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薄曇りの暗さの衝動

 四ツ辻の肉屋のすりガラスの引き戸を、シェイドは大きく開け放った。


 予想に反して、誰もいなかった。

 ただ、何とも言えない、ものの腐ったような臭いが、わずかに漂っていた。

 シェイドは、軽く鼻に手の甲を当て、目を細めた。





 肉の塊が入っているガラスの陳列ケースの真ん中に、張り紙がしてあった。


 『歓迎!シェイド様ご一行』


 仰々しい文字だった。

 そして、その下に、筆跡の違うやや小さな文字で、次のように書かれていた。


 『バカ二人は地下室で預かっている。地下室の場所?奥の扉を開けて、目の前の部屋に入れば入口があるから、勝手に来い』


 さらに、うんと小さな文字で、次のように締めくくられていた。

 あまりに小さな文字だったので、シェイドは一歩近づいて、紙に顔を寄せなければならなかった。


 『おまえもバカ。ざまあみろ。従業員一同より』


 シェイドは思わず、ぱちくりとまばたきをした。

 なんだ、この、子どものいたずらのような言葉は。

 先ほどからの悲壮な覚悟との温度差に、どんな感想を持つべきなのか分からず途惑った。


 こちらの気力を萎えさせる悪ふざけ、だろうか。

 胸に手を当てて考えると、なるほど、かすかないら立ちがすでにある。

 だとしたら、考えるほど相手の思うつぼ、である。

 シェイドはそれを放っておくことにした。




 陳列ケースを回って奥の間に続く扉を開けた。

 廊下をはさんで目の前のドアに、また、張り紙がしてあった。


 『熱烈歓迎!』


 大きな文字で書いてあった。

 その次に、小さな文字で何か書いてあったが、もはやシェイドは読まなかった。





 暗い廊下をまたぎ、目の前のドアを開けた。


 臭いが強くなり、シェイドは思わず顔をしかめた。

 暗い黄土色の灯りで照らされた部屋の真ん中に、大きな穴が開いていた。

 階段になっていて、どこまでも奥深くへ続いているように見えた。


 階段の場所が一目瞭然のその穴の横に、ご親切にも立て看板があった。

 斜め下の矢印とともに、大きな文字でこう書かれていた。


 『地下室入口』


 三たび、小さな文字で何事か書き連ねてあったが、勿論、シェイドは無視した。





 シェイドは穴に向かって歩き出した。

 部屋の床は、ぐにゅりとした妙な踏み心地であった。

 それだけのことに、心臓がドキッと鳴った。


 恐れたことを恥じるように、シェイドはかえって力強い足取りで、床を踏みしめながら歩いた。

 気のせいか、強く踏むたびに、きゅう、きゅう、という小さな音がするようだった。

 まるで、生き物の声のように感じた。

 考えたら負け、とばかりに、これもなかったことにした。





 シェイドは、部屋の中央にある石造りの階段へ踏み出した。

 向かう地下には、淀んだ薄暗さと不快な臭いが溜まっていた。

 シェイドは、右手に触れる石壁と、左手に触れる鉄の手すりの感触に頼りながら、先の見えない階段を下りて行った。




 大人の男が一人、やっと通れるくらいの階段だった。

 狭いトンネルを進んでいるような閉塞感があった。

 右手に触れる石壁は徐々に湿り気を帯び、苔むす感触になった。

 じめじめとした冷たい柔らかさは心地悪く、シェイドは右手で石壁を伝うことをやめた。


 左手の手すりを頼りに、シェイドはいつ果てるとも知れなかった階段を降り切った。

 それだけで疲労していた。


 階段と同じ幅の通路がまっすぐ続き、少し先で左に折れていた。

 暗い黄土色に満たされた通路は、息苦しさを感じさせた。


 シェイドは、自分の中に感じる清らかな力の流れに集中した。

 少し呼吸が楽になった。


 足に力を込めて前に進んでいった。


 通路を曲がってすぐ、3畳ほどの空間が開けた。


 その奥の壁に、両開きの鉄扉があった。

 古く錆びつき、固く閉ざされているように見えた。


 その鉄扉の前にも、立て看板が置かれていた。


 『パーティー会場はこちらです』


 大きく書かれたそれだけを確認すると、後の小さな文字は一顧だにせず、シェイドは鉄扉に視線を戻した。




 お母さん、行ってきます。




 心の中で呼びかけ、シェイドは唇を強くひき結んだ。

 鉄扉には、くぼみも突起も、手をかけるところは何もなかった。

 なので、鉄扉の真ん中で、右扉と左扉の片方ずつに手を置き、力を込めて強く押した。




 そして、きしみながら扉が開いた。













 黒い古びたオープンカーが、オウド地区の悪路をひた走っていた。

 ハンドルを握るアニヤは、アクセルを踏みこんだ。


 助手席のキングは、舌を噛みそうになりながら、アニヤとアネモネに向けて大声を張り上げた。


「薄曇りの暗さは、無秩序なリズムを持っている。常に悪さをするわけじゃない。発生して、そこにあっても、関わらなければ問題のないことも多い」


 部屋着から動きやすい黒の上下に着替えたアネモネは、後部座席で揺られながら、ハンドガンを調整していた。

 キングが振り向くと、聞いている、という合図に、アネモネは小さく頷いた。


「だが、ある時、衝動が高まると、急激に抑えられなくなる。周囲を巻き込み、異変は時空を超える。天変地異を起こすんだ」

「二人とも、つかまれ!」


 アニヤの鋭い声とともに、急ハンドルが切られ、車は激しい音を伴い左にカーブした。

 すばやく立て直し、更なる急ハンドルで右に進路を戻した。

 何か重いものが、車のフロント部分にぶつかってきた。


 ゴブッという嫌な音が続いた。

 フロントにまた重いものがぶつかってきた。

 それはそのままボンネットをよじ登り始めた。


「来やがったな」


 キングは激しく揺れる車に義手でつかまりながら、右手にサバイバルナイフを持った。


「なんだ、こいつは!」


 アニヤは、道路に少しずつ増えてくる異形のものたちを懸命に避けながら、目の前に迫る生き物に驚いていた。


「カエル?」


 アネモネがつぶやいた。

 確かにカエルによく似ていた。しかし、紫色の毛が生えている上、赤ん坊並みの大きさがあった。

 車に当たった衝撃で腹が裂けていたが、にじり寄るように、3本の粘着質な指をフロントガラスに伸ばしてきた。


「薄曇りの暗さが術を使ってる。こいつらはこの世のものじゃない!」


 キングはシートベルトをはずし、身を乗り出してナイフを振るった。

 カエルらしきものの頭が飛んで行った。


 急ブレーキがかかって、キングは落ちそうになりながら、しがみつくように座席に戻った。

 再びシートベルトをするまでもなく、停車した。


「こんなバカなことが」


 アニヤが言葉を失っていた。

 車を進めることができなくなった。


 世界を分断するように、深い森が立ちはだかっていた。

 ここから交差点を一つ進んだ先に、四ツ辻の肉屋があるはずだった。


 見たこともないような巨木が立ち並び、廃墟と瓦礫がその合間を埋めていた。





 キングはいち早く車を降り、後部座席に置いてある鞘付きの剣を取り上げた。

 サバイバルナイフを腰のホルダーに収め、手榴弾を手に取った。


「使い方、分かるか?」


 キングに聞かれ、アネモネは首を横に振った。

 アニヤが前の座席から立ち上がって見ているのを確かめ、キングは手榴弾のピンを抜いた。


 先ほど通ってきた道に向けて、キングが思い切り投げた。


「ふせろ」


 3人が体を低くすると、激しい爆音と震動が響いた。

 土煙がおさまる先に、見たこともない生き物たちが倒れていた。

 キングは体を起こし、帯剣しながら話した。


「俺は以前、別の国で、薄曇りの暗さが暴走したのに行きあったことがある。だが、ここまでおかしなことにはならなかった。衝動は高まり、発散され、収束していった」


 アニヤはすばやく動き、アネモネの持つハンドガンを座席越しに奪うと、安全装置を外した。

 アネモネが耳に指を入れるのと同時に、ハンドガンを撃った。

 車の後ろから牙をむいていた犬らしきものは、ズズズッと沈んだ。


 アニヤはハンドガンをアネモネに返し、キングと同じように後部座席から剣を取った。

 キングは琥珀色の瞳を森に向けた。


「今までずいぶん燃料をため込んできたようだ。小出しにしてくれたほうが、マシだな。薄曇りの暗さの興奮度合いがおかしい。まことの黒の影響も大きい。どうも、薄曇りの暗さは、まことの黒が好きでたまらないらしい。出会ってしまって熱狂してるんだろう。あとは、ウミの娘ヒルダ」

「ヒルダ?うちの組織のヒルダのことか?」

「そうだ。ヒルダは薄曇りの暗さを増強する補助媒介そのものだ。そういう能力をウミという母親から引き継いでいる。この調子じゃ、たぶん、すっかり取り込まれてる」

「え、あいつもいるの?」


 アニヤとアネモネは、ヒルダのことを思い出し、そろってげんなりとした顔になった。


「なんだ、二人とも。しけた面してんじゃねえぞ」

「そういえば、キングはヒルダの扱いが上手かった」

「うん。俺もアネモネも関わりたくないから、ヒルダはキングに任せよう」


 キングは肩をすくめて見せた。




 アネモネはハンドガンを持ち、車から降りた。アニヤもひらりと運転席のドアを飛び越えた。

 それぞれが装備を整えると、キングが声を発した。


「森を迂回したって結果は同じだ。なら、ど真ん中、突っ切るぞ。薄曇りの暗さは、自分の快楽を邪魔するものは排除しようとする。消されてたまるか。俺が先頭、アネモネが次、しんがりがアニヤ。アネモネは敵の前に出るな。援護しろ。アニヤ、道は俺が開くから、アネモネに敵を近付けるな」


 アニヤとアネモネは、久しぶりの感触に思わず目を見合わせた。

 異常事態の中、懐かしく温かい力強さの記憶に励まされた。

 キングの目も一瞬和らぎ、その後、激しい鋭さを宿した。


「行くぞ!」


 森に踏み込んだキングに、一糸乱れずアネモネとアニヤが続いた。


 










 シェイドが扉を開けると、くす玉が割れ、紙吹雪が舞った。

 パンパン、というクラッカーの音が鳴り、金銀の紙テープが飛び交った。

 シェイドの心臓は突然のことにドキドキと高鳴った。


 部屋の天井から色とりどりの垂れ幕が下り、視界を遮っていた。

 頭上のくす玉と、斜め前に対で置かれた、クラッカーを持つ熊のぬいぐるみ以外、先が見えなかった。


「来たよ!来た!」

「うふふふ!」


 垂れ幕の奥から、男と女の声が漏れ聞こえた。


 いたずら、という言葉がシェイドの頭をよぎった。

 怒りなのか、恐怖なのか、警戒なのか、どんな心境でいるべきものなのか、シェイドはわずかに混乱しながら、足を進めた。


 対になっている熊のぬいぐるみの中間を通り、垂れ幕を左右にかき分け、前進した。

 急に視界が開けた。




 階段と同じ石造りの部屋は、20畳ほどの広さがあった。

 一体何が光を発しているのか、やはり暗い黄土色の光が満ちていた。

 今までで最も強い腐乱臭が漂っていた。


 部屋の中心に3人掛けのソファが置かれ、四ツ辻の肉屋、ヒルダ、カラカラが座っていた。

 ソファの横の床には、赤、青、黄、緑、透明の輝く石たちが、小山のようにこんもりと置かれていた。

 一歩奥に、巨大な鳥かごが釣り下がっていた。

 その中に、タタが入れられていた。





「あはははは!見なよ、あの顔!やっぱりシェイドに意地悪すると、一番、気持ちいいわ!」


 真っ先に反応したのは、白衣を着て、腹を抱えるヒルダだった。


「どうせ、真面目な顔して来たんだろ。どうだ!バカバカしくて、怖かったろうが!あー、おかしい!」

「黒い、黒いよ。ああ、なんて力だ。あれを全部引っ張り出して、それから」


 あざ笑うヒルダの横で、四ツ辻の肉屋はシェイドをなめるように見て、ブツブツとつぶやいていた。

 タタとカラカラは青ざめ、言葉もなくシェイドを見つめた。





「ヒルダ、裏切ったのか」


 シェイドがやっとそう言うと、ヒルダはうれしそうに大きな声で言った。


「裏切ってねえよ!あたしを見限ったのは金庫バアだ!あたしは従業員として肉屋に雇われたから、仕事したまでさ!どうだ!あの張り紙は見たか!全部読んだら、恐ろしくてちびったろ?ものすごい恐怖だろ?あたしの考えた仕掛けだよ!」


 シェイドの中で、読まなくて正解だった、という答え合わせが終わった。

 

「四ツ辻の肉屋が、シェイドの感情を揺さぶれと言うからさ、からかわれるのが大嫌いなあんたのために、あたしがいろいろ細工してやったのさ!」


 ね、と同意を求めるヒルダに、四ツ辻の肉屋はシェイドをうっとりと見たまま、魔術は強い感情に反応しやすいからねえ、と応じた。


 ちぐはぐな世界観の理由が分かった。

 確かに不要に動揺した気がする。

 シェイドは少し悔しくなった。

 動揺を悟られないよう、いつも通り、ヒルダを無視した。


「俺は来た。俺に用があるなら、タタとカラカラは関係ないだろう。逃げも隠れもしない。二人を離せ」

「そうもいかない。用があるのは、その黒い力。まだ、全然足りない。引っ張り出すのに、カラカラに手伝ってもらわないといけないから、返せない」


 カラカラは、おびえて息を飲んだ。

 何をさせられるかと震える手でみつあみの先を握った。それでも、勇気を振り絞って言った。


「タタだけでも」


 鳥かごのタタがハッとした。

 しかし、四ツ辻の肉屋は、にべもなく言った。


「それもだめ。とても便利な入れ物だから。タタは大きな力との相性が抜群にいい。黒い力を貯めておいたら、いつでも出し入れ自由、加工できて楽しいし、黒い力で万一私が引き裂かれても、タタに逃げ込んだらいいし。それは、とても安全にできているかごだから」


 何言ってるか全然分かんない、とヒルダは退屈そうに爪をはじき始めた。

 鳥かごを握るタタの手も、カラカラと同じように震えた。

 四ツ辻の肉屋は、汗をだらだら垂らしながら、立ち上がった。


「準備はできている。ずーっと時間をかけて、丁寧に準備したんだ。さあ、始めようか」


 四ツ辻の肉屋の筋肉は張り詰め、白衣のボタンが引きちぎれそうになった。

 目から腐ったようなどろりとした気配が、こぼれ始めた。




 チャンスは1回だと、シェイドは狙っていた。

 おとなしく従うと見せかけて、急襲するしかない。

 化け物にしか見えないが、肉体がある。

 どこかに弱点があるはずだ、と考えた。 




 ゆっくりと向かってくる四ツ辻の肉屋に、シェイドも同じ速度で応じた。

 二人の距離が徐々に近づいた。


「く、黒い力」


 こらえきれないように四ツ辻の肉屋は、シェイドに手を伸ばした。

 シェイドは即座にスピードを上げた。

 その手をかわし、後ろに回り込み、四ツ辻の肉屋の延髄を蹴り上げた。

 四ツ辻の肉屋は、まったく揺らがなかった。


 シェイドは続けて、後頭部を狙って蹴ったが、四ツ辻の肉屋には何の変化もなかった。

 ゆっくり振り返る四ツ辻の肉屋の顎を、今度は狙った。

 確かに拳は顎をとらえたが、四ツ辻の肉屋は平然としていた。


 焦るシェイドは、四ツ辻の肉屋の目を狙い拳を振り上げた。

 四ツ辻の肉屋と目が合った。


 それは、目なのか。

 シェイドは、深い沼に引きずり込まれる幻想にとらわれた。


「きゃあああ!」


 カラカラの悲鳴が響いた。

 シェイドの腕は四ツ辻の肉屋につかみ上げられた。


「ああ、たまらない!もうすぐだ、もうすぐだ」


 うわごとのようにつぶやく四ツ辻の肉屋に、シェイドは引きずられて行った。




 よく見ると、部屋のあちらこちらに円が描かれていた。

 円の中には、見たこともない紋様や文字が書き込まれていた。


「ここの魔法陣から、見ているがいい」


 ソファから10歩離れた位置にある魔法陣に、シェイドは置かれた。

 スルスルと後ろ手に縛られ、地面からU字に飛び出た金具につながれた。


 四ツ辻の肉屋は、ソファに座っていたカラカラの腕をつかんで引っ張った。

 カラカラは引きずられて、ソファの前の魔法陣の上に座らされた。


「カラカラに何をする気だ、やめろ」


 シェイドが正気に返り、怒気を含んだ声で言った。


 四ツ辻の肉屋は、白衣のポケットから折り畳み式の古びたナイフを取り出した。

 刃を引き出し、ためらわず、カラカラの頬を切りつけた。


「!!ああ!」


 我慢できずにカラカラは悲鳴を上げた。

 頬の焼けつく痛みに両手を添え、うずくまって震えた。


「カラカラ!」

「ふざけんな!カラカラに手を出すな!」


 タタは悲壮な声を上げ、シェイドは怒りではちきれそうになった。

 シェイドは立ち上がろうとしたが、後ろ手に縛られた縄が、手首にくいこむだけだった。


「少し揺れた。まだまだ、もっとだ。黒い力を呼び起こすのだ」


 四ツ辻の肉屋は、大きな手に持った小さなナイフで、カラカラの背中を切り裂いた。

 痛みに悲鳴を上げ、逃げ出そうとするカラカラの足首を、大きな足で踏みつけた。

 カラカラは更に悲鳴を上げた。


「やめろ!何でもする!逆らわない!言うことをすべて聞くから!」

「そういうことじゃないんだな」


 シェイドの叫びは、あっさりと却下され、四ツ辻の肉屋の残虐な行いは続いた。

 カラカラは身をすくめて泣き叫んだ。


「ちょっと、あたし、意地悪は好きだけど、こういうのは、受け付けないんだけど」


 青ざめてつぶやくヒルダの言葉は、全員に無視された。

 タタは言葉を失い、かごの中で震えていた。


 切りつけられるカラカラの絶叫と、シェイドの懇願だけが、地下室に響き続けた。











 気が狂うような長い時間が過ぎた。

 カラカラの声が途絶えた。

 血だまりができていた。


「いい。だいぶ、いい。はちきれそうだ。割れるか。何を起こす?どうする?」


 四ツ辻の肉屋は全身、したたるほどの汗にまみれ、息を切らしてシェイドを見ていた。

 シェイドは、動かなくなったカラカラから目をそらせなかった。


「さすがに、やりすぎじゃないの?また、今度にしたら?もう、これ、まずいわよ」


 青ざめたヒルダが立ち上がり、血だまりに倒れ込むカラカラのところへ行き、膝をついた。

 カラカラの喉元に手を伸ばして触れ、少しだけ息を吐いた。

 ヒルダの仕草を見て、カラカラの命がまだ残っていることが、シェイドに伝わった。




 シェイドは、己の無力を呪っていた。

 黒い力とはなんだ。

 何もできない。

 望みもしないものを背負わされ、大切な人が傷つけられる。

 割に合わない。理不尽だ。

 苦しくて、悔しくて、憎い。


 でも、何より今は、カラカラを救ってほしい。


 誰か、何か、カラカラを助けてくれ。

 このままでは本当に死んでしまう。


「いやだ」


 叫びすぎてかすれた声が、シェイドからもれた。


 いやだ。カラカラが死ぬのは嫌だ。


 誰か。





 そのとき、シェイドの脳裏に、美しく柔らかい光が閃いた。

 

「フロウ」





 シェイドは、フロウから流れ込む不思議な力を思い出した。

 それは、温かくシェイドを癒す力だった。

 思い出してしまうと止まらなかった。


 フロウ、助けて。

 フロウ!フロウ!

 カラカラを助けてよ!

 フロウ!


「おお!黒い力が動きだした!出るぞ!出るぞ!」


 四ツ辻の肉屋がよだれを垂らして拳を握った。

 こいつ、気持ち悪い、とヒルダは、カラカラに身を寄せた。




 シェイドの中に、もう一つ、プラチナの光が浮かんできた。

 シェイドは迷わず呼んだ。


 助けて、ミカエル。

 悔しいんだ。

 何もできないまま終わるのなんて、嫌なんだ!

 ミカエル!来てよ!

 来てくれよ!




 ソファの横に、山と積まれていた補助媒介の石が、ゴトリと動いた。

 透明な石だけが輝きを増し、ガタガタと震動した。

 それらの石は、一度、光を収めたかと思うと、次の瞬間、ひと際大きく輝いた。


「うわあああ!」


 ヒルダは悲鳴を上げながら、カラカラに覆いかぶさった。

 光は地下室のすべてを照らしあげた。

 タタは必死で鳥かごにうずくまった。


「来たかー!」


 四ツ辻の肉屋は、喜びの声を上げた。


 シェイドは、喉に詰まった大きなものを無理やり飲み込んだような、何かがグリッと突き抜ける感覚をおぼえた。

 その後、力の奔流に押し流され、自分の居所を見失った。

 そのまま、心の求めた方へ流されて行った。













 寝室で、眠れずに泣いていたフロウは、その声を聞いた。


 フロウ、助けて。


 いよいよ幻聴か。

 会いたくて仕方がないシェイドの声が、フロウを呼んでいた。

 何だか余計に悲しくなって、フロウは泣き続けた。


 フロウ!フロウ!


 さすがに、おかしい。

 あまりにクリアに聞こえてきた。

 フロウは泣き止んだ。


 フロウ!


 フロウは横向きで寝ころんで泣いていたのだが、体をがばっと起こし、まわりを見渡した。


 フロウ、こっちだ!


 見上げると、半透明のシェイドがいた。

 夢だろうか、そうか、夢か、と半ば納得した。


 頼む!助けてほしいんだ!


 シェイドが必死に手を伸ばしてきた。

 友達が助けを求めている夢。

 フロウは、ドキドキしてきた。

 全然、問題なかった。


「行く!」


 夢でも会いたいと思っていた。

 もう、この夢はさめなくていい、と思えた。

 フロウは手を伸ばし、半透明のシェイドの手に触れた。


 フロウの胸が高鳴った。

 夢とは思えないくらいの感触があった。


 そのまま、フロウは手をひかれ、宙を舞い、シェイドとともにどこかの空間に移動した。




 寝室では、フロウの体が力を失い、ぱたりとベッドに倒れたのだった。

 

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