めてんのか……!」

「走れないんじゃないか?」

「ああ、亀だしな。ってゆーか、この揺れ、あいつかよ。どんだけデブなんだよ」

「おいおい、あんなノロマ、使徒でも俺らだけでいけそうだな」

 爆笑が伝染し、明け方の静かな空の下に巻き起こる。

 俄然、やる気を出した彼らは祭りのようなテンションで燃え上がり始めた。

「よし、俺がぶっ飛ばしてやる!」

「待て俺がやる! 見てろ、あの時は油断しただけだ。俺の魔法が当たればあいつなんて……!」

「お、木場ちゃんやる気だなー。よーし誰が一番にやれるか競争だ! ま、あいつも一応使徒なんだし、ちょっとやそっとじゃ死なないだろ」

 クラスメイトらの内、三人が率先して魔法を唱えだす。

 そしてバラバラに三つの火球が遥か彼方の少年へと放たれた。

 爆音。そしてガソリン爆発のように球体状の真っ赤な炎が黒岩剛を包み込んだ。

 着弾地点はややズレていたが、車一台を飲み込む炎の塊、その余波に巻き込まれた形だ。

「よし、ヒット!」

「うわー、あいつまともに食らったよ。魔法でシールドすら張ってなかったぞ」

「おー、木場ちゃんが一番だったか。さっすがー。俺達の中で一番なだけはあるな」

 中には口笛を吹いて『狩り』の成果を称える輩もいる。

 だが。


 ――ズ……ン!


「お。まだ生きてる」

「くそっ!」

「はいざーんねん。ま、さすがにこの程度じゃあね……ちょっと甘かったって事か」

「うむ、さすがに腐っても使徒か。一発はさすがに無理だったな」

「よし、じゃあ皆そろそろ真面目にやろうぜ!」

「応!」

 再び魔法の詠唱を、今度は六人全員が始めた。

 黒岩剛と館までの彼我の距離はまだまだある。ただ歩くだけで、しかも歩みの遅い黒岩剛に対して彼らは好き放題に、そして一方的に攻撃を始めた。消し炭すら残さないと言わんばかりの集中砲火だ。

 それは見ようによっては、無抵抗な相手への過剰なオーバーキルに見えた事だろう。


 ――ズ……ン!


 黒岩剛は歩く。

 次々と魔法の火球が飛ぶ。

 大きさや速さ、威力には個人差があれど、一発一発が最低でも火炎瓶程度の威力があった。強い者になると手榴弾クラスもいる。

「いい的だな」

「あいつちっとも避けられないでやんの。トロすぎぃ」

「このまま倒せそうだな。ガンガンいこうぜ」

 皆そう言いながら笑い合っていた。

 魔法の着弾点からは黒い煙が絶えず立ち昇っている。

 じき、この大きい足音や揺れもなくなるだろう。皆がそう思っていた。


 ――ズン!


 黒岩剛は歩く。そして地面が揺れる。

 そのテンポは未だ一度も乱れない。

「……しぶといな」

「そろそろ本気だそうぜ」


 ――ズン!


 黒岩剛は歩く。そして地面が揺れる。

 いつしか揺れが大きくなっている事に皆が気が付き始めていた。

「おい、お前ら本気出してるよな……?」

「お、お前こそちゃんと本気出せよ」

「おい、何ぼーっと見てるんだよ。後ろのお前らもやるんだよ、ほら早く!」

 後ろに控え、困惑していた私兵らが戦列に加わる。

 矢や魔法の数が一気に倍増した。

 凶弾が雨のように乱れ飛ぶ。


 ――ズン!


 歩く。そして揺れる。

 黒岩剛の周囲では木が幹から折られ、爆発で大岩が宙を舞う。鼓膜を破るような轟音が鳴り止まない。

 何度火柱に包まれただろう。

 幾度爆発が直撃しただろう。

 その度に、彼は黒煙や土砂のカーテンの奥から現れる。何事も無かったかのように。

 一歩ずつ、大地を踏みしめて歩いて来る。

「いいから撃て! おい、後ろのお前ら、巨大投石器(カタパルト)大型弩砲(バリスタ)だ! とっとと撃て、撃ちまくれ!」

 皆、既に気がついていた。

 この異常で異質な事態に。


 ――ズン!


 歩く。そして揺れる。

 カタパルトから大人十人でようやく抱え上げられる巨岩が放り投げられ、バウンドしながら黒岩剛を直撃する。だが巨岩はあっさり跳ね返された。巨岩はそのまま脇へと転がって行く。ただ硬いだけではこうはならない。圧倒的な重量があるからこその、この結果だ。もはや彼にとっては軽石くらいにしか感じられないのだろう。

 バリスタから巨大な杭の如き矢が放たれる。隼のように疾駆するそれが直撃。だが矢は分厚い鋼鉄の壁に当たったかのように無残な残骸を晒す事になった。黒岩剛はその衝撃を以ってしても、わずかたりとて後退する事はなかった。

 その程度では何度繰り返しても結果は変わらない。

「なんで! なんで歩いて来られる!?」

「止まれ! 倒れろ! 倒れろよおおおお! うわああああああああ!?」

 例え使徒であろうが、これだけの魔法の量を食らえば普通はタダでは済まない。

 そもそもただの人間は言うに及ばず、朱雀の使徒である赤崎蓮であってもカタパルトの巨岩を同じように真正面から食らえば骨にヒビくらいは入るし、バリスタの矢など骨折は避けられないのが当然の話だ。

 当然の話――のはずなのだ。


 ――ズン!


 未だ黒岩剛は――無傷(ノーダメージ)

 止まらない。止められない。

 火球や電撃、巨岩、矢が雨のように次々と飛来してくる戦場を悠然と歩いて来る。

 彼の玄武の装甲は最硬。そしてその圧倒的重量の前には生半可な攻撃は全て跳ね返される。

 小さな山の如き巨人が、或いは鉄壁の要塞が歩いているようなものだ。彼の前にはカタパルトもバリスタも小雨同然だ。

「ひいいいいい! 化け物だあああ!」

「あ、おいこら逃げんな畜生!」

 ついに金で雇われていた私兵らが武器を放り投げて背中を向けて逃げ出した。

 いっそクラスメイト達も放り出して逃げ出したい。

 だが、逃げる? どこへ?

 彼らの後ろにある館こそが唯一の居場所だ。ここを離れてどこへ逃げろというのか。

 いや、そもそもがもう残った六人の足は迫り来る恐怖で震え、立っているだけで精一杯なのだ。

 動けないなら、敵を止めるしかない。

「来るなっ! 来るなよおおおおお!」

 だから我武者羅に攻撃を続ける。魔法を撃ち続ける。

 それが無駄な抵抗だと半ば本能的に悟っていようとも、それしかできない。


 ――ズン!!


 黒岩剛はただ歩いているだけなのだ。

 一歩、また一歩と。

 無人の野を行くが如く歩くだけ。

 それが。

 それだけが。

 彼らには何よりも恐ろしい。


 ――ズン!!


 いつの間にか、黒岩剛と館の距離は残りわずかまで詰められていた。

 彼の背は荒地と化していた。焼き払われ、巨岩とバリスタの矢によって徹底的に破壊し尽くされた跡の光景だけが広がっている。

 揺れは大きくなり、館の敷地にある老朽化した塔の一つが斜めに(かし)いだ後、そのまま横倒しに倒れ、崩れ落ちた。

 魔法を使い続けたクラスメイト達も徐々に力尽き始め、両手を地面に突いて息を荒げている者もいれば、既に酸欠状態のようになって倒れている者もいる。

「あ……あぁ……ぁ」

 また一人、泡を吹いて倒れる。

 最後に木場だけが残り、途切れ途切れに魔法を飛ばしていた。もはやすぐそこにいるので外しようのない距離だったが、震える腕は火球をあさっての方向へと飛んで行くばかり。

 あれだけ騒がしかったのに、今では辺りはひっそりと静まり返っている。そこいらの地面には弓や槍といった武器が散乱し、巨大な攻城兵器のカタパルトやバリスタも打ち捨てられている。

 そんな光景を昇り行く朝日が照らし出す。

 重々しい足音と地響きだけが変わらず近づいてくる。

 だがやがてそれも止まった。

 座り込んだ木場が虚ろな目で見上げると、すぐ目の前に黒岩剛が立っていた。

 彼はさっきまでの弾雨も何事も無かったかのように、ぞっとするほど冷めた表情をしている。

「赤崎君はどこ?」

「あ……あ……ぁ…………」

 もはや言葉にすらならない。恐怖で言語中枢がマヒしているかのようだった。

「赤崎君はどこ?」

 もう一度強い口調でそう繰り返した時だった。

「おい、そこのマッチョ。俺のダチから離れろよ」

 館の門から剣呑な声がした。

「……赤崎君?」

「ああそうだ。オレを探してるんだろ。オレはここだぜ」

 見ると、所々ダメージ加工されたような服を着たワイルドな姿の青年がいた。その背には真っ赤に燃え盛る巨大な翼がある。

「やっぱ使徒相手じゃオレがやるしかなさそーだな」

 朱雀の使徒、赤崎蓮が傲岸不遜に嘲っていた。







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