対決
四ツ辻の肉屋の地下室を染め上げたまばゆい光は、数分後、緩やかに引いていった。
ヒルダは、ゆっくりと目を開けた。
固い床があった。
カラカラに覆いかぶさるように、顔を伏せていたはずだった。
自分の下にいたはずのカラカラが、いなくなっていることに気がついた。
ヒルダは驚いた。
「ちょっと、カラカラは?」
ヒルダは身を起こし、辺りを見渡した。
カラカラはどこにも見当たらなかった。
タタは鳥かごの中で、うずくまっていた。
小山になっていた補助媒介の石が、なぜかなくなっていた。
鼻息の荒い脂ぎった四ツ辻の肉屋が、変わらずにいた。
「誰」
ヒルダは思わずつぶやいた。
シェイドがつながれていた場所に、シェイドはいなかった。
代わりに一人の男が立っていた。
白いシャツに黒いズボンという出で立ちの男であった。
シンプルな装いだけに、身体的なバランスの美しさが際立っていた。
ヒルダは、いい男、と反射的に思った。
男は冷えた目で、四ツ辻の肉屋を見ていた。
タタは鳥かごの中で、恐る恐る顔を上げた。
一体何が起こっているのか訳が分からず、タタは恐怖と困惑の中にいた。
四ツ辻の肉屋の呼吸はいよいよ荒くなり、カラカラの血にまみれた小さなナイフを投げ捨てた。
「100年、準備した。愉快な気持ちになるまで、いろんな仕掛けをこしらえて、地道に道具を集めた。だが、見よ。これが、黒い力の威力だ!ほんの少しつついただけでこれだ!ああ、たまらない!これほどの黒い力に出会えるとは!」
両手を振るっての熱弁だった。四ツ辻の肉屋が腕を振るうたび、脂汗が飛んだ。
ヒルダは顔を歪めて身を引いた。
「引き出したのは私だ!その黒い力を私がいただく!」
四ツ辻の肉屋は興奮して叫びあげた。
男は、静かに右手を上げた。
その手にフッと息を吹きかけると、黒い炎が現れた。
男は、その炎をタタの入っている鳥かごの方に掲げた。
炎は黒い刃となり、鳥かごの上部を目がけて鋭く飛んで行った。
タタは慌てて伏せた。
ガキッという大きな音がした。
黒い刃はかき消えた。
釣られている鳥かごは、揺れることもなかった。
「頑丈だな。厄介だ」
初めて男が声を発した。
ヒルダは、やばい、声もかっこいい、と口の中でつぶやき、白衣の胸元をぎゅっとつかんだ。
「カラカラは安全なところにいて無事だ。タタのことも必ず助ける。先に四ツ辻の肉屋を片づけるから、もう少しだけ待っていてくれ」
タタはハッとして顔を上げ、男の顔を見た。
男と目が合った。
瞬間的に、これはシェイドだ、とタタは思った。
男は、ヒルダを見た。
ヒルダはますます強く、白衣の胸元を握りしめた。
「ヒルダ、邪魔だ。どこかに行ってろ」
名を呼ばれ、話しかけられて、ヒルダの胸の鼓動は高鳴った。
男がなぜ、自分の名前を知っているのか。そんな些細なことを気にするヒルダではなかった。
「あんた、誰」
「メルト」
男メルトは答えて名乗ると、軽く顎先で、去れ、と指示した。
ヒルダは、カクカク首を縦に振りながら立ち上がり、素直に小走りで去った。
地下室入口付近の垂れ幕の内側に入ると、ヒルダはそっと乱れた髪をなでつけた。
白衣のポケットから手鏡と口紅を取り出し、ささっと口紅を塗りなおした。
ついでに、白衣も脱ぎ捨てた。白衣の下は、相変わらず露出過多で、どぎつい紫色のキャミソールワンピースだった。
そして、ヒルダは垂れ幕の隙間から、そっとメルトを覗き見し始めたのだった。
メルトと四ツ辻の肉屋は、対峙した。
タタは鳥かごの中から息をつめて二人を見ていた。
タタがごくりと唾を飲んだ時、四ツ辻の肉屋が動いた。
四ツ辻の肉屋は、速いスピードでメルトに手を伸ばしてきた。
その手は見る間に大きくなり、メルトの頭をすっぽりと包めるほどになった。
つかみかかろうとするその手をかわし、メルトは四ツ辻の肉屋に向けて駆け出した。
矢のような速さで、メルトは四ツ辻の肉屋の懐に入り、腹を殴った。
四ツ辻の肉屋は激しく吹き飛び、地下室の壁に激突した。
四ツ辻の肉屋はすぐに立ち上がり、メルトに向かって走り出した。
バネで弾き飛ばされたような加速を見せ、四ツ辻の肉屋はメルトにつかみかかった。
メルトの左の二の腕をつかんだ四ツ辻の肉屋の手から、灰色の靄がにじみ出した。
腕がちぎれそうな痛みに、メルトは眉を寄せた。
メルトの右手に黒い炎が生まれた。
メルトはその右手を、四ツ辻の肉屋に向けた。
四ツ辻の肉屋は黒い炎に包まれた。
「ぎゃ!」
四ツ辻の肉屋は手を離して飛び退き、一つの魔法陣に手をついた。
黒い炎は消え失せた。
メルトのつかまれた部分のシャツは溶けたように破れ、二の腕は火傷のようにただれていた。
鳥かごから二人の戦いを見るタタは、愕然としていた。
「何だこれ」
速すぎて見えない動きも多かった。人間のスピードではなかった。
そして、見たこともないような力が作用していた。
訳が分からないことだらけだった。
それでも、メルトはおそらくシェイドだろうと信じていた。
タタは、メルトが四ツ辻の肉屋を打ち倒すことを、懸命に祈り続けた。
メルトは、四ツ辻の肉屋を追いかけた。
膝をついている四ツ辻の肉屋に、素早く蹴りかかった。
四ツ辻の肉屋はその足をつかみ上げ、放り投げた。
今度はメルトが吹き飛び、壁に激突した。
衝撃で壁がひび割れた。
メルトは瞬間的に呼吸ができなくなった。
四ツ辻の肉屋が迫り、大きな拳で殴りかかってきた。
メルトは腕でガードし、間髪を入れず殴り返した。
メルトの拳は四ツ辻の肉屋の顔面に入り、四ツ辻の肉屋は激しく床を転がった。
転がった先で、四ツ辻の肉屋は素早く動き、一つの魔法陣の上に立った。
そして、呼吸を整えるメルトを見た。
魔法陣が輝きを増し、四ツ辻の肉屋が仕掛けた。
「黒い力よ、我が元に落ちて来るがいい!」
四ツ辻の肉屋の沼のような目から、薄曇りの暗さがあふれ出した。
その薄暗さは、あっという間にメルトを取り巻き、ひたひたと浸した。
メルトが気づくと、メルトの足元にも魔法陣があり、ぼんやりと薄暗く光っていた。
メルトの視界は奪われ、上下左右の空間認識も危うくなった。
床に足をつく感触がいつの間にかなくなった。
メルトはいつしか、幻影の中に落ちていった。
起きて。
いつまで寝てるの。
遠くから声が聞こえた。
呼びかけるその声は、次第に大きくなっていった。
起きて、起きてってば。
女の子の声だ。
その呼びかけは、だんだん近くなり。
「メルト!」
メルトは目を開けた。
「やっと起きた。もうみんな帰っちゃったよ」
制服姿のフロウが、学生カバンを持ちながら言った。
「部活がない日くらい、一緒に帰ろ」
白いブラウスに赤いリボン、赤と黒のチェックのプリーツスカート。
ハクキン地区にある名門高校の制服だった。
メルトが視線を落とすと、白いYシャツに青と黒のチェックのズボンが目に入った。自分も制服姿だった。
教室の机で居眠りをしていたらしい。
「俺は、寝ていた?」
「まだ寝ぼけてるの?」
フロウは明るく笑った。
「試験勉強のやりすぎじゃないの?メルトは、何でもできるんだから、もうそんなにしなくてもいいのに」
「え?」
「何もしなくても、1番だよ」
フロウが腕を絡めて、メルトを席から立たせた。
メルトはフロウと腕を組んで、並木道を歩いていた。
「ねえ、メルトは何がしたい?ほしいものとか、将来の夢とかある?」
並木道は、黄土色の光で満たされていた。
メルトはぼんやりと、腕に当たるフロウの胸の柔らかさを感じていた。
「フロウ、薬師の勉強は?」
「何のこと?ねえ、本当に今日のメルトはおかしいよ」
不満そうに口をとがらせ、フロウはメルトの顔を見上げた。
メルトは、はっきりしない頭を数回振った。
すまない、と言うと、フロウは笑顔を返した。
「私はこの間のテスト、ボロボロだったよ」
「そう」
「私ね、メルトのお父様とお母様が理想なの。私、勉強は苦手だし、お家で旦那様に、お帰りなさい、みたいなのがいいな。仲良し夫婦っていいよね」
「そう」
「メルトは何がしたい?何がほしい?メルトなら、何でも手に入るよ」
メルトが見下ろすと、フロウは口角を上げて、ニコリと微笑んだ。
メルトの家のリビングには、メルトの両親がいた。
リビングは、黄土色の昭明に照らされていた。
「メルトがこんなにかわいいお嬢さんを連れてくるなんて!うれしいわ、ゆっくりしていってね」
「リリス、ほら、あれがあったろう。先日の」
「分かっているわ。あなたがお土産に買ってきたメロン。切って出しましょう」
メルトの母親は、いそいそとキッチンに消えた。
メルトの父親に促され、フロウも応接セットのソファに腰かけた。
「フロウです。はじめまして。よろしくお願いいたします」
「しっかりしたお嬢さんだ。メルト、ほらお前もぼんやりしてないで、隣に座りなさい」
「そうよ、メルト。ほら、メロンも持ってきたわよ」
母親は、切ったメロンを乗せたお盆を、テーブルに置いた。
母親が父親の隣に座ると、父親はスッと母親の肩を抱いた。
メルトは立ったまま、3人を見ていた。
フロウは小首をかしげた。
「メルト、こういうのイヤ?」
フロウは立ち上がった。
メルトの部屋で、メルトはベッドに腰かけていた。
窓の外は薄暗かった。
部屋の戸口に、制服姿のフロウが立っていた。
「メルト、私ね、いいんだよ」
フロウは恥じらいで頬を染めながら、制服のリボンに手をかけた。
「メルトが、好きなようにしていいよ」
しゅるりと音を立て、リボンが外された。
フロウはリボンを落とし、そのままメルトのもとへ歩み寄った。
「私を見て」
ベッドに腰かけるメルトの目の前で、フロウはスカートのホックに手をかけた。
「メルトが望むものを、全部あげる」
ホックが外され、フロウのスカートが落ちた。
フロウはブラウスのボタンにも手をかけた。
半ばまでボタンを外すと、フロウは手を止めた。
胸元は開いて下着が覗き、ブラウスの裾から、スラリとした足が伸びていた。
フロウは、メルトの首に腕を回した。
「後は、メルトがして」
メルトは座ったまま、フロウの胸の谷間と、そこからへそまでのなだらかな曲線を見た。
「メルト、触って」
フロウが誘った。
メルトは少し視線を落とし、何かを思うように目を閉じた。
「メルト?」
メルトは目を開けた。
そして、手を伸ばし、フロウの頬に触れた。
フロウは、微笑んだ。
「もっと触っていいんだよ?」
メルトは、フロウの頬から手を離した。
「メルト?」
フロウが不思議そうな顔をした。
メルトは言った。
「きれいだ」
フロウは再び微笑んだ。
メルトは苦笑し、自分の胸を人差し指でトンと突いた。
「でも、反応しない」
フロウの笑顔が固まった。
メルトは続けた。
「君に名を呼ばれても、反応しない」
メルトはもう一度、胸をトンと突いた。
「君に触れても、反応しない」
メルトは小さくため息をついた。
「君はきれいだけど、魅力的じゃない」
メルトは、首に絡むフロウの手を外した。
フロウは戸惑いの表情を浮かべた。
メルトは立ち上がった。
「メルト!どうしたらいい?私、どうしたら?」
必死に言ってくるフロウの目を、メルトの黒いまなざしが貫いた。
「君のことは、まったくほしいと思えない」
メルトの手のひらに生まれた黒い炎が、瞬く間に刃となった。
刃は窓ごと、薄曇りの暗さを切り裂いた。
バリバリと悲鳴を上げるように、すべての幻影が割れた。
メルトは、四ツ辻の肉屋の地下室に立っていた。
床がボコボコとひび割れ、いくつもの魔法陣が崩壊していた。
四ツ辻の肉屋は口からゴボリと血を吐いた。
「何が気に入らなかった」
四ツ辻の肉屋は、血まみれの口で問いかけた。
「すべて。陳腐だ」
メルトは端的に答えた。
四ツ辻の肉屋の目からあふれる異臭が、ブルリと揺れた。
メルトはふと、わずかな隙間で考えていた。
幻影に、フロウもどきが登場した。
姿形は同じなのに、驚くほど別人であった。
その人をその人たらしめているものとは、一体何なのだろう。
ごく瞬間的な思考で、特に答えがでるようなものではなかった。
ただ、フロウならば、私のすべてをあげる、といった類のことは言わないだろうと思った。
きっと、ほしい、と言うのだろう。
メルトは一瞬のその考えに、ほんの少しだけ笑みをよぎらせた。
視力の優れたヒルダが、垂れ幕の裏でメルトの笑みに撃ち抜かれていた。




