ミカゲ2
ミドリ地区の海沿いにある雑居ビルに、“猫の手”という便利屋がある。
最初は、ビルの2階の一室での開店だった。それが数年で、2階を1フロア占拠し営業するまでに成長した。小さな雑居ビルなので、そうは言っても規模は知れているものの、“猫の手”は、最近では町の定番と言える便利屋になっていた。
何しろ、依頼に対する対応は迅速で丁寧、そして料金が手ごろだった。どれほどの人材がいるものなのか。競合店から見ると、人件費をどう工面しているのか理解できないような人数が動くことも多かった。
ペット探しや引っ越し、浮気調査に廃品回収、結婚式の準備に人生相談、ありとあらゆる依頼があった。できるものはすぐに引き受け、できない時にはそれが可能な場を適正に紹介する。“猫の手”は一仕事終えるたびに信頼を得て、それが人の口に上ることで次の仕事に結びつく、という好循環の中にあった。
また、“猫の手”の評判のもう一つは、店主の存在だった。ややまなじりの下がった眠そうな目をしている店主は、のんびりとした存在感をもっていた。その存在感は、きわどい依頼を抱え、ピリピリと張り詰めている客の心を緩めた。
そんな存在感でありながら、話をすると極めて理知的で通りがよい。そして礼をわきまえてもいた。
更に、従業員への指示は端的で力強く、見ている者に快い印象を与えた。
また、そういったことを別にしても、店主は女性に人気があった。
セピア色のゆるい天然パーマの髪は少し伸びて、一つに束ねられていた。力仕事をして、ほつれた髪を直す仕草にさえ、黄色い声が上がった。
店主は、概して好青年、頼もしい、男前という評価を得ていた。
ある日の昼間、そんな便利屋“猫の手”に一人の男が訪れた。
20代半ばで、琥珀色の目をした黒髪の男だった。
雑居ビル自体は古びていたが、2階フロアはクリーム色の壁も明るく、小ざっぱりとした印象を与えた。掃除が行き届いており、清潔感もあった。
短い廊下に向かい合わせとなっている4つのドアがあった。1つだけドアが開いていた。
便利屋“猫の手”入り口はこちら、と書かれた立て看板があり、その開け放たれたドアの中に、受付カウンターが置かれていた。
受付の後方にはパーティションが置かれ、簡単に店内を仕切ってあった。
黒髪の男は、受付カウンターにやってきた。
受付担当の若者は、男の左腕が義手であると気づいたが、じろじろ見るような無作法はしなかった。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
「店主はどこだ?」
黒髪の男は、受付越しに店内の気配を探るように尋ねた。
受付担当は、丁寧に答えた。
「店主は本日は休暇ですが、お急ぎですか?お急ぎなら、お取り次ぎします」
「急ぎだ。つないでくれ」
「かしこまりました」
受付担当は、すぐに電話をかけた。
「すみません、お休みのところ、お急ぎのお客様です。え、名前?あ、すみません、今聞きます」
やり取りを側で聞いていた男が、聞かれる前に答えた。
「キングだ」
「キング様です。あ、切れた」
受付担当は、数回まばたきをした後、キングに頭を下げた。
「今行く、と言って電話が切れまして、もうすぐ店主がこちらに来ると思いますので」
キングは軽く手を上げて、了承した。
10分も経たないうちに、店主が息を切らして登場した。
受付担当は、いくら家が近いとはいえ、店主の到着があまりにも速かったので驚いた。
「数少ない、アネモネと過ごせる休暇に合わせて来るとは。さすがだなキング」
「元気そうじゃないか、アニヤ」
息を整えながらにらみつける店主アニヤに、キングはてらいのない笑顔を向けた。
受付担当は、アニヤの様子から、キングは組織関係の人だと気が付いた。自分自身も同じ組織出身であったため理解は早かったが、初めて見る相手だった。その上、アニヤの様子もいつもとは違って見えた。
受付に立つときは下手な感情を表に出すな、と厳しく指導されているため、驚きを顔には出さなかった。
そんな時、アニヤに続くように銀髪ショートカットで褐色の肌の女が飛び込んできた。
「お」
キングが気づいて声を上げるや否や、女はキングに抱きついた。
受付担当は、今度こそギョッとして、目を丸くしてしまった。
キングは女を抱きとめながら、呆れ顔で言った。
「アネモネ。お前という奴は、またアニヤの前でこういうことをする」
「奥様。あの、いいんですか?」
思わずもれた受付担当の声に、手をヒラヒラさせながらアニヤが応じた。
「あれはいいんだ」
「はあ」
アネモネは、2年前まで受付担当のいた組織の長でもあった。
尊敬し、畏れ、憧れもするアニヤとアネモネの、見たこともない姿の連続だった。受付担当は、キングは何者なのかと訝った。
突然、アネモネがキングの頬を打った。
バチンという派手な音が鳴った。
受付担当は、自分がこの場にいていいのか、分からなくなってきた。
「ひどいじゃない。何の連絡も寄越さないで」
「ああ。悪かった」
アネモネは潤んだ目で、キングをにらんだ。
キングは、心底申し訳なさそうに謝った。
「また、死んだかと」
「勝手に殺さないでくれ」
キングは、アネモネの背を優しくポンポンと叩いた。
アネモネは頬の涙を拭った。
キングとアネモネの体が離れると、アニヤがキングに向かった。
アニヤはキングの胸に腕を回した。
「おいおい」
キングの呆れを意に介さず、アニヤは、やや背の高いキングの肩口に顔を乗せた。キング、キング、キングと無声音で呟いた。
「今度こそ死んだかと」
「お前もか」
キングは今度は困ったような顔をした。
「悪い知らせは何もなかったろう」
「何の知らせもなかった」
アニヤは離れ際、拳をキングの腹に見舞った。
グエッとキングはうめいた。
アニヤは目を細めてキングをにらみながら言った。
「てめえは俺らの消せない古傷なんだ。少しは考えろ」
「悪かった」
キングは腹をさすりながら、再び謝った。
「実は頼みたいことが」
「てめえは!久しぶりに顔を見せれば、厄介事を持ち込む!」
アニヤは思わず声を荒げた。
アネモネは涙も乾き、ため息をついた。
「なんて、しょうがない人」
「すまない。急ぎなんだ」
キングは、がたいのいい体を縮めて、恐縮していた。
悪かったと思う気持ちに嘘はないことが伝わってきた。
「頼む。話を聞いてくれないか」
アニヤも大きなため息をついた。
その時、受付担当が大きな声を出した。
「あの、奥の部屋が空いてます!」
受付担当は、アニヤとアネモネのプライベートをこれ以上見てはならない、と思った。漠然と、怖い目にあいそうな気がした。
「確かに。店先でする話じゃない。奥に行くぞ」
アニヤが先導し、3人は個室へと移動した。
受付担当は、それを見送った。
3人の姿が見えなくなると、受付担当はやっと安心したのだった。
個室のソファに腰かけると、早速キングは切り出した。
「ミドリ地区に紛れ込んだチビを探している」
「人探しか」
向かいに座ったアニヤが応じた。
お茶をテーブルに置いたアネモネが、アニヤの隣に座った。
キングが続けた。
「年は13歳。だが、もう少し下に見える」
キングは胸ポケットから、写真を取り出した。
アニヤが写真を手に取った。
アネモネが隣から覗いた。
「命を狙われている。できる限り早急に見つけ出したい。ミドリ地区に詳しいお前らの力を貸してくれ」
アニヤは写真から目を上げた。
キングが言った。
「これは仕事の依頼だ。アニヤの言い値で払う」
アニヤの片方の眉が上がった。
アネモネが、アニヤの持つ写真の縁に人差し指で触れながら聞いた。
「この子の名前は」
「ミカゲ」
キングはアネモネを見て、それから再び、アニヤに視線を戻した。
「まことの黒だ」
アニヤは、久しぶりに聞いたその言葉にハッとした。
アネモネは、口元に手を当てた。
懐かしくも苛烈な記憶が、二人の脳裏をよぎったのだった。




