ミカエルの道
その朝、いつもは自分で起きてくるミカエルが、いつまでたっても起きてこなかった。
珍しいこともあるものだと、侍女が起こしに行った。
そして、ベッド脇の床で、昏睡状態に陥っているミカエルが発見された。
屋敷は大騒ぎになった。
ビヨンドが怒号を飛ばし、執事ドメスが大慌てで人を手配した。
すぐさま、医師が呼ばれたが、ミカエルに顕著な身体的異常は見つけられなかった。
お抱えの白魔術師が呼ばれ、ミカエルの状態を確認した。
魂が衰弱し、肉体から浮き上がっている、と看破した。
なぜこれほどまでの状態に、と焦りながら、お抱えの白魔術師が最初にしたことは、応援を呼ぶことだった。
合計5人の白魔術師が、ミカエルの枕元に張り付いた。
ビヨンドが、金に糸目はつけない、と言い切ったために実現した態勢だった。
5人は補助媒介をふんだんに使い、ミカエルの弱り切った魂を回復させ、肉体に定着させるよう施術した。
白魔術師たちが驚くような速さで、ミカエルは回復していった。
持ち前の生命力の強さが、それを可能にした。
ミカエルは、間もなく意識を取り戻した。
お抱えの白魔術師は、強大な魔力による干渉の可能性を示唆した。術をかけられた本人であるミカエルは何か気付いていることもあるかもしれないから、元気になったら話を聞いてみてはどうかと、ビヨンドに提案した。
ぐったりと身を横たえるミカエルに、ビヨンドはすぐさま容赦なく、何があったのかと問い詰めた。ミカエルは、しらを切りとおした。
お抱えの白魔術師は、いや、元気になってから、ともごもご口を動かしたが、ビヨンドの耳には入らなかった。
侍女頭ハンナに支えられ、リリスがミカエルの部屋を訪れた。ビヨンドが、青い顔をしたミカエルを問い詰める様子を見て、リリスは逆上した。
あなたのせいよ、あなたの悪行のせいで、ミカエルが呪われた、とビヨンドを罵った。
ビヨンドは矛先を変え、リリスのふがいなさを責め始めた。
目覚めてぐったりしているミカエルの前で、盛大な夫婦喧嘩が展開された。
医師と白魔術師たちは、ミカエルの体調を確認すると、ドメスに挨拶をし、そそくさと部屋を立ち去った。
ハンナが、奥様のお体に障りますので、と何度も止めに入ったが、夫婦喧嘩が終わることはなかった。
ミカエルは、疲れたので眠ることにした。
すぐに何も聞こえなくなった。
ミカエルは、ぐっすりと眠った。
数日後、驚異的な回復ぶりを発揮し、ミカエルは元気に登校した。
心配していたクラスメイトたちも、相変わらずのミカエルの笑顔を見て安心した。
放課後になった。
ミカエルは、小学校のバラ園を訪れた。
ミカエルの机に、いつの間にか手紙が入っていた。その手紙に呼び出された。
バラのアーチをくぐった先に、背の高い女の子がいた。
金髪のショートカットが、小さな顔によく似合っていた。
勝ち気な瞳には、見覚えがあった。
何度か全校集会の壇上に立っていた6年生の女の子だ、とミカエルは気がついた。
「来てくれてありがとう。私はアリア」
「バスケットボールクラブの部長さんですね」
「あら、知っててくれたの」
そうは言うものの、アリアにはどこか、自分は知られていて当然、という自信に満ちた様子があった。
今までの呼び出しとは、何やら雰囲気が違っていた。
アリアは、ハキハキとした口調で用件を切り出した。
「それで、わざわざ来てもらった理由なんだけど、ちょっと皆の前では、しにくい話があって」
「はい」
「4年C組のコイトだけど、私の妹なの」
ミカエルは驚いた。
言われてみると、似ているだろうか。
コイトは、4学年の中で、3大美人と呼ばれるうちの一人だった。
長い金髪を編み込みしていることが多く、アリアのショートカットとは印象が異なっていた。
しかし、勝気な瞳は、確かに似ているようにも思えた。
「コイトちゃんのお姉さんでしたか。ごめんなさい。知りませんでした」
「そっか。わりと、皆知っているんだけどな」
アリアは、腕組みをして首をかしげた。
友達のノーマが聞いたら、そんなことも知らなかったのか、と呆れるだろうと思い、ミカエルは苦笑した。
「まあ、いいや。コイトは前に、ミカエル君に告白してふられたでしょ」
「はい」
「コイトのこと、もう一回、考えてみてくれないかな」
ミカエルは、もう一度驚いた。
思いもよらない用件だった。
アリアは、揺るがない姿勢で言った。
「誰のことも同じに好きだから、つきあえないんだよね。じゃあ、逆に、最初は誰でもいいんじゃないの?つきあうって何をすることか分からないって聞いたけど、コイトがそれを教えるよ。つきあってみてから好きになることもあるからさ。試しにコイトとつきあって、それでダメならコイトが諦めるってことで、どう?」
ミカエルには、ピンとこないことだらけだった。
矢継ぎ早の提案に、ミカエルはポカンとしていた。
アリアは、押してきた。
「こういうのも経験だって。デートくらいしておきなよ。別に、長いことつきあえって言ってるわけじゃないし。何回かデートしてみて、コイトのことが気に入らなかったら、そう言ったらいいんだから」
アリアは腰に手を当てミカエルを見下ろし、更に言った。
「断らないでくれたら、うれしいな。ミカエル君も学校生活、面倒なことにしたくないでしょ?」
ミカエルは、三度驚いた。
自分は今、もしかして、脅されているのか。
初めての体験だった。
内容が内容なので、何とも形容しがたい気持ちにさせられた。
ミカエルはため息をついた。
アリアはムッとした表情になった。
「何よ。気に入らないの?」
「コイトちゃんが僕に告白してくれた時、僕は、特別に人を好きになる気持ちが分からない、と伝えました」
「そう聞いてる」
「でも、今は分かるんです」
「ええ!好きな子、できちゃったの?」
アリアは慌てた。
ミカエルは首を横に振った。
「違います。でも、知ったんです」
ミカエルは、自分の内側で、メルトの記憶をなぞった。
記憶に残るその感覚は、熱く、狂おしく、たった一つのベクトルを描いていた。
「コイトちゃんは、僕にとって、そういう対象にはなりません」
「よく知りもしないで!」
「ごめんなさい。そういうことを、無理に知るための時間も、僕にはもうないんです」
ミカエルは、恋情を知った。
だから、自分にそれを向ける女の子たちの痛みも、以前よりずっと理解できた。
ミカエルは、誠実さをもって、それに答えようとした。
「僕には、やるべきことがあります」
自分の考えをまとめるように、ミカエルは言葉を区切った。
真剣なミカエルの様子に、アリアは戸惑いをおぼえ、口をつぐんだ。
「僕は、たくさんのことをこれから学びます。そして、心と体を鍛えます。自分が大事に思うものを、守ることができるようになるには、今の僕では、まだまだ足りないんです」
ミカエルは自分の手のひらを見た。
メルトより、ずっと小さかった。
「自分のために時間を使いたいんです。わがままでごめんなさい」
ミカエルは頭を下げた。プラチナブロンドの髪が風に吹かれて揺れた。
アリアはたじろいで、黙った。
ミカエルは、顔を上げて付け加えた。
「あと、もう一つ」
「何よ」
「僕はもうすぐ、ゴルド小学校を去ります」
「え!」
アリアの予想を裏切ることばかりだった。
ミカエルは、申し訳なさそうに言った。
「しっかりと学べる場に行く予定です。ここの皆のことが好きだったのですが」
ミカエルは、迷いのない信念を持ってそこに立っていた。
アリアは瞬間的に、負けたと感じた。
それは、バスケットボールの試合でふと湧き上がるような、勝敗の感覚だった。
「もういい。分かった。あなたは、コイトじゃ無理。じゃあね」
アリアは、いさぎよく背を見せた。
ミカエルは、その背に声をかけた。
「アリアさん、今回のことは、コイトちゃんに頼まれたんですか?」
アリアは体半分だけ振り返り、答えた。
「恥ずかしい話だけど、賭けトランプに負けて、コイトの言うこと聞いてんの」
隠さず暴露したアリアの言葉に、思わずミカエルは吹き出した。
「姉妹って、そういう感じなんですか」
「そんなもんよ。くだらないことに巻きこんで悪かったわ」
「いいなー」
「そう?」
アリアは不思議そうな顔をした。
ミカエルは笑いながら言った。
「なんだか、うらやましいです。あと、僕にもし時間があったなら、アリアさんがしかけてくる面倒事、体験してみたかったです」
アリアは今度こそ目を丸くした。
「変なこと言うのね」
「アリアさんとは、仲良くなれた気がします」
不意打ちの言葉に、アリアの胸がドキンと鳴った。
ミカエルの屈託のない笑顔は、文句なしに魅力的だった。
慌てて、じゃあねと繰り返し、アリアはその場を後にした。
その場を離れても、余韻のように、アリアの胸は少し早く鼓動していた。
あれはコイトでは無理だ、と繰り返し頭をめぐった。
ふと、じゃあ私なら、という思いがよぎった。
そんな自分に驚き、アリアはショートカットを両手でくしゃくしゃと乱した。
もし、バスケットボールクラブの上級生たちでミカエルを囲んだら、あっという間にファンクラブにされてしまうかもしれない。
そこまで考え、アリアは思考停止した。
うん。とりあえず、コイトにはきっぱり諦めなさいと言おう。
その結論だけを胸に、アリアはクラブへと向かったのだった。
バラ園に残ったミカエルは、バラ園の奥に歩き出しながら、声をかけた。
「ガーディさん、いるんでしょ」
「はい」
バラの垣根の奥から、剪定鋏を持ったガーディがひょっこりと現れた。
「足音が出てしまうから、立ち去るわけにもいかなくて」
学校の雑用を担う老人ガーディは、小さく頭を下げた。
「いいのいいの。それより、僕、ガーディさんに用があったんだ」
「私に?」
「聞きたいことがあって」
ミカエルは、アリアとのことはさておき、ガーディに聞きたかったことを質問をしていった。
ガーディは不思議に思いながら答えていった。
ガーディはやがて、ミカエルの真意を知った。
「ありがとう、ガーディさん」
ミカエルは満足そうに微笑んだ。
ガーディは、ミカエルの変化に気がついた。
「ミカエル、大人になったもんだ。急だから、驚いてしまうけれど」
「そんなことない。まだ何もできない子どもだよ」
「いやいや、立派だ」
それじゃ、急ぐからまたね、とミカエルは慌ただしく走って行った。
ガーディは、バラの垣根に消えていくミカエルの後ろ姿を見送った。
アリアのことから、今ミカエルが去るところまで、老人のガーディには、あまりにも目まぐるしく感じられた。
若々しく生き生きとした生命力、はじけるようなエネルギーは、すでにガーディにはないものだった。
ガーディは時々ミカエルから、両親に感じる不安について話を聞いていた。
両親に対する心配事で、ミカエルの成長が妨げられるのではないかと、ガーディは懸念していた。
しかし、今日のミカエルの様子を見て、ガーディは自分の懸念を捨て去った。
ミカエルのまなざしは、すでに親を超えた遠くを見ている。
ガーディは、天を仰いだ。
ミカエルの瞳によく似たスカイブルーがまぶしかった。
ミカエルが力強く、垣根を越えて飛び立つことを、ガーディはもはや疑わなかった。
その夜、ビヨンドの書斎に、親子3人が集まった。
応接セットの一人掛けソファに、ビヨンドとリリスが隣り合わせで座った。
ミカエルは、その向かいのソファに座った。
ドメスとハンナが壁際に控えていた。
2人に話したいことがある、とミカエルがお願いし、実現した席だった。
このように3人そろって向かい合うことなど、一体いつ以来のことなのか、誰も思い出せなかった。
リリスは不安な表情で、ひざ掛けを何度も引き上げた。
リリスがビヨンドの書斎にいることが、すでにまれなことであった。
ビヨンドに話があるときは、大体、リリスはビヨンドを自分の寝室に呼びつけた。
リリスは落ち着かない様子で、書斎を見まわしたり、ミカエルを見たりしていた。
ビヨンドは、不機嫌な顔をしていた。
リリスとは煩わしいケンカの真っ最中である。
ミカエルは、昏睡に陥った件について、何かありそうなのに口を割らない。
後ろ暗いことがあるため、リリスの言葉ではないが、自分の公私の所業が関連しているかのと、少し疑ってもいるビヨンドであった。
そこが明確にならないのでは手の打ちようがなく、何とも不快であった。
「今日は一体、何の用だ。この間、死にかけた件か。何かあるのなら、はっきり言いなさい」
しびれを切らして、ビヨンドが口火を切った。
ミカエルは、十分に落ち着いて、真剣に話し始めた。
「はい。今日は、お父様とお母様にお願いがあって、お呼びしました」
「お願いだと」
ビヨンドはにらむように、目を細めた。
リリスはひざ掛けをギュッと握り、眉をひそめた。
二人とも、夫婦関係に口出しをされるのか、という思いが頭をよぎったのだった。
ビヨンドとリリスの緊張を受け、部屋の空気が張りつめた。
壁際のドメスとハンナの足に、いつでも動けるよう、力が入った。
ミカエルは、二人を見ながら、意志をこめて伝えた。
「イデアメル国へ留学させてください」
ビヨンドにとって、まったく思いがけない話だった。
無論、リリスも驚いた。
誰もが身構えていた話題との違いに、部屋の空気が緩んだ。
ドメスとハンナの足からも力が抜けた。
「急だな。どういう風の吹きまわしだ」
ビヨンドは気持ちを立て直して、ミカエルに真意を問いかけた。
ミカエルはビヨンドを見て、力強く頷いた。
「信じてもらえないかもしれませんが、聞いてください」
「話してみろ」
「先日、僕は一度死んで、神様の国へ行ったのです」
ビヨンドとリリスは、ぽかんとした。それからすぐに、我が子の気がどうかしてしまったのかと、一瞬、危ぶんだ。
だが、ミカエルの様子は正常にしか見えなかった。
とりあえず、二人とも話を聞くことにした。
ビヨンドが話の先をうながした。
「それで」
「はい。神様にお叱りを受けました。なぜ、もっと己を鍛えようとしないのかと。お前は恵まれた環境に甘えている。今のまま、ただ無為に過ごすのならば、与えた力をすべて返してもらうぞ、と神様はそうおっしゃいました」
ミカエルは、あくまでもまじめな顔で話した。
神様、というのがどうにも引っかかるが、先日、昏睡にまで至った事実があるため、ビヨンドは最後まで話を聞くことにした。
「神様は、僕を見守り期待していらっしゃるのです。大きな何事かを成し遂げなさいと。神様の国から帰された僕は、生まれ変わった僕です。考えました。そして、決意しました。お父様とお母様のもとを離れ、厳しく学ぶのだと」
現実的なビヨンドは、神様、というくだりを、ひとまず無視することにした。
なにしろミカエルの変化は、ビヨンドにとって好ましい方向性のものであった。
ビヨンドは尋ねた。
「なぜ、イデアメル国へ?何を学び、何を成し遂げるというのだ」
ミカエルは、正念場とばかりに腹に力を込めた。
「イデアメル国は、先進国でありつつ、さまざまな技術革新が著しい、今もっとも活気のある国です。基本的なことだけではなく、最新の学問が学べます。また、多くの国から留学生が来ているので、世界情勢を肌で知ることもできます。僕は、そこで、経済を学びたいのです」
「経済だと?」
「はい。お金のことです。経営や金融も。僕は恵まれ、財を持ち、今後それを動かす立場になります。お父様がそうおっしゃった。僕は、その財を活かしたいのです。お金を持つということを、正しく理解したい。そして、財を大きく育て、守り、そののちに志あることに使いたいのです」
ミカエルは、メルトとなった時に、シェイドの経験や記憶ともつながったことで、貧困の中で生きる人々を知った。
同じ人間のはずだが、まったく違う世界に生きる人々だった。
衣食住を手にするための金がないことが生む暗闇を、ミカエルは肌身に染みて知った。
金がある、ということは、非常に強い力を持つということなのだと、ミカエルは深く理解したのだった。
「ふん。悪くない。イデアメル国、というのも、目の付けどころがいい」
ビヨンドの反応に、ミカエルは内心、ほっと一息ついた。
広い世界について学びたいという希望を持った時、ミカエルは正直、どこの国がふさわしいのか、よく分からなかった。
そこで、ゴルド小学校の雑用係を務めるガーディに質問をした。
ガーディは、学校が長期休みに入ると、珍しい草花の買い付けのために、世界中を駆け回っていた。そのため世界情勢に詳しく、これまでもしばしばミカエルに外国の話をしてくれていた。
そのガーディが、イデアメル国を教えてくれたのだった。
「いつからと考えている」
ビヨンドが聞いた。そこに前向きなニュアンスをかぎとって、ミカエルは身を乗り出した。
「来月からでも」
ビヨンドが鼻で笑った。
「今のクラスでの人脈はどうした」
「今月中に何とかする。何しろ、天啓だから」
「なんだ。適当だな」
もっともらしく言うミカエルに、ビヨンドは思わず吹き出した。
「面白い。やってみるがいい。ついでに、5ヶ国語くらいは身につけてこい」
「ありがとう!お父様!任せておいて!」
ビヨンドは、神様については触れてこなかった。
ミカエルは、それにもホッとした。
先日の昏睡について、何かミカエルが知っていると考えるビヨンドを、煙に巻いてしまいたかった。
神様の話を信じたかどうかはともかく、昏睡から目覚めた後のミカエルを、ビヨンドがよしと認めたことで、昏睡の理由自体はうやむやにできそうな雰囲気だった。
「私は嫌よ」
それまで黙っていたリリスが、硬い声で言った。
少しずつ温まっていた空気が、途端に凍りついた。
ビヨンドの表情も一瞬で苦々しいものとなり、隣のリリスを冷たく見下ろした。
「何が嫌なんだ」
「まだ小さいうちに親元を離れるなんて!」
「くだらない」
「あなたは子育てに関心がないから!」
「お前も育ててないだろうが」
「私は毎日、ミカエルと話しているわ!それがなくなるなんて、耐えられない!一緒にいられないなんて!」
リリスは青ざめ、ひざ掛けをきつく握っていた。
ビヨンドは再び声を荒げようとした。
ミカエルがそれより先に、リリスに話しかけた。
「お母様。神様が教えてくれました。僕は一生、お母様の息子です。どれだけ離れても、ずっとつながっているのです」
「ミカエル」
リリスの瞳と声が潤んだ。
ミカエルは、ビヨンドに口を挟む隙を与えず、リリスに真摯に話しかけた。
「お母様のおかげで、僕は、体調のすぐれない人の抱える苦しみを知りました。僕は強い大人になるつもりです。でも、人の抱える弱さや痛みを、分かってあげられる気がするんです。お母様が教えてくれたからです」
リリスはボロボロと涙を流した。
「寂しいわ」
「手紙を書きます」
「とても寂しい」
「会いに帰ってきます」
「ミカエル、寂しい」
「大好きです、お母様」
ビヨンドが嫌な顔をしつつも、リリスにハンカチを差し出した。
リリスは受け取り、涙を拭いた。
涙は後から後から流れた。
ミカエルは、柔らかな表情で続けた。
「僕は、我慢しているお母様より、さっきみたいに、嫌だって言ったり、お父様とケンカしたりするお母様の方が、ずっとステキだと思うよ」
「余計なことを」
「だって、本当のことだもん」
苦い顔をしたビヨンドに、ミカエルは笑って言った。
リリスは少し驚いた様子でミカエルを見ていた。
「ステキ?」
「うん。手紙にも、お父様への文句、書いてね」
ミカエルはにっこりと鮮やかに笑った。
リリスも思わず笑ってしまった。
「いいのかしら」
「好きにしろ」
ビヨンドが呆れ顔で言った。
話し合いが終わる頃、ビヨンド、リリス、ミカエルの3人ともが笑っていた。
ミカエルは、準備が整い次第、イデアメル国に留学することが決まった。
ドメスは、この家族3人がそろって心から笑う姿を見られるとは思ってもみなかった。
ハンナも同様で、奇跡だと思えたほどの出来事だった。
ドメスとハンナは、本当にミカエルは神様に見守られている太陽の子だと思った。
こうして、ミカエルの次の扉は開かれた。
ミカエルは、遠くにいるシェイドとフロウに呼びかけた。
僕は行くよ。
決意表明だった。
ミカエルは自分の意志で、力強く、我が道を歩き始めたのだった。