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ミカエルの事情

ゴルド小学校は、ハクキン地区の名門小学校の一つであった。白亜の城のごとき校舎も、正門から見渡せる庭園も、優雅な美しさに満ちていて非常に評判が高かった。


 その庭園の東側、校舎の影になる位置に、バラ園があった。季節ごとに咲くさまざまな種類のバラが植えられていた。アーチに絡みつくバラがあったり、子どもの胸にまで届く高さのバラがあったり、中にいると迷路にいるような感覚も楽しめた。


身が隠れる雰囲気や、バラのロマンチックな印象から、いつしかバラ園は、子どもたちの告白スポットとなっていた。





 昼休み、ミカエルは、4年B組のコウクリに呼び出され、バラ園の真ん中にいた。


「あの、お手紙で勝手に呼びつけて、ごめんなさい!」

「いいんだよ、気にしないで」


 登校したミカエルの下駄箱に、器用にもハート型に折られた便箋が投げ込まれていた。

お話があるので誰にも内緒で昼休み、バラ園の真ん中まで来てください、と匿名で書かれてあった。


可愛い字だなと思いながら、ミカエルは従った。


 約束の時間、隣のクラスのコウクリが、そこに一人立っていた。コウクリは、4学年で美少女と呼ばれる内の一人だった。こげ茶色の顎ラインの髪がサラサラと風に揺れていた。大人びた顔立ちの少女は、緊張した面持ちでうつむいていた。


「コウクリちゃんと前にしゃべったのって、合同演奏会だよね。もう何か月も経ってるなんて。何だか早いね」


 ミカエルの気さくな様子に、コウクリは顔を上げた。


 A組とB組、C組とD組がそれぞれ一緒に楽器を演奏する学校行事が、去年の12月に行われた。A組のミカエルとB組のコウクリは、その時ピアノを連弾した。

練習期間の3カ月は、一緒にいる時間も長かった。合同演奏会が終わると、クラスが違うこともあり、二人で話すことはなくなった。すれ違って顔を合わせたら、手を振り合って挨拶する程度のやり取りだった。


「私は、合同演奏会が終わらなきゃいいのにって思ってた」


 コウクリは、思いつめた表情でミカエルを見た。ミカエルに柔らかく微笑み返されると、コウクリは真っ赤になって下を向いた。


「ミカエル君のことが好き」


 震える声で、コウクリが言った。両手を胸の前で組んでいた。その手も震えていた。


 ミカエルは、即座に答えた。


「ありがとう。僕もコウクリちゃんのこと好きだよ」


 コウクリは真っ赤な顔をミカエルに向けた。


「それ本当?」

「本当だよ」


 コウクリの口元が、ゆっくり引き上げられるように動いた。


「信じられない。夢みたい。夢かな」

「そんな大げさな。本当に好きだよ」


 ミカエルの鮮やかな笑顔を見て、コウクリの目にうっすら涙が浮かんだ。


「つき合ってくれるのね」


 コウクリが喜びあふれる声で確かめた時、初めてミカエルの返事が止まった。ミカエルは戸惑うように小首をかしげた。


それを見て、コウクリは困惑した。


「つき合ってくれるんだよね」

「うーん、それは」

「ミカエル君、私とつき合ってくれないの?」


 ミカエルは腕組みをして、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「僕、正直、つき合うとか、まだよく分からないんだよね」


 コウクリはミカエルのあまりの発言に、唖然として動きを止めた。ややあって、ハッとして、必死で言い募った。


「だって、私のこと好きって言った。私はミカエル君の特別じゃないの?」

「うーん。皆いいところが違っているから、特別じゃない人がいないっていうか。僕、好きな人がいっぱいいるんだよ」


 ミカエルは悪びれたところのない、率直な口調で言った。

 コウクリは衝撃を受け、血の気が引いた。


「好きって、私だけじゃないの?」

「うん」


 ミカエルは困ったような表情をした。コウクリは心の整理がつかず、質問を続けた。


「一番は誰?一番好きな人は?私はミカエル君の何番めなの?」

「え、順位とか、考えたことないよ。皆別々過ぎて比べられない」

「私だけじゃだめなの?」

「ごめんね。僕、皆と遊びたいんだ」


 ついにコウクリの頬を涙が伝った。コウクリはあふれる涙をそのままに立ちつくした。

 ミカエルはすまなそうな顔で言った。


「何だか悲しませてごめんね。僕ちょっとわがままなんだと思う」


 コウクリは泣きながら首を横に何度も振った。涙が止まらなかった。

 ミカエルは、申し訳なさそうな表情のまま、コウクリに一歩近づいた。


「いっぱい泣かせちゃった。大丈夫?」


 気遣わしげにミカエルは右手を伸ばし、コウクリの頬に触れた。コウクリの肩がビクッと上がった。ミカエルは、コウクリの頬をなでて涙をぬぐってやりながら問いかけた。


「大好きな友達じゃダメなのかな」


 コウクリは赤くなりながら首を横に振った。必死で答えた。


「いいの、それでいい私」

「本当?」

「本当。ミカエル君、私とこれからも友達でいてくれる?」

「勿論。こちらこそよろしくね、コウクリちゃん」


 ミカエルは、コウクリの左頬に右手を添えたまま、コウクリに顔を近づけた。コウクリが現状を把握する間もなく、ミカエルはコウクリの右頬にキスをした。


突然のキスにコウクリは更に赤くなり、思わず涙が止まった。

 ミカエルは鮮やかな笑顔を見せた。


「コウクリちゃんは笑ってた方がかわいい」


 思わずコウクリはその場に崩れ落ちそうになった。慌ててミカエルがその肘を支えた。

 二人の目が合って、コウクリは笑った。


「うん、その笑顔」


 ミカエルの言葉に、コウクリははにかみ笑いをせずにはいられなかった。

 ミカエルは優しく尋ねた。


「もう大丈夫?」

「大丈夫。あの、ミカエル君」

「何?」

「やっぱり大好き」

「僕も大好きだよ」


 コウクリは頬に涙の跡を残したまま、思いを振り切るような笑顔で言った。


「もういいよ。もう十分。ミカエル君、先に帰って。私は、もう少しここにいるから」

「うん。じゃあ行くね。またね、コウクリちゃん。今日はありがとう!」


 ミカエルは笑顔で手を振り、帰って行った。


 コウクリは両手を頬に当て、立ちつくしていた。笑ってしまうことが止められないように、口角が上がっていた。

 夏のバラが輝いていた。












 A組に戻ると、丸顔にそばかすの散った赤毛の少年が、隣の席からミカエルに声をかけてきた。


「ミカエル、聞いたぞ。今度はコウクリちゃんだって?」

「何でノーマが知ってるの?」


 いたずらっぽいノーマのささやき声に、ミカエルはびっくりして尋ねた。ノーマはわざとらしくため息をついて、イスを寄せてミカエルと肩を組んだ。


「噂になってる。うちの学年の3大美人が、これで全員ミカエルのものだって」

「えー、そんなのウソだよ。っていうか、何でいつも、誰にも秘密って言われて呼ばれるのに、皆知ってるの?」

「女っておしゃべりなんだよ。それで、どうだった?」


 好奇心を隠さず、ノーマは小鼻をぷくっとさせて、ミカエルに聞いた。


「友達だよ。これからも仲良しの友達に変わらないよ」


 ノーマはミカエルから腕をほどいて、大げさに天を仰いで見せた。それからミカエルに顔を寄せて、小声で言った。


「アイちゃんもダメ、コイトちゃんもダメ、それでコウクリちゃんもダメって。3大美人以外からも、好きですって言われてるの知ってるぞ。ミカエル、誰ならいいんだよ」


 ミカエルは心底困った表情をした。


「ノーマは分かるの?つき合うって何するの?一人だけ特別で、他の人と違うってどういうこと?僕、いつも一生懸命考えるんだけど、どう考えても、皆同じくらい好きなんだよ」


 ノーマは物知り顔で、ミカエルにささやいた。


「特別な女の子は、他の人にとられたくないくらい好きになるんだよ。他の男としゃべってたら、イライラしたりするわけ」


 ミカエルは眉間にしわを寄せた。


「分かんない」


 ノーマはあきれ顔で言った。


「ミカエル、しっかりしなよ。もてるから選び放題なのに。このままじゃ、ただの女たらしだぞ」

「ええ!」


 ミカエルは考えたこともなかったので驚いた。


「だって、アイちゃんもコイトちゃんも、ミカエルにふられたのに、それでもミカエル君が好き、いつか振り向いてくれるまで待ってるって、そう言ってるって、そういう話だぞ」

「ええ!二人とも友達だよ?」


「ミカエルは頭がいいのに、何でこの話題だけはとんちんかんなんだろう」

「難しくて分かんないんだよ」

「うん。僕も算数が分かんないから、分かんない気持ちは分かる」

「絶対、算数の方が簡単だよ」

「そんな分からず屋を言うのはこの口か」


 ノーマは、ミカエルの口の横の頬を両手でつまんで引っ張った。


「わからふやはほっち」


 ミカエルはノーマの頬を引っ張り返した。


 いててと言いながら、ほっぺの引っ張り合いでじゃれていた二人は、昼休みが終わることを他のクラスメートから言われ、慌てて5時間目の用意をしたのだった。











 ミカエルは下校し、家に帰った。歩いて5分の距離だった。正門右手の守衛室から、守衛が出てきて小さな通用門を開け、ミカエルを通した。


3階建の大きな屋敷まで、白い玉砂利の道が続いている。左右に一本ずつ植えられた大きな広葉樹は、今日も生き生きと葉を広げていた。

 ミカエルは数分かけて玄関に到着した。


「ただいま」


 玄関には執事のドメスと侍女2人が控えていた。


「おかえりなさいませ」


 皆が口々に言っておじぎをした後、ドメスがミカエルに声をかけた。


「旦那様がお帰りです。本日はミカエル様と、体術の稽古をご一緒するとおっしゃっています」

「お父様が?いつも急なんだから」


 ミカエルは、父ビヨンドが自分の都合で動くことに、反発を感じるようになっていた。とはいえ、強い父への尊敬と愛情も変わらずにあった。


 体術や剣術や馬術などの稽古は、ビヨンドに叩き伏せられる恐怖も孕んでいた。しかし、その強大な力にいつかは打ち勝つのだという闘志を、ミカエルに燃え立たせる時間でもあった。


 総じて、ミカエルは父ビヨンドと一緒に何かをすることがうれしかった。

 そんな不満と喜びをないまぜにした表情を見ながら、ドメスは付け加えた。


「旦那様は、ただいま奥様とお話し中です。お話が終わりましたら、わたくしが呼びに参りますので、ミカエル様はお部屋でお待ちください」

「お母様とお話しているの?そっか。うん、分かった、待っているよ」


 今度はパッと明るい表情になり、ミカエルは2階の自室へと向かった。


 ミカエルの母リリスは、大変病弱な女性であった。ミカエルが帰宅する時間には、3階の寝室で横になって休んでいることも多かった。


 父ビヨンドは、母リリスの養生を理由に寝室を別にしていた。階段を挟んだ別棟に寝室をこしらえていた。また、多くの時間は仕事に奔走し、帰宅しても2階の書斎にいることがほとんどだった。


 ミカエルは、ビヨンドとリリスとの間に流れる謎の気配に、もやもやした気持ちを抱くことが増えていた。ミカエルは二人とも大好きなのだが、両親の間には奇妙な溝が見え隠れしていた。


 なので、ビヨンドとリリスが二人で話していると聞き、とても晴れやかなうれしい気持ちになったのだった。


 ミカエルは、学校の宿題を始めた。気分がよく、さらさらと終わった。それでも、ドメスがまだ呼びに来ないので、待ちきれない気持ちになってきた。

 ミカエルは、二人が話すなら母の寝室だろうと予測し、こっそり行ってみることにした。





 階段を上り3階に到着すると、声が漏れ聞こえてきた。廊下を見ると、母の寝室のドアが少し開いていた。


ミカエルは、足を止めて耳を澄ました。まぎれもなく、ビヨンドとリリスの声だった。

ミカエルはギクリとした。

声は、穏やかなものではなかった。


「あなたは―でしょう――っていうの!」

「やめないか――だろう」

「だって―――ていた!」

「――いうことか!」


 内容までは判然としないが、聞いたことのない二人の言い争いの声だった。ミカエルの血の気が引いた。

 リリスの泣き叫ぶような声もビヨンドのいら立つ低い声も、どちらもミカエルの神経に障り、不快を呼び起こした。


 ミカエルは途方に暮れて、階段を引き返した。


 自室に戻り、耳の奥に残る二人の声を消そうとして耳をふさいだ。


 やがて、ドメスがやってきた。30分後に道場で父ビヨンドが待っているというメッセージを伝えた。


 ドメスが下がった後、ミカエルはイスに座って頬杖をついたまま考えた。やはり、そのままにしておくことはできないと思った。

 ミカエルは、再び3階への階段を上った。




 母リリスの寝室のドアは閉まっていた。いつになくためらったが、ミカエルは思い切ってドアをノックした。

 返事はなかった。

 何度か繰り返した後、ドアノブに手をかけ、少しドアを開けてみた。


「お母様、ミカエルです」


 思ったよりも、おずおずとした声になってしまった。ミカエルは、自分の声にも戸惑いながら、リリスの寝室へ足を踏み入れた。

 ベッドの上に、母リリスはいた。

 半身を起した状態で、両手で顔を覆っていた。


 ミカエルは衝撃を受け、足を止めた。

 ミカエルは、幼い時から病弱な母を案じてきた。リリスが苦しんでいたり弱っていたりする様子には、人一倍敏感であった。


目の前で細い肩を震わせているリリスの姿は、見たこともない打ちひしがれた雰囲気を放っていた。崩れ落ちて死んでしまうのではないか、助けなければいけないのではないか、見てはならない姿を見ているのではないか、ここにいてはいけないのではないか。他にも、一瞬にして多くの複雑な思いがミカエルの中を駆けめぐった。


ミカエルは意識しないまま、這うようにリリスのベッドへ近づいていた。


「お母様、お母様」


 ベッドの上に膝を乗り上げて、リリスの体を半ば抱くようにして、その背中をさすった。ミカエルの掌は、リリスの背骨の固さをとらえた。肉付きの薄さは死を連想させ、ミカエルの腕に鳥肌が立った。


「ミカエル?」


 リリスはやっと呼びかけに応じた。見上げた顔は泣き濡れていた。悲壮な表情に、ミカエルの胸はかき乱された。


「お母様、大丈夫?苦しいの?」


 ミカエルの労りを聞くと、リリスは堪え切れなくなったように、また顔を覆って泣き始めた。ミカエルはどうしていいか分からず、ただその背中をさすり続けた。

 嗚咽が続く中、絞り出すように、リリスが話し始めた。


「ごめんなさい、ミカエル。こんなお母様でごめんなさいね」


 ミカエルの心はますますかき乱された。リリスが消えて無くなりそうな恐怖も感じた。


「お母様、何言ってるの?謝らないで」

「いいえ、ダメなお母様だわ。こんなに弱くて何もできなくて。ごめんなさい。ただただ迷惑ばかりかけて。愛想をつかされて、当たり前よ。ごめんなさい」

「僕、そんなこと一度も思ったことないよ。そんなこと言わないで。大好きだよ、お母様」


 リリスの弱音に、ミカエルは多層的に傷ついた。なぜか罪悪感もおぼえた。逆に、思ってもみないことを決めつけてくるような言葉に不快を感じさえした。

しかし、リリスにその嫌な気持ちを返したら傷つけてしまうと思い、飲み込んだ。リリスを元気づけたい、命を長らえてほしい、その一心であった。


「大好きだよ」

「優しいのね、ミカエルは」


 リリスは再びむせび泣いた。


「お母様、大好き。元気出して」


 ミカエルはそう繰り返して、リリスの背中をなで続けた。


 リリスは懸命に呼吸を整えようとしていた。ミカエルの掌は、その呼吸が次第に落ちついてくるのを感じとった。

 少しして、リリスは涙をぬぐいながら、ミカエルに笑顔を向けた。


「みっともないところ見せたわね。もう大丈夫よ、ありがとう」


 ミカエルはほっとして、リリスの額にキスをし、ベッドから降りた。

 ベッドサイドのイスを引き寄せ、腰かけて、ミカエルはリリスと向かい合った。


「今日、学校はどうだったの?」


 リリスが気持ちを立て直すように、涙の跡を残した顔で微笑みながら尋ねた。


 その日にあった出来事を、リリスに面白おかしく話すことが、ミカエルの日課になっていた。リリスが、いつも通りの日常に戻ろうと努力していることを、ミカエルは感じた。そのように落ちついてきた様子のリリスを見て、ほっとした。


「理科の時間にね」


 ミカエルは、今日あった出来事を話し始めた。理科実験、体育でのドッジボール、調べ学習の新聞作り、リリスは楽しげに話を聞いた。


 リリスの表情が和らいだことを、ミカエルはうれしく思った。安心すると、この後にある、父ビヨンドとの体術の稽古のことが思い出された。そろそろ行かなければと思った。


「あ、そうだ。あと一つだけ。びっくりすることがあったんだった」

「何かしら」

「隣のクラスの女の子から、つき合ってくださいって言われちゃった」


 ミカエルは、照れ笑いをしながら話した。この話で今日はおしまいにして、稽古に行こうと思った。


 急激に、リリスの表情が固まった。体がわなわなと震えだした。


 リリスの様子がみるみる変わっていくのを見て、ミカエルは動揺した。何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。


「お母様?どうしたの?」


 以前にも、女の子に告白された話はしたことがあった。その時は、リリスは楽しげに笑って聞いていた。今と何が違うのか分からなかった。


「お母様、気分が悪いの?」

「いいえ、いいえ、ミカエル」


 震える自分を抱くように、リリスは両腕を自分に回した。ミカエルの方を見ないまま、視線はぼんやりと中空をさまよった。リリスの唇からこぼれるように言葉がもれた。


「ミカエルは、女の子にもてるのね」

「え」

「お父様に似たのかしらね」

「え」

「ごめんなさい。疲れたからもう休みたいの」


 リリスは布団に横たわり、目を閉じた。

 ミカエルは急に拒絶されたと感じた。突然のことで、戸惑いが大きかった。

 ミカエルは茫然としたまま、目を閉じたリリスの額にキスをし、部屋を出た。











 ミカエルの足は、自然と道場へ向かっていた。敷地内に建てられた道場までは、歩いて数分かかる。リリスの寝室を出て、ミカエルはぼんやりと階段を下りていた。


 えも言われぬ不快感がミカエルの胸に満ちていた。


 ひどく心配した分、リリスの勝手な気分に振り回された気がした。また、その背後にビヨンドの影がちらちらしていた。父、母、というより、もう少し生々しい気配を感じて、気持ちが悪かった。


また、最後のリリスの態度には、あたかも自分が悪いと責められたような思いにさせられ、ミカエルは少なからず傷ついた。


父と母を嫌悪したことに思い至ると、今度は罪悪感が湧いてきた。


そもそも母が弱々しい様子になると、死にまつわる不安や恐怖が漂うのだった。


次々に胸をさいなむ思いたちに、ミカエルは苦しんだ。


階段を下りきって、そのまま1階奥の渡り廊下へと向かった。渡り廊下は増築した道場に通じている。ビヨンドの代になって、新設された部分であった。


先代の放蕩により、この家は一度大きく傾いた。ビヨンドが早くに代替わりをし、財を立て直した。ビヨンドはだらしない先代を毛嫌いしており、心身を厳しく律することを良しとしていた。


その一つとして、敷地内に道場を建てた。週に何度か体術や剣術の師範を招き、ミカエルも幼いうちから鍛えられてきた。ビジネスで忙しいビヨンドも、時間があると、ミカエルと一緒に稽古をするのだった。


道場に到着すると、ビヨンドも師範もすでに道着姿でウォーミングアップを始めていた。時計を見上げると、約束の5分前であった。


「遅くなりました」


 一声かけてミカエルは更衣室へ急いだ。道着に着替え、道場に戻った。

 先ほどの不可解で不快なモヤモヤを断ち切れぬまま、ミカエルもウォーミングアップを始めた。慣れた動きを黙々と続けた。


 ビヨンドの様子はいつも通りに見えた。それもミカエルの癇に障った。ふつふつと、あんたのせいだ、という思いが込み上げてきた。


 先に始めていたビヨンドと師範は、立ち稽古へと移っていた。

 ミカエルは基礎運動を繰り返しながら、先週の怒りまでもが戻って来るのを感じた。


 先週、ビヨンドはミカエルに転校を命じた。突然のことだった。調査の結果、優秀なミカエルは今の学年では相応しくないと決めつけ、すぐにでも学年をとんで中学へ入るように言い渡したのだった。

 ミカエルは今の学校も友達も先生も気に入っていた。親しい大切な人たちと急に引き離されることなど考えられなかった。


 強い父を尊敬していたミカエルは、初めて明確な反発心を自覚した。自分の大切なものが奪われる感覚は、激しい怒りを呼び起こした。生まれて初めて、ビヨンドに反抗した。


 結局、学年末まで今の小学校にいられることになった。しかし、そこまでだった。友達皆が5年生になるときに、ミカエルは中学校に入学することが決められた。


ミカエルは一人になりたくて、フィールドワークの宿題をやると言い放ち、引きとめる執事のドメスを振り切って家を出たのだった。


 そして、シェイドとフロウに出会った。


 生来の明るさのせいもあり、またかけがえのない出会いもあったため、ミカエルは気持ちを立て直していた。根本にある両親への敬愛が再び持ち上がっていた。


 それが、今さっきの出来事で、ミカエルの中にある怒りがまとめて燃え始めた。


「ではミカエル」


 師範から声がかかった。ミカエルはすぐに立ち稽古へ向かった。基本の技の型を師範相手に繰り返した。


「何を考えている?感情的になっているようですね。勢いは買いますが、やや粗い」


 師範に言われ、ミカエルは、感情に振り回されるのはダメだと自分に言い聞かせた。

 基礎運動、基本の技の鍛錬をしばらく続けた。

 その後、いよいよ試合形式でのぶつかり稽古に入った。


「はじめ」


 師範の声を合図に、父と子は向かい合った。長身で筋肉質なビヨンドは、あまり手加減をしないため、ミカエルは時に恐怖をおぼえることもあった。だが今日は、怒りが勝っていた。


「せい!」


 ミカエルは踏みこんで、ビヨンドのわき腹に拳をつき出した。ビヨンドは腕でガードし、素早く足払いをかけてきた。ミカエルは、足さばきでかわした。


 ビヨンドは寸止めだが、ミカエルは父に拳を当ててもよいことになっていた。しかし、まず当たらなかった。

 ビヨンドは踏みこむと、ミカエルの襟をつかみ、足を股の間に割り込ませてきた。ミカエルは構える間もなく投げ飛ばされた。受け身を取ったが、体は衝撃を受けた。


「くそ!」


 ミカエルはすぐに立ち上がり、ビヨンドに蹴りを入れた。ガードされたので、拳を連打し、そのまま腕を伸ばしてビヨンドの襟を取ろうとした。

ビヨンドがその手を払いのけ、ミカエルの腹に拳を向けた。ミカエルは後ろに飛びのいたが、拳が数センチ腹に食い込んだ。


「ぐ」


 寸止めではなかった。ミカエルが睨むと、ビヨンドのスカイブルーの瞳は、いつもの稽古中の冷たさとは違う、何かしらの感情の色を宿すようであった。

いら立っているのか、ビヨンドも感情的になっていることが伝わってきた。ミカエルの中の炎がそれに答えて燃え上がった。


 師範は二人を止めなかった。


 ミカエルは何度も投げつけられ、拳も蹴りもくらった。しかし、獣のようにビヨンドに何度も襲いかかった。息を整えるため、動きを止めると、ビヨンドが挑発した。


「所詮そんなものか!弱い人間だ!」

「うおお!」


 ミカエルは再びビヨンドに殴りかかった。ビヨンドはその拳をいなして、腕を伸ばしてきた。ミカエルは襟を取られないように押さえながら、蹴りを放った。

ビヨンドは舌打ちをして離れた。ビヨンドも疲れて動きが悪くなっていることをミカエルは感じた。


 ビヨンドを追い、ローに蹴りを入れた。ビヨンドがそれを無視するように拳を向けてきた。それを両手でガードしたとき、ミカエルの頭にシェイドの姿が閃いた。


 ミカエルは回し蹴りを放った。


「ぐあ!」


 その蹴りは、まっすぐ強烈にビヨンドのわき腹にヒットした。ビヨンドが思わず膝をついた。ビヨンドは苦痛の表情を浮かべていた。

 信じられない光景に、ミカエルの頭の中が白くなった。


「そこまで!」


 師範の声が響いた。


 ミカエルはへたり込んだ。体中から力が抜けた。座ってもいられず、寝転んだ。

 ハアハアと二人が息をする音だけが、しばらく続いていた。


 ミカエルは動けなかった。

 やがて、ビヨンドが絞り出すように言った。


「油断した」


 それを聞いた途端、ミカエルの中で喜びがはじけた。

 とうとう、強大な父ビヨンドに一矢報いたと感じた。

 自然と笑みが広がった。


「もうこの次はないぞ」


 ビヨンドがミカエルを見ていた。ビヨンドも笑っていた。

 ミカエルは笑顔でビヨンドにピースサインをしてみせた。


 もっともっと強くなるのだと、ミカエルは心に誓った。

 理不尽な不快を跳ねのけ、大切なものを守る力を必ず手に入れるのだと、ミカエルは強く願ったのだった。


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