ハクキン地区のミカエル
上流階級が住むハクキン地区の高台に、ゴルド小学校がある。地域でも1、2を争う名門小学校で、ある程度の家柄と財力を兼ね備えた家の子どもたちが通っていた。
丈高いが優美なデザインの鉄柵に守られた小学校の正門からは、よく手入れされた庭園が見渡せた。正門からまっすぐ伸びた道の先に校舎があった。あたかも白亜の城のような美麗な外観をしている。そうでありながら、内部は高度にシステム化された機能性に優れた作りになっていた。
休み時間が終わろうとする4年A組は、わずかな緊張と興奮でざわめいていた。丸顔にそばかすの散った赤毛の少年が、心配そうな顔で言った。
「ミカエル、本当にこんなことしてゲン先生怒らないかな」
プラチナブロンドの少年ミカエルは、スカイブルーの瞳をきらめかせて答えた。
「悪いことするわけじゃないんだから、大丈夫!ノーマもほら、席についてよ。ゲン先生はいつも時間通りなんだから」
ミカエルの心底楽しげな様子を見て、ノーマの心配な表情が和らいだ。
ミカエルはホワイトボードに貼った紙の位置を確かめ、満足げに頷いた。ノーマが席に着き、ミカエルもその隣の自席へ移動した。
ざわざわとする教室の29人に、ミカエルは一番前の席から声をかけた。
「それじゃあ皆、準備いい?前の時計で30秒前になったら、しゃべらないでね。僕が合図をしたら、心をこめて、頼むよ。その後も練習通りだからね」
教室の子どもたちは各々に頷いた。ミカエルは皆を見渡し、不安そうな目に出会うと微笑んで頷きを送った。すると、その目はほっとした色に変わった。
やる気に満ちた目に出会うと、ミカエルはウィンクをした。相手は親指を立てて笑顔を返した。
ざわめきが少しずつ治まり、教室は沈黙した。いつもは気にも留めない隣のクラスの音声が大きく聞こえた。窓外の鳥の声までよく聞こえてきた。
ミカエルは時計の秒針を見た。20秒前。もっと耳を澄ます。隣の席のノーマがつばを飲み込む音が聞こえた。隣のクラスも授業に備えて、静まっていく気配が伝わってきた。
そして、廊下を歩いてくる音が近づいてくる。コツコツという正確な、そして美しい音だとミカエルは思った。先生たちの中で、一番時間に忠実なゲン先生の靴音だった。
5秒前。教室のドアの前で先生が懐中時計を見て時間を確認している。
ミカエルには、ドアの小窓から、ゲン先生の姿が見えた。いつも通りの白髪混じりの髪、痩せた思慮深い顔、整えられた顎髭であった。ゲン先生は、何か異変に気付いただろうか。がちゃ、とドアノブにゲン先生が手をかけた。ミカエルは、髪の毛が逆立ちそうな感触をおぼえた。
やはり何かをうっすらと感じたのか、少し小首をかしげながら、ゲン先生が教室に足を踏み入れた。あまりにも、しんと静まり返っている教室の気配に、ゲン先生は教卓に着く前に足を止めて、子どもたちを見た。その瞬間だった。
ミカエルは立ち上がり拍手をした。すぐに全員が続いた。ワーッという声も混じり、強烈な拍手と歓声の渦が巻き起こった。それまでの静けさとの対比で、より一層の質感を持った音の洪水だった。
ゲン先生は立ち尽くしていた。いつもの厳めしい表情は消し飛び、何が起こったのか分からない、ぽかんとした顔になっていた。
ミカエルが右手を上げると、拍手と歓声がぴたりと止んだ。続けてミカエルは、すうっと息を吸いこみ、大きな声で言った。
「ゲン先生、お誕生日おめでとうございます!」
ミカエルが後ろを振り向き、せえの、と言うと、引き続き皆が大きな声で言った。
「ゲン先生、お誕生日おめでとうございます!」
再び、拍手と歓声が起こった。ミカエルが手を上げると、静けさが戻った。ミカエルは、あっけにとられるゲン先生の前に、色紙を持って歩み出た。
「ゲン先生のお誕生日をお祝いしたくて、準備しました。びっくりさせて申し訳ありません。ゲン先生、いつもありがとうございます」
ミカエルが差し出した色紙を、ゲン先生は唖然としたままで受け取った。
ゲン先生が視線を向けた先のホワイトボードには、ゲン先生お誕生日おめでとうございます、4-Aより、と鮮やかな彩りで書かれた紙が貼ってあった。
ミカエルは一礼をして、席に戻った。皆が着席した。
ゲン先生は、ホワイドボートの紙を見つめ、その後少し色紙を見た後、一段高い教卓に移動した。そして、いつも通り懐中時計を取り出し、見える位置に置いた。
わずかな時間、ゲン先生は動きを止めた。数回、ゆっくりとまばたきをした。
やがて、厳かな声で言った。
「教科書の52ページを開きなさい」
通常の授業が始まった。ゲン先生はホワイトボードの紙を取り、畳んで教卓に置いた。
教室には微妙な緊張感が流れた。
ミカエルは、これは一体どうなったのだろうと考えていた。授業時間はやはりまずかったかなと思った。
怒られる事態になったら、全部自分が考えて皆にやらせた、と真っ先に言わなくては。ミカエルは心の準備を始めた。
子どもたちは、いつも以上に無駄口も手遊びもせず、上の空で強張っていた。ゲン先生がノーコメントであったため、子どもたちの不安は高まった。ゲン先生は、いつもはしないような書き損じを繰り返し、何度も書き直していた。
授業の終わる1分前、ゲン先生は懐中時計を懐に仕舞った。
「皆さん。授業の始まりにあった出来事について、一言言わせていただきます」
子どもたちはハッとして、ゲン先生の厳かな声に背筋を伸ばした。
「授業の1分1秒、学ぶ時間は非常に貴重なものです。今日のような馬鹿騒ぎは感心しません」
ミカエルはすぐさま立ち上がりかけた。まるで、それを知っていたかのように、ゲン先生はミカエルに掌を向けて制止した。
「もう二度と、こんなことはしないように」
教室がしんと静まり返った。ミカエルの体から血の気が引いた。ゲン先生が荷物をまとめ持つ、バサバサという音だけが響いた。
ゲン先生が教卓から降りた。
ゲン先生は、荷物を片手で小脇に抱え、子どもたちに向かって気をつけをした。皆も再び背筋を伸ばした。
「今日だけです」
そう言うと、ゲン先生は突然に腰を深く折って、子どもたちに礼をした。
子どもたちは息をのんだ。
ミカエルは目を見開いて、ゲン先生を見た。初めて見る深いおじぎだった。先ほど引いた血の気が戻り、次第に胸が熱くなってきた。
「ありがとう」
子どもたちは息をのんだ。
ゲン先生は、たっぷり20秒はきれいなおじぎを保った。やがて、すっと姿勢を戻し、正確な歩調で教室を出て行った。
しばし、教室は沈黙していた。ミカエルとノーマはどちらともなく目を合わせた。お互いの頬が紅潮していた。
「やった」
「やった」
小さくつぶやき合った後、ガシッと二人は抱き合った。
「やったー!」
二人の歓声を皮切りに、教室が沸き立った。この休み時間、4-Aは一体となり、あちらこちらで喜びを分かち合ったのだった。
「おおい、ミカエル」
その日の放課後、ミカエルは玄関で呼びとめられた。
「ガーディさん、こんにちは」
学校の雑務を担当している老人であった。
ミカエルは誰とでも打ち解ける質であり、ガーディとも親しかった。良家の子どもたちは、汚れ仕事をするガーディを敬遠する傾向にあった。
ミカエルはそういったことにはまったく頓着しなかった。ガーディが庭の手入れをするときなどは、休み時間、友達の誘いを断り、面白がって見に行くこともあった。
ガーディはミカエルを、太陽のような子どもだと絶賛していた。ミカエルは、ガーディこそお日様の匂いがすると言って慕った。
「聞いたぞ、今日のゲン先生の話」
「なんでガーディさんが知っているの?」
「秘密は守れるな?」
「勿論」
「ミカエルには知る権利があると思うから、特別に話すんだけどね。4年B組のマッシュ先生、職員室でもゲン先生の隣でしょうが。A組から拍手やらおめでとうやら聞こえてくるから、何があったか聞いたんだと。私はほら、先生たちの愚痴聞きだから、いろいろ聞くんだけどね。マッシュ先生、うらやましいって言っていたぞ」
玄関の隅で声をひそめながら、二人は話した。
帰り支度の子どもたちが、ちらちら二人を見ながら通り過ぎて行った。ミカエルは、今日の顛末をガーディに話した。
「怒らせちゃったかと思って、かなり焦ったんだ。考えたの僕だし、皆を巻き込んだし。でも、ゲン先生、ありがとうって言ってくれた。それから皆で盛り上がって、すごかった。今日は楽しかったなー。ああ、でも一つ」
「どうした」
「本当は、僕は先生に笑ってほしかったんだ。ゲン先生の笑顔を見たことないから。笑った顔が見たかったんだ。笑ってもらえなかったな。そこまで、うれしくなかったのかな」
声のトーンが落ち、スカイブルーの瞳が伏せられた。実はちょっと気になっていたんだよね、とミカエルはつぶやいた。
ガーディは、うつむいたミカエルの頭に手を伸ばした。触れる前に手が止まった。ガーディは手を引いた。ミカエルは、その気配を察して顔を上げた。
「何?」
「いやいや」
「何で手を戻したの?」
「いや、私の手は土で汚れているから。ミカエルの髪は、あんまりピカピカだから」
ミカエルは、ムッとした表情で、ガーディの右手を両手でつかみ、自分の頭の上に載せた。
「ちゃんとなぐさめてよ」
ガーディのゴツゴツした手が、柔らかな白金の髪をためらうように数回なでた。
「いやはや、末恐ろしい。大体、何一つなぐさめられるようなことはなかろうに」
数回なでて手を引いたガーディを恨めしそうに見ながら、ミカエルは問いかけた。
「何で?ゲン先生は笑わなかったよ」
今日のその後の授業でも、ゲン先生の様子はまったく変わらなかった。
「マッシュ先生の話はまだあってな」
ガーディは周囲を見渡し、人が近くに来ていないことを確認した。腕組みをして、ミカエルに向き直った。
「ゲン先生、泣いたんだと」
「え」
「マッシュ先生に聞かれて、こんなことがあってと話しててな、そのうちホロホロ泣きだしたんだと」
「ええ、僕、泣かせるつもりはなかったんだけど」
「うれしかったんだろうね。ゲン先生は厳しいから、保護者には好かれても、子どもには好かれんて、前に自分で言ってたもんね。信念を貫く人だから、融通きかないし、不器用なお人だから。こんなこと、初めてだったろう。相当うれしかったでしょうよ」
「うれし泣き?」
「うれし泣き。実は、まだおまけがある。これこそ本当の秘密だ」
「何?」
「ゲン先生、色紙見て、笑ってたんだと」
「本当?お祝いの寄せ書き見て、笑ったの?」
「マッシュ先生もびっくりしたそうだよ。ニヤニヤしてたんだと。マッシュ先生は初めて見たって言ってたね、ゲン先生のあれほどに締りのない顔」
ミカエルの表情が明るく輝いた。ガーディは、目を細めて頷いた。
「だから、ミカエルは成功したんだよ」
「わー、僕、見たかったな、ゲン先生のニヤニヤ。マッシュ先生、いーなー」
「ゲン先生の名誉のため、これは秘密だぞ」
「うん。わー、でも、しゃべりたいなー。お母様にはしゃべってもいい?」
「うむ。特別にお母様にはお話してよかろう」
「ありがとう!」
ミカエルは素早くガーディの顔に手を伸ばし、頬にくちづけした。ガーディは慌てた。
「だから、汚れているというのに」
「僕、習い事があるからもう帰らなくちゃ。それじゃあ、またね。さようなら!」
鮮やかな笑顔を見せて、ミカエルは風のように帰って行った。
ガーディは、ミカエルの背中が見えなくなると、その髪に触れた自分の右手を見た。
それから、くちづけを受けた頬にその手を当てた。
そして、ゲン先生がミカエルの前で笑ってしまう日も案外近いかもしれんね、とつぶやいた。
ミカエルの家は、ゴルド小学校から徒歩5分の位置にあった。にもかかわらず、執事のドメスは、車での送迎を主張した。
ミカエルは、最初の1年間は従い、小学校2年からは、歩くと言って聞かなかった。
3年になると、付き添いが付くことも拒否した。登下校をミカエルは楽しんでいた。一人でできることが増えていくのがうれしかった。
あっという間に家にたどり着く。正門右手に小さな通用門があり、その横に守衛室があった。
「おかえりなさいませ」
守衛が出てきて、通用門を開けた。
「ただいま」
ミカエルは笑顔で答え、中に入った。正門から玄関まで、ミカエルの足で数分を要した。
白い玉砂利を踏んで、ミカエルは歩いた。大きな広葉樹が左右に1本ずつ植わっていた。陽光を受けて葉が明るく輝いている。
3階建の大きな屋敷にたどり着くと、玄関は開け放たれていた。
「おかえりなさいませ」
使用人である3人の女性が、並んでミカエルにおじぎをした。
「ただいま」
ミカエルが返事をすると、3人のうち最も年齢の高い女性が声をかけた。
「今でしたら、奥様は起きていらっしゃいます」
「ありがとうハンナ。僕、行ってくるよ」
駆けだすミカエルの背中に、侍女頭であるハンナは声をかけた。
「お荷物はご自分のお部屋に。奥様のお部屋にいらっしゃるのは、お手を洗ってからですよ」
ミカエルは、はーい、と返事をし、階段を駆け上り、2階の自室に入った。
大きなベッドに鞄を放り投げた。すぐに部屋を出て洗面所へ行き、手を洗った。バタバタと早送りで、3階へ向かった。
母の部屋の前で一呼吸、息を整え、ドアをノックした。どうぞ、という細い声が聞こえた。
「ただいま帰りました、お母様」
「おかえりなさい、ミカエル」
ベッドの上で体を起こした線の細い女性が、ミカエルに微笑みかけた。
背中に垂れた三つ編みは、ミカエルと同じ髪の色であった。瞳の色もミカエルと同じであった。しかし、母リリスは、頑健なミカエルと異なり、大変病弱であった。
ミカエルはリリスのベッドの横に置かれたイスに座った。
「お母様、体の具合は平気?」
「ごめんなさいね、心配かけて。今日は具合がいいのよ」
リリスは青白い顔をほころばせた。ミカエルはそれだけでうれしくなった。
「あのね、お母様、今日学校でね」
「うん、なあに?」
ミカエルは学校での出来事を、リリスに面白おかしく話して聞かせた。
リリスはあらまあと相槌を打ちながら、ニコニコと聞いた。
リリスの体調がよいときに、こうして二人の時間を持てることが、ミカエルにとっては至福のひと時であった。
ミカエルの出産は命がけであったと聞いている。それをミカエルに伝えた者たちは、難産を乗り越えた奇跡の命、特別な存在、望まれた誕生といった、プラスの意味づけを言いたいようであった。
しかし、それを聞いたミカエルは、母の命を自分が脅かしたのか、と恐ろしく思った。
リリスは出産後も、2度ほど死にかけている。屋敷の中がバタバタと騒がしくなり、大人たちの顔が色を失くし、消毒液の匂いが立ちこめる。恐ろしい世界に突然に投げ込まれた感覚を、ミカエルはおぼえていた。
自室のベッドで一人、大切な母が真っ暗な底なしの穴に落ちて消えてしまうかもしれないと恐怖し、震えていた。何でもするから連れて行かないでと唱え続けた。
基本的には乳母がミカエルを育てた。乳母も好きだが、やはり母リリスは、ミカエルにとって特別だった。
体調の良い時は、ミカエルを抱きしめてくれることもあった。骨ばった感触だった。うれしくてつい力がこもると、痛、というリリスの声が漏れた。
リリスを壊してしまいそうで、思い切り抱きしめることなど決してできなかった。
リリスの喜ぶ顔が見たくて、ミカエルは勉強でも習い事でも何でも努力した。あらゆる分野の教師から、ミカエルには天賦の才がある、と言われた。
ミカエルはどんどん成長した。リリスが褒めてくれるのがうれしかった。
リリスの笑顔が見たくて、ミカエルは楽しい話をたくさんした。生来の明るさも相まって、ミカエルは楽しいことを考えるのが大好きになった。
「ああ、面白い。ミカエルは本当に人が好きなのね」
「皆、いい人ばっかりだよ」
「いい子ね」
リリスが体を寄せて、ミカエルを抱きしめた。ミカエルはそっと腕を回した。ひんやりとした骨の固さを感じた。短い抱擁を解いて、リリスは尋ねた。
「今日の習い事は何かしら」
「もうすぐ、数学と理科の先生がいらっしゃるよ。それが終わったら剣術で、今日はおしまい」
「大変ね」
「面白いよ。それじゃあ、そろそろ時間だから行くね」
ミカエルは立ち上がり、ドアに向かった。
「お父様にご迷惑をおかけしないようにね」
後ろから、リリスの声がかかった。ミカエルは瞬間、凍りついた。
「ミカエル?」
ミカエルは笑顔で振り返った。戸惑うような表情のリリスであったが、ミカエルの笑顔を見て、安堵したように微笑んだ。
「じゃあまたね」
明るい声でミカエルはリリスの部屋を後にした。
何であそこでお父様が出てくるんだよ、とミカエルはぶつぶつ言いながら自室へ戻った。
母リリスが、父ビヨンドに大変気を遣っていることが、ミカエルは気に入らなかった。時々リリスは、会話の最後に、お父様を煩わせずにだとか、お父様をお支えしてだとか、そういう文言をくっつけた。
いつしかミカエルは、それを大変不快に感じるようになっていた。
以前、それがあまりにも嫌だと感じた翌日、庭仕事をするガーディにその話をしたことがあった。
「それはきっと、お母様ご自身がお父様に思っていることでしょうよ。ミカエルがじゃなくて、お母様が、自分は迷惑かけてるんじゃないかと、お支えしたいのにできていないと、お父様に対してね、思ってるんでしょうよ。おかわいそうにね」
ガーディは大きなはさみで灌木を剪定しながら、そう言った。
ミカエルは、それならお母様は僕じゃなくお父様に言うべきだと思ったすぐ後に、お母様にそこまで気を遣わせるお父様が悪い、と思い直した。
父ビヨンドのことも、ミカエルは好きだった。
筋肉質の長身は男らしく、剣術にも体術にも馬術にも優れていた。また、ビヨンドは事業家としても優秀だった。
ミカエルの家はもともと大地主なのだが、祖父の代で実は一度、身上をつぶしかけた。
ビヨンドが若くして家督を継ぎ、猛然と働き財産を立て直した。先祖伝来の土地も買い戻し、更に事業を広げ、より一層の財を築いた。
「怠けて遊んで暮らしたいなら家を出て行け。だが、やるべきことを成し遂げれば、すべてはミカエルのものだ」
ビヨンドはしばしばそう話した。ミカエルは、ビヨンドの期待を幼いころから感じていた。
ミカエルの素質は、ビヨンドの期待を裏切らなかった。
大好きな父のようになりたくて、ミカエルは頑張った。
剣術、体術、馬術は、時間が合えば、父子で一緒に稽古した。
剣術では、木刀をなぎ払われ、切っ先を突き付けられた。体術では、足を払われ、床に叩きつけられた。馬術では、父に着いていこうと焦り、馬から転げ落ちた。
ミカエルにとって、父との稽古は大変怖いものであった。体の痛みもさることながら、手加減をしないビヨンドの冷たい目が恐ろしかった。そして、負けると身もだえするほど悔しかった。打ち負かされた瞬間には、強く憎みさえした。だが、根底には強い父への尊敬があった。
もう少しお母様に優しかったらいいのだけど、とミカエルはいつも思っていた。
ビヨンドは確かに仕事に奔走していた。しかし、家にいる時間も時にはあった。ところが、ごく稀にしかリリスの部屋を訪れなかった。
リリスの療養を理由に夫婦の寝所は別室となっているのだが、ビヨンドは自分の部屋で過ごすことが大半だった。
父と母の関係は何か変な感じがするとミカエルは思っていた。
そうはいっても、具体的にはとらえきれないのでモヤモヤした。ただ、母の口から父のことが出ると不愉快に感じたり、父が母にかかわらないので腹が立ったり、心が揺さぶられた。
時々ミカエルは、自分の両手を見た。まだまだ小さな手で、なんて無力なのだろうと思うのだった。立ちこめる靄を切り裂き、強大な力をなぎ倒し、真っ暗な恐怖を打ち払い、大切なものを守る、そんな強さが欲しいと願った。そして、きっと自分なら手に入れられるはずだ、と思うのだった。
数学の準備をして待っていると、ミカエルの部屋のドアがノックされた。どうぞと声をかけると、執事のドメスであった。
「旦那様がお帰りです。旦那様が先に、先生方とお話になるそうです」
思ってもみないことで、ミカエルは大きな瞳をぱちくりとさせた。
「お父様が?急にどうして?」
「ミカエル様のお勉強の進捗具合をお知りになりたいようです」
「そうなんだ。びっくりするから、先に言っておいてくれたらいいのに」
「急にお仕事の都合がついたのでございましょう。旦那様は、ミカエル様のご様子をとても気にかけていらっしゃいますよ。では、旦那様の方のお話が終わりましたら、またお声をおかけします」
オールバックのドメスは、きっちりと折り目正しい仕草で部屋を出て行った。入れ違いで、侍女頭のハンナがやってきた。
「先にお茶とおやつにいたしましょう。あら、ミカエル様、まだ制服のままではないですか。お手伝いしましょうか?」
「いいよ。いいよ。自分で着替えるよ」
お茶の用意をしてきますとハンナは出て行った。慌ててミカエルは制服を脱ぎ始めた。
Tシャツを手に取りかけて、これから父に会うことを考えた。襟付きのポロシャツにした。ミカエルは、父に対して自分が多少身構えていることに気づいた。
それから、ハンナが運んできたお茶とクッキーを口にしながら待っていた。丁度、食べ終わる頃に、ドメスが再びやってきた。
「旦那様がお呼びです」
2階の階段を挟んでミカエルの部屋と逆側に、ビヨンドの書斎があった。
ドメスがノックし、ビヨンドの許可を得て、ミカエルを導き入れた。出て行こうとしたドメスをビヨンドが止めた。ドメスは書斎の隅に控えた。
ビヨンドは、書斎机の前にある応接セットのソファに座っていた。上着は着ていなかった。ワイシャツの第二ボタンまでを外し、腕まくりをしたラフな格好であった。
「失礼します。おかえりなさい、お父様」
「ただいま。ミカエル、そこに座りなさい」
テーブルを挟んで向かい側の席を示され、ミカエルはそちらに座った。ビヨンドの胸板の厚さと腕の太さに一瞬目が行った。ビヨンドは上機嫌だった。
「さっき先生たちと話したが、ミカエルは大変素晴らしいと口をそろえて言っていたよ。頑張っているじゃないか。勉強は好きか?」
「好きだよ。先生たち、教えるの上手だから面白いよ」
ビヨンドに褒められて、ミカエルはうれしくて笑顔で答えた。
「そうか。学校はどうだ」
「学校、すごく楽しいよ。先生も友達もいい人ばっかり」
「そうか。実は、学校でのミカエルの様子を聞くために、この間ドメスに言って、学校に連絡させたんだが」
「え!」
ミカエルは驚いて、正面のビヨンドを見た後、部屋の隅に控えるドメスを振り返った。ドメスは小さく会釈した。
「なんだかびっくりしちゃうよ。先に言ってくれたらいいのに」
戸惑うミカエルを気にした風もなく、ビヨンドは続けた。
「非常に優秀だと聞いた。成績もリーダーシップも年齢を遥かに超えているということだ」
「誰が言ったの?ゲン先生?」
「担任だけじゃないはずだな、ドメス。そうだろう。体育や美術、校長にも聞いたのだったか。誰に聞いても答えは変わらなかったそうだ」
ミカエルは、まだ少し戸惑ったまま、ああそう、と言った。ビヨンドはソファに深く座り、足を組み直した。上になった右ひざに、組んだ両手を添えて言った。
「実に見事だ」
「ありがとう」
ミカエルは、戸惑いからやや持ち直し、ビヨンドに認められるうれしさをまた感じ始めた。ミカエルが再び笑顔になった時、ビヨンドが言った。
「そこで、飛び級だ」
「え?」
ミカエルは話が見えなくなった。表情の止まったミカエルをそのままに、ビヨンドは腕を組んだ。
「家庭教師にも学校にも確認した。ミカエルは小学4年生のレベルではない。飛び級ではないな。中学1年に飛び入学だ。早速、来月から手配する」
「待って、待って、急すぎるよ!何が何だか」
ミカエルは、慌てて両手を胸の前で横に振りながら言った。
「学校の勉強は正直つまらないだろう。入学前から家庭教師に教わって、分かっていることの単純な繰り返しのはずだ。無駄な時間を費やすのはもったいない。自分の力に合った場で己を磨け」
「冗談でしょう?僕の言ったこと聞いてたの?学校は楽しいんだよ」
「楽しいのは結構だが、そういうことにうつつを抜かしていては、人間が腐る。今の学年にいては、ミカエルは楽をするばかりだ。怠けているのと変わらない。爺さんのようにはなりたくないだろう」
「本気なの?」
ミカエルは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「本気だ。いいな、ミカエル。来月から中学に行くんだ」
腕を組んだ姿勢のまま、ビヨンドは決定事項として言い渡した。ミカエルの指先が冷たくなった。ゲン先生やノーマらクラスメイトたちの顔が浮かんだ。
「話はこれまで。もう行っていいぞ。これから数学だな」
「いやだ」
「何?」
「いやだ」
ビヨンドが眉をひそめた。ミカエルの口から、うわごとのように拒否が滑り出た。ミカエルの腹の奥底に、ちらちらとくすぶるものの気配がした。
「いやだよ。僕は今のクラスが好きなんだ。勝手に決めないでよ」
ミカエルは青ざめた顔で、ビヨンドの固く組まれた腕を見ながら言った。
「勝手とはなんだ。何も世の中のことが分かっていない子どもは、親の言うことを聞いておけばいいんだ。くだらない反発はやめて、さっさと行け」
ミカエルの拒否を受け、いら立ちをにじませた声でビヨンドは言った。ビヨンドの腕に太い筋が浮ぶのをミカエルは見た。腹の中のくすぶりが、反応して小さくはぜた。
「いやだ」
「ミカエル」
「いやだ」
「いい加減にしろ!」
ビヨンドは怒鳴りつけた。その声に、ミカエルの腹の中のものが唐突に激しくほとばしった。体中を熱い血潮がめぐり、冷えた背筋も指先も燃え上がった。気づくと立ちあがって怒鳴り返していた。
「いやなもんはいやだ!何でも勝手に決めるな!人の大事なものを奪う気か!」
「何だと!」
腕を組み座ったままのビヨンドと、立ちあがったミカエルは、激しく睨みあった。
父の期待に答えるべく頑張ってきたミカエルが、生まれて初めてビヨンドに対峙した瞬間だった。
また、誰に対しても、ミカエルはこれほどの激情を抱くことも向けることも、これまではなかった。どこに隠れていたのかと思われるほどの熱が内側で噴き上げた。
大切なものが一瞬にして消え去るなどということは、耐え難かった。ミカエルは憎しみをこめて睨んでいた。
「生意気な。ちょっと出来がいいと言ってやるとこれか。今の学年にいるメリットは何だ。好きだとか楽しいだとか、そんなことで通用すると思っているのか」
ビヨンドは忌々しげに言った。ミカエルは唇を噛んだ。噴き上げる熱に翻弄されながら、このままではだめだ、このままでは取り上げられてしまう、と必死に考えた。
「分かったな、ミカエル」
「ちょっと待ってよ!」
「まだあるのか」
「あるよ、メリット」
「ほう。あるのなら、言ってみろ」
ビヨンドは口の端を歪めて笑みの形を作りながら、皮肉な口調で促した。ミカエルは立ったまま、ぎゅっとこぶしを握りしめていた。沸騰しそうな熱をはらみながら頭の中が回転する。
「友達ができる」
「何だそれは」
やれやれと話を切ろうとしたビヨンドに、ミカエルはすぐさま言葉を重ねた。
「ノーマは、クラスメイトのノーマの家は大きな宝石商だ。他にも、石油会社の社長とか、芸能人とか、有名な画家とか、いろんな家の子がいるんだよ」
「だから?」
少し興味を持ったようにビヨンドが促した。
「だから、そういう子たちが一生の友達になったら、将来の人脈になるでしょ?」
「ほう、人脈」
「大人になったら、子どものときみたいに友達つくれないよ。本当に信用できる友達を、今のうちに探しているんだよ。将来、助け合える人脈だよ」
以前、ガーディが、この学校を選ぶ親のニーズには、そういう面もあると話していた。人脈という言葉をそこで初めて知った。どのくらいビヨンドには響くのだろうか。ミカエルは緊張した。
「中学で友達を作ったら同じじゃないのか」
ビヨンドが冷静な声で尋ねた。ミカエルは、なかなか収まらない身内の炎をなだめながら考えた。
「簡単じゃない。年が違い過ぎる。気を遣うよ、きっと。本気の友達になれないから、全然違う。人脈からはじかれちゃうと思う」
ミカエルが答えると、ビヨンドは右手をこめかみに当て、ひと時思考した。やがて口を開いた。
「確かに、納得できる。だが、ミカエルの能力が今のままでは持ち腐れなのも確かだ」
ミカエルはごくりと喉を鳴らして続きを待った。
「だから、将来の人脈を築く猶予をやることにする。今のクラスはメンバー変わらず2年目だろう。だいぶ皆のことも理解できているはずだ。この1年で、必要な人脈を築きなさい。他の皆が5年生になるとき、ミカエルは、中学生以上になる準備をすることだ。これ以上は妥協しないが、どうだ」
ビヨンドはこめかみに手をあてたまま、上目遣いにミカエルを見据えた。
「わかりました。ありがとうございました」
もう堪え切れず、ミカエルは一礼し、書斎を飛び出して行った。ミカエルが扉も閉めず走り去るのを見送り、ビヨンドは溜息をついた。
「ドメス」
「何でございましょう」
「ドメスは今のミカエルをどう見た」
ドメスは丁寧に腰を折って一礼してから答えた。
「はい。恐れながら申し上げます。ミカエル様は、普段は端正なお顔立ちが奥様に似ていらっしゃると感じていました。ですが、お怒りのお姿は、むしろ旦那様によく似ていらっしゃいます」
「そうか、私はあんなふうなのか」
「あんなふうでございます」
ビヨンドは足を組み直し、苦笑いをしたのだった。
一方、ビヨンドの書斎を飛び出したミカエルは、走って自室へ向かい、すぐにベッドに飛び込んだ。
「ちくしょう!ふざけるな!ふざけるな!黙れ!くたばれ、くそ親父!死ね!死んじまえ!」
ミカエルは布団に顔を押し付けて叫んだ。言ったこともないような暴言がほとばしり出て、止まらなかった。手足をバタバタさせ、ベッドを叩き続けた。
悔しくてたまらなかった。何とか、今のクラスに4年生の間はいられることになりはしたが、そこまでだった。
自分の大切なものが、自分の力の及ばないところへ、あっという間に消え去ってしまう。なんて恐ろしいことだろうと、屈辱で怒りながら、恐れた。すべての思いをベッドにぶつけていた。
ミカエルは、もっと強い力が欲しかった。誰にも負けない力を激しく希求した。大切なものを手離さなくてすむための力を手に入れたいと、心から願ったのだった。