共同
怒り心頭のベロニカに、ミカエルは歩み寄った。
「大丈夫ですか?落ち着いてください。あなたがハシマさんの決闘の相手、ベロニカさんですね」
ベロニカは、ハシマと共に来たミカエルを、初めて認識した。
「誰、あなた」
ミカエルは、自然な動きでハシマとベロニカの間に割って入った。
「分かりますか?あなたを傷つける気持ちは一切ありません」
ベロニカは、怒りにブレーキをかけられてムッとした。
しかし、スカイブルーの温かな瞳に覗き込まれると、不思議なほど怒りの炎が静まりゆくのを感じた。
ベロニカの表情は自然に和らいだ。
ハシマはため息をついた。
ミカエルは自分の使い方をよく知っている。
ハシマがあれこれ言うよりもずっと得策と思えた。
ミカエルは、静かに問いかけた。
「僕たちは、用があってここに来ました。でも、あまりの事態に困惑しているのです。ここで何が起こったのか教えてもらえませんか」
ベロニカはわずかに言い淀んだ。
しかし、ミカエルに文句を言う気にはなれなかった。
「この私にもよく分からないの。1週間前くらいから学院内でいざこざが増え始めた。それはよくあることなのだけれど、ある時から急に、争いが質も量も度を越えてひどくなってきた」
些細なことで口論が起き、殴り合いに発展した。
魔術が飛び交い、刃物が持ち出された。
ケンカの多い魔術学院とはいえ、さすがにおかしかった。
「決闘中の私にお構いなしで、争いながらうちの研究棟にまで入ってきて、もう滅茶苦茶。皆を叩き出してやったけど、今度はおかしな気配が立ちこめて、見たこともない生き物たちが発生するようになった」
ベロニカは決闘どころではなくなった。
外には妙な空気が蔓延し、人はどんどん減っていく。
油断するとおかしな生物が研究棟に入り込む。
ベロニカは、研究棟を離れることもできなくなり、ストックしていた食料を消費しながら日々をしのぐこととなった。
「結界を張っていたって、生き物は次々に入ってくるんだから、もういいやと思って今出てきたのよ」
ハシマは厳しい顔でベロニカの話を聞いていた。
「ベロニカはずっと僕に攻撃をし続けていた」
ベロニカは首を振った。
「4、5日はしてない。できるわけがない」
ハシマは人差し指を軽く噛んで言った。
「ここは時間の流れ方が違う。それだけではない時空の歪みもある。確かに、ある時からベロニカの攻撃は単調で、同じことの繰り返しになっていた」
ミカエルはベロニカに尋ねた。
「ここに来るまで、学院の敷地内で人に会いませんでした。ベロニカさん以外に、この異常を免れた人は」
ベロニカは肩をすくめた。
「皆、変な生き物に食べられちゃった?知らないわ。私は決闘のため、厳重な結界の中にいたのが良かったのかしらね」
ハシマは厳しい顔のまま、ベロニカに問いかけた。
「スイレンは」
ベロニカの怒りに、再び火がついた。
「あんた!スレインの術を解いたわね!」
怒鳴られて、ハシマの眉が上がった。
ミカエルはもう一度、ハシマとベロニカの間に割って入った。
「スイレンさんは戻って来たんですか」
ベロニカはミカエルを見上げた。
「あなた、何と言うか。本当にきれいね。名前は」
「ミカエルです」
ベロニカは腕組みをして言った。
「スイレンは戻って来ていない。ハシマのところにいるんじゃないの?もう一人、同じ術をかけてやったイセも、思えばスイレンと同時期にどこかへ行ってしまった。知らない?」
ハシマとミカエルは目を見合わせた。
ハシマはミカエルの後ろから、そっと顔を覗かせて聞いた。
「ベロニカ。何日も一人で戦ってきたのですか」
ベロニカは、腕組みをしたまま不敵に笑った。
「最後は私一人。そんなの、いつものこと。誰が去ろうと、そこを生き抜くのが私」
ハシマは、ふいに深い悲しみにとらわれた。
ベロニカは、その感傷的な色に気づくと、ほんの少しまつ毛を揺らした。
ベロニカはすぐに気を取り直した。
ふんと鼻を鳴らし、ミカエルの胸板をなでた。
「私と一緒にいてくれる?悪いようにしないわよ、ミカエル」
ミカエルは自分の胸に置かれたベロニカの手を取ると、しっかりと両手で握った。
ベロニカは目を丸くした。予想外に包み込まれた手が温かかった。
ミカエルはまっすぐな眼差しをベロニカに向けて言った。
「お一人で、どれほど心細かったことでしょう。できるなら、ベロニカさんが落ち着くまで一緒にいたいのですが」
ベロニカはまばたきを忘れた。
ミカエルは続けた。
「そんな中ですが、実は、僕の妹が誰かにさらわれて、この先にいるのです。ここで起こっている異常との関連はまだはっきりしませんが、妹を助けにいかなければならないのです」
ベロニカは戯れに伸ばした手をしっかりと握られて戸惑いながら、そう、と言った。
ベロニカがためらいを見せると、ミカエルはすぐに察して、その手を優しく解放した。
無意識のうちに、ベロニカは自分のその手をもう片方の手で握っていた。
戸惑いに揺れる視線がハシマと合った。
ハシマは頷いた。
「分かります。ベロニカ。あなたの違和感が、僕にはよく分かります」
「そうなの。複雑ね」
ハシマとベロニカが突然普通に会話をし始めたので、ミカエルは驚いた。
ベロニカは周囲を見渡し、ハシマに話しかけた。
「これは薄曇りの暗さ?」
「さすが。分かりますか」
「初めて体験する。この事態を詳しく知りたいと思わないのなら、それは魔術師じゃない」
急に近づき始めた二人の様子を、ミカエルは不思議な気持ちで見ていた。
しかし、もうミカエルは、ハシマとベロニカとのやり取りに割って入ることはなかった。
ハシマはベロニカに言った。
「休戦を」
ベロニカは答えた。
「そうね。こんな大きなことの前には、何もかも小さなこと。手を組みましょう」
ハシマが瞬間的に泣きたくなったことは誰も知らない。
フロウと生きるために向かい合わざるを得なくなった自分自身は、ハシマにとって決して心地よい存在ではなかった。
過去の失態と取り返しのつかない負の所業ばかり、ありありと浮かんでくる。
己の愚行を自らに突き付けられて、ハシマは人知れず苦しみ続けていた。
しかも、今もなお制御不能の自分がいて、愚かな痛みを重ねようとする。
ベロニカは、ハシマが傷を与えた相手であり、ハシマ自身の傷にもなっている存在であった。
まさか、ともに行く日が来ようとは。
「ありがとう。ベロニカ」
「何よ。あんたのためじゃないわよ」
「ミカエルの妹フロウは、僕の愛する女性なのです」
「ハシマに愛されるなんて、お気の毒さま」
ベロニカは華麗に笑った。
ベロニカの泣きぼくろが、ハシマの胸にしみるほど美しく見えた。
ハシマは、二度と取り返しがつかないことがあるということを知っていた。
痛みと共に何度も経験してきた。
しかし、誰かの力があれば、それさえ変化しうるという可能性をハシマは今初めて知った。
ミカエルという稀有な存在がいたからだと分かっていた。
一つには希望を抱いた。
まだ人生の何ものも自分は知ってはいないのだと感じた。
一つには絶望を抱いた。
希望を知ったせいで、叶わないことまで望んでしまう自分がいる。
叶わなかった希望が見せる絶望は、より深いものとなる。
もう一つの絶望がある。
希望を見せてくれたミカエルは、いつもいつまでも自分の側にいてくれる存在ではない。
ハシマはそれもよく分かっていた。
だから、ハシマは知るほどにミカエルを壊してしまいたくなった。
絶望を軽いものに留めたかった。
そして、壊すなら誰にもその役を渡したくはなかった。
最後には一人になっても生き抜く覚悟のあるベロニカに比べ、ハシマは自分の弱さを自覚せざるを得なかった。
ほんのりと暖かく、柔らかい、決してハシマを傷つけない清らかな光フロウ。
フロウは手離せない。
フロウに関するハシマの気持ちは、引き返せないところまで来ている。
生涯ともに生きていける、その絆を結べるはずの光。フロウとは、重ねてきた時の重さがある。
ハシマの瞳が揺れるのをミカエルは見ていた。ミカエルの視線に気がつくと、ハシマはプイッと横を向いた。
ベロニカは縦巻きの髪を口元に寄せて、興味深そうに二人を眺めた。
「ハシマさん、ベロニカさん、行きましょう」
ミカエルが言った。
本当に不思議なことなのだが、ミカエルにそう言われると、まるで最初から全員が仲間であったかのように思わされる。
ハシマだけではなくベロニカまでもが、ミカエルの存在感に励まされた。
その心地よさを、ハシマは恐れた。ベロニカが小さく声をかけた。
「やっぱり複雑ね」
「はい。でも今は、何よりフロウを助けなくては」
ミカエルは、ベロニカという助力を得たことで、心を強くしていた。ミカエル、ハシマ、ベロニカ、それぞれが今、顔を向ける方向性を定めた。
3人は走り出した。




