サイゴのツギの塔
「しくじりおって! この脳なしが!」
ハクキン地区王立魔術学院敷地内にあるサイゴのツギの塔制御室において、グランドはスイレンを怒鳴りつけていた。
制御室の壁にかかる白い石板は、前に立つグランドの意を受け、先ほどまでシッコク地区サイゴの塔の庭園フロアを映し出していた。
宵闇の青の標的シェイドは、もうそこにはいない。
制御室の中央の床に大きく描かれた魔法陣の中心で、スイレンはうずくまっていた。
スイレンは荒い呼吸を繰り返した。
こげ茶色の短髪から、汗がポタポタとこぼれ落ちた。
魂をすり減らすような過酷な魔術であった。
来た、と感じた。
スイレンにはもはや何一つ、なすすべがなかった。
大きな魔力の来訪だった。
魔法陣上方の空間が歪んだ。
ぐにゃりとして、まるで熱せられた飴のような有様であった。
その異常を見たグランドは怒鳴った。
「スイレン!」
大柄なグランドの腹からの怒声。
それは、幾度もスイレンを震え上がらせたものであった。
しかし、今のスイレンには、何の効果ももたらすことはなかった。
なぜならば、スイレンは察知したからである。
自分は死ぬのだ、と。
バリバリバリと何かが裂けるような不快な音と、ゴゴゴゴという振動音が室内に響き渡った。
揺れに対し、グランドは腕を広げてバランスをとった。
グランドは眼帯を当てていない方の水色の目で、射殺すかのごとく空間をにらみつけた。
まずは手が出た。
そこから扉をこじ開けるように、両手が空間を分けた。
鬼が現れた。
シェイドだった。
黒曜石の瞳はつり上がり、髪は逆立ち、全身から燃え立つような黒いオーラを放っていた。
シェイドはこじ開けた空間から、魔法陣の上に降り立った。
それだけのことで、シェイドの足元の魔法陣はひび割れた。
シェイドはグランドを見た後すぐに、隣にうずくまるスイレンを見下ろした。
「フロウを元に戻せ」
バチンバチンと空間で魔力が弾ける音が続いていた。
強大な魔力を前に、スイレンは諦念を抱きながら話した。
「私には、その力は、ない」
「なんだと?」
「まことの黒、シェイド。懐に抱えているその魂。あなたは安全な器では、ない。その魂も、傷を、負い続けている」
空間がバリバリと激しく鳴動した。
スイレンは目を閉じた。
「もう、助かりは、しない」
シェイドは激しくスイレンを蹴りつけた。
スイレンはものも言えず吹き飛ばされた。
シェイドのひと蹴りによって、スイレンは壁に叩きつけられたのだった。
消耗しきっていたスイレンは、そのまま昏倒した。
「フロウの元へ案内する!」
即座に言ったのはグランドだった。
「命が惜しい。フロウの元へ連れて行ってやろう。俺以外にフロウの居場所を知る者はいない。取引だ」
特別に何もしていないグランドの全身から汗が噴き出していた。
有能な戦士であるグランドは、目の前の敵の力を正確に理解していた。
まともにぶつかるべき相手ではない、という判断が働いた。
グランドとシェイドは、ほんの一瞬にらみ合った。
「案内しろ」
シェイドは言った。
グランドの他にフロウにつながる手掛かりはなかった。
下手に手を上げると、容易にグランドを殺してしまう自信があった。
「こっちだ」
グランドはすぐに小走りに進み始めた。
シェイドは着いて行った。
グランドは窓のない廊下を進んだ。いくつかの階段を上り下りした。
シェイドはおとなしく着いて歩いた。
先程のスイレンの言葉が効いていた。
シェイドは安全な器ではないのだ。
胸に生暖かい卵を抱えるような、そんな慎重な気持ちになった。
これは、決して壊してはならないものだ。
やがて、通路の先の突き当たりにドアが現れた。
シェイドはそのドアに封印の魔術を見いだした。
グランドはドアに手を伸ばした。
「この部屋だ」
突如、牡丹色の電撃が、グランドの手を襲った。
「グアッ! クソッ! 何が」
「どけ」
何か起きたのか、全く理解できず悪態をつくグランドを押し退け、シェイドは前に出た。
シェイドの右手は黒い光をまとい、ドアの前の見えない封印壁に触れた。
触れた先から牡丹色の電撃が生じたが、黒い光は瞬く間にそれを吸い込んだ。
シェイドの右手の黒い光は吸い込みを続けた。牡丹色の光がドアの形に張りつめ、数秒後、ひび割れた。
封印壁はパラパラと崩れ落ちた。
シェイドは少しのためらいも見せず、ドアを開け放った。
「きゃ!」
ドアの気配に驚く女の小さな悲鳴が聞こえた。
シェイドは我を忘れて部屋に駆け込んだ。
「フロウ!」
とりたてて特徴のない客間のような部屋であった。
しかし、その部屋に足を踏み入れたシェイドはすぐに、己の変調に気がついた。
体が重くなり、地に縫いとめられたような感触をおぼえた。
体内を巡る馴染みの魔力を、まったく感じられなくなった。
「これは」
シェイドは右手に力を引き寄せようとした。
何ひとつ反応がなかった。
シェイドの後ろで、バタンとドアの閉まる音がした。
シェイドが振り向くと、グランドが目を爛々とさせて笑っていた。
「我が名は宵闇の青グランド。まことの黒シェイド、決着をつけよう」
シェイドはその名を聞いてハッとした。
キングの屋敷に知らせを持ってきた人形が名乗っていた名前だ。
この男だったのか。
シェイドの左肩が痛みを訴え始めた。
魔力により、一時的に保護されていた傷があらわになっていた。
庭園でフロウにナイフを突き立てられた肩口から、血が流れ出した。
シェイドは青ざめた。
痛みのためではない。
シェイドの焦りは、フロウを失う恐怖によるものだった。
シェイドの体内にあるフロウの魂は、今、如何なる状態なのか。
変わらずにあった。
無事だった。シェイドは胸をなで下ろした。
シェイドの奥深く、内側に飲み込んでいたことが良かったのかもしれない。
とはいえ、フロウの魂を囲い込むシェイドの魔力の器は、ここにいては不安定になるばかりである。
シェイドは焦りを抱えながら、グランドを見た。
「たばかったか」
「当然のこと。ここでなら、正当な決闘ができうる」
シェイドとグランドは、お互いに憎しみと怒りに燃え立つ視線をぶつけ合った。
魔力抜きの場でありながら、空気を震わせるような緊迫感が生じた。
グランドは拳を握り、腰を落とした。軍服に似た服の下で、硬質な筋肉が盛り上がった。肩や胸や肘を守るガードが、鈍く光った。
シェイドも構えた。
お互いの力を計り合い、隙を窺うにらみ合いが続いた。
双方が、神経を張りつめていた。
その時だった。
「やっちまえ!」
張りつめた沈黙を破ったのは、女の声だった。
シェイドとグランドはそろって何事かと驚愕し、声の主を見た。
ベッドの後ろから、手に持った小さな紙片を付き出し、女が慌てた顔をしていた。
「クソッ! 何で、何にも起きないんだよ!」
シェイドは口の中だけで、ヒルダ、とつぶやいた。
シェイドは先程までとは別の意味で青ざめ、小さな混乱をおぼえていた。
ベッドの後ろに隠れていた女ヒルダは、わたわたとうろたえながら悪態をついた。
「ベロニカの言う通りにしたのに! あいつ! ちくしょう! やっちまえ! ちくしょう! 何でだ!」
グランドは口の中だけで、ベロニカ、とつぶやいた。
グランドにもここで起きている事態は理解できなかった。
ややあって、シェイドとグランドはお互いの気配を察した。
この女は無視する。
緊張の糸が切れた。
すなわち、動きが生じるタイミングが訪れたのだ。
グランドは数歩踏み込んで、重い拳を振り上げた。
シェイドは一撃で致命傷になりかねないその拳を、見切ってかわした。
「ヒャッ!」
ヒルダはベッドの後ろに再び隠れた。
魔封じの間において、シェイドとグランドとの戦いが始まったのであった。




