加速する物語
金庫バアの部屋を出てから、一体どこをどう歩いたのか。
何も定まらないまま、ヒルダは町をさまよっていた。
夕暮れ時、飲み屋街にさしかかると、酒飲みたちが、店先や路上で一杯やっていた。
一人歩くヒルダに次々冷やかしの声がかかった。
しかし、ヒルダは血の気のない顔で、まばたき一つせず、無反応に歩き続けた。
よく見ると、髪は乱れ、化粧も崩れ、靴も片方しか履いていないありさまだった。
そんなヒルダの訳ありの様子に気づくと、さすがの酒飲みたちも、かかわらない方がいい、と早々に視線をそらした。
何でこうなったんだろう。
ヒルダの頭の中では、疑問がぐるぐるとめぐるばかりだった。
金庫バアから聞いた話は、まったく整理しきれないまま、宙に浮いていた。
自分に何が起こったというのか。
そもそもの発端は、少し前の話だ。
金のつかい過ぎがばれて、金庫バアに怒鳴られた。いつもより、少し厳しかった。
ムカついた。
だから、ちょっと腹いせがしたくなった。
ほんのおいたのつもりだった。
その夜、ヒルダが行きつけにしている飲み屋に、四ツ辻の肉屋が来たのだ。
珍しいその姿を見たとき、金庫バアに対する怒りが、はけ口を見つけて小躍りした。
金庫バアが、死ぬほど嫌っていることを知っていた。
そこを、つついてやれ、と思った。
軽い気持ちだった。
四ツ辻の肉屋は、スキンヘッドで筋肉質だった。
肉屋の仕事服なのか、薄汚れた白衣のまま、酒を飲んでいた。
ヒルダから声をかけて飲みかわした。
「金庫バアのところの、お世話係のヒルダさんだよね。知っているよ。近くで見てもかわいいねえ」
四ツ辻の肉屋は、妙な笑顔を絶やさず、がたいに似合わない猫なで声で話した。
見え見えのお世辞が混じっているが、ヒルダは褒められるのは嫌いじゃない。
四ツ辻の肉屋は風変わりだが、なかなか話せる男だと感じた。
酒が進む中、四ツ辻の肉屋は、金庫バアの組織と仕事がしてみたいのに、金庫バアがつれないんだよねえ、とこぼした。
ヒルダは、あたしがこっそりつないでやろうか、ともちかけた。
四ツ辻の肉屋との話は、とんとん拍子に進んだ。
そして、後日、マッドたちのチームに四つ辻の肉屋がらみの男を近づけた。
それから、ほんの少し、マッドたちのチームをたきつけて、そそのかした。
右往左往する金庫バアたちを高みの見物、と思っていた。
事実、面白かった。
裏で糸を引き、人を翻弄することは、こんなに心地よいものなのかと思った。
だのに、今やそれどころじゃなくなった。
気がつくと、ヒルダは肉屋の前に立っていた。
ぼんやりと立ちつくしていると、すりガラスの引き戸が、音もなく開いた。
「いらっしゃい。よく来てくれたね」
やや大柄な四ツ辻の肉屋が、自ら出迎えた。
大きな手がヒルダの背中に回り、ヒルダは店に招き入れられた。
引き戸がするりと閉じた。
肉塊がひと固まり入ったガラスの陳列ケースの脇を通り、奥の扉から居住スペースへ通された。
ヒルダはぼんやりと、ただ四ツ辻の肉屋のエスコートに従った。
ソファに座ったヒルダの隣に、四ツ辻の肉屋が腰かけた。
肩に手が回され、体は密着した。
「行くとこがないんだ」
そうつぶやいたヒルダの口元は乱れ、赤い口紅が頬にはみ出していた。
四ツ辻の肉屋は、その頬から唇にかけて、べろりとなめた。
「オレンジ味だね。初恋のキッスの味だ。あれ?それはレモン味だったかな」
笑顔を張り付け、四ツ辻の肉屋は歌うように言った。
オレンジ味と聞いて、ヒルダは、金庫バアから投げつけられたオレンジの痛みを思い出した。
「憎い」
「肉屋だけに」
四ツ辻の肉屋は、楽しげにスキンヘッドをつるりとなでた。
「金庫バアが憎い」
「肉屋だけに」
四ツ辻の肉屋は、無視されてもお構い無しに、繰り返した。
「あたし、行くとこがない」
「履歴書持ってきた?」
初めてヒルダは、四ツ辻の肉屋のほうに顔を向けた。
四ツ辻の肉屋は、笑顔を張り付けたまま、目を糸のように細くして続けた。
「やっぱり、履歴書いらない。即決。雇います」
ヒルダの目が、焦点を結んだ。
「あなたは今から肉屋の従業員です」
四ツ辻の肉屋は、ヒルダの肩を抱いていた手を離し、両手でヒルダの手をとった。
ヒルダは一晩で居場所を失い、その夜のうちに新たな居場所を得た。
肉屋で一室を与えられ、そこで眠りについた。
わが身に起きたことは実感が薄く、考えようとすると頭が痛くなった。
だから、考えることをやめた。
分かるのは、何もかも面倒だということと、ひたすらに金庫バアが憎いということだけだった。
翌朝、四ツ辻の肉屋は、変わらぬ笑顔で言った。
「さっそく、仕事の話をしましょう」
昨夜のソファで、昨夜と同じようにヒルダの隣に座り、肩を抱いた。
四ツ辻の肉屋は気持ちよく歌うように話したが、ヒルダにはほとんど意味が分からなかった。
面倒なので、難しいことはおいておくことにした。
四ツ辻の肉屋の歌は、次のようなものだった。
シェイドがほしい。
あの黒く輝く大きな力を薄暗く染め上げて、世界に還元したい。
きっと、ものすごく面白いことになる。見たこともないような、たくさんのねじれを起こすに違いない。あの力を見ているとのどが渇く。
私としたことが最初は気づかなかった。
覆い隠していたものが破れ、その破れが広がり、黒い力が見えてきている。早くしないと、他にとられてしまう。
タタとカラカラもほしい。
タタは器として、カラカラはエサとして。
準備はできている。
あの3人を手元にそろえ、パーティをするのだ。
従業員のヒルダ、私は期待している。
あの3人をここへ連れてきておくれ。
ヒルダには、よく分からなかったが、金庫バアが嫌がるだろうと感じられた。
それだけで十分だった。期待もされ、やる気が出た。
「四ツ辻の肉屋」
「なんだい、従業員のヒルダ」
「今度はレモン味にしとくから、楽しみにしておくれ」
「なんだい、キッスの話かい」
四ツ辻の肉屋は、変わらぬ顔のまま笑った。
ヒルダは、今度はレモンをかじって、間違いなく金庫バアの顔に投げつけてやろうと思っていた。
ミカエルは学校から帰宅し、いつも通り、母親リリスの部屋へ向かおうとした。
3階に向かう階段で、ミカエルは言い争う声を聞き、足を止めた。
じわりと嫌な汗が出た。
バタンと強く扉を閉める音がした。
ミカエルは慌てて階段を下り、2階の自室に駆けこんだ。
以前にもあった。
あれは、父と母が争う声だとミカエルは確信していた。
自室の扉の内側に寄りかかるように立ち、胸の鼓動が治まるのを待った。
「ふう」
思わず吐息が漏れた。ひどく緊張していた。
同時に何か荒々しいものがモヤモヤと胸に渦巻いた。
ミカエルは、右の拳を左手に何度か打ちつけて、荒ぶる気持ちを押さえこんだ。
「行こう」
少したってから小さくつぶやき、ミカエルは自室を出た。
「お母様、入ります」
3度目の呼びかけに返事がなかった時、ミカエルはそれでも母リリスの部屋に入ることにした。
部屋には、たくさんの書類が散らばっていた。
先程の争う声にふさわしい荒れた様子の部屋に、ミカエルは息を飲んだ。
視線を上げると、リリスが窓際にぼんやりとたたずんでいた。
あまりの無表情に声をかけられなかった。
ミカエルの足は、自動操作のようにぎこちなく前に進んだ。
無意識に動く足が、床に散る紙を踏んだ。
見ると、たくさんの写真が添付されていた。
ゆっくりと拾い上げた。
写真では、父ビヨンドが美しい女性と並んで歩いていた。
直後、おさめたはずの荒ぶる気持ちが激しく立ち上った。
体の中で、ドンっと何か音が鳴った気さえした。
目に映るすべての写真に、同じ女性がいた。
「ミカエル、お父様の秘密なのだから、見てはいけません」
細い声に、ミカエルは顔を向けられなかった。
「それはお父様がずっと愛していらっしゃる女性なのだけれど、責めてはいけませんよ。こうなっているのも、わたくしがお父様のご期待に沿えないからなのですから」
淡々と細い声は続いた。
「わたくしがすべて至らないせいなのです。外に、あなたのきょうだいがいることも」
ミカエルの中で、熱いものと冷たいものとがぐるぐると渦を巻いていた。耳の奥がキーンと鳴った。鼓動は早く、手足は冷たかった。
望んではいないはずなのに、目は、次々と写真を追いかけた。
そこに、女性と子どもが写っている写真を見つけ、目が止まった。
子どもは女性によく似た美しい女の子だった。
フロウ
ミカエルのつぶやきはあまりにもかすかなもので、リリスの耳には届かなかった。
タタの怪我は、アニヤに与えられた傷に重ねて打撃を受けた割には、軽傷だった。
それに比べて、マッドは重症だった。
ダクは全治1カ月と告げたが、目に見えにくい後遺症は、どれほどのものがあるか分かりかねると話した。
シェイドは、明確な意識を取り戻さないままに、日々を過ごしていた。
目は空いているし、介助すればトイレにも立つ。
しかし、自発的に話したり動いたりはせず、横になっていた。
様子のおかしいシェイドに、カラカラが寄り添い続けた。
タタは苦しんでいた。
この痛ましい結果の始まりは、タタの怒りだった。
アニヤと話したかったが、なぜだか行き違いになることが多く、つかまえられなかった。
ならば、アネモネにと思ったが、カラカラが目を潤ませて、アネモネの部屋を訪ねるのと行きあい、これはダメだ、カラカラの場所だ、と自制した。
そんなタタに、ある日、声がかかった。
「ちょっと」
小さな声で、ともすれば聞き落としかねないボリュームだった。
しかし、過敏になっていたタタの耳は、その声を拾った。
すり鉢広場を囲む大樹の木陰から、頭に包帯を巻いたドーブが手招きしていた。
その瞳の暗さにぎょっとしつつ、タタは引き寄せられるように、そちらに向かった。
「タタ、この間はすまなかった。頼む、助けてくれ」
おりしも雨の降りそうな空の暗さであった。すがるようなドーブの声は、タタを怯えさせた。
「やめろよ。勝手なこと言ってんじゃねえよ」
タタの手をドーブはつかみ、離しはしなかった。
「頼む、タタしかいない。頼む、ペドロが死んじまう」
「やめろ。聞きたくない」
ドーブは、半泣きで訴えた。
「四ツ辻の肉屋だ。脅されてる。誰にも言えない。死にたくない。俺もペドロもバカだけど、まだ死にたくないんだ」
タタの弱った心は困惑し、ひるんだ。
ひどく強い力でドーブの手が食い込むほどに握ってくる。
「何で俺に言うんだ。知らねえ!てめえらが悪りいんだろうが!」
「四つ辻の肉屋が望んでる。お前を欲しいと」
タタは目を大きく見開いた。
ドーブはひときわ強く頷いた。
「そうさ。四つ辻の肉屋は、タタを望んでる」
タタの体がブルリと震えた。
まったく何ともいえない感触が立ちあがり、タタは逃げ出したいような、まかり間違って飛び込みたいような、何かはじけるような感覚にとらわれた。
タタはその感覚を恐れた。
慌てて、ドーブの手を引きはがしにかかると、ドーブはタタの手を離し、突然に土下座した。
「頼む、タタ。ペドロと俺の命を助けてくれ。四つ辻の肉屋はお前を後継者に望んでいるんだ」
タタの頭は混乱し、身体が再びブルリと震えた。
約束の金曜日がやってきた。
フロウはワクワクしてたまらなかった。
シェイドとミカエルに会える。また一緒に遊べる。
このところ、母マルタは帰って来ないことが多かった。
目覚めて一人の朝は寂しかったが、大好きな友達と遊べる、という思いが心を支えていた。
ハシマはすぐに、フロウの様子に気づいた。
今日は、あの男の子たちと会う日なのだと察した。
ハシマは感情の揺れを見せず、いつも通りフロウに接した。
勉強では厳しく薬草について教授し、休み時間は穏やかに話した。
そうして、フロウの帰宅時間になった。
フロウは帰り仕度をはじめた。
ハシマはその背中を見て、少し考えた後、すっと右手を上げた。
フロウに気づかれぬままに、右手で何かを空中に描いた。その手を口元に持ってきて、フロウに向けて、フッと吹いた。
フロウの髪が、サラリと揺れた。
支度を終えたフロウが振り返ると、ハシマは穏やかに微笑んで告げた。
「それではいいですか、フロウちゃん。最近は物騒なのですから、くれぐれも気をつけて。子どもたちをつけ狙う、悪いやからがいるのです。あまり暗くなるまでフラフラしていてはいけませんよ」
フロウの頬がほんのり赤らんだ。そして、ハシマを見て、小さくまばたきした。
その反応を不思議に思い、ハシマは尋ねた。
「どうしました」
「あの。私のお母さんって、違っているので。そんなふうに、言ったことなくて。言ってもらったの初めてです」
ハシマは目を見開いた。
「あの、実はちょっと憧れてたので、うれしいです」
フロウの素直な言葉に、ハシマの胸が痛んだ。
「では、私があなたのお母さんになります」
「え」
「え」
思わず口から飛び出した言葉に、言った本人も驚いた。二人で目を丸くしてお互いを見た。
「ごめんなさい、フロウちゃん。ちょっと、勢いでおかしなことを言ってしまいました」
「いえ、いえ!ありがとうございます。ありがとうございます」
フロウはますます真っ赤になって、ペコペコおじぎをした。
「そこでそんなに歓迎されてしまうと、どうしましょう」
ハシマはついつい吹き出した。
「では、古書店のお母さんということで。勉強は手を抜きませんし、そこでは先生ですけれど、そうじゃないときは、何でも相談してくださいね」
フロウは歓喜を隠さない笑顔で、古書店を出る時に何度も手を振った。
ハシマは、ここまで、とフロウに対し引いていた線を、ほとんど取り払ってしまったことに気づいた。
フロウの喜びは、ハシマにそれを許されたことを、即時に感じ取ったからこそであろうと分かった。
ハシマは苦笑いしつつ、棚に置いてあった手鏡を手に取った。
左手に手鏡を持ち、右手で先程フロウに吹きつけたものと同じまじないを描いた。
手鏡が一瞬歪み、映していた像の形を無くした。
やがてそこには、頬を紅潮させ走るフロウが映った。
ハシマは短い間それを見て、それから右手で鏡面を軽くなでた。
フロウは消え去り、元の手鏡に戻った。
ハシマは手鏡を棚に戻し、店番に戻っていった。
フロウは待っていた。
約束の金曜日、約束の時間、約束の湖。
日が暮れた。
シェイドもミカエルも来なかった。
長い、長い時間を待った。
しかし、二人とも来なかった。
初めて、約束が破られた。
しかも、二人同時に。
フロウは混乱した。
暗い底なしの穴を胸に感じた。よく知っている穴だった。
母マルタの帰らない夜の長さが、密かにえぐった穴だった。
気がつくと、帰宅していた。
気がつくと、布団の中にいた。
お母さん、と呼び続けた夜は、もうとっくに過ぎ去っていた。
その存在をあきらめざるをえなかった。
でも、混乱の中、シェイドとミカエルのことは、まだ、心が呼んでいた。
心が泣きながら、呼び続けていた。
シェイドの意識は緩やかに浮上した。
カラカラがコップを手にして、
「飲む?」
と声をかけた。
「ああ」
と返事をすると、カラカラの細い目が見開かれた。
「気がついたの?」
手渡されたコップを受け取り、水を飲んだ。しみいるようだった。
「なんだか。こんな感じ、久しぶりだ」
シェイドが言うと、カラカラが吹き出した。
「本当。いい加減にして」
そう言って笑うカラカラの目から涙がぽろっと一滴こぼれ、シェイドはあまり状況を把握しないままに罪悪感にとらわれた。
「ごめん」
「うん」
カラカラは、心配をかけたアネモネに報告してくる、と部屋を出た。
シェイドは一人、部屋でカレンダーを確認した。
金曜日。
フロウの笑顔が目の奥に浮かんだ。ミカエルのなぜか二の腕とキラキラの髪の毛が、頭をよぎった。
シェイドは目を閉じ、息を吐いた。
お別れなのだ、と絶望した。