人形劇4
ダンテにもラナにも、聞きたいこと、言いたいことはたくさんある。
しかし、それらのすべてを棚上げにし、シェイドはフロウに会うことにした。
フロウの無事を確認することは、何よりも優先すべきことである。
それでいいはずだ。
頼りない思考を何とかまとめ上げ、シェイドは自分に言い聞かせた。
ダンテはチューブに向かった。
ラナはこの部屋で待つとのことだった。
「いってらっしゃい」
ラナはためらいをにじませながら、ダンテと、シェイドにもそう言った。
シェイドがラナに対して戸惑うのと同じくらい、ラナはシェイドへの接し方を決めかねているように感じられた。
ダンテは軽く手を上げてラナに返事を返し、シェイドは一瞬視線をラナに向けることによって、返事をしたことにしておいた。
ダンテがチューブに乗り、シェイドが続いた。
シェイドは浮遊感をおぼえた。さらなる塔の上階を目指しているのだと知った。
「ここだ」
短時間の移動であった。
チューブを下りた先がすぐに居室ではなかったことに、シェイドはホッとした。
ラナがいた部屋と同じ雰囲気の廊下だった。
シェイドは緊張していた。
想像もしていなかった妙なシチュエーションでフロウと再会することになってしまったのだから、当然のことである。
祖父と父を殺された因縁の地で、因縁の敵と戦って、愛するフロウを奪い返す、という筋書きだったはずなのだが。
それがどうしたことだろう。
死んだはずの両親に再会し、妙にアットホームな雰囲気に包まれ、父親ダンテに案内されてフロウに会う、という状況になっているのである。
想定外にもほどがある。
まずは全体を把握するためにもフロウに会うしかない。
会うしかないが、シェイドの緊張はどんどん高まっていくのであった。
「この部屋だ」
ダンテが言った。
廊下を曲がって最初のドアだった。
ダンテはドアをノックした。
小さな返事を受けて、すぐにドアを開けた。
ダンテは躊躇なく部屋に入った。
「シェイド、どうした」
ダンテがふり返ってシェイドを呼んだ。
シェイドは開いたドア口で、立ちつくしてしまっていた。
フロウがいた。
一人用とおぼしき小さな部屋であった。
ベッドとクローゼット、あとは部屋の真ん中にテーブルとイスがあるだけだった。
二つのイスのうち一つにフロウが座っていた。
アーモンド形の瞳をまんまるに見開いている。
柔らかそうな栗色の髪が肩を滑り落ちた。
若草色のワンピースがよく似合っている。
ダンテに手招きされ、シェイドは関節がきしむような動きで部屋に入った。
「二人で話しなさい」
ダンテは滑らかな動きで、あっという間に部屋を出て行った。
あまりにも素早いダンテの退室にシェイドは慌てた。
猛烈な勢いで振り向いたが、ドアはすでに閉じた後で、廊下を遠ざかっていくダンテの足音だけが聞こえてきた。
シェイドは、フロウと二人きりになった。
ギギギと音のしそうな不自然な動きで、シェイドはフロウに向き直った。
フロウもイスに座ったまま、固まっていた。
フロウのまばたきを見て、フロウも緊張していることがシェイドには分かった。
シェイドは、フロウに近づくことができなかった。
それどころか、緊張のあまり、声も出せなくなっていた。
喉がからからに渇いた。
フロウに再会したら、きつく抱きしめて離さないつもりだった。
しかし、この緊張感で、そんなことをするなど、到底無理な話であった。
シェイドの中で、心臓が激しく鼓動する音が響いていた。
鼓動がうるさいと感じるほどの沈黙が続いていた。
シェイドもフロウも凍りついたように動きを止めていた。
緊張のあまりシェイドは、フロウの方から何か一言でも切り出してはくれないかと、情けなくも願ってしまった。
そこまで思ってしまうと、さすがにシェイドは奮起した。
何か言わなければ。
挨拶でもいい。
何でもいい。
シェイドは中途半端に右手を持ち上げ、口を開いた。
「…やあ」
シェイドの口からやっと出たのは、そんな一言だった。
シェイドの中からサーッと血の気が引いた。
自分に絶望を感じた瞬間であった。
フロウが赤くなった。
フロウの恥じらいを受け、シェイドはわずかに救われた。
それからフロウはオドオドしながらおじぎを返した。
片耳に髪をかける仕草に、シェイドの胸が高鳴った。
フロウの耳から首筋にかけての美しい線が見えた。
シェイドは思わず唾をのみ込んだ。
ゴクリという音が、シェイドの耳には大きく聞こえた。
そうすると今度は、その音に気づかれはしなかったかと気が気じゃなくなった。
しかしそうでありながら、シェイドは、フロウの首筋から目が離せなくなっていた。
フロウがその視線に気がついたのかどうか、耳から髪を下ろした。
シェイドは我に返った。
言い訳するようにシェイドの口が動いた。
「怪我は、そうだ、怪我はないか? 怖い思いをしただろ?」
シェイドの身体中が汗ばんでいた。
熱いようでいて、背筋も指先も冷たかった。
心臓の鼓動だけは、相変わらずうるさかった。
フロウの唇が初めて動いた。
「聞きました」
フロウの声が耳に届くと、シェイドの冷えていた背筋に熱が走った。
フロウの声だ。
こちらを見て、話しかけている。
シェイドの全身がざわざわとざわめき出した。
ところでフロウは何を言った?
「ごめん。何? もう一回言ってくれる?」
「あの、私、ダンテさんとラナさんから、事情を聞きました」
「何の?」
「あの、たぶん、全部」
シェイドはフロウの言っていることが、まるで理解できなかった。
舞い上がっているせいなのか。
懸命に言葉を紡ぐフロウの仕草に目を奪われる。
「フロウ、さらわれて閉じ込められたんだろ?」
「はい、あの、はい、すみません。さらわれました。でも、その後はとても親切にしていただいて。あの、シェイドさんの力になってほしいというお話で」
自分の名が出てきて、シェイドの肩はビクッと反応した。
フロウは頬を赤らめながら、必死に話していた。
シェイドの視線はフロウの唇にフォーカスした。
あの唇から、自分の名が呼ばれるのを、もっと聞きたい。
もっと。
もっと。
「フロウ。どんな話を聞いた?」
「はい、あの、まことの黒のことです。大きな魔力を持つ一族のお話です。私、シェイドさんにどこでお会いしたのか、すみません、おぼえていないのですが、あの、シェイドさんが、私を、望んでいると、聞きました」
フロウは赤い顔で、伏し目がちに恥ずかしそうに話した。
シェイドは頭がくらくらした。
望んでる。
そうだ。
猛烈に望んでる。
欲しくてたまらない。
今もそうだ。
シェイドは体の奥にくすぶり始めた熱を感じながら、絞り出すようにフロウに問いかけた。
「フロウは、その話をどう思っている」
シェイドの鼓動は最高潮のビートを刻んだ。
狭い部屋の中で、すぐそこにいるフロウ。
これほど近くにいながら、シェイドはフロウに触れることができなかった。
あれもこれもしてやると思っていたのが、嘘のようだ。
そんなことはこの状況では考えられなかった。
フロウに本気で拒絶されたら、生きていけない。
それは、シェイドの中に突然訪れた確信だった。
フロウが、考えながらおずおずと口を開いた。
「あの」
「何」
「私、シェイドさんのこと、よく分からないんです」
シェイドの胸がえぐられるように痛んだ。
シェイドはどんな顔をしたのだろう。
フロウが赤い顔をしながら、慌てて両手を振って言った。
「違うんです! あの、ですから、知りたいんです。シェイドさんのこと」
シェイドの胸がギュッと締め付けられた。
今度は嫌な痛みではなかった。
手のひらを返したような期待があった。
フロウは言った。
「シェイドさん。何があったのかは忘れているのですが、私はシェイドさんを見ると、こう、胸騒ぎがするんです」
「俺もだ。俺もフロウを見てると」
「え! え?」
「ごめん。続けて」
「はい。すみません。あの、たぶん、シェイドさんのことが気になっているんです。でも、よく分からないんです。ですから、今から始めるのはダメですか?」
「始める?」
「はい。いろいろお話したりして、お互いのやってきたことですとか、価値観ですとか、分かり合ってから、それからもう一度考えてみたいのですが、あの、お忙しいですよね、難しいでしょうか」
シェイドは体の深いところから息を吐き出した。
長く息を吐いた後、フロウを見た。
その心も体も全部何もかも暴きたてて知っていいのなら。
シェイドは抑制の利いた声で言った。
「そうしよう。俺を知ってよ。フロウを教えてよ。全部」
「ありがとうございます! すみません、ご無理をお願いして」
フロウがはにかむように笑った。
子どもの頃と変わらない笑顔だった。
それはフロウの柔らかな魂の波動と重なりあって、シェイドの胸を甘く切なく締め付けた。
シェイドは少しだけ目をつむり、再び目を開いた。
「俺からもお願いがある」
「はい! 何でしょうか」
「さん、っていうのやめて」
「さん?」
「シェイドさん、じゃなくて、ただシェイドと呼んでくれ」
フロウは目をぱちぱちとした。
それから、火照る頬を冷ますように、フロウは両手を頬に当てた。
少しの間、フロウは何かを考えているようだった。
フロウは頬から手を離し、右手で胸元を押さえながらシェイドを見た。
「シェイド」
フロウの声と眼差しに、シェイドの魂が震えた。
そうだ。
この目だ。
この声だ。
シェイドとフロウは見つめあった。
見かわす中を、瞬間的に激しいものが巡った。
二人は現実的な距離を詰めることはなかった。
触れられない距離にいながら、シェイドは強く感じたのだ。
これは俺の女だ、と。




