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真夜中の始まり

 真夜中になろうとする頃、シェイドは、四ツ辻の肉屋にたどり着く一歩手前の交差点で足を止めた。


 四ツ辻の肉屋は、うらぶれた商店街の一角にあるのだが、商店街とは名ばかりに、錆びついたシャッターが降り、放置されている店が多かった。

 もともと、人気のない寂しい場所ではある。

 しかし、今宵はひと際、薄暗かった。


 ほぼ満月の夜だった。

 月のわずかにかけている様子がわかるほどの、うっすらとした雲が、空全体を覆っていた。

 四ツ辻の肉屋の小さな店舗からは、すりガラスを通して、黄土色の鈍い光が漏れ出していた。

 一帯は、それらを光源に、薄暗さに満たされていた。


 周辺にまったく人の気配はなく、代わりに野良犬が妙にうろうろしていた。

 よく見ると、野良犬ではなかった。

 くぼんだ眼窩に眼球がなかったり、肋骨がむき出しになっていたり、何かが足りないものたちがいた。

 逆に、足が5本あったり、下あごが二つ重なっていたり、何かが多いものたちもいた。


 見たこともない不気味な生き物に、シェイドは身構えたが、その生き物はシェイドに関心を示さなかった。

 そこでシェイドもいろんな疑問は棚上げにして、その生き物を無視することにした。


 何をしてくるわけでもないが、立ち止っているほんのわずかの間にも、その生き物は数を増しているようであった。

 気がつくと、妙な形であったり異様に大きかったりする虫まで、湧いてきていた。


 四ツ辻の肉屋への侵入経路を迷ううちに、とりかえしのつかない変化が着々と進んでいるように思えて、シェイドは焦った。


 迷いを振り切って、正面突破することにした。




 四ツ辻の肉屋までの一区画を歩く間に、コンクリートの地面を割って、見たこともない植物が顔を出したり、すでに存在する樹木がしゅるしゅるとあり得ないねじれを見せて伸びたりした。

 それらの変化も、シェイドの進路を妨げようとはしなかった。


 ただ、耳が痛いくらいの激しい音が伴っていたので、シェイドは途中から耳をふさいで進んだ。

 大地がひび割れる震動のため、耳をふさぐと歩きにくかった。

 よろめきながらも前に進んだ。





 四ツ辻の肉屋のすりガラスの前に立った。


 ごごごごご、という余震のような響きをもって、これまでの騒がしさが急に静まった。

 シェイドは恐る恐る耳から手を離した。

 少し耳鳴りがした。

 それもすぐにおさまった。 

 

 やがて、背後からは、コーコーという呼吸するような音や、ガサガサという草をかきわけるような音、また、バサッという羽を広げるような音などが、無秩序に聞こえてくるようになった。


 シェイドは、すりガラスに伸ばした手を止めた。

 唇をかみながら少し考えた。

 それから、小さく頷いて、後ろを振り返った。



 異世界だった。



 コンクリートがでたらめに割れて、中から大小の木々が伸びていた。

 建物は全半壊し、見たこともない生き物たちが鎮座していた。

 犬のような大きさのバッタが跳ね、鳥のような大きさの蝶が飛んでいた。


 シェイドは驚愕しつつ見渡して、どこにも道らしき道がなくなってしまったことを知った。


 この恐るべき変化は、四ツ辻の肉屋への侵入をはばんでいるのではない。


 訪れたシェイドとその仲間たちを、閉じ込めるためのものなのだと正しく理解した。





 シェイドの背筋を冷たい汗が伝った。

 四ツ辻の肉屋は、世界を狂わせる力をもっている。

 シェイドは、非力な自分にひるんだ。

 目の当たりにした恐ろしさに足がすくみ、動けなくなった。


 タタとカラカラを思い、何とか己を奮い立たせようと、シェイドは震える両手に力を込めた。

 体側に沿って下ろした両手をぎゅっと握った。

 目を閉じ、何度も深呼吸をした。


 呼吸はなかなか整わなかった。

 あまりにも及ばない力を前に、取り返しのつかない結果しか浮かばなかった。

 胸の内を薄暗い影が満たし、大事なものをすべて失う幻想が恐怖をかきたてた。



 助けて、だれか助けて。



 小さな子どもに過ぎない自分が、声をあげた。

 情けなく、弱い、絶望的な姿がさらされ、シェイドを一層おびやかした。




 いきなさい。




 突然、細く、艶やかな声が、耳の奥で聞こえた。




 いきなさい。シェイド、あなたはいきなさい。いきなさい。




 シェイドは、ハッとして目を開けた。

 美しい子守唄の旋律までよみがえってきた。


 硬質で、明快で、温かな意思が、薄気味悪い気配を散らした。

 あれほど止まらなかった震えがやんだ。






 お母さん。






 シェイドは瞬間的に感じとった。

 あの声は、自分を捨ててはいない。


 生きろと言ったのだ。

 その道を行けと言ったのだ。


 耳に再生された声色は、明らかにそう伝えてくれていた。







 シェイドの瞳は輝く黒さで満たされ、四ツ辻の肉屋のすりガラスをにらんだ。


 何ができるかは分からない。

 痛みと恐怖ですくみ上がるかもしれない。

 タタとカラカラを救いだせないかもしれない。

 



 それでも行く。




 シェイドは、すりガラスを開け放った。
















 金庫バア執務室の手前にある続きの間から、バタバタとさわがしい音がしてきた。

 なんだ、こいつら、邪魔だ、転がってんじゃねえよ、などという話し声がしたかと思うと、金庫バアには見覚えのない黒髪の若者が、執務室に飛び込んできた。

 黒髪の若者は、気まずい表情で言った。


「あ、どうも、その、お久しぶりです」

「金庫バア、シェイドもタタもカラカラもいない!」


 黒髪の若者のうしろから飛び込んできたアニヤが、息せき切って告げた。

 アネモネも続いたが、執務室にいる見知らぬ老人にすぐに気づいて、小さく会釈をした。

 老人は、器用に片眉をあげて、会釈を返した。


 金庫バアは、頭を抱えながら、面々を見渡した。


「キング、あたしに最初に挨拶に来るのが筋ってもんじゃないのかい」

「すみません!や、そうじゃないかと思ったのですが、ギルさんに追い払われたっていうか」

「効率的だろう」

「キング、ギルの言うことを鵜呑みにするのはおよし。こいつは一番のろくでなしだ」

「金庫バア!そうなんだよ、キングが生きてたんだよ!」

「アニヤ、いい年してべそかいてんじゃないよ」

「ねえ、金庫バア、こちらはどなた?」

「お前も大概、マイペースだね。あたしの昔馴染みのギル。キングの命の恩人だ」

「はじめまして、お嬢さん、お名前は」

「アネモネです」

「アネモネ、あなたも泣いていたんだね。目が赤い」

「キングを助けてくれて、ありがとうございます」

「愛する人のために泣くほど、美しくなれる年頃だ。たくさん泣くといい」


「いい加減にしろ!」


 金庫バアの投げたオレンジが、ギルの額に当たって落ちた。

 キングがぎょっとして、恐る恐る尋ねた。


「ギルさん、よけないの?」

「ああ、あの人からの攻撃は、全部引き受けることにしているから」


 3人の若者は、訳知らず、おおーと頷いた。

 金庫バアは、顔を歪めて、恰幅のいい体を震わした。


「ぞっとする。アニヤ、シェイドがどうしたって?」


 空気に耐え切れず、金庫バアは話を真ん中に戻した。

 アニヤは我に返って、話し出した。


「まことの黒って、シェイドですよね?キングに聞くほど、シェイドに違いないと思ったのですが。この間のことでつぶれて部屋にいるはずが、いない。ベッドも冷え切っている。付き添っていたカラカラもいない。タタもいない。門番に聞いたら、それぞれ時間差で出て行ったと言うんです。タタは、昼間のうちに出ている。カラカラは夜になってから。シェイドが最後、ほんの少し前に、猛スピードで走って出て行った、そういう話です」


 ギルはマントをまとい始めていた。


「シェイド、その名で間違いない。一歩、遅かったようだ。本当に年はとりたくないものだ」


 金庫バアは厳しい表情で、ギルに尋ねた。


「行き先に心当たりがあるのかい」

「実は、ほんの先ほどから、強大な力のうごめきを感じている」

「何だい!そういうことは早く言え!」

「薄曇りの暗さだ」

「四ツ辻の肉屋か!お前たち!」


 キング、アニヤ、アネモネはすぐに頷いた。


「ギルの依頼を引き受ける。シェイドとこいつを対面させる。そのために、シェイドのチームを保護する。おそらく、チームそろって、四ツ辻の肉屋にいるだろう。じじいとばばあは足が遅い。あたしらも後から行く。お前たちは、先に行くんだ!早く行け!」


 3人は、風のように駆け出して行った。


 金庫バアは執務机から立ち上がった。

 ギルは帽子をかぶった。


 金庫バアは、手のひらにあるカギを見せた。


「あたしはバイクで行く。あんたは?」

「乗せてくれ」

「ついてきな」


 部屋を出る金庫バアの後を、ギルが追った。





 真夜中の非常事態が、こうして動き始めた。

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