再会
カラカラが戻って来ない。
シェイドは、タタも不在の部屋で一人、ベッドから体を起こした。
少しふらついたが、心身に妙な軽さがあった。
記憶をたどると、わずかに自分の所業を思い出した。
くすぶるものが噴き出した分の軽さかと、ため息をついた。
あるいは、フロウとミカエルを失ったゆえの軽さか。
何だかぼんやりとしつつ、頭の奥の方が、冴えた感覚もする。
その冴えた部分が、何とも言えない、不可思議な空気を感じとっていた。
かつてない、清明で清浄な流れがシェイドの中にあった。
何かある。
予感に導かれるように、シェイドは部屋を出た。
心配をかけたアネモネに報告にいく、と、カラカラはそう言っていた。
シェイドはアネモネの部屋に向かった。
701とプレートが出ている部屋にたどり着くと、ドアが、なぜか薄く開いていた。
いつもと違う不用心な様子に、シェイドは少し緊張し、ドアホンを押すことをためらった。
声をかけるか、中をこっそり窺うか、ほんのわずかの間、考えた。
そのドアの隙間から、突然、よく知るのどかな声が聞こえてきた。
「俺の女になってよ」
シェイドは凍りついた。
これはマズイ、という言葉が、瞬間的に立ち上がった。
場合によっては半殺し、という言葉まで付いてきた。
「アニヤ、私は」
よく知るもう一つの声が揺れながら響いてきた。
シェイドは、まわれ右した。
うん、カラカラはここにはいない、たぶん、同じ理由でいない。
シェイドはそう理解し、かすかな物音をたてることすら恐ろしかったので、開いたドアもそのままにした。
そして、先ほどの予感のありかは、絶対にここじゃない、と一人頷いて、立ち去ったのだった。
ソファに座るアネモネに、アニヤがひざまずいていた。
ややまなじりの下がったアニヤの目は、決して眠そうでもなければ、穏やかでもなかった。
アネモネは、ソファと同色の生成りのクッションを胸に抱きしめながら、追いつめられていた。
「私は、まだ、分からなくて」
アネモネは、アニヤの激しい視線から逃れるように、顔を伏せた。
「顔上げて」
「いや」
「こっち見て」
「いや」
幼子がイヤイヤするように首を振ると、アネモネの短い銀髪がサラサラと揺れた。
アニヤは焦れるようにチッと舌打ちし、アネモネの抱くクッションを力任せにはぎとった。
そして、ひざまずいたまま、アネモネの顔に両手を伸ばし、しっかりとホールドした。
「こっち見ろよ」
アニヤに顔をおさえこまれ、アネモネはまっすぐにアニヤと見つめあうことになった。
アニヤの目は熱情をたたえ、アネモネを射すくめた。
アネモネの全身が震えた。
アニヤの両手は、その震えもおさえこんだ。
「愛してる」
言ってしまうと、もう止められなかった。
アニヤは片足をソファに乗り上げ、アネモネの頭をかき抱いた。
「全部、準備した。ミドリ地区だ。家も仕事もある」
「くるし、アニヤ、苦しい」
「アネモネ、俺と一緒に生きてよ」
もう一度アネモネの顔を両手で挟み、今度は、上から見下ろして告げた。
ためらいに瞳を揺らすアネモネが、何かをいう前に、アニヤはアネモネを抱きしめた。
ごほん。
アニヤの右手が、アネモネの背中を滑り、部屋着の裾をたくしあげて、素肌に触れた。
その右手は熱かった。アネモネの褐色の肌が粟立った。
思わずのけ反りさらした首もとに、アニヤの唇が落ちてきた。
逃れようと首をすくめるが、アニヤの左手が強い力で後頭部を支え、かなわなかった。
ごほん。
二人はソファーに倒れこんだ。
体が密着した。燃えるように熱かった。なまめかしい湿度があった。
上に乗ったアニヤの右足は、アネモネの足の間に割って入った。
アニヤの右手はせわしなく動いて、アネモネのハーフパンツの裾から入りこみ、太ももを撫で上げた。
アネモネが体の芯からくる感触に、ああ、と声をもらすと、アニヤがわずかに息を飲んで、アネモネの瞳を見つめた。
ケダモノ、とアネモネの唇が音もなく言葉をつむいだ。
濡れた瞳を見合わせたまま、アニヤの薄く開いた唇の奥で、舌が左から右に動いた。
アネモネは、食べられる、と思って、きゅっと身を縮めた。
そのせいで、アネモネの足が、予想外にアニヤの右足を締め付けた。
アニヤは直後、まるで痛みを感じたように眉を寄せた。
どうしようもねえな、とあえぐようにつぶやき、アニヤはゆっくりとアネモネに唇を寄せた。
ごほん。ごほん。
「おい。さすがにいい加減にしてくれ」
アニヤとアネモネの唇は触れあうことなく、二人はぴたりと動きを止めた。
おぼえのない男の声が、室内の近いところから聞こえた。
次の瞬間、アニヤが素早く身を起こし、アネモネをかばうように男へ対峙した。
部屋の入口に立つ黒髪の男は、アニヤたちと変わらない年の頃で、開襟シャツにジーンズという、ありふれた服装をしていた。
一目で普通と違うのは、左腕であった。
ひじから下が、黒い義手であった。
男は右手で顎をさすり、あきれるような、恥じ入るような、何とも言えない表情をしていた。
アニヤとアネモネは、男のことを理解しかねて、警戒したまま、黙っていた。
「気配を消してたうちは、まだ分かる。だが、気配丸出しでアピールしたのに、放置かよ」
男は、少し間をおいてから続けた。
「今でも、俺の気配には、無頓着なんだな」
アニヤとアネモネの目が、驚愕のあまり見開かれた。
その低い声に、聞きおぼえはなかった。
だが、その顔、何よりその琥珀色の目には、かつてともに生きた仲間の面影が、息づいていた。
「キング、まさか」
アニヤの声は、半ば疑問形だった。
あまりのことに、思考が追いつかなかった。
アネモネは、ソファの上にへたりこんで、動けなくなった。
アニヤより少し背が高い、がっちりとした体躯の青年は、確かに気配を消すこともなく、ただそこにいた。
なのに、あまりにも、存在感が自然に溶けて馴染んで、アニヤもアネモネも異変として感じ取れなかった。
その目の力強さを確認するまでもない。
アニヤもアネモネも、これはキングだ、と体が先に信じていた。
キングは、少しばつが悪そうに、右手を軽く上げた。
「よ、久しぶり」
アニヤとアネモネは返事ができなかった。
キングは、眉を上げ、しずしずと右手を下げた。
「いや、なんて言っていいか、分かんないもんだな」
心底困った顔で、キングは短い黒髪をかきまわした。
「二人には、二度と会う気はなかった。合わす顔がなかったし、もう俺はシッコクの人間だから、二人を巻き込むのも嫌だった」
「じゃ、何しに」
アニヤが思わず尋ねた。
反応を得て力づけられたように、キングは続けた。
「俺を救ってくれた恩人が、人を探しているんだ」
キングは、次のように説明した。
まことの黒と呼ばれる一族がいる。
闇の仕事でヘマをした俺を救ったのは、その一族の男だった。
さらに、両手足を失った俺に、右手と左脚をゆずってくれた。
まことの黒の一族は、とんでもない魔術を使う。
その恩恵を俺は受けたのだ。
恩人の男の手足は、いまや何の違和感もなく、俺の手足になっている。
以来、その恩人のもとで働いている。
まことの黒の一族は、訳あって解体したのだが、直系の跡継ぎが行方不明になっていた。
男はめぼしいところに探知の魔術を張り巡らし、探し続けていた。
その探知の魔術に、とうとう、まことの黒の気配が触れた。
それは、まだ淡く染みだした欠片のような気配で、明確にとらえきれない。
そして、同時に、薄曇りの暗さと呼ばれる、すべてを台無しにする破滅の力も動き出している。
まことの黒の跡継ぎを早急に見つけ出したい。
その気配は、金庫バアの領域にある。
「金庫バアの領域なら、古巣だろう、と。恩人は人づかいが荒いんだが、遥か遠き国の言葉を持ち出した。立ってる者は親でも使え、だと」
「親って」
アニヤが呆然と口をはさんだ。
キングは頷いた。
「親はいないが、家族と思えるのは二人いた。俺を」
キングは、まっすぐに二人を見た。
「俺を助けてくれないか」
アニヤは唖然とした。
キングが死んだと理解していた現実を塗り替えるのは、簡単ではなかった。
現れたキングは、頼みごとをしてきた。
何なんだこれは、と繰り返し思う間に、アニヤの奥底から、沸々と怒りがわいてきた。
アニヤは、キングに殴りかかった。
キングは間一髪、それを避けた。
アニヤの二発目のこぶしを、キングは義手で受け止めた。
「貴様!黙って殴られろ!」
「アニヤ、ずいぶん、動きが速くなったな」
しみじみ言うキングに、カッとなってアニヤは叫んだ。
「てめえのせいだろうが!こんなに早く動かねえといけなくなったんだよ!」
「悪かった」
キングは器用に義手でこぶしを受け流し、アニヤを抱きしめた。
アニヤは全身が熱くなった。
思いもよらない激情がこみ上げてきた。
「アニヤ、アネモネ、チームのもう一人は他にいるのか」
「てめえの他にいるかよ」
アニヤの声は潤み、かすれた。
キングがアニヤを抱きしめる腕に力をこめた。
「今もその席は俺のものか。うぬぼれていいなら、頼む。俺の命の恩を返さないとならない」
「何だよ、勝手に死んで、勝手に生き返りやがって」
「俺の不始末を、ともに背負ってくれないか」
アニヤはキングに腕をまわし、その肩に顔をうずめ、こらえきれない涙を流した。
アネモネは夢心地だった。
動き出した時の中に、まさかのキングがいる。
泣いているアニヤを愛おしげに抱いている。
満たされていく思いと、刻まれた記憶の痛みに翻弄され、アネモネは、これは夢なのだと思えて仕方がなかった。
ソファから立ち上がり、静かにキングに歩み寄った。
足元がフワフワしていた。
キングは、左腕でアニヤを抱いたまま、近づいてくるアネモネの頬に、右手で触れた。
アネモネは、その右手を両手でさわった。
馴染みのない、知らない手だった。
しかし、夢とは違う、リアルな感触があった。
「アネモネ」
キングが呼ぶと、アニヤは嗚咽をこらえながら、キングのもとを離れた。
アネモネはもう一歩、キングに近づいた。
じっと見上げてくるアネモネに、キングが引き込まれるように顔を寄せた。
パアンッという派手な音が鳴った。
アニヤの嗚咽も一瞬にして止まり、思わず口が動いた。
「音速」
キングは打たれた頬に義手を添えた。
「私も、こんなに速く動かなければいけなくなった」
キングのせいよ、とアネモネは何度も繰り返した。
そして、泣き崩れた。
キングはしばしの自失のあと、苦しい顔をして目を伏せた。
四つ辻の肉屋の一室で、タタは後ろ手に縛られ、壁際に座らされていた。
じりじりとした気持ちでいっぱいだった。
しばらくすると、ドアが開いて、知った顔が連れられてきた。
タタと同じく青ざめているカラカラだった。
カラカラは、タタに気がつくと、ハッとした後に、すぐホッとした表情になった。
連れてきたヒルダは、そこに座ってな、とカラカラをタタの方に押し出した。
やはり後ろ手に縛られているカラカラは、タタの横に座った。
カラカラの体温にふれ、タタは今までの恐怖が和らぐように感じた。
二人はひそひそと話しだした。
お互い、ペドロとドーブに騙されたと知った。
「なんでつかまってんだよ、おめえ」
「あんたの命が危ないけど、シェイドはあんなだから、カラカラしかいないって言われて。しょうがないじゃん。てか、あんたがつかまったのが悪い」
「信じてのこのこ来てんじゃねえよ」
「てか、本気でつかまってるし」
「俺のことはいいんだよ。ペドロなんかの言うこと聞いて騙されてんじゃねえよ」
「あんたこそ、ドーブの話、真面目に聞いて、だっさ」
「なんだと、てめえ」
「はあ?本当のことしか言ってませんけど」
「ずいぶんと余裕だね、あんたたち」
ヒルダは、タタとカラカラを横目でにらんだ。
「まあ、どうせ今だけだから、別にいいけど」
ヒルダは、白衣を着ていた。
上機嫌に鼻歌を歌いながら、かごに山盛りのレモンを布巾で拭いていた。
タタとカラカラは、言い合いで不安を紛らわしているだけだった。
本当は二人とも分かっていた。
これは、実によくない状況なのだと。




