あげる
お腹すいた。
フロウはぼんやりとそう思った。
フロウの体力は大幅に削られていた。
男とのやり取りによって消耗していた。
フロウは気づいてはいないが、木の実を一挙にもぎ取った暴挙の影響も大きかった。
この世界におけるエネルギーの循環は、大変繊細なサイクルをなしていた。
枯れ木につながることで木の実は維持されていた。
フロウが、ひとつずつ木の実をもいで、ゆっくり食べるというペースによって、均衡が保たれていた。
男が現れたことで、均衡が崩された。
フロウは男の存在を受けて、絶妙なバランスをとっていた天秤から足を踏み外したのだ。
フロウは、川沿いに突き出た水晶にもたれて座っていたのだが、やがて横になり、それから体を起こせなくなっていた。
フロウは、重い頭を上げた。
枯れ木に下がる木の実が、二重にぶれて見えた。
食べたい。
フロウは四つん這いで進み始めた。
フロウは、じりじりと前に進んだ。
自分の体が重かった。
水晶の地面は硬く、這うほどにフロウの肌を傷つけた。
黒茶色のワンピースが、小さく突き出た水晶にひっかかった。
それだけで前に進むのが困難になった。
フロウは全身の力を抜き、ぱたりと伏せて、頬を地に付けた。
息を整えた。
もう一度、と両腕に力を入れた。
その時、ジャリッという砕けた水晶を踏む音がした。
フロウは音の方に顔を向けた。
そして、驚いた。
川沿いに男が立っていた。
先ほど立ち去ったばかりの男だ。
少し離れた川沿いからフロウを見下ろす男を見て、フロウは心底驚いていた。
まさか戻ってくるとは。
フロウは目を疑った。
信じられなかった。
誰もがフロウの前から去っていく。
どんなに絆を結ぼうとしても、結局、最終的には一人で置いて行かれる。
そういうものだという身に染みついた信念がフロウにはあった。
男の表情は、よく分からなかった。
もしかして男の姿はフロウにしか見えない幻影なのかもしれない。
男に戻ってきてほしいとフロウ自身が望んだのだろうか。
あれほど失礼な男に、再び会いたいなどと願い、その思いが幻影を見せているのか。
分からない。
分からない。
自分の気持ちが分からない。
フロウは幻影のような男から目を逸らし、木の実を見上げた。
男はこの世界において、他に命の気配がないことにいら立っていた。
仕方がないので、最初に出会った女の元へと戻ることにした。
女が何か知っているかもしれないと考えた。
今にも滅び落ちそうなこの世界で、自分が成すべきことのヒントをわずかでも得たいと思ったのだ。
生意気で非難がましい女だ。
戻った男に拒否的な対応をしてくるに違いないと身構えて、男はその場に臨んだ。
実際に女に再会した男は驚いた。
女は先ほどよりも、ずっと弱っていた。立ち上がることもできないようだった。
そして、男を見るその表情。
そこには、男を否定する感情は、一切、浮かんでいなかった。
女の表情は実に分かりやすかった。
来てくれた。
男の再来に対し、驚きながら、女がただそうとしか思っていないことが伝わって来た。
男の胸が、ドクン、と一度大きく鳴った。
もう一度、その表情を確かめようと女の顔を覗こうとした時、女が顔を逸らした。
自分でもどうしてかと思うほどに、男は慌てた。
倒れたままの女は、どこか一点を見上げていた。
男は女の視線の先を追った。
木の実があった。
女が死守しようとしていた実だ。
男はハッとして尋ねた。
「食べたいのか」
女が緩慢に頷いた。
男は小走りに枯れ木に向かい、木の実を一つ採った。
すぐに、女のところへ持っていき、膝をついて差し出した。
女は起き上がらないまま、手を伸ばし木の実を受け取った。
男はどうしていいか分からず、そのまま見ていた。
女は体を横向けて、木の実をひとかじりした。
フロウは、口の中に清涼な甘さが広がるのを感じた。
おいしかった。
男が差しだしてくれた。
なぜだろう。
いろいろなことが、もうよく分からなかった。
もっと食べたい。
しかし、どうしてもそれ以上、喉を通らなかった。
空腹であり、喉も渇いており、体の中は空っぽだ。
そうであるにも関わらず、口を動かすのも、飲み込むのも億劫だった。
フロウの手から、木の実がこぼれ落ちて、コトリと転がった。
男は片膝をついて、女をじっと見ていた。
女はみすぼらしく、汚く、みじめ極まりない姿に見えた。
その女が必死に食べようとしていた木の実が落ちた。
半分閉じた女の目に、涙が浮かんだ。
男の胸が引き絞られるように痛んだ。
気がつくと、男は木の実を拾っていた。
「食えよ」
男は木の実を女の口元に運んだ。
女は口を薄く開いたが、木の実にかじりつくことも、もはやかなわないようであった。
「くそっ!」
男は木の実を両手で持ち、おもむろにグシャリと潰した。
そして、潰れた木の実の一片を、女の口元に当てた。
「食え、な?」
男は焦燥感にジリジリと追いつめられながら、辛抱強く呼びかけた。
「諦めるな。食え」
女は薄く開いた口から舌を伸ばし、木の実をなめた。
「そうだ。それでいいから」
男は泣きたい気持ちになった。
少し大きめの木の実も女の口元に寄せた。
「ほら。もっとある」
女は木の実をなめて、その汁をすすった。
摂取する力は弱く、見ている男を悲しくさせた。
「頑張れよ。その調子だ」
男には、女が必死に食べようとしているのが分かった。
半眼で無心に木の実をすする女から、目を逸らすことができなかった。
生きようとする命の戦いだ。
ほとんど何もできない中で、それでも糧を得ようとあがいている。
その営みの不様なありさまに泣けてくる。
実際、息苦しいほどのうねりが体内をめぐり、男は涙をこらえた。
与えたい。
命を分け与えたい。
愛おしい娘よ。
男は意味の分からぬ激情にさらされた。
弱々しく、ひたむきで、ささやかな命が目の前にあった。
もうちょっと頑張れ、そうだ、もう少しだけ。
男は女を励まし続けた。
そうして懸命に動いていた女の口が、とうとう止まった。
男はハッとした。
わずかに開いていた女のまぶたがゆっくりと閉じた。
溜まっていた涙が、一粒、女の目尻へと流れた。
男の手の中にある潰れた木の実が、瞬く間に茶黒く変色した。
男は震え上がった。
男のさまよう視線は、枯れ木をとらえた。
いくつかついていた実が、すべて地に落ちていた。
落ちた実は、すでに黒く腐り果てていた。
男は、サーッと体内の血が引いていくのを感じた。
嘘だろう。
そんなこと、あってはならない。
男の緑色の左目が燃えるような熱を発した。
その熱は男の全身に回った。
「死ぬな! 生きろ! フロウ! フロウ!」
何も知らぬはずの男が、自ら女の名を呼んだ。
男の黒い右目も燃えた。
黒色と緑色の光が男の周りを渦巻いた。
女は呼びかけにも答えず、静かに横たわっていた。
男は女の手を握った。
女の手は冷たかった。
全部あげよう。
何もいらない。
この命をあげるから。
女を見る男の思いは、今はただ、その一点だけだった。
二人を囲む濁った水晶が、バラバラと崩れ始めた。
淀んだ川もみるみる干上がっていった。
「うおおおおおおお!」
男は雄叫びを上げた。
男の全身から黒と緑の輝きが広がった。
その輝きが混ざり合った。
そうして、崩壊を始めた世界は、男から発する深緑色の光に照らし上げられたのであった。




