夜と朝の衝撃
「フロウちゃん、折り入って話があります」
「はい」
2泊3日、古書店を留守にしたハシマは、帰宅した日の夕食後、フロウにそう切り出した。
王立魔術学院の学院祭に行ったあとは、去年も一昨年も、大変イキイキとしていたハシマである。
今年は何かが違ったようだと、帰宅直後のハシマの固い表情からも、フロウは察していた。
フロウには、ミカゲという隠し事があるのだが、帰宅してからのハシマは忙しそうで、気づかれてはいないようだった。
「しばらく、店をまともに開くことができなくなると思います」
フロウは驚いた。
しかし、余計な言葉を挟まず、話を聞くことにした。
ハシマの表情は湖面のように静かだったが、その瞳はどこか寂しげであった。
「学院で、因縁のある相手に再会しました。僕は憎まれています。相手も魔術師です。今後、ありとあらゆる魔術で攻撃されることでしょう」
「そんなことが」
「標的は僕です。相手の性質からも、まっすぐ僕だけを狙ってくると思います。でも、ここにいたら、フロウちゃんまで巻き込まれる」
ハシマは、フロウが見たこともない苦渋の表情を浮かべていた。
ハシマは、ベロニカのことをよく知っていた。
標的以外の人間を狙うことはしない。
むしろ、標的をズタズタにすることで、周囲からの評価を下げたり、周囲との関係がこじれたりすることを良しとする。
余計な恨みを買わず、魔術師のプライドだけをとことん傷つけるのだ。
ハシマは、両手を組んでテーブルの上に肘をつき、その手に額をのせた。
顔を伏せたまま、ハシマは言った。
「僕は、フロウちゃんのことが、とても大切なのです」
フロウの胸がドキンと鳴った。
「大切過ぎて、縛りつけることもできない」
ハシマがフロウに施しているのは、必要最低限、迷子札のような魔術だけであった。
フロウの胸はドキドキと鳴り続けた。
先日の女子力講座の影響もあるのか。
ハシマから伝わってくるものは特別な感情であると、感覚的にとらえていた。
「どうすることもできないくせに、あなたに何かあったら、きっと気が狂ってしまう」
ハシマは静かに顔を上げた。
ハシマの寂しい瞳が、フロウの目を見た。
「愛しています」
ハシマが告げた。
フロウは衝撃に貫かれた。
その意味を間違えてとらえることさえできない。
ハシマに愛されている。
目の前のハシマは、師匠でもお母さんでもなかった。
イスに座った目線は、いつしか同じ高さになっていた。
ハシマという男の告白の前に、フロウは弟子でも子どもでもいられなかった。
いつの間にこんなことになっていたのだろう。
ハシマは目を伏せた。
「僕は以前、多くの人と傷つけあい、疲れ果ててしまいました。人と深く関わることを避け、そうすることで、過去と決別したつもりでいたのです。でも、そうはいかなくなった」
ハシマは目を上げた。
その瞳は、決意で澄んでいた。
「あなたのせいだ」
フロウは震えた。
何によって震えているのか、自分でも分からなかった。
ただ、何も知らずに、ハシマに甘え切っていた己の未熟さだけが、胸に迫ってきた。
「僕は過去から逃げてはいられなくなった。今を生きるため、愚かな過去に、立ち向かわなければならなくなった」
ハシマの目は変わらず寂しさをたたえてはいたが、その上に、熱が乗った。
「僕は、因縁の相手からの恨みを受けて立ちます。それにケリがついたら」
ハシマの視線を受けて、フロウの呼吸は止まりそうになった。
ハシマは止まらずに続けた。
「僕と結婚してください、フロウ」
フロウは再び、激しい衝撃を受けた。
ハシマの眼差しが熱かった。
うまく息も吸えない中、心臓の音だけが、フロウの内側でドクドクと響き続けていた。
翌日の早朝、フロウは小さな旅行鞄に荷物をつめた。
眠れない夜を過ごしたが、眠くはなかった。
ただ、目は冴えているのにもかかわらず、頭は上手く働いてくれなかった。
昨夜、告白の後、ハシマは今後についての話をした。
早ければ明日からでも、相手の攻撃は始まるはずである。
危険なので、フロウは明日の早朝にはマルタの家に戻りなさい。
仕事も当然、休みとする。
いつになるか分からないが、勝ったら知らせに行く。
プロポーズの返事は、その時にしてほしい。
万一、負けた時には、おそらく古書店は続けられない状況になっていると思う。
フロウはすでに、どこに行っても通用する薬師である。
その時は、自分の力で生きていくように。
「負ける気はありませんが」
ハシマはそう締めくくった。
その後、ハシマとフロウは、静かにお互いの寝室に別れていった。
そうして、迎えた朝だった。
鞄を持ってリビングに行くと、すでにハシマが起きて待っていた。
「おはよう、フロウちゃん」
いつもの穏やかなハシマだった。
フロウは不意に泣きそうになった。
朝起きて、おはようと言ってくれる人が当たり前にいる安心をくれたのが、ハシマだった。
フロウは反射的に、ハシマを失いたくないと強く思った。
同時に、そんな幼い自分を恥じた。
フロウの雄弁な瞳を見て、ハシマは苦笑いした。
「そんな引きとめたくなるような顔をしないでください」
フロウは涙をこらえ、頷いた。
二人で外に出た。
ハシマに見送られ、フロウは古書店の飴色のガラスの引き戸の前にいた。
明け方の肌寒さが、いつもよりフロウの身にしみた。
立ち去りがたい思いにかられて、フロウはハシマに言った。
「ハシマさん、負けないでください」
「思わせぶりなことを言う」
「え」
「返事を期待してしまいます」
フロウは意味するところに気がついて慌てた。
「ごめんなさい!分かっていなくて」
「いえ。僕はこれからの勝負よりも、フロウちゃんの返事の方が怖いんです、きっと」
ハシマは苦笑した。
フロウは胸の高鳴りをおぼえながら、頬を染めた。
突然、東の空にキラリと光るものがあった。
ハシマはすぐさま異常を感知した。
「フロウちゃん!早く行って!」
表情と声色を変え、鋭く指示したハシマの様子を見て、フロウはハッとした。
フロウは走って古書店の横に生えている大きな木の後ろに隠れた。
飴色のガラス戸を目がけて、正面の空から炎の矢が1本、猛烈な速さで飛んできた。
ハシマは両手で印を結び、呪文を唱えた。
ハシマの薄茶色の髪の毛が、魔力の流れに乗ってなびいた。
炎の矢は、飴色のガラス戸前に立ちはだかるハシマの額に向かって、まっすぐ飛んだ。
フロウはパニックに陥った。
「きゃあああああ!」
ハシマの額に炎の矢が突き刺さった。
フロウの足から力が抜けた。
木に身を隠しながら覗いていたフロウは、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「フロウちゃん、落ち着いて。この矢は幻覚です。本物は」
ハシマは真上に手を伸ばした。
ハシマの手の上に、激しい気流が起きた。
ガガガガガガ!と何かが次々、気流に打ち当たり、渦巻かれ砕ける音がした。
数十本の細い矢が、折れて地面に降り注いだ。
ハシマはその矢の1本を手に取った。
「結界やぶりの矢か」
ハシマの手の中の折れ矢が、ボンッと音を立てて白い紙になった。
その紙は、国が発行する正式な書類だった。
『魔術師決闘証明書』である。
ニア国には、『魔術師同士の決闘は不可侵』という古くからの決まり事があった。
法が整備されていった歴史の中でも、特異な力を保持することが多い家名持ちの有力者たちは、綿々とそれを引き継いできた。
犯罪を取り締まる警察は、一般人に累が及ばない限り、魔術師同士の決闘には口を挟むことができなかった。
むろん、野放しというわけではない。魔術師協会を通じて国の機関である魔術省に『魔術師同士の決闘を行う』という届け出をし、審査を受け、正式に受理される必要がある。
ベロニカのやることだ。
いくら決闘には手続きが必要であるとはいえ、宣戦布告をして煮えたぎった闘志を抱え、イライラしながら受理を待つなど考えられない。
早ければ明日にも仕掛けてくる。
それが、ハシマの判断だった。
「強引に手続きして今日には来るだろうと思っていましたが、こんな朝早くから」
ハシマは呆れた声でつぶやいた。
フロウの悲鳴を聞いて、何事かと集まってきた近所の人たちに、ハシマは頭を下げた。
『決闘証明書』を見せると、誰もが仕方ないという顔をした。久しぶりの見せ物だと、無責任に喜ぶ男たちもいた。
なるべく静かにやりますから。はい、すみません、お店はしばらくお休みです。
そんな日常的な対応をするハシマを見て、フロウは次第に落ち着きを取り戻していった。
しかし、フロウは苦しかった。
ハシマが戦う姿を垣間見て、ハシマを失う恐怖が大きく膨れ上がったのだ。
愛しているといいながら、去っていく。
フロウは苦しくて苦しくて仕方がなかった。
胸も苦しい。息も苦しい。心も体も全部苦しい。
フロウちゃん、行きなさい。
近所の人たちに応じる隙間で、ハシマは目顔でうながした。
フロウは頷いて、大人しくその場を後にしたのだった。




