真夜中の決戦
ヒルダは、自分を抱きかかえる男の感触に、すっかり気をとられてしまっていた。
そのため、連れ出された狭い部屋で待機していた面々に、気づくのが遅れた。
アニヤとアネモネは微妙な表情を浮かべて、キングに抱えられるヒルダを見ていた。
「ヒルダ、本当にいた」
「見ろ。あのうれしそうな顔」
「見たことないわ」
「この短時間に、このシチュエーションで、何であんな顔させられるんだ」
「キングだからよ」
「キングだからか」
ささやき合うアニヤとアネモネを見て、キングは苦い顔をした。
「背筋の凍るようなヒソヒソ話はやめてくれ。」
キングは、ヒルダを拘束する手を離し、ぽんっと軽く皆の方に押し出した。
ヒルダは、やっと自分を取り巻く状況に気がついた。
「アニヤ!アネモネ!何でお前らが?あ!クソババア!」
キングに口をふさがれたせいで、塗り直した口紅は崩れ、頬にべったりと伸びていた。
ヒルダの様相は、金庫バアの部屋を出て行った時と、まるで同じようになっていた。
金庫バアは、目をつり上げ、足を踏み鳴らして、ヒルダの元へ歩いた。
「この、大たわけ者が!」
金庫バアは、ヒルダの腕を引っ張って前のめりにさせ、その頭にげんこつを落とした。
「痛ああああい!ふざけんな!クソババア!」
ヒルダは痛む頭を抱えながら、吠えた。
金庫バアは仁王立ちで応じた。
「ふざけてるのは、お前だ!まんまと四ツ辻の肉屋のところにいるとは!」
「うるせえ!てめえが出てけって言ったんだろうが!」
「たった一晩も、まともに暮らせないのか!どれだけバカなんだ!」
「全部、てめえのせいだ!てめえが何もかも悪いんだよ!」
「それがいい年した大人のセリフか!」
「だまれ!クソババア!」
金庫バアとヒルダの口げんかは、矢継ぎ早に続いた。
ギルが、アニヤにチラリと目配せをした。
アニヤは小さく頷き、キングに視線を送った。
キングはわずかに手を上げ、意を受けたことを伝えた。
キングとアニヤは、同時に動いた。
「金庫バア、俺たちには、やるべきことがあります。ヒルダのことは後回しにしてほしい」
アニヤが口火をきった。
「ヒルダ、その辺にしとけ」
キングが続いた。
金庫バアとヒルダは、一瞬、黙った。
その隙を、見逃す二人ではなかった。
「金庫バア、現状確認しよう」
アニヤは、金庫バアの手を引いて、ヒルダから引き離した。
「ヒルダ、お前はこっちだ」
キングがヒルダの背に手を当てると、ヒルダはまったく逆らわずに応じた。
金庫バアとヒルダは、引き離されて落ち着きを取り戻した。
ヒルダは顔を上げ、問いかけた。
「あんた」
「キングだ。おぼえているか?」
キングがヒルダに答えた。
ヒルダは、すぐには理解できず、ひどく幼い顔でキングを見返した。
キングは、ヒルダの顔についた口紅を、拭いとってやった。
「アニヤとアネモネのチームのキングだ。死にかけたが、あそこにいるギルに助けられた」
ヒルダは驚愕に目を見開いた。
「あのキング?」
「そうだ」
キングが答えた瞬間、ヒルダのまなじりから、ポロリと一滴、涙がこぼれた。
キングは途惑った。
「何だ、泣いてんのか」
「キング」
ヒルダの声が震えた。
「生きてたの、生きてたのね」
キングは、ヒルダの頭にポンと右手をのせた。
「泣くなよ。どうした」
ヒルダにとって、頭の手のぬくもりは、泣き止ませるには逆効果だった。
ヒルダはほろほろと泣きだしながら言った。
「あんたは特別な子どもだったから」
ヒルダは、ひっくひっくと嗚咽をもらし始めた。
「あんただけだったから。あたしに、普通にしてくれたの。あんただけだったから」
何もできないヒルダが、組織で子どもたちの世話役についたのは、18歳の時だった。
すっかりひねくれていたヒルダは、子どもたちに対して、とても意地悪だった。
子どもたちを突き放し、悪態をつき、気まぐれにひいきし、気分によって無視した。
結果、子どもたちは、ヒルダの顔色を見るようになった。
「皆、バカなあたしのことが嫌いで、ビクビクしたり、ご機嫌とりしてきたり、かげ口言ったり、そんなんばっかりで」
ヒルダは、えぐえぐと泣きながら話し続けた。
「でも、あんただけは、すごく普通だったから」
嫌われ者として定着したヒルダに対し、キングはごく普通に話しかけるただ一人の子どもだった。
何の含みもなく、自然に話しかけてくるキングに、ヒルダはいつしか心を許した。
一回りも年の違う子どもに、あんまり意地悪するな、と諭されることさえあった。
ヒルダがイスに座ってふてくされている時など、キングに頭をなでられたこともあった。
そんなふうに、ヒルダに自然に触れてくるのも、キングだけだった。
「あんたが死んで、あたしはものすごくさみしくなった」
ヒルダの絶望は、誰にも気づかれなかった。
キングが死んで、ヒルダの行為は悪質で卑劣な方向へ突き進んでいった。
ヒルダは、余計に嫌われ、憎まれ、うとまれた。
ヒルダは、どうしようもなく孤独だった。
「それは、悪かった」
キングが心底申し訳なさそうに言った。
ヒルダの頭に乗せた手をポンポンと動かして、顔を覗き込むようにしながらキングは話しかけた。
「今は時間がない。俺に対する文句は、後で必ず聞く。頼むから泣き止んで、あの部屋であったことを教えてくれないか」
ヒルダはごしごしと目をこすりながら、頷いた。
そんなヒルダを見て、金庫バアは目を伏せた。
ギルがその背に手を当てた。
キングとヒルダのやり取りを見ていたアニヤとアネモネは、そろってため息をついた。
「恐ろしい男だな」
「さすが、キングね」
「かなわない。が、うらやましくはない」
「アニヤ、聞こえてるぞ。文句も聞くが、お前に限っては、後で殴る」
キングの鋭い視線を受け、アニヤは肩をひょいと上げてみせたのだった。
ヒルダは、涙声ながら、見たものについて話し始めた。
カラカラがナイフで切られたという話になると、アネモネは口を両手で覆った。
メルトっていういい男が、と話す時には、なぜだか、申し訳なさそうな表情で、キングをチラリと見たりもした。
ヒルダが話し終わった。
金庫バアは腕組みをしながら、イライラした様子で言った。
「要領を得ない。まるで、なぞなぞだ。誰か補足しな」
ヒルダは、ムッとした。
キングが口を開いた。
「さっき、俺が見た状況も付け加えよう」
部屋の広さや物の配置、中にいた人物の状況などを、キングは明快に伝えた。
ギルは、鉄扉の中を見通すように、目を細めて言った。
「力のうねりの一つは、まことの黒か。シェイドの力が開かれている。すなわち、メルトは、シェイドの別の姿。シェイドに、まことの黒が作用した結果なのだろう」
金庫バアが頷いた。
「四ツ辻の肉屋とメルトの膠着状態は、あまりよくない信号だね。何かの交渉か」
金庫バアは、肉屋の外に置いてきたバズーカ砲の代わりに、腰のホルダーからハンドガンを取り出し、構えた。
「キング、仕切りな」
金庫バアの命に応じ、キングが声を上げた。
「アニヤが出ろ。だが、出すぎるな。危険があれば、すぐに引け。アニヤが来ているのだ、ということを、シェイドとタタに分からせるだけでいい」
アニヤは頷き、剣の鞘に触れた。
キングは続けた。
「ギルさんと金庫バアと俺は、垂れ幕の内側から状況を確認し、次の手を打つ。アネモネとヒルダは中に入らずここで待機。異変を感じたら、迷わず逃げろ」
アネモネもヒルダも、異論を挟まず頷いた。
キングが鉄扉を押し開け、窺いながら中に入って行った。金庫バアとギルが続いた。
アニヤは、アネモネを振り返った。
「アネモネ」
「うん」
「ちょっと、ここが痛い」
アニヤは口元の傷を指さした。
アネモネは、目をぱちくりとさせた。
「痛いから、少しだけアネモネがほしい」
アネモネは、なぜだか少し、泣きたい気持ちになった。
アネモネは、アニヤのまっすぐなまなざしを飲み込むように、ゆっくりと一度まばたきをした。
それから、アニヤに駆け寄った。
アネモネは、アニヤの首に腕をまわし、その口元の腫れた傷に唇を寄せた。
ほんのわずかな時間が過ぎた。
アネモネの柔らかな唇が静かに離れると、アニヤは小さく笑った。
そして、アニヤは何も言うことなく、素早く鉄扉をくぐって行った。
アネモネが唇に手を当てると、手に血がついた。
アニヤの血だった。
アネモネは、祈るように胸の前で手を組んだ。
ヒルダは二人を見て、爪を噛んだ。
それから鉄扉を見つめ、アネモネと同じように、胸の前で手を組み祈ったのだった。
天井から吊り下げられた鳥かごの中で、タタは震え泣いていた。
一時のひどい混乱が収まると、タタは泣きながら話し始めた。
「メルト、シェイドだろ。お願いがある」
メルトは、鳥かごの柵を片手で握り、もう片方の手でタタの手を握ったまま、気遣わしげに応じた。
「何だ?何でも言ってくれ」
タタは、一度ためらった後、大きく息を吸って言った。
「俺を殺して」
メルトは衝撃を受けて、目を見開いた。
「何言ってるんだ」
タタは、泣きながら訴えた。
「お願いだ。もう、さっきみたいな恐ろしいことには耐えられない。気が狂ってしまう。怖いんだ。それに、あいつに、俺の体を渡すのも嫌なんだ。ただの一かけらも、あいつに渡したくない」
「タタ」
「俺の全部を殺してよ」
「タタ、できない」
「頼む。俺のまま死にたい」
「できない」
「お願い、殺して」
泣いて懇願するタタに、メルトは激しく揺さぶられた。
打ちひしがれる姿も、泣いている声も、そのすべてがメルトの心を切り裂いた。
タタを失うことなど考えられなかった。
「どうするか決めたのかい?あんまり遅いと、削る方向に走っちゃいそう」
四ツ辻の肉屋が、灰色の靄を手に絡ませながら問いかけた。
「大事な人が苦しまない選択をお勧めしますが、いかがでしょう」
メルトは、四ツ辻の肉屋への憎しみと、タタの言動による衝撃が混ざり合い、思考が定まらないほど動揺していた。
「委ねてくれたら、怖い思いはさせないよ。黒い力を私に譲り、皆さんお揃いで夢の中。君たちの関知しない世の中は、自らの望み通りパーンとはじける。私も気が済んだら、おとなしくなる」
四ツ辻の肉屋は、自分のシナリオを話し出した。
「黒い力の本体にしても入れ物にしても、死んでしまうと黒い力が消滅してしまう。いつでも黒い力が使えるように、二人とも生かしておかないといけない。黒い力を抜いた後の本体も大事にします。黒い力を入れておく体も大事にします。皆さん、安全なかごの中。いい夢を見て、幸せに眠ったまま、寿命まで生きられることを保証します。悪い話じゃないと思うんだけどな」
メルトは揺れた。
苦しむタタを見かねていた。
ましてや、タタが死ぬことなど、決して受け入れられなかった。
メルトは、身勝手な四ツ辻の肉屋を心底憎んでいた。
この憎しみ、怒りを脇に置いて、正しい選択をしなければならない。
あいつをぶちのめしたい。
しかし、殺してしまうと、タタが死んでしまう。
ならば、それは選べない。
選べないというのなら。
メルトは四ツ辻の肉屋を見下ろした。
四ツ辻の肉屋は、血まみれの口元を吊り上げて、笑った。
四ツ辻の肉屋を選ぶしかないのか。
突然、地下室入口の方から、大きな声が響いて来た。
「失礼します。金庫バアの名代のアニヤです」
メルトは驚いて、垂れ幕を背に立つアニヤを見た。
タタが、アニヤの声に反応し、ガバッと身を起こした。
アニヤは、タタの顔を見て、ニッと笑った。
タタは、あれほど握りしめていたメルトの手を離し、鳥かごの柵を握り、身を乗り出した。
「うちのガキどもが、お邪魔して、ご迷惑をおかけしました。引き取って帰ります」
アニヤは、よく通る強い声で四ツ辻の肉屋に言った。
四ツ辻の肉屋は、顔を歪めた。
「さっきから、術が乱れると思えば。お前の仕業か」
四ツ辻の肉屋は、いら立ちを示し、薄暗い靄をたぎらせた。
アニヤは淡々と言った。
「返してください。うちの子たちだ」
あれほど絶望していたタタの頬に赤みが戻った。
理屈ではなかった。
エースチームのアニヤは、タタにとって、絶対の信頼であり、安心そのものだった。
タタの抱いた希望は、メルトを混乱から解放した。
それは、四ツ辻の肉屋にとって、最も望まない状況だった。
事態は激しく動き始めた。
「邪魔だ!」
四ツ辻の肉屋は、招かれざる客に、初めて激昂を見せた。
地下室の床は、メルトとの戦闘でずいぶん崩れて形を変えていた。
しかし、形を残す魔法陣が、四ツ辻の肉屋の叫びに応じた。
3つの魔法陣から、灰色の靄が立ち上った。
そして、その中心から、血色の肉が盛り上がってきた。
見る見るうちに、それは3体の人型の異形となった。
それらは、これまでに出会ったものと、形はまるきり同じであった。しかし、性質は異なっていた。
人型の異形は、間合いに入ることを待たず、アニヤに向かって歩き始めた。
「アニヤさん!」
メルトがタタの鳥かごを離れ、飛び降りた。
タタも、目を凝らして、新たな化け物とアニヤを見た。
人型の異形の移動速度は、速くはなかった。
アニヤは、ボコボコと歪む足場を器用にとらえ、右手の壁に向かって走って行った。
アニヤは剣を抜いた。
追いついて殴りかかってくる一体の人型の異形に、アニヤは体を向けた。
人型の異形の拳を、アニヤはすんでのところでかわした。
その拳は、アニヤの後ろの壁にめり込んだ。
アニヤは拳の側に回り込んで、横から人型の異形の首に、剣を叩きこんだ。
固まっていた拳に対し、人型の異形の首は、肉の柔らかさを保っていた。
アニヤの剣は、人型の異形の首を斬り落とした。
アニヤの息は激しく乱れた。
恐るべき集中力を要した。
体中から汗が噴き出た。
この集中力が長時間持つとは思えなかった。
しかし、アニヤは強固な意志で次の敵を見据えた。
メルトは、殴っても切り裂いても向かってくる人型の異形に戸惑っていたが、アニヤを見て、戦い方を理解した。
四ツ辻の肉屋は、次から次へと、人型の異形を呼び出した。
メルトの攻撃によって、人型の異形は数を減らしたが、その分また増えるので切りがなかった。
アニヤの疲労が大きかった。
メルトはアニヤの傍を離れるわけにはいかなかった。
その時、垂れ幕の内側から、射撃音が響いた。
タタの鳥かごの上部に当たり、ゴフッという妙な音を立てた。
メルトが何をしても動かなかった鳥かごが、初めてかすかに揺れた。
タタは、柵に取り付いて、身を縮めた。
四ツ辻の肉屋は、直接攻撃を受けていないにも関わらず、口から血をあふれさせていた。
鳥かごへの攻撃に、四ツ辻の肉屋は血反吐を飛ばしながら激怒した。
「また邪魔者か!」
四ツ辻の肉屋から放たれた灰色の靄が、垂れ幕を引きずり下ろした。
幕が落ちると同時に、金庫バアの構えたハンドガンが、再び火を噴いた。
鳥かご上部の、また別の場所に当たり、再びゴフッという音が鳴った。
四ツ辻の肉屋が、ゴムまりのように、金庫バアに向かって飛んだ。
金庫バアの後ろのギルが、左手で空中に紋様を描き、それを飛ばした。
「ぎゃ!」
四ツ辻の肉屋は、空中で壁にぶつかったかのように墜落した。
キングは、黒い光をまとうサバイバルナイフを持ち、人型の異形の横をすり抜け走った。
人型の異形が次々現れてくる魔法陣の一つに、キングはたどり着いた。そして、その中心に、おもむろにサバイバルナイフを突き立てた。
頑丈な石造りにも関わらず、サバイバルナイフの刃は、深々と床に食い込んだ。
黒い光が走り、魔法陣の紋様を塗りつぶした。
魔法陣は沈黙した。
キングは、サバイバルナイフを引き抜き、次の魔法陣を目指した。
四ツ辻の肉屋は、体中から灰色の靄を立ちのぼらせながら、金庫バアとギルをにらみつけた。
「黒い力がもう一つ。だが、輝きは鈍く、比べてしまうといらない。むしろ邪魔してくるから本当にむかつく」
ハンドガンを構え、鳥かごを狙い続ける金庫バアに、ギルは後ろからささやいた。
「約束を守れなくても、許してくれ。シメーヌ」
金庫バアは、わずかに眉をひそめた。
ギルは、ここで初めて金庫バアの前に出た。
ゆっくりと足場をたどり、肩を怒らせて立つ四ツ辻の肉屋の前に歩いて行った。
「薄曇りの暗さよ。私では不服かもしれないが、ともに行かないか」
「古く黒い力。お前にはむかつくだけだ」
四ツ辻の肉屋から出る灰色の靄が、ギルの全身を這い上った。
金庫バアは、再びハンドガンを撃った。鳥かごは今度も揺らいだ。
キングは2つ目の魔法陣を沈黙させた。
すぐに、最後の魔法陣へと向かった。
アニヤは人型の異形の攻撃をかわし、メルトは人型の異形を黒く散らした。
射撃は途切れることなく続き、鳥かごの見えない核を撃ち抜いていった。
金庫バアは一度、ハンドガンを下ろした。
ぜいぜいと苦しい呼吸を繰り返した。
金庫バアは、深く息を吸い込み、再びハンドガンを構え直した。
金庫バアの老いた目は、限界を超え、最後の輝きを宿した。
その目は鳥かごの、深いところにある、小さくて最も硬い核をとらえた。
撃った。
当たったが、核は壊れなかった。
ギルの施した魔術が弱くなっているのか。
金庫バアは、続けざまに撃った。
恐るべき正確さで、同じ箇所にヒットした。
ゴフ、ゴフ、ゴフと、立て続けに鳴った。
金庫バアは、核の崩壊を見通した。
「仕舞いだ」
金庫バアの最後の射撃が、空間を貫いた。
それは鳥かごの最奥の核をとらえた。
ゴゴゴゴと空間を揺るがす音をとともに、鳥かごが激しく揺れた。
中のタタは、必死に柵につかまり、揺れをしのいだ。
金庫バアが、声を張り上げた。
「あの鳥かごは、すでに張りぼてだ!」
メルトとアニヤの前には、最後の人型の異形がいた。
「行け!」
アニヤがメルトに言った。
アニヤは体中に傷を負い、肩で息をしていた。
メルトは躊躇した。
アニヤは、細めた目でメルトをにらみ、怒鳴った。
「てめえ、いつまでタタを待たせる気だ!」
メルトは雷に打たれたように、アニヤの愛情と覚悟を理解した。
メルトは頷き、鳥かごに向けて駆け出し、跳んだ。
アニヤは最後の気力をもって、人型の異形に向かい合った。
メルトがタタの鳥かごに跳び付くと、天井から吊られた鳥かごは、自然に揺れた。
メルトは柵に両手をかけた。
タタが息をつめて見守る中、メルトは力任せに柵を引き開いた。
金属の柵は、飴のように曲がり、出入り口となった。
「タタ!」
メルトは座り込むタタに向かった。
タタはすがりつくように、メルトに腕を回した。
安堵のあまり、タタの涙は止まらなかった。
「タタ、遅くなった。怖い思いをさせた」
メルトは何度もタタの背をなでた。
タタは言葉が出てこなかった。
「もう一つだけ」
メルトは片腕でタタを抱いたまま、鳥かごの底にある魔法陣を見下ろした。
魔法陣は光を止めていた。
メルトの拳が、魔法陣の中心に突き刺さった。
ゴフッと何かが割れる音がした。
タタの中に、タタの欠片が押し入ってきた。
異物である黒い力は遠のき、タタはすべて自分になった。
自分自身が押し出されるよりも、ずっとましな感触だったので、タタは取り乱さずにいられた。
タタは泣きながら、メルトを見上げた。
メルトは頷き返した。
お互いの存在を確かめ合った。
メルトは、タタをもう一度抱きしめながら、アニヤを見た。
アニヤは、死に物狂いで人型の異形をしのいでいた。
人型の異形の腕が伸びてきた。
足が思うように動かなくなってきていた。
かわしきれず、剣によって、勢いを殺す形で何とか受けた。
ダメージは重かった。
次の一撃が向かってきたとき、アニヤは自分がそれにつぶされる予感をおぼえた。
もう腕が上がらない。
気力が途切れたら終わりだ、と知っていた。
アニヤの中に、一瞬の空白ができてしまった。
俺の道はここまでなのか。
不思議なもので、まるでコマ送りのように、人型の異形の腕が伸びてくる様が見えた。
アニヤは静かに目を閉じかけた。
「アニヤ!勝手に死ぬな!」
激しい声に、アニヤの体が反応した。
アニヤは目を見開き、どこに残っていたのか分からない力が、ガードの姿勢をとらせた。
人型の異形の拳が、ガードの上からアニヤを襲った。
アニヤは、無様に吹き飛ばされたが、ダメージは軽減されていた。
壁に叩きつけられたアニヤは、見た。
黒い光を宿すサバイバルナイフの閃光が走った。
最後の人型の異形の首が落ちた。
崩れ落ちる肉の向こうから、キングが駆け寄ってきた。
「アニヤ!」
キングが壁際に倒れこむアニヤを助け起こした。
アニヤは、キングと自分の荒い息遣いが重なるのを感じた。
「アニヤ、俺の心臓を止める気か」
「思い知ったか」
アニヤが、腫れていない方の唇を上げて笑うと、キングは何度も頷いた。
メルトは、タタを抱えて鳥かごから飛び降りた。
そのまま、キングとアニヤのいる壁際に、タタを運んで行った。
「アニヤさん、タタをお願いします」
壁際に座り込むアニヤは、頷いて引き受けた。そして、泣き崩れるタタを抱きしめた。
キングは二人を温かな目で見ていた。
メルトは、タタがしっかりとアニヤの腕に収まったことを確認すると、決着をつけるべく、四ツ辻の肉屋へと向かった。
四ツ辻の肉屋は、ギルに灰色の靄を巻き付け、邪魔をされた憎しみを晴らそうとしていた。
ギルは、灰色の靄に巻かれながら、小さな声で呪文を唱え続けていた。
四ツ辻の肉屋の思考も、乱れに乱れていた。
そのため、よその気配に無頓着になっていた。
「死ね!」
突然、鋭い声がして、恐るべき威力を秘めた拳が、四ツ辻の肉屋の顔を打ちすえた。
「ぎゃあ!」
何の構えもなく、四ツ辻の肉屋は吹き飛ばされた。
ひび割れ突き出た床を転がり、白衣がズタズタになった。
倒れ、身動きが取れなくなった四ツ辻の肉屋の傍らに、メルトが立った。
「お前はここまでだ」
四ツ辻の肉屋は、まさか、と思った。そんなはずはない、と。
メルトは、ひと際あでやかな黒い炎を手のひらの上に燃え上がらせた。
その炎は、見事な一振りとなった。
それは、この瞬間にも、四ツ辻の肉屋を魅了した。
「消え失せろ!」
激しい怒りを込めて、メルトはその刃を四ツ辻の肉屋の眉間に突き刺した。
それは、強烈な反撃だった。シェイド、ミカエル、フロウ、タタ、カラカラ、いや、力の足りないすべての小さな存在たちが、巻き込み、押し潰し、振り回してくる理不尽に対して抱く、強烈な怒りだった。
刃は、四ツ辻の肉屋の深いところを貫いた。
四ツ辻の肉屋は、肉体の終わりを悟った。
目の前には、焦がれた黒い力が輝いていた。
愛している。
肉体が最後の言葉を紡いだ。
爆発したい。
爆発したい。
爆発したい。
四ツ辻の肉屋の肉体は、黒く霞んで消えた。
そこから、灰色の靄となった薄曇りの暗さが、ゴウッと立ちのぼった。
爆発を求める薄曇りの暗さは、もうもうと質量を増した。
メルトは、険しい目で灰色の靄を見て、もう一度炎を燃え上がらせた。
キングとアニヤとタタは、身を寄せ合って経過を見ていた。
薄曇りの暗さの回転が速くなった。
灰色の靄が、ぐるぐると渦巻いた。
爆発したい。
薄曇りの暗さの意志は、その一点に絞られた。
「爆発を引き受けよう」
詠唱を終えたギルの左手の上に、小さな黒い魔法陣が浮かんでいた。
ギルを取り巻いていた灰色の靄は、その中に吸い込まれていった。
「薄曇りの暗さよ」
ギルの手の中の魔法陣が黒い光を増した。
「肉体に縛られていた古き神よ。我々の旅はここで終わりだ」
薄曇りの暗さは、あれほど激しかった回転を一時おさめた。
まるでためらうように、灰色の靄は揺れた。
ギルは、長年の友に語るように言った。
「ともに行こう」
薄曇りの暗さは、まっしぐらに小さな黒い魔法陣を目指した。
膨れ上がっていた灰色の靄が、次々に小さな魔法陣に吸い込まれて行った。
風が巻き起こり、轟々と激しい音が鳴った。
狭い地下室で飛ばされないように、各々が足を踏みしめなければならなかった。
メルトは金庫バアの元へ行き、激しい風に飛ばされないよう、金庫バアを支えた。
キングとアニヤは、両側からタタを抱きこんだ。
風は激しさを増し、誰もが目を開けてはいられなくなった。
いつしか、風がやんだ。
地下室は、静まり返った。
金庫バアは、目を開けた。
金庫バアの目は、目の前のものを映すだけで、もう何も見通しはしなかった。
ギルが一人、倒れていた。
ああ、死んだのか。
驚くほどすんなりと、金庫バアの頭にそう浮かんだ。
金庫バアの年になると、死は、さほど遠くはない存在であった。
メルトを置いて、金庫バアはギルに歩み寄った。
ギルは、静かに目を閉じていた。
穏やかな顔だ。
金庫バアは、そう思いながら、ゆっくりとギルの傍らに膝をついた。
金庫バアは、黙とうをささげた。
離れて見ていたキングは、唇をかんだ。
ギルは、命と手足の恩人というだけではない。
さまざまな死地をともに越えてきた人だった。
あらゆることを教わった。
キングも、目を閉じた。
「死に損ねた」
金庫バアは、まかり間違えて自分の心臓が止まるほど驚いた。
ギルが目を開けていた。
「驚いた」
「それをお前がいうのか。あたしのセリフだろう」
金庫バアは、衝撃のあまり、あごが外れそうになった。
離れて見ていたキングの体に、カアッと熱い血がめぐった。
ギルは生きていた。
「さすがに死ぬだろうと思ったのだが」
「お前という奴は!」
金庫バアは声を荒げた。
ギルは弱く笑った。
「あなたとの誓いに縛られた」
金庫バアは、目をぱちくりとした。
ギルは目を閉じた。
初めて、金庫バア、若き日のシメーヌを手にした夜、何も望まない彼女が言ったのだ。
死なないで。
ギルは、それはもう死ぬだろう、いや死んだ方がましだ、という状況に、何度も遭遇してきた。
だが、そのたびに、シメーヌの声に縛られた。
死なないで。
仕方がない。諦めるわけにはいかない。泣かせてしまう。怒られる。
そうして、ある意味では、しなくてもいい苦労をしてきた。
結果、ギルは、そうし続けることに生かされてきたのだった。
金庫バアは、盛大なため息をついた。
「呆れ果てて、言う言葉もない」
「すまない」
キングは笑った。
タタは、何事が起きているのかとアニヤを見た。
アニヤは、のんびりとしたまなざしを返した。
危機を脱したことを察したのかどうか、メルトの体が光り始めた。
メルトは、自分の内側で再び変化が起こることを理解した。
そして、例の痛みを覚悟した。
混ざり合ったものが分かれ、本来の姿に戻ろうとしていた。
同時に、空間が光り輝いて、ひび割れようとし始めた。
その空間には、二人の少女が隠し守られていた。




