対話
「話をしよう」
四ツ辻の肉屋は、唐突に切り出した。
四ツ辻の肉屋の目は、相変わらず底なし沼のように奥が見えなかった。
「何のために」
メルトは冷えた声で問いかけた。
「大人になっているから。話が通じるかもしれない。子どもには難しかった話だ」
四ツ辻の肉屋は両手を広げ、血だらけの口元を吊り上げて笑って見せた。
メルトは、提案にのって話を聞くべきかどうか迷った。
聞いても、聞かなくても後悔するように思われた。
ならば聞こうと決めた。
沈黙によって了承を示した。
四ツ辻の肉屋は、メルトの承諾の意を受けて、芝居がかった仕草で、おじぎをした。
そして、四ツ辻の肉屋は語り出した。
「私のことを、害悪と勘違いしてはいないか?私は、この世界に、必要とされて存在している。驚くほど多くの命に請われて、ここにいる。それを分かってほしいのだ」
四ツ辻の肉屋はメルトの反応を見るように、一旦言葉を区切った。
メルトは無表情で聞いていた。
四ツ辻の肉屋は肩をすくめて続けた。
「説明しよう。命の営みは、他の命を巻き込んで、絡まりあう関係を結んでいく。難しくなってきたかな?生きることが背負う宿命について、私は話をしている」
四ツ辻の肉屋は、身を乗り出し歌うように話した。
「生きるということは、綿々と、抜けだしがたい葛藤を連ねるということなのだ。その時、その場にいるものたちは、否応なしに、すでにそこにある関係の中に組み込まれていく。そうして、生きるすべてのものたちは、既存の葛藤を引き継ぎ、その上、更に葛藤を再生産し続ける。それは、断ち切りがたく、重なり絡んで、ひたすらに膨れ上がっていくのだ」
タタは、突然始まった四ツ辻の肉屋の演説に戸惑っていた。
子どもには難しいという前置きがあったが、大人になったところで、分かるような気がしなかった。
それでもタタは、意味は分からなかろうと、助かるヒントを求めて、必死に耳を傾け続けた。
「どんな世界も必ず行きづまる。膨れきった世界は、行くところまで行くと、もはや身動きが取れなくなる。そうなると、出口を求め、破裂したいと望むのだ。こう、いさぎよく、パーンと」
四ツ辻の肉屋は手を叩いて、それから大きく腕を広げた。
双眸からは相変わらず腐った臭いがこぼれ続けていた。
「嫌な顔をしているね。もしかして、臭うのかな?嗅覚はあるにも関わらず、自分ではよく分からなくてね。私はお風呂は大好きで、一日2回は入るのだけれど」
四ツ辻の肉屋は自分の腕の臭いを嗅ぐような仕草をした。
「腐った臭いがするのは、仕方のないことなのだ。命というものは、最初から腐っているのだから」
四ツ辻の肉屋は、右手で左腕を擦り上げ、脂汗のついた手のひらの臭いを嗅いだ。
「生まれ落ちたばかりの命でさえ、新しい希望などではない。それは、古い恩讐の次の1ページに過ぎない。真に自由な命などない。赤子でさえ、はち切れんばかりの世界を圧迫する、次なる葛藤の担い手なのだ」
四ツ辻の肉屋は、自分の脂汗のついた手を、汚れた白衣に擦り付けた。
「命のつながりの宿命に、終わりを与えられるのは、強大な爆発力のみだ。すなわち、私だ。薄曇りの暗さは、命の望みをかき回し、反応を高め、爆発をもたらす。もう限界だ、終わらせてくれという切実な悲鳴が聞こえる。命あるものすべてに、私は求められている」
四ツ辻の肉屋は、汗をぬぐった手を見ながら言った。
「望まれ求められているから、私は喜びに満ちている。だから、こんなにワクワクして面白くてたまらない、そんな私なのだ」
四ツ辻の肉屋は、大きな手でメルトを指さした。
「黒い力は、大きなねじれを可能にする。薄曇りの暗さは、黒い力ととても相性がいい」
四ツ辻の肉屋は、深い情感のこもった声で言った。
「出会えたのは運命だ」
四ツ辻の肉屋の言い方が、タタには、まるで愛の告白のように聞こえた。
吐き気をもよおした。
「黒い力に出会うため、きっと私は待ち続けたのだ。この運命は、命の願いが引き寄せたものだ。疲弊し、膿んだ世界は、大きな爆発を求めている」
四ツ辻の肉屋は両手をメルトの方に差し向けた。
「黒い力は、純度の高いエネルギーだ。私はそれを見ると、もうたまらなくなる。薄曇りの暗さの狂喜は、命へのいわば救済なのだ」
四ツ辻の肉屋は、興奮を鎮めるように何度か大きく呼吸した。
「ここまで聞いたら、少しは分かるでしょ。世界は、得体のしれない圧倒的な力を求めている。誰かに壊してほしいのだ。君も私も、世界に愛されている。私たちの結合も、世界に祝福されている」
メルトは明確に眉をひそめた。
「さっきの女子でダメなら、他のもあるから。痛くないよ。委ねてくれたらいい。私は世界を救う衝動を果たしたい」
四ツ辻の肉屋は、言った。
「世界で崇められる破壊の神は、私なのだ」
四ツ辻の肉屋は、一度、深呼吸をした。
そして、一歩、足を踏み出した。
「君は、すべての煩わしい現実を手放して、心地よい夢の中にいてくれ。君が感じるのは、快楽だけだ。委ねてくれたら、君の力を気持ちよく取り出してあげられる。この世界の願いは、私が引き受ける。黒い力を使って、最高のねじれをもたらしてみせる。世界を、混沌に落としてあげられる」
四ツ辻の肉屋はメルトに尋ねた。
「どうかな?」
メルトは即答した。
「イヤだ」
四ツ辻の肉屋は、沼のような目をぱちくりとさせた。
「イヤって、そんな子どもみたいな」
もうちょっと考えてくれても、と四ツ辻の肉屋は血だらけの口元をもごもごとさせた。
踏み出していた足を、一歩、後ろに戻した。
タタには話は全然見えなかった。しかし、なぜだかブレンダにふられた時のことを、思い起こしていた。
メルトは、渋い顔をして、髪をかきあげた。
「そんな話に、頷く人間がいると思っているのが疑問だ」
「私は正直に本当のことを話している。君も含め、たくさんの命が、つらいことから解放されるのだ。何が不満なのだろう」
四ツ辻の肉屋は困惑をにじませて言った。
「世界の皆さんのニーズに応えることに、興味がないのかな?まだ若いもんね。でも、自分が気持ちよくいられるなら、いいじゃないか。苦しみは一切ないんだよ?そうそう、君のお友達も、皆さん、夢の世界にご招待しようか」
「あんたとはセンスが合わない。あそこに、俺のほしいものが出てくるとは思えない」
「望まないからだ。ほしいものを望めばいい。必ず与えられる充足感は、あそこでしか得られない」
メルトは、冷たく燃える目で四ツ辻の肉屋を見た。
「いらない。ついでに俺の話も聞け」
四ツ辻の肉屋は、不満を隠そうともせず、顔を歪めた。
しかし、メルトが話すことを妨げる様子はなかった。
「どいつもこいつも、身勝手を押しつけてくる奴らには、もううんざりだ」
メルトの怒気をはらんだ声を聞き、タタは大きく頷いた。
メルトの言っていることは、よく分かった。
「誰が何を望んでるか知らないが、それは、俺たちが望んだことじゃない」
メルトは口を開くほどに、これまでの怒りがまとめて燃え上がるのを感じた。
「世の中の、ものを知った風な誰かの勝手で、何で俺たちが痛めつけられないといけないんだ!」
メルトの脳裏に、傷だらけのカラカラの姿が浮かんで消えた。
「宿命?『私たちが背負ってきたものを、お前も背負え』と渡されて、はいそうですかって、引き受けろというのか?その上で、救済は、爆発だ、破壊だ、混沌だと言われ、その通りですってなるわけねえだろ!」
メルトの感情に応じるように、黒い力がうねってはじけ、床がえぐれた。
四ツ辻の肉屋は長い舌で、あふれ出る血とよだれをなめた。
「小賢しい理屈をこねやがって。大体、あんたも生まれ落ちた命の一つに過ぎないだろう」
メルトは、小さな黒い刃を四ツ辻の肉屋に飛ばした。
四ツ辻の肉屋は、それを避けようとはしなかった。
四ツ辻の肉屋の頬が薄く切れて、血がにじんだ。
「あんたの造る混沌も、所詮この世界の選択肢に過ぎない。だから、あんたはその程度の中途半端な存在なんだろう。どこが神だ」
メルトは、まとわりつくすべての不愉快を振り切るように、声を上げた。
「今いるここが、腐っていて気に入らないと言うのなら、それを望むものが自ら、自分の手で壊すがいい!」
そうだ、俺たちを巻き込むな、とタタは心の中で叫んでいた。
「俺たちはあんたを選ばない。ともに腐り落ちるのはごめんだ!この世界が望んで崩れ去るというのなら、新たな地平を目指すまでだ!」
メルトは手のひらの上に、黒い炎を灯した。
「俺たちは、俺たちの道を行く。タタを解放しろ。もう、俺たちには構うな!」
メルトの心を映して、黒い炎が燃え上がった。
四ツ辻の肉屋は、切れた頬に手を当て、ほうっとため息をついた。
「知る前には戻れない。こんなときでも、黒い力は美しい。さよならできない。愛しているから」
タタは四ツ辻の肉屋の言葉にぎょっとした。
メルトは警戒した。
四ツ辻の肉屋は、足元の小さな魔法陣をつま先でつついた。灰色の靄が立ち上った。
「無理やり引っこ抜こうとしても、反抗する。優しく誘っても落ちてこないし、腹を割って話しても同意してくれない。片思いって切なくて興奮するなあ。仕方がない。面倒だけど、少しずつ削ることにするか」
四ツ辻の肉屋は、おもむろにメルトに向かって飛びかかった。
四ツ辻の肉屋は、まるでゴムまりのように飛んできた。
メルトは黒い炎を刃に変え、次々、四ツ辻の肉屋に投げつけた。
四ツ辻の肉屋は、体中切り裂かれ、血まみれになった。
だが、致命傷には至らなかった。
薄暗い靄が四ツ辻の肉屋を取り巻き、黒い刃を滑らせた。
四ツ辻の肉屋は、メルトに手を伸ばした。
メルトは蹴りで応じた。
四ツ辻の肉屋は、不自然な動きで体を反らし、メルトの蹴りをかわした。
メルトが繰り出した拳もかわし、四ツ辻の肉屋は猫がひっかくような手さばきをした。
メルトはその手を避けて、後退した。
四ツ辻の肉屋の手は、メルトには触れなかった。
しかし、四ツ辻の肉屋の手を取り巻いていた薄暗い靄が、メルトの黒い力をかき取るように、ゾロリと動いた。
メルトは、ガガガと何か削られるような感触をおぼえた。
メルトは、驚きで目を見張った。
四ツ辻の肉屋は、再びゴムまりのようにはずみ、タタの鳥かごに飛び付いた。
「うわ!来るな!」
タタは思わず悲鳴を上げた。
間近で見る血だらけの四ツ辻の肉屋は、正視に堪えなかった。
四ツ辻の肉屋はニッと笑い、薄暗い靄によってつかみ取った黒い力を、鳥かごに投げ入れた。
「うわああああ!」
「タタ!」
メルトもすぐさま鳥かごに飛んだ。
四ツ辻の肉屋は、鳥かごから飛び離れた。
「うわああ!うわああ!」
「タタ!タタ!何をされた!」
メルトは必死に鳥かごを破壊しようと力を込めたが、ビクともしなかった。
鳥かごの底の魔法陣が鈍く光っていた。
タタは、生まれて初めての奇妙な感覚にさいなまれていた。
タタの中の何かが押し出された。それは、鳥かごの底に溜まった。
タタの中の押し出された空き場所に、黒い力が収まった。
痛みではない。
ひどく気色の悪い、受け入れがたい、言葉にできない感触だった。
「うあああ!俺、俺、どうなってるの?俺、どうなるの!」
自分が失われていく恐怖に身悶えし、タタは混乱して叫んだ。
メルトは蒼白になり、鳥かごの中に手を差し入れて、タタの手を握った。
「タタ!大丈夫だ!必ず救う!必ず助けるから!」
メルトはタタがきつく握り返してくる手をつないだまま、四ツ辻の肉屋を激しくにらみつけた。
「貴様、殺す!」
四ツ辻の肉屋は、釣られた鳥かごからにらんでくるメルトを見上げて言った。
「この肉体を殺したら、薄曇りの暗さは、タタの中に入ることになっている」
「何?」
「だから、いろいろ仕掛けを準備したって言ったでしょ。黒い力の入れ物がなくなるから、諦めないといけないことも出てきちゃうけど、仕方がないよね。ほら、私は世界に求められているから、いなくなるわけにはいかないんだよ」
「何を言って」
「だから、君が私を殺したら、タタを追い出して、私がタタになるってこと」
メルトは言葉を失った。
「どうする?黒くて、美しくて、選択肢を持つ強い力よ。君は何を選ぶ?」
最後まで戦って、君の黒い力を削り抜くのも悪くないと思っているんだけど、と四ツ辻の肉屋は笑った。
ヒルダは垂れ幕の内側で、ハラハラしながら事態を見守っていた。
話はほとんど聞いていなかったし、血まみれの四ツ辻の肉屋が気持ち悪くて仕方がなかった。
本当は、面倒で恐ろしいことから逃げ出したいのだが、メルトが気になって、足が動かなかった。
ひどく悪い事態になっている雰囲気は、感じ取っていた。
どうすることもできず、ヒルダはメルトを見つめ続けた。
突然、ヒルダは、後ろから伸びてきた手に口をふさがれた。
あまりのことに訳が分からず、パニックに陥った。
息苦しくて暴れたが、強い力で抑えつけられ、恐怖で力が抜けた。
呼吸のしにくさも相まって、少し意識が遠のいた。
「そうだ。じっとしてろ。いい子だ」
耳元でささやく男の声は、状況に似合わず、優しかった。
ヒルダが抵抗をやめると、男も少し力を緩めた。
鼻が解放され、呼吸が楽になった。
ヒルダは、害意の感じられない男の腕の中で、急速に落ち着きを取り戻していった。
ヒルダの体を拘束する方の男の腕は、硬質な黒い義手だった。
ヒルダは視線を動かして男を探った。
ヒルダを抱きすくめた姿勢のまま、男は垂れ幕の向こうを窺い見ているようであった。
「このまま、一旦部屋を出る。騒ぐなよ」
再び、男が耳元でささやいた。
こんな状況にも関わらず、ヒルダはドキッとした。
慌てて頷いて、男の意に沿うことを伝えた。
「いい子だ」
あやすような男の声に、ヒルダの鼓動は高まった。
意識してみると、拘束している割に、男の腕の力加減は、何ともいえず優しかった。
男の手からは血のにおいがしたが、それさえ今は、お互いが生身の人間であるということを確かめさせ、余計にヒルダの意識を刺激した。
何これ、ヤバイ、何これ、という、思考ともいえない言葉が、グルグルとヒルダの頭をめぐった。ヒルダの頬は真っ赤に火照った。
そのまま、半ば引きずられるように、よたよたした足取りで、ヒルダは男に連れられて行った。
錆びついているはずの鉄扉が音もなく開いた。
隙間をすり抜けるように、男とヒルダは部屋の外に出たのだった。