ミドリ地区のフロウ
朝、目覚めると、フロウは一人だった。
家の中は、しんと静かであった。
誰もいないと分かっていても、すべての部屋を見て回らなくては気が済まなかった。
「お母さん、お母さん」
小さくつぶやきながら、3つの部屋を見て回った。
小さな家の中は簡単に、母の不在を知らせてくれた。
不在を確かめると、胸の中にかすかな戸惑いがめぐった。朝、目覚めて一人という状況は、これまでも何度もあった。しかし、フロウはいつまでも慣れることができずにいた。
台所のテーブルの上には、丸パンとミルク、オレンジが置いてあった。フロウのために、母が用意してくれた朝食であった。母が、自分のために用意してくれていたことに安堵し、フロウは朝食をたいらげた。
さて、今日一日、何をして過ごそうかと、フロウは考えた。昨日はずっと一人で家にいた。少し人恋しかった。天気がいい。外出することにした。
洗面台はフロウの背丈では、若干高すぎる。イスをくっつけ、その上に乗り、立ち膝で顔を洗った。
鏡から、まだ眠そうな栗色の大きな瞳が見つめ返してきた。寝癖がついてぼさぼさの、背中までの髪の毛を、濡らした手ですいた。
お気に入りの水色のワンピースを頭からすっぽりとかぶり、ピンクのサンダルを履いて、外に出た。
「あら、おはよう、フロウ」
「おはようございます、おばさん」
フロウの住むアパートメントの大家、タツとばったり出会った。小太りのタツはハンカチでせわしなく顔の汗を押さえていた。
「今日も暑くなりそうね。フロウ、今日も一人なの?マルタはどうしたの」
「お母さんは、出かけています」
初老のタツの矢継ぎ早の話し方に、フロウはいつも圧倒される。母マルタが悪く思われないように、答えを間違わないようにしなくては、と体を固くした。
「まあまあ、マルタは本当にしょうがないね。また、男の所だろう。ご飯、ちゃんと食べてるかい?」
「はい、食べました」
「フロウはどこ行くの」
「図書館に行きます」
「ああ、それがいい。もう、お母さんのことなんかほっといて、じゃんじゃん勉強しなさい。何かあったら、何でもおばさんに言いなさい。はい、いってらっしゃい」
「ありがとうございます。いってきます」
フロウは、なるべく不自然じゃないように気をつけながら、できるだけ早足でタツから離れた。後方から、タツが近所の人と「また、マルタが…」と話す声が聞こえた。聞かないように努めた。
ここは、トウトという名の大都市である。トウトは、貧富の差でくっきりと区分けされている。フロウが住む市街、ミドリ地区は、主に中流階級の市民が住んでいた。上流階級の住む屋敷街、ハクキン地区を仰ぎ見つつ、下流階級の貧民街、オウド地区を蔑む、ほどほどの安定が保たれた街がミドリ地区であった。
フロウは、ミドリ地区から出たことはなかった。遠くに大きなコンクリートのビルが見えたり、逆側には、大きな石造りの塔が見えたり、もっと遠くにはなだらかな緑の山が見えたり、別の側には、切り立った絶壁を組み立てたような赤い山が見えたりした。
フロウにとっては、どれも風景にすぎず、生きる世界は、ここ以外、どこにもつながってはいなかった。
フロウは自分が何歳なのか分からなかった。フロウの年を聞かれると、母マルタは「5つか6つか7つ」などと答えた。マルタは、細かいことを気にしない質なだけで、決してフロウに関心がないわけではないことを、フロウは知っていた。
「かわいいフロウ、大好きよ」
マルタはしばしばそう言って、フロウを抱きしめた。
「私も大好き、お母さん、大好き」
フロウは満面の笑みで抱き返した。フロウが最も幸せな瞬間だった。
フロウは大好きなマルタのために、炊事も掃除も頑張っておぼえた。
「フロウったら、信じられないくらい、いい子ね!」
マルタは、フロウの髪の毛を両手でくしゃくしゃとかき回した。フロウはうれしくなって、キャーとはしゃいで、マルタの髪をくしゃくしゃにし返した。
マルタはフロウを愛するが、同時に、常に、男を愛していた。気がつくと相手が変わっているので、マルタが誰と会っているのか、フロウにはよく分からなかった。
フロウが1つか2つか随分幼いころ、遠い記憶の中で、自分が男性にあやされている感覚が残っていた。マルタが不在のとき、よく抱きあげられ、寝かしつけてくれた曖昧な思い出がある。
父なのか、違う男なのかさえよく分からない。マルタの顔を見ると、大好きという気持ちでいっぱいになり、フロウは父のことを、いつも聞きそびれてしまう。
曖昧な思い出は、何とも言えない安堵の感覚とともに、憧れめいた気持をフロウにもたらしていた。
マルタは時々、フロウと男を対面させた。フロウはそのたびに、胸がいっぱいになった。自分を好きになってもらいたくて、すぐに懐いた。男たちもフロウに優しかった。
しかし、予告なくマルタが姿を消すときは、相手の男にマルタをとられたような気がした。そして、ふと気付くと、フロウの懐いた男たちはいなくなってしまうのだった。
マルタは奔放で美しい女だった。アーモンド形の大きな瞳、栗色の長いウェーブがかった髪、すらりと伸びた手足、太陽のような存在感があった。
あっけらかんとした気質で何とも魅力的なため、周囲もマルタを嫌いにはなれなかった。しかし、市街では異端の目立つ存在であった。勿論、女たちの嫉妬と軽蔑の的でもあった。
何となく受け入れられている、何となく異端の家の子、フロウには、なかなか同年代の遊び相手ができなかった。フロウは、近所の子どもたちやその親たちの視線から、見えないバリアのようなものを感じ取っていた。
フロウは寂しいことが多かった。
図書館のキッズスペースには、近所の子どもたちが集っている。フロウはタツと会話したことで、なぜだかとても心細くなった。楽しそうな子どもたちの中に入って行くことに、おじけづいてしまった。そこで、行き先を、裏通りの古書店に変えた。
飴色のガラス戸を引いて、薄暗い古書店に、フロウは足を踏み入れた。入ってしまえば何ともないが、戸を開けて入店する瞬間、いつもかすかなためらいを感じる。
目に見えない線を一つ越えないと、入れない感じがした。自分が子どもだからではないかと、フロウは考えている。フロウが容易に越えられない線を、大人たちはすいすい越えていく。
ガタガタギタガタと音を立てる引き戸は、フロウをちょっと緊張させる。
「いらっしゃい、フロウちゃん」
フロウの緊張を解きほぐす、優しい声がした。
「ハシマさん!」
フロウはすぐさま、若い男に駆け寄り、ジャンプして胴体にしがみついた。
古書店のロゴマークが印されたハシマのエプロンを、フロウはその体勢のまま、がじがじとかじった。
ハシマは、衝撃に一瞬よろめき、バランスを取ろうと広げた右腕が本棚に当たった。たくさんの本の重みでびくともしない本棚に救われた。
ハシマはちょっと頬を赤らめつつ持ちこたえ、フロウの頭にぽんぽんと触れた。
「フロウちゃん、どうどう」
フロウは、くふふふと笑い、より一層エプロンをがじがじとした。今まで胸に溜まっていたものが、噴き出すような爽快さを感じた。
その心身の感触がたまらなくて、じっとしていられず、ハシマの体をよじ登った。足がすべって片方のサンダルが脱げ落ちた。腕の力だけでハシマの首につかまり、背中にぶらさがるような形になった。
「はいはい、よいしょっと。奥、行こうね」
ハシマはかがんで、フロウのサンダルを拾い上げた。フロウを背中に下げたまま、ハシマは店の奥に向かった。本棚の間を抜け、カウンターを越えたところに、格子戸があった。
「はい、そろそろ一回降りようか」
「やだ」
だらりとしていた両足を、ハシマの胴に回して、フロウは両手両足でしがみついた。
「はいはい」
ハシマは苦笑いして、格子戸を開けた。靴を脱ぐ小さなスペースがあり、一段高くなっているカーペット敷きのフロアがあった。
右手奥に扉があるが、それ以外、壁一面棚になっており、古い本やさまざまな薬瓶などが、ぎっしりと並んでいる。
8畳ほどの部屋の真ん中には、丸テーブルが置かれている。サイドテーブルにはお茶のセットがあった。ハシマが、透明で細身のブレスレットをした左手を掲げると、天井に埋め込まれた5つの白い正方形の石が明るさを増し、部屋をくっきりと照らした。
ハシマは背中をフロアに向け、ゆっくりとかがんだ。フロウはゆっくりとフロアに尻をついた。
「フロウちゃん、お菓子あるよ」
「食べる!」
フロウはパッとハシマから離れ、お茶セットへパタパタと向かった。ハシマは緩む頬に左手を当てながら、フロウのサンダルをそろえて置き、自分も履物を脱いでフロアに上った。
「クッキー、バナナ、あんころもち。どれがいい?」
「チョコアイス」
「ああ、今日ちょっと暑いから。でも、アイスはないんだ」
「えー、そっかー。じゃあ、クッキー」
ぷっとふくれた表情に目を細めながら、ハシマはサイドテーブルのクッキー缶を取り出した。
フロウは口を開けて動かない。ハシマは缶を開け、クッキーを一つ取り、フロウの口に持って行った。
フロウはぱくりと一口に食べた。ハシマの指先も食べる勢いでかぶりつく。フロウの唇と舌の感触におののき、ハシマは慌てて手を引っ込めた。フロウは手を引かれ、少し傷ついた。
「ちょーだい」
フロウは、ハシマの手から缶を奪い取り、今度は自分でむしゃむしゃとクッキーを食べた。
「フロウちゃん、いくつになったっけ」
ハシマは、ねぶられた指を逆の手で握りながら、半ば唖然とした風情で尋ねた。
「5つか6つか7つ」
まだ、少しふくれたまま、フロウは答えた。フロウは、ハシマの前では、自分がいつもより幼くなってしまうことを感じていた。
家に帰ると、この次は、ハシマの前でちゃんとして、褒められてみたいと思うのだが、いざ、ハシマの前に来ると、タガが外れたように何かが噴き出してしまうのだった。
「マルタさん、勉強のこと何か言ってる?」
フロウは、ふるふると首を横に振った。
ミドリ地区の子どもたちの多くは、6歳を迎えると、勉強をし始める。
基礎学問を教える学校に通う子どもが半数、残りは、各種技能を習得するため専門家に弟子入りしたり、家業の仕事を教わり始めたりする。子どもの希望を聞きつつ、親が道を決めることが多い。
フロウは年齢も曖昧で、マルタが何も言わないため、まったく宙ぶらりんであった。
「そうか。うーん」
ハシマは顎に折り曲げた人差し指を軽く添えて、中空に目を向けた。フロウは急な衝動にかられ、クッキー缶を放って、ハシマの首に背中から抱きついた。そして、後ろから、ごつごつと、ハシマの頭に頭突きをした。ハシマの薄茶色の髪の毛が、サラサラと揺れた。
ハシマは、顎にあった手を頭上から回して、頭突きしてくる背後の小さな頭をぽんぽんと柔らかく叩いた。
「マルタさんに話して、僕がフロウちゃんの勉強をみようかな」
フロウは興奮し、頭をごりごりとハシマの後頭部にこすりつけた。本当にそうなったらすてきだと思った。大家のタツから、あまり古書店に入り浸っては迷惑だと諭されたことがあり、フロウは我慢をしていた。我慢しきれなくなったら古書店を訪ねる、と自分で取り決めていた。
でも、もし勉強を教わることになれば、毎日でも通える。入口にある見えない線が、消えるかもしれない。
その夜、マルタが帰ってきた。
「ただいま。フロウ、寂しかった?ごめんね、急に家を開けて」
マルタはぎゅっとフロウを抱きしめた。フロウは、マルタの香りに包まれ、いろいろな気持ちがなんだかどうでもよくなった。
「大丈夫。心配しないで、お母さん。おかえりなさい」
ハシマに構ってもらえて、マルタが帰ってきて、今日はいい一日だったと、フロウは朝の寂しさを忘れた。
丸焼きチキンがマルタの手で適当にカットされ、皿に乗った。野菜はフロウの手でちぎられ、ボウルでドレッシングと和えられた。買ってきたポテトフライは、袋のまま食卓に乗った。
フロウには葡萄ジュース、マルタには葡萄酒が用意された。
「いただきます」
二人で声をそろえ、食事をし始めた。
「あのね、お母さん」
「なあに?」
「私、お勉強がしたいの」
「え」
マルタは目を丸くした。まったく思いもよらないものに遭遇した驚きが、フロウにビビッドに伝わってきた。そんなに驚かれると思っていなかったため、フロウは動揺した。
「だめかな?まだ早いかな?」
思わず取り消そうとしてしまう。
「すごいわ、フロウ」
マルタは最初の驚きを過ぎて、はーっと溜息をついた。
「私は勉強したいなんて、思ったこともなかったから。びっくりしちゃった。子どもの頃は、いつまでも遊んでいたいって、そればっかりだったから」
マルタは輝く眼差しで、フロウを見つめた。
「なんていい子なんだろう」
マルタに認められて、フロウはパーっと表情が明るくなった。そんなフロウを、マルタはニコニコと見つめた。
「私が教えられるのは、踊りと歌ね。どっちがいいかしら。フロウはきれいだし、声もいいから、どちらも捨てがたい。笛も何とかなるかもしれないけど、教えるのが私だとちょっと中途半端かな」
マルタはハクキン地区の高級パブでショーに出演している。
レッスンはほぼ毎日で、数日に一度、ショーが開かれる。
フロウは何度か連れられて行き、ショーを見た。華やかで煌びやかで、マルタがお母さんではなかった。うっとりしてドキドキもしたけれど、何か胸がもやもやして落ち着かなかった。
そんなに見たくはないと思った。フロウは、慌てて手を横に振った。
「違うの、お母さん。私、ハシマさんに教わりたいの」
「えー、私じゃないの?」
マルタはあからさまにがっかりした。
「ハシマさん?えー、裏の古書店のハシマさん?えー、何の専門?あそこは白の魔術書と回復薬だっけ。えー、興味あるの?」
マルタは、葡萄酒をクイッと飲みながら、恨めしそうに聞いた。
「よく分かんないけど、何となく」
フロウは正直に言った。もっと思いはあるが、うまく言えなかった。
「ハシマさんのこと、好きなの?」
マルタはまっすぐ聞いた。
「うん。好き」
フロウはすぐに答えた。そう言ってしまえば、なんだかとても説明は簡単だった。
「私とハシマさん、どっちが好き?」
「お母さん」
フロウはこれもすぐに答えた。簡単な質問だった。マルタは満足そうに、鮮やかに微笑んだ。
「かわいいフロウ。そしたら明日、私がハシマさんと話をするわ」
少しのがっかりはすぐに流れていき、マルタはすばやく結論を出した。
その夜、マルタとフロウは一緒のベッドにもぐりこんだ。あんまり急いで大人にならないでね、とマルタがフロウにささやいた。お母さんとずっと一緒だよ、とフロウはささやき返した。
翌日、マルタは古書店のハシマに、フロウの勉強を頼みに行った。
ハシマは、マルタの胸元の開いた衣装から懸命に目を逸らしつつ、引き受けた。
ついでにマルタは、フロウはまだ、5つか6つか7つなのだから、いくらきれいな娘でも手を出すなと強く釘をさした。ハシマは顔に朱を上らせて、まだ5つか6つか7つのフロウを一人にして、あまり寂しい思いをさせるのはいかがなものかと、固い口調で言い返した。
大人二人のとがった空気を察し、フロウは、ねえまだ終わらないの、お腹すいたよ、と割って入った。二人ははっとしてフロウを見て、そのすねた表情に思わず笑みをもらした。
「じゃあ、明日からね、ハシマさん!」
ハシマの両手を握ってピョンピョン跳びはね、ぱっと離れて、マルタの手を引き、フロウは帰って行った。マルタは初めて見る、ハシマに対するフロウの幼いはしゃぎぶりに驚いたし、ハシマは初めて見る、マルタを導くフロウのしっかりした足取りに驚いたのだった。
次の日から、フロウの古書店通いが始まった。古書店の奥の間の丸テーブルを挟み、フロウとハシマは向かい合った。
「今日から僕は、フロウちゃんの先生です」
いつもよりきちんとした調子で言うハシマに、フロウは少しおどけて答えた。
「はーい」
「フロウちゃん、今までと同じようではいけません」
ハシマの薄緑がにじむ薄茶色の瞳は、声と同じくピリッとした調子だった。フロウは動揺し、思わず正座し直した。
「フロウちゃんは今日から生徒です。だから、今日から6才ということにしましょう。6才を過ぎた子どもは、今までとは違うんです。親子でも、師匠と弟子の関係になることがあります。弟子は甘えずに、師匠からたくさんのことを学ぶのです」
フロウは一昨日からの浮かれた気持ちが、冷たくなっていくのを感じた。目と口を丸く開いたまま、厳しい表情のハシマを見ていた。
「ですから、フロウちゃん。僕の言うことをよく聞いて、きちんと従うこと。厳しくても、言いつけに背かないこと。それから、その、飛びついてくることは禁止です」
最後は少し考えて、ハシマは付け加えた。すると、フロウの丸い目がみるみる潤んだ。そして、あっという間に、大粒の涙がぼろぼろと落ち始めた。
ハシマはテーブル越しにすっと右手を伸ばし、フロウの頭をなでた。一瞬の間をおいて、その手を引いた。
「いけない。つい。僕までこうだから、だめだなあ」
ハシマの目元が緩むのを見て、フロウは堪え切れず、ワアワアと泣いてしまった。
なかなか気持ちがおさまらず、フロウは随分泣いていた。やがて、しゃくりあげるようになった。それも、なかなか止まらなかった。
「僕は、フロウちゃんに、立派な大人になってほしいんです」
最初よりは和らいだ表情で、ハシマはしみじみ語った。ひっくひっくとなりながら、フロウはそれを聞いていた。
「白魔術は素質に左右されるので、薬がいいかなと思っています。薬師は役に立つ仕事です。将来、フロウちゃんは、薬で人を助ける人になれます。誰かの力を借りなくても、自分で生きていけます」
ひっく、ふー、ひっく、ふー、と、少しずつフロウの呼吸が整ってきた。
「あの、あのね、わか、わかったけど、けどね」
フロウは懸命に話そうとした。まだ、呼吸の乱れが残り、思うように話せなかった。ハシマは、フロウが話すのを待った。
「あのね、さわれ、ふ、さわれないの、やだ」
やだ、が小さな悲鳴のような幼い裏声になった。ハシマは少し頬を赤らめ、眉根を寄せ、右手人差し指を折り曲げ顎に当てた。
「やだ!」
ハシマが迷う気配を感じ、更にフロウは強く言った。他の言葉は何も思いつかなかった。気おされたように、ハシマの左瞼がぴくっと動いた。
しばし、ひっく、ふー、ふー、ふーという、フロウの呼吸音だけが響いた。やがて、ハシマはゆるゆると口を開いた。
「そうですか。そうですか。そうしたら、そうですね」
ふー、ふー、ふーと、小鼻を広げて呼吸しながら、今度はフロウがハシマの言葉を待った。
「そうですね。けじめをつけましょうか。そうしましょうか。勉強をするときは、僕のことを先生と呼びましょう。そして、まじめに厳しく勉強をしましょう。時々、休み時間を挟みましょう。休み時間だけは、僕にさわってもよいことにしましょう」
ハシマの声は、ゆるゆると答えを探すような調子で、その瞳はかすかに左右に揺らいでいた。
フロウは胸がぎゅっとして、その周りにいつもの爽快さが流れるのを感じた。なぜかは分からないが、自分が何かに勝ったような気がした。ハシマの瞳が揺らぎを止めた。
「決まりです。けじめがつけられない場合は、休み時間にさわることも、なしにします。いいですね」
「はい」
フロウは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に力を込めて、きちんと返事をした。
それから、フロウとハシマの関係が変わった。古書店の飴色のガラス戸のところには、見えない線がなくなった。しかし、ハシマとの間に、見えない線が引かれたことを、フロウは感じとった。
最初は午前中だけの勉強と決まった。朝8時から昼12時まで、古書店で過ごした。文字を読めるけれど書けないフロウは、まずは書く練習が主だった。ハシマは教えながら、たびたび接客に出た。時には、書き取りをするフロウの横で、薬を調合するときもあった。さまざまな薬の匂いを感じた。
ハシマは、薬や石や植物や古書、客に対しても、何か呪文めいたものを唱えることがあった。格子戸を通して、お客さんの様子が見えた。白いひげを蓄えた僧服のおじいさんや、スーツを着た痩せぎすのおじさんや、兵士の制服を着たお姉さんなど、いろいろな人たちが訪れた。初めはすべてが物珍しかったが、すぐにフロウにとって、自然な光景となっていった。
勉強は厳しかった。集中が途切れると叱られた。しばしばテストがあり、同じところを何度も間違うと、これまた叱られた。
「わき見をしないで。ここは昨日もやりました。おぼえなさい。もっと真剣にやりなさい。おぼえられないのは集中していないからです」
ハシマから厳しい口調で言われると、体中が冷たくなった。あまり言われると手が震えた。ハシマが先生のときは、甘えてはならない取り決めであったため、フロウは我慢した。
取り決めを破ってハシマに嫌われたくないと思い、懸命に勉強した。
「よくできました。満点です。この調子で」
ハシマが褒めるときはさらりとしていた。それでも褒められると、フロウは頭の中にパーッと光が広がるのを感じた。うれしくて、もっと頑張ろうと思えた。
休み時間に表れる反動は、ひどかった。フロウはハシマに飛びつき、顔をなめたり、頭や肩をかんだり、ポカポカ叩いたり蹴ったりもした。あまりにも必死な目つきで挑んでくるため、ハシマも止めきれず、引き受けていた。
ハシマのほうから、フロウに触れるのが減ったことも、拍車をかけた。ハシマが思わず、反射的にフロウを抱きとめたりすると、やはり何だかよく分からない爽快感が走り、勝ったと感じた。
「甘かったかな。ちょっと、手加減してくれる?」
ハシマは迷うように自分の甘さを口にし、痛みに耐えかねて、フロウにお願いする。
フロウはたまらなくなり、とけるような気持ちになり、ハシマにぎゅーっとしがみつく。
休み時間に接客が入ると、フロウはとても嫌な気持ちになった。腹が立って治まらず、カーペットの上に寝転がって、手足をバタバタさせた。
とにかく、休み時間はそんな調子であったため、勉強時間に態度を切り替えるのが大変だった。勉強時間の最初のほうは、フロウの心身の興奮を鎮めるために時間を費やすことが多かった。フロウはここで、自律神経を落ちつける呼吸法をハシマから教わった。
こうした日々を送る中、フロウは以前ほど寂しくなくなっていった。しかし、渦巻くような物欲しさが、堰切って体を駆けめぐり、息苦しいとさえ感じることが増えていった。