初めての約束の日
フロウは、緊張しながら待ち合わせの場所に立っていた。
栗色の長い髪は後ろで一本に結び、Tシャツに7分丈クロップドパンツ、スニーカーという、スポーティなスタイルだった。
フロウはワンピースなど女の子らしい服が好きなのだが、遊ぶのだからと思いきった。
昨日、シェイドと別れてから、フロウは浮かれた気持ちをもはやどうすることもできなかった。
頭の中は、シェイドとの出会いをループして振り返り、明日何をするかを考えて止まらず、少々体が熱っぽくさえあった。
結果、ろくに眠ることができず、ハシマに一目で大丈夫かと聞かれ、勿論勉強は上の空だった。
そうして時を過ごし、今を迎えたのだった。
帰宅せず、裏通りの古書店からまっすぐこの中通りへやってきたため、昨日より15分ほど早く到着した。
フロウは歩道の隅に立ちながら、うつむいていた。顔を上げることができなかった。
向こうから見つけて声をかけてほしかった。
来なかったらどうしよう、という不安も同時に抱えていた。
夢であった可能性すらありえるとまで思っていた。
また、来たら来たで、ちゃんと話せるかどうかが今度は不安だった。
「ごめん、待たせた?」
フロウはびっくりした。
ごちゃごちゃと考えていて、来るか来ないかさえ分からない、少なくともまだ来ないと勝手に思っていたため、心の準備がまったくできていなかった。
フロウは驚きのまま、声のほうにガバッと顔を上げた。
その勢いに、シェイドのほうが、ビクッとたじろいだ。
「フロウだよね?」
思わずシェイドは確かめた。呼びかけられてフロウは真っ赤になった。
フロウの記憶にある通りの整った顔立ち、優しい声だった。フロウは慌てて頷いた。
「来てくれたんだ、シェイド君」
シェイドは吹いた。
フロウは必死で話したのに笑われて恥ずかしく、口元を両手で覆った。
シェイドは今度も正しくフロウの気持ちを読み取った。
「いや、フロウが間違いとか変とかじゃなく。俺、だめなんだ。くん、とかつけられると、無理なんだ。シェイド君、ごめん、呼ばれたことない。やばい。面白い。頼むから、そのままで呼んで」
シェイドはフロウを傷つけまいとする気持ちと、吹き出しそうな気持ちとの合間で、笑いをこらえながら話した。
フロウは驚いたり恥ずかしかったりおろおろしたが、シェイドの好意的な目の色に随分ほっとした。
「それじゃあ、そのまま呼ぶね。あの」
「ん」
「シェイド」
フロウは恥ずかしくて顔を伏せた。
シェイドの胸は締め付けられた。
自分の名前をそんなふうに、特別に意識して呼ばれたことはなかった。
思いもよらず、シェイドの頬にも朱が上った。
「シェイド、来てくれてありがとう」
「そんな。お礼をしに来たのはこっちのほうなのに。フロウ、顔上げて」
フロウはおずおずと顔を上げてシェイドを見た。
笑いをおさめて照れくさそうにしているシェイドの表情に出会った。
目が合って、なんてきれいな黒曜石の瞳だろうと、フロウの体の芯が痺れた。
シェイドは、恥じらうフロウの様子に、胸のざわめきが止まらなかった。
「どこ行こうか。実は俺、あんまり人前に出るのが好きじゃないんだ。できれば、二人きりになれるところがいいんだけど」
言いながら、これではまるで、何かよからぬことを考えているみたいだと、シェイドの心の中に自問する視点が立ちあがった。
しかし、フロウはうれしそうに、勢い込んで言った。
「本当?実は私もそうなの。人に見られるのとか嫌なの。よかった!」
シェイドはやましい気持ちをまったく疑わないフロウにほっとした。
フロウは周囲を見渡し、少し声を落として言った。
「秘密の場所があるんだけど、一緒に来てもらえる?」
「勿論」
「こっち」
二人は連れ立って歩き始めた。
シェイドとフロウの身長はほぼ同じくらいであった。
グレーのTシャツにジーンズという格好のシェイドと並ぶと、今日ならばとても仲良しの遊び仲間に見えるのではないかと、フロウの心は浮き立った。
誰の目にも止まらないような、人通りの少ない道を選んでフロウは進んだ。
へー、こんな路地あったんだ、とシェイドが折々つぶやくのを聞きながら、フロウは先を急いだ。
究極の近道なんだよ、とフロウは話した。
10分ほどすると、二人は金網で囲まれた森の前に着いた。
丈高い金網の上には、鉄条網がついていた。
こっち、と誘い、更にフロウは金網越しに進んだ。
5分ほど進むと、金網の下の方にフロウは手をかけた。
引っ張ると金網がめくれて、子どもが通れる大きさの穴が開いた。
フロウとシェイドはそこをくぐった。
今度は森の中を進んだ。
踏み固められた道もあったが、そうではない草や木や蔦の絡む場所も通って、二人は進んだ。
再び10分ほど経った頃、急に視界が開けた。
「ここよ」
「これはすごい」
シェイドは感嘆の声を上げた。
美しい湖がそこにはあった。
フロウはうれしかった。この秘密の場所に誰かを連れてくることがあるなんて、思ってもみなかった。
自分がすてきだと思うものに、すごいと言ってもらえることが、こんなにうれしいこととは知らなかった。
緑の木々を映す青い湖面に見とれながら、シェイドは尋ねた。
「この森は何なの?」
「回復薬の材料になる植物がたくさん生えている森で、保護地域に指定されているんだって。アオウミ森っていう森。本当は勝手に入っちゃいけないの。だから、内緒ね」
「へーそうなんだ。どうしてフロウはここを知っているの?」
「私は今、薬師になる勉強をしてて。それで、先生と植物の勉強しにたまに来るの」
その時は、ちゃんと許可を貰って、正面入り口から入って来るんだよ、とフロウは慌てて付け加えた。
ハシマに連れられてアオウミ森に来てみて、すぐにフロウはここが気に入った。
人気がなくて、自然の楽しい素材がいっぱいで、ここで遊びたいと思った。
侵入が禁止されていても、魅力に抗えなかった。
フロウが探ると、まるで導きのように、金網の一部の破損が見つかった。
以来、フロウは時々森を訪れていた。
あまり通うと人に知られてしまうかもしれないと思っていたので、フロウはどんな場所も、毎日は行かないようにしていた。
その抑制の誓いに意味があるかどうかは分からないが、フロウは誰にも知られず、森を一人占めすることができていた。
「薬師か。いつか俺が怪我したらよろしく」
まるで大人になってからも親しくしているようなシェイドの口ぶりに、フロウはめまいがした。
湖を見ているシェイドの横顔に目を奪われた。
視線に気づいてシェイドがフロウを見た。
「フロウ?」
フロウはハッとして目を逸らし、ポケットを探った。
畳んだ紙を取り出し広げ始めた。
シェイドは、何事かとそれを覗きこんだ。
近づいた気配にフロウが顔を上げると、ものすごく近い距離にシェイドの顔があった。
シェイドも気づいて視線を上げ、目と鼻の先で二人の目が合った。
一瞬の間があった。
ガバッと二人同時に一歩飛びのいた。
二人とも心臓が破裂しそうだった。フロウは顔を真っ赤にして、口元に紙を寄せた。
シェイドもやや頬を赤らめながら、紙を指さした。
「いや、それ、何書いてあるのかと思って」
フロウはコクコク頷き、ぺたんと地面に座った。
紙を自分の斜め前に置いた。
シェイドは安全な距離感を持って隣に座り、紙を覗きこんだ。
「あの、私、夕べ、何して遊びたいか考えてみたの」
紙にはたくさんの遊びが列挙されていた。
鬼ごっこ、木登り、秘密基地、草ずもう等々、中には、おままごとまで書かれていて、シェイドはぎょっとした。
「フロウ、普段何して遊んでるの?」
「恥ずかしいけど、私、友達いないから」
フロウは寂しげに目を伏せた。シェイドはその表情に胸がちくりと痛んだ。
「なんで」
「あの家の子と遊んじゃダメって、言われているみたい」
何か事情があるのだろうとシェイドは察した。
シェイドの周りには、事情のない人間は一人もいなかった。
ミドリ地区にも事情のある人間がいるのかと、当たり前のことにシェイドは今気づかされた。
「シェイドは友達いるんだよね。何して遊んでるの?」
振り切るように、フロウは明るく尋ねた。
「友達か。うーん。仲間はいるかな。家族に近いかな。微妙。うまく言えない。遊びか。ふざけてたりはするけど。うーん。前は追いかけっことか戦いごっことか。どっちも最後はケンカだけど」
シェイドは、友達との遊び、ということについて、説明する言葉を持たない自分に驚いた。
仲間とは仕事というほうが、しっくりきた。
フロウが紙に列挙しているような遊びを、シェイドもあまりしたことがなかった。
分かったのか分からなかったのか、フロウは、へーすごいねー、と感心した様子で聞いていた。
「今日はお礼だから、フロウのやりたいこと、たくさんしようよ。どれからやる?」
シェイドの言葉にフロウの目が輝いた。
どうしよう、とフロウは紙をたどり始めた。
シェイドは、フロウの頬から顎にかけての曲線の滑らかさに惹きつけられた。
「これ、水切りする!」
バッとフロウは立ち上がった。
シェイドはフロウの急な動きにドキッとし、少しのけぞった。
フロウはきょろきょろして、おもむろに小石を拾い上げた。シェイドを振り向いて、元気に言った。
「私が一番ね!たくさん飛んだ方が勝ち!」
シェイドは水切りを知らなかったが、とりあえず頷いた。
フロウは湖面に向き直り、小石を持って低く構えた。
「えい!」
フロウが投げた小石は、滑らかな湖面に波紋を残しながら、4回跳ねた。
シェイドは見たことのない小石の動きに、驚いて目を見張った。
フロウはニコニコ笑顔で振り向いた。
「まあまあかな」
「ふーん。面白いね」
シェイドは手近に落ちていた小石を拾い、水際で構えた。
「よっ」
シェイドが投げた小石は、一度も跳ねることなく水に沈んだ。
「えー!」
思わずシェイドは叫んだ。
「やったー!私の勝ち!やったー!」
フロウは両手を上げて、ぴょんぴょん跳びはねた。シェイドは愕然とした。
「負けた」
「ふふふふふ!私、もっともっと跳んだことあるよ!」
「ちょっと!練習させて!」
シェイドの負けん気に火がついた。
シェイドは急いで小石を探し、湖に向かって次々投げ始めた。
フロウは、シェイドが本気で取り組んでいることがうれしくて仕方なかった。
フロウも負けじと練習を開始した。
「よし!コツつかんだ!勝負!」
シェイドが熱い目を向けてきた。フロウは強い目で受けて立った。
「勝負!私から行くよ!」
フロウは勝負用に選んでおいた小石を持って構えた。
「えい!」
フロウの小石は、均等な間隔で素早く6回跳ねた。フロウは拳をグッと握って言った。
「うん。まあまあ」
すぐにシェイドが構えた。
フロウは、口を引き結ぶシェイドを軽くにらむように見つめた。
「行け!」
シェイドが力強く小石を投げた。小石は1回目、大きく跳ねた。
遠くに着水し、そこから小さく2回跳ねて、水に沈んだ。
シェイドは茫然とした。フロウは手を叩いて、はしゃぎ跳んだ。
「きゃー!やったー!勝った!私の勝ち!」
「まじかよ」
シェイドの口から、思わずタタの口癖がこぼれ出た。シェイドは両手で頭を抱えた。
「俺、2回も負けたのか」
ここ最近、シェイドは何につけても負けることがなかった。
そのため、意外とショックは大きかった。フロウは明るく笑いながら言った。
「私、よく練習しているからね。元気出して!」
「うわ、すげー悔しい。くそ、お願い、もう一回勝負させて」
シェイドはフロウに手を合わせた。フロウの中に、強い爽快感が流れた。
「いいよ」
「よし!絶対勝つ」
シェイドは次々小石を拾い、角度を変えてガンガン投げ始めた。
ムキになっているのが伝わってきて、フロウのお腹の中がうずうずとした。
フロウも再び練習した。
次の勝負では、シェイド5回、フロウ4回で、シェイドが勝利した。
シェイドは拳を天に突き上げた。
「勝ったー!よっしゃー!」
「うそー!私、あんなに練習してるのに!」
フロウが本気で悔しがって叫ぶので、シェイドは一層誇らしい気持ちになった。
「ま、俺が本気出せばこんなもんだよ」
「もう!」
フロウは唇を噛んで眉根を寄せた。シェイドは勝ったおかげで余裕ができた。
何ともくすぐったい楽しい気持ちでいっぱいだった。
フロウは地面に置いてあった紙を取り上げた。
「違うのやろ!」
シェイドが笑って頷くと、フロウは真剣な顔で紙を見た。
「よし、木登り」
キッとした目つきでフロウはシェイドを見た。シェイドはホールドアップし頷いた。
フロウは5メートルほど離れたところにある、大きな木を指さした。
その木は、斜めに渦を巻くような幹をしていて、そこから太い枝がいくつも張り出していた。
「あの木ね。真ん中よりちょっと下の、左に出てる大きい枝あるでしょ?あそこに先に登った方が勝ち。どう?」
「うん分かった」
フロウは紙を地面に置いた。そして、すぐに言った。
「よーいどん!」
フロウは素早く駆けだした。シェイドもすぐに反応した。
木にたどり着いたのはほぼ同時だった。
フロウはこの木に慣れており、よく知っている足場をたどって身軽に登って行った。
初めてのシェイドは出遅れた。
このまま後ろを追っていては勝てないとシェイドは判断した。
とりあえず、目の前のフロウの足を引っ張ってやろうと視線を上げた。
Tシャツの隙間から、フロウのお腹の素肌が見えた。
シェイドの頭に血が上った。むしろシェイドの足が滑った。
慌てて体勢を立て直した。上を見上げすぎないように注意しながら登った。
少しして、頭上から、フロウの声が聞こえた。
「やったー!私の勝ち!」
シェイドが控えめに目を上げると、大きな枝に座ったフロウが、笑顔でシェイドに手を振っていた。
シェイドはゆっくりとそこまで登って行った。
シェイドが到着すると、フロウは幹から離れ、シェイドも枝に座れるようにスペースを開けた。
シェイドはバランスを崩さないように、慎重に腰かけながら言った。
「いろんな意味でずるいよ」
「いいの、いいの」
あまり伝わっていないなとシェイドは思ったが、フロウの楽しそうな笑顔を見ていると、それでいいと思えた。
これはもう、勝てないと思った。
「見て。ここから見ると、すごいんだよ」
フロウは、湖を指さした。シェイドはフロウの隣に座って、湖を見渡した。
「本当だ、すごいな。すげーきれいだ」
澄み渡る湖が一望できた。
それほど大きな湖ではなかった。
ただとても青くて美しかった。森を映し、日差しを反射してきらめいていた。
シェイドの中にある、消化しきれずにいた昨日の影が、清められていくようであった。
フロウは、誰かと一緒に感じ合うことは、一人占めよりずっと喜びの大きいことなのだと噛みしめていた。
母マルタと連れ立って出かけることはほとんどなかったし、師ハシマはとても抑制的でフロウの感情に積極的に応えてはくれなかった。
シェイドの反応の一つ一つが、鮮やかに胸に響いた。
フロウのドキドキはそれだけではなかった。
枝の上の左手の小指が、シェイドの右手の小指に触れていた。
触れた先から、熱が生まれるようでもあったし、力が抜けてしまいそうでもあった。
シェイドもその小指に気づいていた。
わざと触れたわけではなかったが、触れてしまうと動かせなくなった。
カラカラやアネモネとも触れあうことはあるが、こんな感覚にはならなかった。
ピリピリと電気が走るようだった。
「次、何しようか」
シェイドの声は少しかすれていた。緊張を自覚した。
フロウは少し上ずった声で答えた。
「紙を下に置いてきちゃった。一回下りる?」
「そうしよう」
シェイドが幹に隣接しているので、先に動いた。
小指が離れた。
フロウは少しずつお尻をずらして、幹の方へ動いた。
シェイドが先に幹を伝って下りた。フロウは後に続いた。
慣れているはずなのだが、フロウの体は登った時よりもずっとぎこちなく動いた。
もうすぐで着地というところまで来た。
「フロウ」
先に地面に下り立ったシェイドに呼ばれた。
顔を向けると、シェイドが両手を差し出していた。
フロウは最初何だか分からずに動きを止めた。
そのすぐ後に理解した。たちまち顔が赤くなった。
「手」
シェイドが一歩近づいて、両手を差し向けた。
フロウはおずおずと右手を伸ばした。
シェイドががっちりとつかんだ。
「そっちも」
シェイドが支えてくれる右手に頼りながら、フロウは左手も幹から外した。
フロウの左手もシェイドがつかんだ。
「せーの!」
シェイドの掛け声で、フロウはジャンプした。
「きゃあ!」
ふわりと浮き上がる感覚がした。
地面に下り立つ時は、両手に力がこもり、フロウの崩れそうな足元が支えられた。
「はい、到着」
シェイドはニコッと笑って、フロウの左手だけ離し、右手をつなぎ直した。
そのままフロウの手を引いて歩きだした。
フロウは頭が沸騰しそうだった。
右手が自分のものではないような気がした。
力が入らない感じがして、ちゃんと手をつなげているのか分からなかった。
滑らかな温かさだけが印象的だった。
シェイドは、自分が力を入れ過ぎているのではないかと思っていた。
でも、一度込めた力を抜くことができなかった。
人と手をつなぐときに、そんなことを気にしたことはなかった。
冷静な自分が、親切めかして単にフロウに触りたかったんだろう、と言っていた。
正直な自分は、そうだ、あの手にもっとちゃんと触れたかったんだ、と答えた。
フロウとつながった左手は、コントロールが上手くきかないし、ピリピリと痺れるようであった。
ほんの5メートルほど、二人はそうして移動した。
地面の紙をフロウが拾う時に、お互い手を離した。
ドキドキする余韻を保ちながら、二人は次の遊びを選んだ。
あっちむいてほい、だるまさんが転んだ、靴飛ばしなど、次から次へと楽しんだ。
二人とも本気で喜び、負けると悔しがった。たくさん笑ってたくさん叫んだ。
時に相手の所作にどきりとして、自然な振る舞いができなくなった。
とはいえ、お互いのことが分かってくると、相手のドジにつっこみを入れたり、からかったりすることもできるようになった。
そうして、一日の中で随分打ち解けた。
やがて、日が傾いてきた。
「そろそろ帰らないと」
シェイドが言った。分かっていたはずなのに、フロウはショックを受けた。
じゃあ行こう、と比較的あっさりシェイドは来た道を帰り始めた。フロウは慌ててその背を追った。
たった一度来ただけの道なき道を、シェイドは正しくたどって行った。
迷わず帰っていく背中を見ているうちに、フロウはとても寂しくなった。
気づくとフロウは駆けだして、シェイドの右手をつかんでいた。
シェイドは心底驚いて振り向いた。
だが、右手の方が反射的に、フロウの左手を握り返していた。
フロウはうつむいていて何も言わなかった。シェイドも黙って向き直り、手をつないだまま歩き出した。
フロウは思いを伝えたくて、握った手に力を込めた。
シェイドは胸が苦しくなり、その手を握り返した。
先ほどよりも強く結ばれた手は、二人の鼓動を高めた。
出口の金網に着いた。どちらからともなく手を離した。
シェイドが先に金網の破れをくぐり、フロウが続いた。
フロウは金網を元に戻した。
「もう行かないといけない」
シェイドが言った。弱い声だった。瞳が揺れていた。
フロウは強い声と瞳で言った。
「また遊びたい」
「フロウ」
「お願い、シェイド」
フロウのまっすぐな栗色の瞳を見て、そうだ、この目だ、とシェイドは思い出していた。
初めて会った時、この目に強く求められたのだ。
今またフロウのまなざしを受けて、シェイドは身動きがとれなくなっていた。
深入りしてはならないという思いと、今日でさよならしたくないという思いとが、ぶつかり合っていた。
シェイドは迷っていた。