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ミカゲ1

 その日、フロウは店で足りなくなった薬草を取りに、一人でアオウミの森を訪れていた。

 店の休業日なので、好きなことをして構わない日であった。しかし、フロウは店に薬草が切れている状態が、落ち着かなかったのだ。


 慣れたもので、フロウは丁寧だが手早く、必要な葉や根を採取していった。

 藤かごに、さまざまな薬草が集まった。フロウは、種類と数を確認した。


 ポツリと雨の雫が藤かごの薬草に落ちてきた。

 フロウが見上げると、雨雲が広がっており、次の雫が頬に落ちた。

 夢中になっていて、天気の変化に気づいていなかった。


 天気予報では一日晴れとのことだった。雨具を持たないフロウは慌てた。

 雨宿りと思った時、『岩の洞窟』のことが思い浮かんだ。

 同時に小さな胸騒ぎをおぼえたが、雨が本降りになってしまうという焦りが先に立った。

 フロウは『岩の洞窟』へと急いだ。


 鋭角の岩が突き出る坂を上る間も、雨の雫が落ちてくる間隔が短くなっていった。

 フロウは足早に進んだ。

 やがて、洞窟にたどり着いた。

 フロウが、洞窟に入ってすぐのところにある岩場に藤かごを置いたとき、ザーッという音とともに強い雨が降り出した。

 雨宿りが間に合ったことに、フロウは安堵の息を吐いた。


 フロウは藤かごの隣に腰を下ろした。

 洞窟の外は激しい雨だった。

 一息ついてその状況にいると、何とも言えない胸騒ぎが再び意識されるようになってきた。

 月を見上げた時の気持ちに似ていた。

 とても落ち着かない。目を逸らしたい。でも、見たくてたまらない。


 フロウが胸騒ぎを鎮めようと、胸元に手を当てた時だった。


 んん、というくぐもった声が、突然、洞窟の奥の方から聞こえてきた。


 勿論、人がいるなど思ってもみなかったフロウの心臓が、大きく跳ねた。

 本当にびっくりした。

 胸がドキドキして、体が冷たくなった。

 怖々と振り向いたが、ゴツゴツと突き出る岩場のせいか、薄暗いせいか、フロウには人影が見えなかった。


「どなたか、いらっしゃるんですか」


 フロウは、胸騒ぎどころではない恐怖をなだめながら、小さな声で問いかけた。激しい雨音に負けそうな声ではあったが、他に音のない状況では、十分に相手に届いたはずである。しかし、答えはなかった。


 フロウは意を決して、立ち上がった。恐る恐る、洞窟の奥の方へと歩いて行った。


 相手はすぐに見つかった。

 ほんの少し先の岩場の陰にいた。

 フロウの恐怖はずいぶん治まった。

 相手は子どもで、しかも気を失っていたのだった。





 陽光は雨雲に遮られ、洞窟の中は薄暗かった。そのためフロウには、その子どもの様子があまりはっきりとは見えなかった。

 10歳は越えているだろうか。華奢な少年だった。

 こげ茶色であろう髪の毛は無造作に伸び、目元や耳を隠していた。ボサボサの髪から覗く鼻筋や唇や顎の形からすると、整った顔立ちをしているのだろうと察せられた。

 黒いTシャツにカーキ色のワークパンツを身につけていたが、どちらも汚れていたり裂けたりしていた。

 Tシャツから伸びる腕にも、裂けたワークパンツから見える足にも、傷を負っていた。

 いまだふさがりきらず、血が出ている傷もあった。


 痛々しい様子に、フロウは眉を寄せた。


「あなた、あの、大丈夫?」


 フロウは少年に声をかけた。返事はなかった。

 先ほど声が出ていたので、死んではいないはず。フロウは岩場を回り込んで、少年の横に座った。脈を確かめようと、フロウは少年の首にそっと手を伸ばした。


 刹那、少年が動いた。


 フロウの手は少年の首には届かなかった。

 少年はフロウの手首を捕らえると、風のように身を起こし、もう片方の手に持つナイフをフロウに突き付けたのだった。

 フロウは、何が起きたのかよく分からなかった。

 激しい雨の音が続いていた。変わらない薄暗さの中、小さなナイフがフロウの目の前で鈍く光っていた。





 ボサボサの髪の毛のせいで、少年の表情は見えなかった。

 唖然とするばかりのフロウに、痺れを切らした少年が刺々しく言った。


「お前は誰だ」


 変声期前の声だった。

 フロウは、少年ができるだけ低い声を出そうとしている、と感じた。何となく、少年が精一杯の虚勢を張っている気がした。

 ナイフを向けているにも関わらず、少年からは怯えの方が強く感じられた。フロウ自身は不思議なほど、危機感をおぼえなかった。


「私はフロウ。この近くで薬師をしているの」


 少年の警戒心をほどくように、フロウはゆっくりと話した。フロウ自身も怖がりなので、見ず知らずの大人に対する少年の恐怖心には共感できた。


「アオウミの森へは、薬草を取りに。ほら、あっちに置いたかごに、薬草が入っているでしょう。全部、さっき採ったばかり。急に雨が降ってきたから、ここに逃げて来たのよ」


 少年は、フロウにナイフを突き付けたまま、入り口付近の岩場に置かれた藤かごをチラリと見た。


「声が聞こえて見てみたら、あなたが倒れてるから、びっくりしちゃった。体中、怪我だらけね。痛くない?」

「証拠は?」


 フロウの問いかけには答えず、少年は低く抑えた鋭い声で問い返してきた。


「何?」

「今、あんたが言った話の証拠」


 フロウは目をぱちくりとさせた。

 私がフロウである証拠。何だろう。


「ちょ、ちょっと待ってね、今考えるから」


 フロウは真面目に考え始めた。

 その様子に、少年はちょっと動揺した。

 おかしな間が流れた。雨音だけが変わらず響いていた。


 少しして、フロウがパッと顔を上げ、少年を見た。

 ナイフを持っている少年の方が、ビクッとした。

 その拍子に、少年はつかんでいたフロウの手首を離してしまった。


「あった、証拠!許可証のこと、忘れてたー」


 フロウは、ちょっとごめんね、と立ち上がり、藤かごの方へ歩いて行った。

 少年が止める間もなかった。知らぬ間に緊張感が失せ、脅している状況、という前提が崩壊していた。


 フロウは藤かごを持って戻ってきて、少年の前に座った。

 少年のナイフを持つ手はとうに下がっていたが、それにしてもナイフを突き付けられていたその場に、のこのこ戻ってくるとは、いかがなものか。

 少年は、フロウの警戒心の足りなさに呆れた。


 フロウはうれしそうに、薬草をかき分けて、藤かごの底からクリアパックを取りだした。スライドジップを開けてカードを出すと、少年に差し出した。


「はい。薬草等採取許可証です。国が発行しているから、立派な証拠でしょう?名前も所属も書いてあるのよ」


 あまりにも得意げなフロウの様子に、何とも言えない気持ちになって、少年はカードを受け取った。

 確かに、フロウの言った通りの内容が書いてあった。

 この程度、いくらでも偽造できるだろう、という話を持ち出すと面倒くさそうで、少年はさっさとカードを返却した。

 何となく、勝った、という晴れがましい気持ちでフロウはカードを仕舞った。


「あなたの名前は?」

「ミカゲ。あ」

「ん?」

「言っちゃった。言うつもりなかったんだけど」


 調子が狂ったように、少年ミカゲは頭をかいた。

 フロウは、そのやり取りに何か変な感触をおぼえ、首をかしげた。一体、何に引っかかったのか判然としなかった。実は古い記憶に触れているのだが、その記憶は封じ込められ、今はフロウの中で眠りについている。

 よく分からないので、変な感触についてはひとまず棚上げして、フロウはミカゲに尋ねた。


「何か事情があるのね。ここにも忍びこんだんでしょう」

「そういうこと。あんたは悪い人じゃないと思うけど、今日あったことは誰にも言うなよ。言ったら災いが起きる」

「分かった。私、昔から口は固いの。恥ずかしいけど、友達もいないから、言いふらす相手もいないし。安心してね」

「はあ」


 聞き様によっては悲しい個人情報を真剣に話すフロウに対し、ミカゲはすっかり肩の力が抜けた。

 力が抜けたら体のつらさが戻ってきて、ミカゲは岩に背を預けた。

 フロウはハッとした。


「血止めと消毒だけでも、していいかな?」

「え、うん」


 ミカゲはわずかにためらったが、フロウはてきぱきと動いた。

 藤かごに入っている薬草をより分け、必要なものを準備した。

 フロウはミカゲの傷を確認しながら、手当てをしていった。


「どんな事情か分からないけど、助けてくれる大人はいるの?」

「心配無用。周りは、あんたの100倍、頼れる大人ばっかりさ。もうすぐ合流できる」

「そんな大人たちがいるのに、こんな怪我?」

「人のヘマを追及すんな。無神経だな」

「ごめんなさい!でも、助けはいつ来るの?」


 フロウは一通りの手当てを終えて、ミカゲを見た。

 ミカゲは気だるい様子で答えた。


「人目を避けてる。あんたがここにいる限り、もう来ていても、出てこられない」


 フロウはぎょっとして辺りを見渡した。

 ゴツゴツとした岩ばかりが目についた。

 洞窟の外の雨は、気がつくとだいぶ弱くなり、もうすぐやみそうだった。


「雨がやんだら、出てってよ」

「あの、もし予定が変わって、何か困ったら、裏通りの古書店に来てね」

「ほら、雨がやんだ」


 ミカゲの言葉に応えるように、洞窟の中にまで、日の光が差し込んできた。

 フロウは眩しさに目を細めた。洞窟の外は、急速に雨が上がり、すっかり晴れ渡っていた。


「邪魔だ。行けよ」


 フロウはミカゲが気になったものの、そう言われては、立ち去らない訳にはいかなかった。


 フロウは藤かごを持ち、洞窟の入り口へと歩いて行った。


「フロウ」


 呼ばれてフロウは振り返った。

 ミカゲが立ち上がっていた。


「手当てのお礼に一言、言っとく。あんた、もう少し、人を疑うことをおぼえた方がいい」

「そうかな。うん。ありがとう」


 フロウは恥ずかしげに小さく頭を下げた。

 ミカゲは苦笑いしながら、頭をかいて言った。


「今、言ったこと以外は、全部忘れろ。ほら、出てけ」


 フロウは後ろ髪引かれる思いもしつつ、洞窟から出ることにした。

 その時だった。

 ミカゲが頭をぐしゃぐしゃかいた勢いで、ボサボサの髪の毛の隙間から、チラリと瞳が覗いた。




 その瞳を見たとき、フロウの全身に激震が走った。




 フロウの体は心の衝撃をそのままに、自動的に動いた。

 衝撃の正体を考えることもできないまま、洞窟を背に、岩場を下り、森を歩いて行った。


 あまりの混乱に、ミカゲのことが本気で頭から吹き飛んだ。

 今、自分がどこにいて何をしているのかを、フロウは見失った。


 慣れた体が、アオウミの森の入り口にある門番の詰め所で勝手に手続きをし、そのまま裏通りの古書店に帰っていった。





 あの瞳。

 あの黒曜石の輝き。





 フロウは、古書店にあてがわれた自室で、震える自分の体を抱き締めた。

 自分に何が起こっているのか、分からなかった。

 ミカゲの黒い瞳を見た途端、何かがはじけた。

 バラバラに壊れてしまわないよう、ただひたすら、フロウは身を小さくして自分を抱き締め続けた。



 どれほど時が経ったのか、フロウの恐るべき混乱は、ひとまず治まった。

 窓から見える空が暮れかかっていたので、フロウは我に返った。

 夕食当番の日であった。


 その日の夕食は味がしなかった。

 ひどい出来栄えの食事を、ハシマは残さず食べた。

 どこか上の空のフロウにハシマは気づいていたが、何も言わなかった。









 夜。自室でベッドに入ったフロウは、久しぶりの恐怖感に襲われていた。

 昼間の混乱から嫌な予感はしていたが、過去最大と言って差し支えないほどの恐怖だった。 

 涙が止まらず、体が震え、いても立ってもいられなくなってきた。

 助けてと叫びそうになり、我慢が限界を超えた。


 フロウはベッドから起き上がり、恐怖から逃げるように部屋を飛び出した。

 パジャマを着て裸足のまま、廊下の奥にあるハシマの部屋のドアを叩いた。


「どうぞ」


 落ち着いたハシマの声に飛びつくように、フロウはドアを開け中に入った。

 ハシマは、ゆったりとしたルームウェアを着て、ベッドサイドの揺り椅子に座り、本を読んでいた。

 ハシマは本から目を上げて、フロウを見て微笑んだ。


「ひどい顔をしてる」

「すみません。こんな夜更けに。でも、もうどうしても怖くて。ごめんなさい。怖いんです」

「今日は様子がおかしかったので、そんな気もしてました」


 ハシマは本をサイドテーブルに置いた。


「こちらへいらっしゃい」


 ハシマにうながされるまま、フロウは部屋の奥へ進み、ベッドに腰かけた。

 ハシマが隣に座った。

 フロウは泣きはらした目で、ハシマを見上げた。

 ハシマが優しい瞳で見ていた。


 怖い、怖いと繰り返しながら、胸に飛び込んできたフロウを、ハシマは抱き締めた。

 ハシマの手が何度も繰り返し、フロウの髪を撫でた。

 ひと撫でするごとに、フロウの恐怖は不思議なくらい鎮まっていった。


「大丈夫ですよ。僕のそばにいなさい。何も怖くはないから」


 ハシマの穏やかなささやきが、ひたひたとフロウに浸透した。小さなささくれまで、癒されるようだった。


 フロウはすっかり安心した。

 一人ではままならなかった恐怖が、短い時間で消え去っていた。

 何がそこまで怖かったのか、もはや分からなくなった。

 いつもながら、魔法のようだとフロウは思った。


「ありがとうございます。ごめんなさい。もう、怖くないです」


 フロウの中で、申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちが入り交じった。少し赤くなりながら、フロウはハシマから体を離した。


 ハシマがじっとフロウを見ていた。

 フロウは不思議に思って見返した。


「あの、ハシマさん?」

「フロウちゃん」


 ハシマの様子が、少し変だった。

 先程まであった穏やかさが消え、硬質な空気を漂わせていた。


「今日、あなたが切羽つまっていたことは分かります。分かるのですが」


 ハシマは真顔でフロウを見た。

 フロウは、やはり失礼だったのかと少し青ざめた。

 ハシマは硬い口調で言った。


「夜に男の寝室にパジャマで来るのは、不用心にもほどがある」

「すみません!本当に失礼しました!」

「全然、分かってない。いいんです。僕はいいんです。でも、他の男に対しても、そう不用心なのはいただけない。以前からちょっと気になっていたんです」


 フロウは話の筋道を追い切れず、不安なまなざしをハシマに向けた。

 ハシマは、いつもと違う目をしていた。

 その目が妙に男性的に感じ、フロウは落ち着かなくなった。

 ハシマは視線でフロウを射抜いたまま、言い切った。




「男の怖さを少しは知りなさい。これは、教育です」




 フロウの胸がドキンと鳴った。

 何を、と思う間もなく、フロウは腰からハシマに抱き寄せられていた。

 ハシマはフロウの後頭部の髪をつかむと、フロウの顔を上向けた。


 覗きこんでくるハシマの瞳は熱を孕み、先ほどまでとは違う震えがフロウの体に走った。 

 ハシマが見知らぬ男になってしまったかのようだった。

 反射的に逃げを打つフロウの体は、ハシマの腕の力によって押さえこまれた。


 さっきまでの優しい抱擁とは、まったく質が違っていた。

 フロウの胸は早鐘を打った。

 体中が熱かった。逃れようとする動きまで、なぜだか熱を高めた。

 フロウは、熱くてたまらくなった。


 ハシマの唇が迫った。

 それは、フロウの唇の横に落ちてきて、柔らかく触れた。

 ハシマの唇は、フロウの顎に滑っていった。

 フロウの顎を食むように、柔らかな唇が動いた。


 フロウの体中が鼓動した。全身が痺れ、訳が分からなくなった。

 ハシマは、フロウをベッドに押し倒した。

 フロウの瞳は、熱に浮かされて潤んだ。ハシマの色を乗せた目が見下ろした。


 そうしてハシマに見つめられると、フロウはもう身動きできなくなった。

 怖いのに委ねてしまいたい気もする、蠱惑的で危険で濃密な空気にフロウは圧倒された。


 ハシマは、小さく息を吐いた。そして、その妖しい目を閉じた。


 フロウは、目を閉じたハシマの、男としての顔を見ながら、ただ自分の鼓動を聞いていた。


 そのまま、何十秒か過ぎた。





 ハシマがゆっくり目を開けた。

 そこにいたのは、フロウがよく知るハシマだった。

 知らず知らず、フロウからホウッと息がもれた。




 ハシマは、フロウを支え、起き上がらせた。


「怖かったでしょう」

「はい」


 ハシマは穏やかな表情で言った。


「本当に怖い目に合わないように、以後、男性に対する接し方は、十分気を付けてください」

「はい」


 フロウは大騒ぎする心臓をなだめつつ返事をした。

 そうだ、これは教育と言っていた。フロウは、そうだそうだと頷いた。

 ハシマがおどけるように付け加えた。


「僕は別です」

「はい!」


 フロウは、いつも通りのハシマにほっとした。

 なので、いつもの信頼をもって、ハシマに重ねてお礼を言った。

 ハシマは温かく微笑んだ。

 そうして、フロウはドキドキの余韻を持ちながら、ハシマの部屋を出た。







 フロウの退室後、表情を消して、ぐったりと揺り椅子にもたれかかるハシマがいた。

 ハシマは、深いため息をついた。


 

 自分をほめたい。



 その日、寝付けないハシマの夜は長かった。

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