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真夜中の少し前

 シェイドの研ぎ澄まされた感性は、不自然な気配をとらえていた。

 カラカラもタタも、もうこの近くにはいない、ということが、なぜだか見て知っているように理解された。


 不自然で薄気味悪いこの気配が、二人の行方に関連している。

 確信となって満ちる感覚に逆らわず、シェイドは足を進めた。





 夜中のダクの診療所は静まり返っていた。

 ダクは不在であった。

 時を選ばずあれほど頻繁に訪れる子どもたちも、なぜか一人もいなかった。

 シェイドは診療所の奥にある、カーテンで区切られた一角へ足を向けた。

 そこから、淀んだ気配が漂っていた。


 一息にカーテンを開けると、そこには顔中を包帯で巻かれ、頭をヘッドギアのようなもので固定されたマッドが横たわっていた。

 包帯の隙間からのぞく目は、うっすらと開かれていた。

 眼球が動き、シェイドをとらえた。


 シェイドは思わず目を細めた。

 目が合った途端、卵が腐ったような臭いを感じた。

 どろりとした暗さにはおぼえがあった。


「四ツ辻の肉屋へ行け」


 包帯の隙間から、いまだ腫れているマッドの唇が動いた。

 水分の足りない、粘ついた声だった。


「一人で行け」


 急に、灯りが明滅し始めた。

 不規則な明滅は、シェイドの癇に障った。


「タタとカラカラはそこにいる」


 マッドはそれだけいうと眼球を天井に向けた。

 それ以上動かず、浅い呼吸を繰り返していた。


 シェイドは一言も声を発しないまま、その場を後にした。

 迷いはなかった。


 シェイドは一人、四ツ辻の肉屋へと駆け出した。










 



 深夜には、後少し足りない頃合いに、金庫バアは執務机に向かっていた。

 目が疲れ、腰が痛み、やれやれとこぼしながら仕事をしていた。


 急に、部屋の外が騒がしくなった。

 ドタバタと何かをぶつけたり、倒したりするような音が続いた。


 何事かと顔を上げた。


 ドアが開く音がして、執務室の続きの間に足音が入り込んできた。

 足音は、まっすぐ金庫バアの部屋に向かってきた。

 執務室入口に垂れ下がる、幾重ものカーテンが揺れた。





 現れたのは、男だった。





 金庫バアの口があんぐりと開いた。


 男は、最後に会った時の記憶と変わらない風貌であった。

 大きなつばのある黒い帽子を、左手で押さえていた。





「まことの黒の気配が動いた」

「断る!」





 相変わらず、唐突な物言いで切り出した男の言葉を、金庫バアは即座に遮った。

 なるほど、年をとって、ずいぶんマシになったようだった。


 男は、金庫バアの第一声に驚いたように口を閉じた。


「また、ろくでもないことを押し付けに来たね!そのマントの下に物騒なものがあるんだろう!受け取らないよ!」


 金庫バアは、男に何かを言われる前に、早口でまくし立てた。


「大体、挨拶も抜きに、招かれてもないのに入り込んで、なんだい!身勝手にも大概にしろ!」


 男は言われるがまま、じっと立ちつくしていた。


「ヒルダを押し付けるだけ押し付けて、何の音沙汰もなし!追い出した途端にノコノコ来たって、遅いんだよ!」


 男が、わずかな驚きとともに反応した。


「ヒルダを追い出したのか」

「ああ、そうさ。あいつもろくでなしだ!あたしもまったく子育てには向いてはなかったけどね!」


 帽子の下で、男は小さく笑ったようだった。


「そばにおくと、駄目にしてしまうと思ったのだろう」


 金庫バアは、一瞬、言葉を失った。


「あなたは甘いから、戻りたいとあの子がせがんだら、また、そばにおくのだろう」


 金庫バアは、小さな躊躇の後、目を見開いて、大きな声を出した。


「たわけ!あたしは年をとったんだ!あんな危険なもの、組織においとけるわけないだろ!」

「年をとったか。確かにそうだ」


 男はゆっくりと帽子を脱いだ。

 もとは黒かった髪は見事な銀髪となり、後ろになでつけられていた。

 口元の傷は変わらずあったが、深いしわが刻まれたせいか、ずいぶん目立たなくなっていた。 


 黒曜石の瞳は濁りなく、背筋の伸びた老人だった。


「シメーヌ、あなたの目は以前より曇り、鋭さを失ったのだろう。今夜、この部屋の前にいた二人の少年は、薄曇りの暗さに応じる能力を響かせ合っていた。スパイアイがかかっていたので、こちらを見る前に沈めてしまったが」


 老人が半身になり、背後のカーテンをいくつも寄せて、金庫バアに続きの間を覗かせた。

 ペドロとドーブが倒れているのが、見えた。

 金庫バアは、眉を寄せた。

 今日の当番は別の二人組のはずだった。知らぬ間にペドロとドーブがとって代わったようだった。


 老人は、カーテンを戻し、金庫バアに向き直った。

 金庫バアは灰色の目で、老人を見据えた。


「あんたも年をとったね、ギル」

「ああ。私も年をとった。穏やかに侵入することができなくなった。昔ようには動けなくてね。うるさかったろう?」


 老人はかすかに微笑んで、マントを脱いだ。

 それを見て、金庫バアは眉をひそめた。


「ギル、その右手は」

「うん?これか?義手だ。左脚とともに、若者にくれてやったので」


 いたずらを見つかった子どものような表情が、老人ギルの顔をよぎった。


「キングという青年だ。両手足を失って死にかけていた。実に有能で、私を手伝ってくれている。君のところの子どもだろう?」


 金庫バアのあごが再びはずれそうになった。


「キングは生きているのか」

「放っておいたら死んでしまうありさまだった。あなたの気配を感じたのだ」

「魔術を使ったのか。手足を与え、命をつなぐなど、そんなことをしたら、あんたは」

「多くの力を失った。だが、それに見合う、それ以上の青年だ。それに何よりも」


 ギルは右の義手を妙にしみじみとながめた。


「これは、あなたと私をつなぐ糸の一つだ」


 金庫バアは絶句した。










 金庫バアはシッコク地区に生を受け、25の年までそこで暮らしていた。

 諜報活動を請け負う組織に生まれ、幼い頃から、生き抜くための多くの訓練を受けて育った。

 さまざまな気配を見極め見通す能力に恵まれた金庫バアは、早いうちから大人たちとともに活動していた。

 子どもであるがために有用とされる場面も多くあり、金庫バアの生活は組織の仕事で埋め尽くされていた。





 シッコク地区には、まことの黒と呼ばれる一族があった。

 何でもありのシッコク地区において、幅を利かせる勢力の一つであり、逆らってはならないものの代名詞でもあった。


 通常、遺伝することがないとされる魔術の能力が、色濃く受け継がれる一族こそ、まことの黒である。その上、その直系の魔術は桁外れの威力を秘めていた。

 一族は、その強大な力をもって、国や諸外国への発言力さえ有していた。




 金庫バア、シメーヌが10歳のとき、初めて、まことの黒の一族からの依頼を受けた。

 ギルとの出会いだった。

 ギルは一族の傍系であったが、強い力を持って生まれた。若いうちから海外を渡り歩き、一族の面倒事を片づける役割を担っていた。


 5歳年上のギルに、シメーヌはすぐに夢中になった。

 言われるがままに何でもした。

 ギルは、何度かシメーヌと仕事をすると、その組織からシメーヌを引き抜いた。

 まことの黒のやることに対し否やはなく、無論、それなりの金は動いたのだが、とにかく、シメーヌはギルの直属の手足となった。





 それからというもの、無茶苦茶ばかり命じるギルに、シメーヌは必死で応じ続けた。


 ギルの屋敷に住み込みで働いた。

 一族としての仕事だけではなく、ギルの身の回りのことまで任された。

 ギルは、シメーヌの存在に無頓着に過ごし、あらゆる無防備な姿をさらした。

 不在も多いかと思えば、女を連れ込む夜もあった。

 最初は、赤くなったり青くなったり、いちいちうろたえていたシメーヌも、次第に、そんなもんだと慣れてしまった。


 ギルの命じる仕事は、過酷だった。

 何度も逃げ出したいと思った。

 死を覚悟する瞬間もあった。

 それでも、ギルの顔を見ると、もう少しだけ頑張ろう、と思い直してしまうのだった。





 16歳のシメーヌが留守番をしていたある夜、傷だらけのギルが帰ってきた。


 しくじった、と短く告げ、シメーヌの部屋で倒れこんだ。

 ギルの唇の横には、特に深い傷があるようで、腫れて血にまみれていた。


 傷はふさいだが、疲れた。

 ギルはそうつぶやいて、目を閉じ動かなくなった。





 シメーヌは、このままギルが目を覚まさなかったらどうしよう、と恐ろしくなった。

 傷はふさがっているのだから、とにかく腫れがひくように冷やそうか。

 血の気が足りないのだから、何か口にするものを用意しようか。

 誰か人を呼んだほうがいいのか。


 いろいろなことが頭をめぐるが、シメーヌは結局、何一つできなかった。

 横たわるギルの傍らで、ただただ座り込んでいた。





 しばらくして、ギルは目を開けた。

 ギルを凝視するシメーヌと目があった。

 すると、あくびをして一言、ああよく寝た、と言った。


 瞬間的に、シメーヌの中で大爆発が起きた。


 いい加減にして!あたしがどんなに怖かったと思ってるの!


 この時初めて、シメーヌはギルに噛みついた。


 死んじゃうかと思った!!怖かった!怖かった!


 泣き叫び訴えるシメーヌを、ギルはしばらくじっと見ていた。

 シメーヌは激情が去るまで、ギルを責め続けた。


 シメーヌの感情が静まってくると、ギルはゆっくりと身を起こした。

 いつもと変わらない、何気ないまなざしでシメーヌを見ながら、ギルは問いかけた。


 どうしたらいい?


 シメーヌは、ハッとして口ごもった。

 シメーヌから、ギルに何かを望んだことはなかった。


 死なないで。


 ためらいながら、シメーヌは口にした。

 ギルは、少し、シメーヌに近づいた。


 分かった。それがあなたの願いなら。


 シメーヌがたじろぐほどの距離に、ギルはいた。

 あっさりとシメーヌの願いを引き受け、なぜか、シメーヌの手をとった。


 代わりに、あなたのすべてを私に捧げてくれないか。


 ギルは何を言い出したのか。

 シメーヌは本当に理解できず、首をかしげた。


 一瞬にして、シメーヌの唇が奪われた。

 何なら、その先まで、あっという間に持っていかれた。

 さすがの手腕であったが、シメーヌは正直、うんともすんとも返事をしていなかったのだが。




 ともあれ、この夜以来、ギルとシメーヌは寝室をともにするようになった。

 変わらず、ギルは不在も多かったし、さんざんシメーヌをこきつかった。

 時々、シメーヌが爆発して、ギルに泣いて文句を言うことが加わった。


 暖かな夜もたくさんあった。

 ベッドの中でギルは、何度も言った。


 シメーヌ、あなたの代わりはどこにもいない。あなたのすべては私のものだ。


 シメーヌは幸福に眠ったものだった。




 一生、添い遂げるものと疑いもしなかったある時、ギルから信じられないことを言われた。


 子を成す必要がある。別の女性たちと関係をもたなければいけない。





 まことの黒の傍系ではあるが、強力な力をもったギルは、一族の必然として、その強い血を次世代に残すことを課されていた。

 シメーヌには、いつまでたっても子ができなかった。調べたところ、そういう体なのだということが分かっていた。

 それが分かっても、ギルは何も言わなかった。

 シメーヌは気に病んだが、ギルの変わらぬ態度に救われていた。

 なので、この時のギルの言葉は、あまりにも衝撃が大きかった。





 25歳のシメーヌは、衝撃の中ではっきりと思った。


 この男はバカだ。


 必要なことは言わないくせに、余計なことは何でも言ってくる。こちらの気持ちを考えもせず。

 無駄に器用なのだから、シメーヌを一生騙して、こっそりやったらいいものを。

 何をこんなところで正直な人間になっているのだ。


 聞いてしまった。

 避けられない、でも決して受け入れられない事を聞いてしまった。

 聞きたくなかった。




 シメーヌは、それでも1週間、躊躇した後、ギルに別れを切り出した。

 ギルは静かに聞いて、シメーヌに大金を寄越した。

 シメーヌは黙って受け取って、その日のうちに屋敷を去った。




 その後、シメーヌはオウド地区に居を構えた。

 その気になれば、いつでもシメーヌの場所など見つけられるだろうに、ギルはまったく関わってこなかった。

 シメーヌは数年、死んだように生き、やっと未練という闇から立ち上がった。


 オウド地区では、打ち捨てられてどこにも行けない子どもたちが、ごろごろと文字通り転がっていた。

 転がっているから、シメーヌは拾うことにした。


 そうしてやがて組織ができた。

 シメーヌの名も捨てた。

 金庫バアは、ここで根を張り生きていくことを決心し、貫き、年を重ねたのだった。




 そんな経過があっての、ヒルダの存在は、本当に厄介なものだった。

 ヒルダの父親はギルかもしれないと思うと、感情以前の何かがうごめいて、金庫バア自身の手に負えなかった。

 ヒルダに対する接し方も、間違っていると頭では分かっていた。

 だが、本当にどうすることもできなかった。

 手離してやることさえ、できなかったのだ。


 金庫バアは、自覚の薄いまま、自分自身、ギルとの糸をつなぎ続けていたのだった。











 金庫バアの執務室で、ギルはマントや帽子を右腕かけ直し、話しだした。


「まことの黒の一族の先々代は、非常に気性が荒い人だった。彼が直系の頂点について以来、周囲との争い事が絶えなくなった。おかげで火消しに奔走することになった」


 ギルの静かな語りを、金庫バアはおとなしく聞いた。

 かつて愛した面影が色濃く残る、今のギルの顔を、しっかりと見たくなったのかもしれない。


「対処も甲斐なく、シッコク地区で対立する組織の攻撃が激しさを増した。最初の10年は、それでも小競り合いと言えるものだった。諸外国の干渉もかわしながら、何とか乗り切った。その次の10年は苛烈だった。一族の多くの命が散った。最後の10年は、言葉にできないありさまだった」




 先々代が命を落とし、先代が取り仕切るようになると、一族の士気は上がった。

 だが、手遅れだった。

 一族を根絶やしにしようとする動きは、激しさを増していた。

 対立する組織だけの力ではなかった。

 言いなりにならない一族を危険視した、国政を担う一派が加担していた。

 戦い続けた日々が憎しみを募らせ、もはや、交渉の余地を超えていた。


 対立組織は、国の後ろ盾の元、強力な補助媒介を惜しげもなく使い、直系に匹敵する魔術を仕掛けてきた。

 また、あらゆる最新の武器や無尽蔵ともいえる兵力が投入された。


 丈高い山に囲まれたシッコク地区は、その性質からも、秘められた場所であった。

 それほどの戦争状態であったが、国の他の地域には、多くの事実が伏せられていた。

 目隠しをする魔術が一役買っていた。




「とうとう先代が落ちた。亡命するものも多く、残る戦力も分散した。そんな中、たった一人の直系の子を連れて、母親が逃げた」


 ああ、そういうことかい、と金庫バアは口の中でつぶやいた。


「母親は、まじない歌の能力を持つ女だった。子どもの持つ黒き輝きを覆い隠すため、子どもが生まれたときから、子守唄を歌い続けていた。おそらく、子どもの成長に伴い、自力で自分を守ることができるよう、緩やかに外れていく類の覆いだったのではないかと推測するのだが」




 やがて、母親は敵の手に落ちた、と伝わってきた。

 しかし、一緒だったはずの子どもの行方はようとして知れず、生死不明のまま、年月が流れた。


 生き残った一族は、各地に散らばり、息をひそめ、復興の時を待っていた。

 ギルは世界を回り、一族の消息を尋ねながら、直系の子どもを探し続けていた。

 半ば諦めてもいた。

 そんな中、張り巡らされた探知の魔術に、とうとう、まことの黒の気配が触れた。




「同時に、薄曇りの暗さも勢いを増している。衝動が高まって、まことの黒の力をからめとろうとしている。どうも、薄曇りの暗さは、まことの黒に引き寄せられるところがある」


 なんの説明もなく、有無を言わさず、まことの黒の子どもを差し出せ、と言わなかった男もまた、少しは成長したのだろうか。

 そんなことを思いながら、金庫バアはギルに尋ねた。


「いつ、あたしのところに探知の魔術を仕掛けた。ヒルダを連れてきたときかい?」


 ギルは、少し瞳を揺らした。


「もっと以前。あなたの深いところとつながっていられた時に」


 金庫バアは、もはや何度目になるか分からないが、口をあんぐりと開けた。


「そんなに精度のいいものではない。あなたの周囲の気配を読み取るくらいの、そう、そのくらいのもので」

「のぞき魔」

「いや、誤解だ。別れてからは回路を切っていた。まことの黒のことがあって、念のため、しかも、まことの黒に関してのみ回路を開いたのだ。嘘ではない」


 少し早口になったギルを横目で見ながら、金庫バアは頭痛をおぼえた。

 ギルは、少し笑みをふくんだ声で言った。


「回路を消し去ることはできなかった。この傷も」


 ギルは厚い唇の横に刻まれたしわに手を触れた。


「今は目立たなくなったが、あなたが何度も触れてくるので、消すことができなかった」


 金庫バアは、何とも懐かしい気持ちになった。

 そんなこともあったか、と遠い日を思った。

 感慨にふけっている場合じゃない、今をどう取り仕切るか考えねば、と、金庫バアは己を立て直そうとした。

 もう自分は、ギルの言いなりになっていた小娘ではないのだから、としわの増えた両手を見た。

 

 そんな金庫バアに、ギルがまた話し始めた。


「実は、この件がすんだら、隠居を考えている」


 金庫バアは何だか驚いた。

 ギルと隠居という言葉とが、あまりに不似合いで結び付かなかった。


「ウミも死んだ」


 その名に、金庫バアの指が小さく反応し、ピクリと動いた。


「後継者も育てている。やるだけのことはやった。この件が片付いたら、私の旅ももう終わりだ。大体、体も思うように動かないし、体力的にも厳しい」


 ギルの言葉を聞き、金庫バアは過ぎた年月を思った。

 常に前線に飛び込んでいたこの男が、そんなことを言うだけの時間がたったのだ。

 潮時、幕引き、何というのがふさわしいのだろう。

 次世代に席を譲り、これほどの男が表舞台を、まあ裏街道だが、去ろうとしている。

 そんな時が来たのか、と金庫バアはよく働いた自分の手をなでた。




「私は、あなたのもとに帰ってはだめか」





 金庫バアの手が止まった。

 ギルは何を言った?

 

「たまげた。バカじゃないのか」


 金庫バアの口から本音がこぼれた。

 ギルは苦笑いを浮かべた。


「私は愚かで、いつも自分の都合で動いた。やっていることもその都度、強引だし、遠慮もない。しかも正しいかといえば、そうとも言えない」

「なんだい。よく分かっているじゃないか」

「だらしないところも多かった。でも、そんな私を、あなたはいつも許した。あなただけは許した」


 この男は、金庫バアを絶句させるのが、実にうまい。


「今回で最後だ。あなたはまた、許すのだろう」


 腹立たしい確信を乗せて、ギルは金庫バアに言った。


「あなたが、私の果て、だ」


 金庫バアは、体の奥底からくる、深い深いため息をついたのだった。


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